2話
風が吹いていた。
それはただの風ではない。空気がざらつき、微細な魔力の粒子が肌を刺す。
その丘は“死の気配”を湛えていた。
浸魔の丘――魔王軍の幹部「黒き嘆きのフォグナス」と、勇者一行が激突した戦地。
地図上ではただの高台にすぎないその場所は、数年前の戦闘を境に“生きた地獄”と化した。
「……魔力が、まだこんなに残っているとはな」
ラザンは丘の麓に立ち、黒く煤けた土を指でなぞる。
そこはまるで焼け残った骨のように冷たく、乾いていた。
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村人の話では、夜になると丘の地形が変わるという。
崖ができ、塔が立ち、何もなかったはずの場所に死体が立ち上がる。
誰も真実を確かめには行かなかった。ただ、“あの戦いの余韻”と口を閉ざした。
「被害は村にまで及んでいる。畑が腐って、井戸水が濁ってきてる。牛も一頭、夜に狂って死んだ」
村の古老がそう語るとき、村人たちは明らかに「勇者」の名を出すことを避けていた。
だが、ラザンにはわかった。
これは、彼らの“善意”の英雄譚が生んだ影だ。
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戦いの後、誰も責任を取らない。
魔王は倒れ、敵は滅び、残ったのは「勇者たちの勝利」と「地に残った毒素」だけだった。
「この丘は、“生きてる”……?」
ラザンは夜を待った。
そして満月の昇る刻、丘を登る。
――地が、うねった。
「……!」
草が生えないはずの黒い土が蠢き、石が積み重なっていく。
瞬く間に“あの戦場”が再現されていくのだ。折れた旗、焼かれた門、そして――
「う……あ……」
呻き声。
地面から這い出すように、黒い影が立ち上がる。
腐りきった肉、青白い眼、しかし鎧は確かにかつての魔王軍。
そしてその背後に、勇者の“幻影”が現れる。
「ああああっ……!」
アンデッドたちはその幻影に向かって呻き、吠え、走り出した。
だが、幻影はただの記憶。攻撃も、叫びも、すべて空を裂くだけ。
「……これが、お前たちの、最期か」
ラザンは腰の鞘を外す。
そこにあるのは騎士の剣ではない。ただの鍬だ。
だが、その手さばきは――間違いなく剣技。
「地に還れ。お前たちも、そして……英雄たちも」
刃の代わりに鉄の刃が唸り、地の底から現れた影を薙ぎ払っていく。
切れずともいい。ただ、“届ける”だけでいい。
ここに、誰かがいたと。それを、終わらせる者もいたと。
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翌朝。
丘の黒土は、わずかに柔らかくなっていた。
不気味なうねりは止まり、風だけが静かに吹いていた。
「……もう、あの幻影は現れないでしょう」
ラザンはそう言い残し、再び村を離れる。
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村人は言った。
「名も名乗らぬ旅人が、あの丘を清めてくれた」と。
誰かが“あの戦い”の尻拭いをしたとは、誰も書かない。
だが、確かに彼はそこにいた。
そして、ラザンの旅は続く。
今度は、“勇者の名を貶めた罪人”として。
噂が、北方の街にも届いていた。
――そこでもまた、彼の姿が試されるのだった。