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6話

湿った血の匂いが風に乗って鼻腔を刺す。

焼け焦げた木材、崩れた石壁、断末魔の声の残響。

それら全てが、ミィナにとって日常の一部だった。


彼女の背は高くはない。

痩せた体に合わぬ重厚な鎧を身にまとい、背中には刃こぼれした長剣が一振り、無骨な斧が一振り。

その瞳には、若さを感じさせない鈍く濁った光が宿っていた。


「……もう終わった?」


そう呟いたミィナの足元には、冷たくなった兵士たちの死体が転がっていた。

味方も、敵も、区別のつかない泥まみれの亡骸。

名前も知らない人間たちの死に、彼女は何も感じていなかった。


**


ミィナは、傭兵だった。

どの国にも属さず、どの軍にも誓いを立てず、ただ報酬のために剣を振るう者。


だがその出自は、静かな村の一人娘だった。


かつて、名前のなかった村。

戦争の火種が広がる遥か昔、地図にも載らぬその村は、ただ穏やかな日々を営んでいた。

羊の群れ、風に揺れる麦の穂、木造の家々――それがすべてだった。


「おかえりなさい、ミィナ」


母がそう言って笑ってくれた、あの日々は――


炎に包まれた。


**


村が焼かれたのは、王国軍と北方同盟との国境紛争が激化したときだった。

魔王軍の台頭を前にしてなお、人間同士の争いがやむことはなかった。


それは、どの国も同じだった。


民草を盾にし、物資を奪い、女を攫い、子を踏みにじる。

その中にいたのが、かつてミィナが心を許した“彼”だった。

王国の若き将軍――今では名を呼ぶことすらできない。


「あの時、助けてくれたのがあなただったら……」


ミィナは時折、心の底から湧き上がる怒りと哀しみを、静かに飲み込んでいた。


**


彼女が初めて人を殺したのは、十三のときだった。

村を襲った敵兵の喉を、落ちていた刃物で掻き切った。


以降、彼女は誰にも頼らず、誰にも近づかず、ひとりで生きる術を学んだ。

傭兵団にも所属せず、あくまで“一匹狼”として、請け負う戦場を渡り歩いた。


金のためではない。

復讐のためでもない。


ただ、生き延びるため。


「今日も生きた。……それだけで、いい」


血で泥を洗い流しながら、ミィナはひとりごちた。


**


そんな彼女の名は、一部の兵士や指揮官の間で「赤刃のミィナ」として知られていた。

戦場でただ一人、赤い刃を掲げて敵陣を突き崩す姿――それが彼女の存在のすべてだった。


「手当はいいか? 指、落ちてるぞ」


傭兵仲間の一人がミィナに声をかけた。


「もう何本目かも忘れた。いいよ、勝手にふさがる」


彼女の身体には、何らかの呪印が刻まれている。

それは昔、命を繋ぐ代償として刻まれたもの。

不完全な再生能力、痛みの知覚鈍化、感情の凍結――


「生き延びる代償としては、安いものだ」


それが、ミィナの常套句だった。


**


その夜、ミィナは焚き火の前でひとり夜空を見上げていた。


星は、どこまでも綺麗だった。

戦火で染まる地上とは無関係に、星々はただそこに在り続ける。


「この世界に“正しさ”なんて、本当にあるのかな……」


ぽつりと漏れたその声は、風にさらわれ、誰の耳にも届かない。


だがその胸の奥で、過去に取り残された小さな少女が、まだ泣き続けているのをミィナは知っていた。


彼女はまだ、自分の“本当”を、どこかで探していた。


**



――数日後。


次の戦場に赴いたミィナは、奇妙な違和感を覚えていた。

軍の指揮官は報酬を提示しながら、こう説明した。


「魔王軍の残党が、辺境の集落に陣を張っている。我が国の兵士は手薄だ。貴殿ら傭兵に先んじて片付けてほしい」


内容自体はいつも通りだった。

魔王軍との戦いは表向き進んでおり、だが終わってはいない。

残党処理と称して、汚れ仕事はいつも傭兵に回される。


だが、その村の名を聞いたとき、ミィナの手が止まった。


「……ルスカ村?」


かつて、彼女の村を焼いた軍が、駐屯地として使っていた場所だった。

その近隣に、新たな集落ができているとは聞いていた。

戦火の焼け跡に、新しい命が根付いているのだと。


ミィナはその村へ向かう部隊に加わることを決めた。


**


現地に到着した傭兵団は、驚いた。


そこに“魔王軍の残党”などいなかった。

いたのは、ただ必死に生きる人々。

畑を耕し、水を運び、壊れた建物を直す――ごく普通の生活。


「……誰だ、“魔王軍の拠点”などと……」


一人の傭兵が呟いた。


周囲の兵士たちは戸惑い、やがて怒り始める。

「こんな子どもに何の罪がある」と叫ぶ者。

「情報が誤っていたのだ」と言い訳する者。


だが、ミィナはそのどれにも加わらなかった。

ただ、ひとりの少女を見つめていた。


その少女の姿に、かつての自分を重ねた。


「あのとき、誰かが……こうして止めてくれていたなら……」


**


報告では、敵影は確認されなかったことになった。

戦闘行為もなし。犠牲もなし。


だが、兵士の一部は納得できなかった。

「嘘の報告をしたな」「貴様、魔族と通じているのか」


疑念はすぐに標的を探す。

そして、その矛先は――ミィナに向けられた。


「おまえは、かつて“魔王軍の剣”と呼ばれていたそうだな」


「どの国にも属さず、ただ戦場を渡り歩く裏切り者」


「こんな女を信じるから、戦争が終わらんのだ」


かつての噂が、尾ひれをつけて広まっていた。

真偽など、誰も気にしない。必要なのは叩ける理由だけ。


**


ミィナは殴られ、縛られ、監禁された。

その間、彼女はただ黙っていた。

言い訳も、反論も、助けを呼ぶ声もなかった。


「別に……私のことなんて、どうでもいい」


かつての村の焼け跡で、彼女は命乞いをした。

それが通じなかったことを、今でも覚えている。


だから――今さら、何を失っても怖くなかった。


**


夜。

村に魔物が現れた。

地中から這い出すように現れたのは、瘴気に染まった“魔喰い虫”。


かつての戦場の魔力が残り、異形の存在を呼び出していた。


逃げ惑う村人たち。混乱する傭兵たち。

そして、ひとり地下牢に残されたミィナ。


「……結局、またこうなるんだ」


そう呟いて、ミィナは笑った。


だが――その笑みは、自嘲でも諦念でもなかった。


「鍵は……甘いな」


腰の隠し小刀で錠を砕き、鎖を断ち切る。

鎧も武器もない。ただ、素手と拾った刃物一本。


それでも、彼女は戦場に出た。


**


「逃げろ! あいつは食われるぞ!」


そう叫ぶ声があっても、ミィナは構わず突っ込む。

足を噛まれ、腕を裂かれ、それでも剣を振るった。


村を守るために? 違う。


――過去の自分を、少しでも救うために。


その姿は、かつての“赤刃のミィナ”そのものだった。

無骨で、泥だらけで、血まみれで、それでも――美しかった。


**


魔喰い虫を退けたあと、村は静かだった。


重傷のミィナを村人たちは担ぎ上げ、家の中へ運んだ。

何も言わず、誰も咎めず、ただ彼女を“命の恩人”として迎え入れた。


そして、数日後。


回復しきらぬ身体で、ミィナはまた旅立とうとした。


「本当に行くのか?」


村の青年が問う。

ミィナは静かに笑った。


「私の名は、記録には残らない。

 でも、こうして誰かの中に残るのなら……それで、十分」


彼女は振り返らず、再び歩き出した。

背中には何の荷もない。ただ、あの夜空の下に在るすべての命を守るために。


そして、まだ誰も知らぬ第二章が、始まるのだった。



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