6話
湿った血の匂いが風に乗って鼻腔を刺す。
焼け焦げた木材、崩れた石壁、断末魔の声の残響。
それら全てが、ミィナにとって日常の一部だった。
彼女の背は高くはない。
痩せた体に合わぬ重厚な鎧を身にまとい、背中には刃こぼれした長剣が一振り、無骨な斧が一振り。
その瞳には、若さを感じさせない鈍く濁った光が宿っていた。
「……もう終わった?」
そう呟いたミィナの足元には、冷たくなった兵士たちの死体が転がっていた。
味方も、敵も、区別のつかない泥まみれの亡骸。
名前も知らない人間たちの死に、彼女は何も感じていなかった。
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ミィナは、傭兵だった。
どの国にも属さず、どの軍にも誓いを立てず、ただ報酬のために剣を振るう者。
だがその出自は、静かな村の一人娘だった。
かつて、名前のなかった村。
戦争の火種が広がる遥か昔、地図にも載らぬその村は、ただ穏やかな日々を営んでいた。
羊の群れ、風に揺れる麦の穂、木造の家々――それがすべてだった。
「おかえりなさい、ミィナ」
母がそう言って笑ってくれた、あの日々は――
炎に包まれた。
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村が焼かれたのは、王国軍と北方同盟との国境紛争が激化したときだった。
魔王軍の台頭を前にしてなお、人間同士の争いがやむことはなかった。
それは、どの国も同じだった。
民草を盾にし、物資を奪い、女を攫い、子を踏みにじる。
その中にいたのが、かつてミィナが心を許した“彼”だった。
王国の若き将軍――今では名を呼ぶことすらできない。
「あの時、助けてくれたのがあなただったら……」
ミィナは時折、心の底から湧き上がる怒りと哀しみを、静かに飲み込んでいた。
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彼女が初めて人を殺したのは、十三のときだった。
村を襲った敵兵の喉を、落ちていた刃物で掻き切った。
以降、彼女は誰にも頼らず、誰にも近づかず、ひとりで生きる術を学んだ。
傭兵団にも所属せず、あくまで“一匹狼”として、請け負う戦場を渡り歩いた。
金のためではない。
復讐のためでもない。
ただ、生き延びるため。
「今日も生きた。……それだけで、いい」
血で泥を洗い流しながら、ミィナはひとりごちた。
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そんな彼女の名は、一部の兵士や指揮官の間で「赤刃のミィナ」として知られていた。
戦場でただ一人、赤い刃を掲げて敵陣を突き崩す姿――それが彼女の存在のすべてだった。
「手当はいいか? 指、落ちてるぞ」
傭兵仲間の一人がミィナに声をかけた。
「もう何本目かも忘れた。いいよ、勝手にふさがる」
彼女の身体には、何らかの呪印が刻まれている。
それは昔、命を繋ぐ代償として刻まれたもの。
不完全な再生能力、痛みの知覚鈍化、感情の凍結――
「生き延びる代償としては、安いものだ」
それが、ミィナの常套句だった。
**
その夜、ミィナは焚き火の前でひとり夜空を見上げていた。
星は、どこまでも綺麗だった。
戦火で染まる地上とは無関係に、星々はただそこに在り続ける。
「この世界に“正しさ”なんて、本当にあるのかな……」
ぽつりと漏れたその声は、風にさらわれ、誰の耳にも届かない。
だがその胸の奥で、過去に取り残された小さな少女が、まだ泣き続けているのをミィナは知っていた。
彼女はまだ、自分の“本当”を、どこかで探していた。
**
――数日後。
次の戦場に赴いたミィナは、奇妙な違和感を覚えていた。
軍の指揮官は報酬を提示しながら、こう説明した。
「魔王軍の残党が、辺境の集落に陣を張っている。我が国の兵士は手薄だ。貴殿ら傭兵に先んじて片付けてほしい」
内容自体はいつも通りだった。
魔王軍との戦いは表向き進んでおり、だが終わってはいない。
残党処理と称して、汚れ仕事はいつも傭兵に回される。
だが、その村の名を聞いたとき、ミィナの手が止まった。
「……ルスカ村?」
かつて、彼女の村を焼いた軍が、駐屯地として使っていた場所だった。
その近隣に、新たな集落ができているとは聞いていた。
戦火の焼け跡に、新しい命が根付いているのだと。
ミィナはその村へ向かう部隊に加わることを決めた。
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現地に到着した傭兵団は、驚いた。
そこに“魔王軍の残党”などいなかった。
いたのは、ただ必死に生きる人々。
畑を耕し、水を運び、壊れた建物を直す――ごく普通の生活。
「……誰だ、“魔王軍の拠点”などと……」
一人の傭兵が呟いた。
周囲の兵士たちは戸惑い、やがて怒り始める。
「こんな子どもに何の罪がある」と叫ぶ者。
「情報が誤っていたのだ」と言い訳する者。
だが、ミィナはそのどれにも加わらなかった。
ただ、ひとりの少女を見つめていた。
その少女の姿に、かつての自分を重ねた。
「あのとき、誰かが……こうして止めてくれていたなら……」
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報告では、敵影は確認されなかったことになった。
戦闘行為もなし。犠牲もなし。
だが、兵士の一部は納得できなかった。
「嘘の報告をしたな」「貴様、魔族と通じているのか」
疑念はすぐに標的を探す。
そして、その矛先は――ミィナに向けられた。
「おまえは、かつて“魔王軍の剣”と呼ばれていたそうだな」
「どの国にも属さず、ただ戦場を渡り歩く裏切り者」
「こんな女を信じるから、戦争が終わらんのだ」
かつての噂が、尾ひれをつけて広まっていた。
真偽など、誰も気にしない。必要なのは叩ける理由だけ。
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ミィナは殴られ、縛られ、監禁された。
その間、彼女はただ黙っていた。
言い訳も、反論も、助けを呼ぶ声もなかった。
「別に……私のことなんて、どうでもいい」
かつての村の焼け跡で、彼女は命乞いをした。
それが通じなかったことを、今でも覚えている。
だから――今さら、何を失っても怖くなかった。
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夜。
村に魔物が現れた。
地中から這い出すように現れたのは、瘴気に染まった“魔喰い虫”。
かつての戦場の魔力が残り、異形の存在を呼び出していた。
逃げ惑う村人たち。混乱する傭兵たち。
そして、ひとり地下牢に残されたミィナ。
「……結局、またこうなるんだ」
そう呟いて、ミィナは笑った。
だが――その笑みは、自嘲でも諦念でもなかった。
「鍵は……甘いな」
腰の隠し小刀で錠を砕き、鎖を断ち切る。
鎧も武器もない。ただ、素手と拾った刃物一本。
それでも、彼女は戦場に出た。
**
「逃げろ! あいつは食われるぞ!」
そう叫ぶ声があっても、ミィナは構わず突っ込む。
足を噛まれ、腕を裂かれ、それでも剣を振るった。
村を守るために? 違う。
――過去の自分を、少しでも救うために。
その姿は、かつての“赤刃のミィナ”そのものだった。
無骨で、泥だらけで、血まみれで、それでも――美しかった。
**
魔喰い虫を退けたあと、村は静かだった。
重傷のミィナを村人たちは担ぎ上げ、家の中へ運んだ。
何も言わず、誰も咎めず、ただ彼女を“命の恩人”として迎え入れた。
そして、数日後。
回復しきらぬ身体で、ミィナはまた旅立とうとした。
「本当に行くのか?」
村の青年が問う。
ミィナは静かに笑った。
「私の名は、記録には残らない。
でも、こうして誰かの中に残るのなら……それで、十分」
彼女は振り返らず、再び歩き出した。
背中には何の荷もない。ただ、あの夜空の下に在るすべての命を守るために。
そして、まだ誰も知らぬ第二章が、始まるのだった。