7話
ミィナの体は、既に限界に近かった。
前の村で負った傷は深く、右脚の太腿はほとんど力が入らず、長距離の移動もままならなかった。
だが、彼女には止まる理由がなかった。
「依頼内容、確認します。前線からさらに西。補給路の奪還、報酬は半金先払い、残りは達成時に」
「貴様、あの赤刃じゃないか? 本当に来るとはな……死人かと噂されていたぞ」
「死に損なっただけよ。ほかに傭兵がいないなら、私に任せて」
契約はすぐに結ばれた。
彼女が向かうは、三国の緩衝地帯――“炎の谷”。
かつて、魔王軍と人類連合の最大規模の戦闘が行われた場所。
地形そのものがねじ曲がり、大地は常に熱を帯びて赤く染まっている。
そこは“今も戦争が続いている”と言われる場所だった。
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歩を進めるたび、焼け焦げた匂いが鼻をついた。
破壊された兵器の残骸。戦死者の鎧。地に染み込んだ赤黒い血。
数年前、ミィナの母国もここで滅びた。
自国を裏切った王族たちが、魔王軍と通じ、民は盾にされた。
彼女はその時、すべてを失った。
「それでも――」
握った拳に、まだ力がこもる。
彼女は剣を携えていない。前回の戦闘で、右手の指の一本を失ったからだ。
それでも、投擲用の短剣、仕込み刃、そして拳だけはまだ使える。
戦いに身をささげるしか、彼女にできることはなかった。
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彼女の任務は、“中立地帯の補給路を奪還する”こと。
その道が遮断されていることで、後方部隊の兵糧が尽きかけているという。
だが、彼女が到着してすぐに気づいた。
「これは――奪還なんて生易しいもんじゃないわ」
そこは、既に“戦場”ではなかった。
まるで、巨大な商業国家のような“戦争利権の街”だった。
人が物を運び、武器を売り、薬を売り、情報を売り――
国の違いなどどうでもいい。ただ儲かればいい。
補給路は奪われたのではなかった。
“誰かの手で切られ、別の誰かの利益に組み込まれた”のだ。
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「――じゃあ、私の任務って何?」
誰のために戦うのか。
国のため? いや、もう自国はない。
金のため? 確かに、生きるには必要だ。
けれど、もはやミィナにとって“金”は生きるための手段ではなく、“死ぬまで戦い続けるための延命薬”だった。
その夜。
商業街の裏通りで、彼女は小さな野良猫と出会った。
毛並みは汚れ、片耳は千切れかけている。
けれど、その目は、誰よりもまっすぐで――生きることに真っ直ぐだった。
「おまえも、生きてるんだな」
ミィナは微笑み、小さな肉片を分け与えた。
猫は警戒しながらもそれを食べた。
気づけば、彼女はその猫に“ナナ”と名付けていた。
誰かに名前をつけるなんて、何年ぶりだろう。
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数日間、ミィナは依頼を無視して、ナナと共に過ごした。
路地裏で眠り、残飯を拾い、気づけば誰にも追われずにいた。
誰かを殺さなくてもいい夜。
血の匂いがしない朝。
「こんな風に生きられたら……って、考えたことなかったな」
ナナは彼女の膝の上で丸まり、静かに寝息を立てていた。
だが、それも長くは続かなかった。
ある夜、彼女が食料の調達に向かったわずかな時間――
ナナは、何者かに殺されていた。
理由も、意味もなかった。
ただ、誰かの目に留まり、“路地裏を汚す不要物”として蹴り殺されていた。
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ミィナは叫ばなかった。泣きも、怒鳴りもしなかった。
ただ、ナナの身体を抱え、その場に座り込んだ。
そして、ぽつりと呟いた。
「……そうか、やっぱり、そうなんだな」
この世界には、意味なんてない。
人が死ぬことも、愛が壊れることも、命が踏みにじられることも。
理由なんて、ない。
だからこそ、彼女は戦う。
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数日後。ミィナは、補給路の主である商人組合の幹部に接触する。
表向きは交渉。だが――それは、処刑だった。
ミィナは人知れず、彼らを葬った。
証拠も痕跡も残さず。あの猫の命を、その手で弔うように。
補給路は再び開かれた。
軍部は喜び、契約は完了した。
だが、報告には“傭兵の名”はなかった。
すべてが偶然の事故であり、正体不明の“第三勢力”の仕業とされた。
ミィナは、そのまま姿を消した。
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戦争は、終わらなかった。
だが、補給が届いた部隊は、全滅を免れた。
兵士の一人が呟いた。
「誰かが、俺たちを助けたんだな……名も知らん、誰かが」
ミィナは、遠くの山道でナナの眠る場所をもう一度振り返った。
「ありがとう、ナナ。……私は、進むよ」
戦争は終わっていない。
けれど、彼女の中では、少しずつ、終わりが見えていた。
失くしても、進む。
それが――彼女にできる唯一の、生き方だった。