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第五章 果てしない壁

第四章 果てしない壁


例年よりも厳しい寒さが多く低温傾向に十一月。

閉められた廊下のあらゆる窓は白く曇り、少数の生徒は表面を指でなぞり落書きやら文字やらを愉快そうに描いていた。

雪は降っていないものの、手足が凍るほど冷えた廊下の空間で教室の前に設置された椅子に腰を下ろしながら、「はぁ……」と白く色付いた息を眺めていた。


(お母さん、遅いなぁ)


壁一つ挟んだ向こう側では出席番号順で当人、親御さん、担任の志望校に重点を置いた三者面談が行われている。

そして次に控えたわたしはエアコンも設置されていない冷えた中、椅子に腰を下ろしながらお母さんが来るのをただひたすらに待っていた。


(もう、待ち合わせ時間とっくに過ぎてるのに)


制服のポケットからスマートフォンを取りだし、現在時刻を確認すると不安と心配を募らせたため息を漏らす。


(早く来ないとわたしの番が回ってきちゃうよ)


お母さんの到着する時間が大幅に遅れている現状に椅子から立ち上がりそわそわとその場をあたふたと歩き回っていると、背後からダッダッダと鈍い足音を立てながら、「恋乃葉!」と呼び掛ける声が聞こえた。

『やっと、来てくれた』そんな安堵した感情は後ろを振り向いた途端に消え去り、一瞬にして戸惑いや困惑、理解の追いつかない思わぬ光景への疑問。

これらの様々な感情が入り混じり、違う意味で鼓動が加速した。


「ど、どうして兄さんが!?今日はお母さんが来る予定でしょ!?」


「……麗華さんからパートの時間が伸びて行けなくなったって連絡が来たんだ。それで代わりに俺が行くことに……なったって……こと……」


相当全力疾走で向かってきてくれたのだろう。

膝に手を置きながら肩で息をし、「はぁ……ふぅ……」と荒々しい呼吸を整えていく。


「それはそうと、兄さんが親の代わりって大丈夫なの?」


「なんだ?俺じゃ不服か?」


「そうじゃなくて、重要な中三の三者面談で保護者が親じゃなくて兄弟って大丈夫なのかってこと!」


「そんなの俺だって知らないよ。でも、事情も事情だし仕方ないだろ。安心しろ、恋乃葉に責任は負わせない。俺が何とかする」


『俺が何とかする』その言葉にキュンと更にときめいて、頬を赤らめる。

黒い制服を着こなした翔奏くんはいつも以上に格好よく見えて、それどころか髪型は以前の合コンの際に目にしたガイルヘア姿でより一層に輝かしく映る。

それと同時にわたしはハッとしてあることに気がついてしまった。


(こんなカッコイイ姿、他の女の子に見られたら絶対に惚れちゃうよ……!誰も……いないよね……?)


目を光らせて周囲を満遍なく危険視し、女子生徒が近くにいないことを確認するとホッと胸を撫で下ろす。

不幸中の幸い。三者面談は曜日ごとに一日三人までの生徒と決められている。

そのため、必然的に校内に居残る生徒も数少ない。

今のところ、男子生徒はちらほら見受けられるが女子生徒はいない。

そう……安心したのもつかの間。

ガラガラと音を鳴らしながら開かれる教室の後ろの扉から三者面談の終えた生徒ーー女子生徒が姿を現した。

保護者の母親が担任に向けてペコペコと頭を下げながら「今日はありがとうございました」とお礼の言葉を述べている最中、その女子生徒は後ろにいる担任には目もくれず、ただひたすらにハンカチで額の汗を拭いでいる翔奏くんに釘付けだった。


「……なにこの人。すごく……カッコイイんだけど……!?」


口元を手で隠しながら、わかりやすく頬を紅く染める。

それは決して冬のほてり故の紅潮ではなく、確実に絶対に紛れもなく、翔奏くんの容姿端麗なその姿を目にしての結果。


(や……やばい……!)


妙な胸騒ぎがしたわたしは翔奏くんの前で両手を広げ、精一杯女子生徒の視界から翔奏くんの姿を消す。


(これはわたしの!!絶対に渡さないんだから!!)


決して言葉にすることはできないけれど、それでもこの気持ちは絶対に曲げないし、翔奏くんは誰にも渡さない。

狐のような吊りあがった目つきで女子生徒を睨み、懸命に威圧感を与える。


「何してんだ、恋乃葉」そう言ってわたしの頭を軽くチョップすると、「すみません、邪魔でしたよね」と申し訳なそうに眉尻を下げながら、わたしの肩を掴んで横へと移動させる。

女子生徒の母親はぺこりと翔奏くんに向けて頭を下げると娘を連れてそのまま廊下の先を進んでいった。


「それでは凪霧さん、こちらへどうぞ」


担任が手のひらで教室の中を示すと、わたしと翔奏くんはそれに従って足を伸ばす。

教室の前方あたりに三席の机が合わせて並べており、わたしたちはそこに腰を下ろす。

左隣で行儀正しく背筋を伸ばしている翔奏くんは意外にもそれほど緊張をしているような素振りは見せず、膝の上で拳を握りながら、机の上に置かれた各高校のパンフレット表紙を眺めていた。


「そちらに置かれているパンフレットは凪霧さんの成績を元に適しているであろう高校をこちら側で複数用意させてもらいました。もちろん、参考程度に受け取ってもらえれば結構ですので」


「……はい」


掌で示された机の上に置かれたパンフレットに目を向けると、一冊子づつ手に取ってペラペラと軽く目を通すようにめくっていく。


「ちなみになんですが、恋乃葉の成績ってどれほどのレベルなのですか?」


「えぇ、そうですね。凪霧さんはとても優秀な生徒で定期考査、授業態度、内申点、共々優れた成績を残しています」


担任は複数並べられたパンフレットの中から一冊子を手に取り、「わたくしからですと、こちらの高校が凪霧さんには適しているのかと思います」と翔奏くんに手渡す。


「こちらの高校では自主自律、グローバルリーダーの教養、外国語教育、これらに重点を置いて生徒の育成を目指しています」


「でも、ここって俺でも知ってる名門校ですよね?偏差値だって七十五って結構レベル高くないですか?」


「とんでもございません!確かに偏差値も倍率も、当然入試難易も他校と比較しても遥かに困難とされています」


「それならーー」


逃げ腰気味の翔奏くんとは対照的に担任は机から身を乗り出して、情熱的に説得する。


「ですが、凪霧さんの成績なら可能性は充分にあります。ですのでーー」


「あ……あの……」


身を乗り出した担任に驚き、椅子を後ろへと下げた翔奏くんを横目にわたしは小さく手を挙げる。


「わたし……既にもう志望校決めているんですけど」


「もちろん分かっています。ですが、流石にあの高校に進学するのは凪霧さんに環境もレベル

も合っていないと思うのですが……」


担任は額から流れる汗を制服から取り出したハンカチで優しく拭い、そっと身体を引いた。


「いえ、環境とかレベルとかそんなの関係なしにわたしは……」


「ふぅ……」と一度呼吸を整えると、隣でこちらを見ている翔奏くんを一瞥し。


「わたしは橘高校に進学します」


「はぁ!?」翔奏くんは予想もしていなかったのか、目を大きく見開きながら、わたしの肩に手をポンッと置く。


「それって、俺と同じ高校じゃないか!?」


「そうだけど、何か問題でもあるの?」


「問題は……ないけど」


「ほら、ないじゃん」


「で、でもさ!橘高校はそれほど偏差値も高くないし、勉強の進みとかも他の高校と大差ない。ああー、言っちゃえばお前みたいな優等生は向いてないんだよ!」


なぜだか慌てた口振りで身振り手振り説明する翔奏くんはくしゃくしゃと頭をかくと、せっかくセットした髪型が崩れ台無しにしてしまう。


「なに、兄さん。わたしとは同じ高校に通いたくないって言いたいの?ねぇ」


「別にそんなことはないけど。ただ……」


「ただ?」


「……俺は恋乃葉が毎日、一生懸命に、俺が本やスマホをいじってる間も全部勉強に時間を費やしていたのは知ってるから……。だから……それが無駄にならないようにそれ相応の高校を選んでもらいたいというか……」


「はぁ……」


(……呆れた。ほんとに呆れた……。呆れたけど、でも……翔奏くんはそこまでわたしのことを見てて知ってて。誰のためでもなく、ただわたしだけのために考えてくれてることが、その事実がたまらなく嬉しいっ……)


「いい、兄さん。わたしが毎日勉強してきたのは、なにも名門校に進学するためじゃないの」


「それじゃあ何のために……」


(もちろん、将来の自分に少しでも役に立つことができれば、そんな気持ちも確かにあった。でも、それよりも何よりも、わたしの中ではーー)


「兄さんと同じ高校に通えるように少しの油断もミスも許したくなかったの。それに知識を蓄えて、損することなんてないでしょ?」


人差し指を立てながら、知的にウインクをすると翔奏くんは疑問符が浮かび上がりそうに首を傾げながら「どうして俺と同じ高校に?」と心底不思議そうに尋ねる。


(それは当然、大大大好きな翔奏くんと少しでも一緒にいるために決まってるでしょ?それとわたしが見てないところで他の女の子に翔奏くんが取られないように!!)


けれど当然、本心を口にすることはできず、「そ……それは……」と必死に頭を回しながら、不自然のない言葉を模索していると、当たり障りのない理由が導き出された。


「それはあれだよ!兄さんの姿を見て、橘高校は何か楽しそうだなぁって思ってさ!」


「俺の姿見て……楽しそうって本当に思ったのか……?そんなに俺、生き生きとしてたか?」


「そ、それはもう!すっごく、生き生きしてたよ!」


「へぇ……そう……」


(や……やばい!流石に無理があったか!?でも、これ以上に最良な言葉は見つからなかったんだ!お願い、翔奏くん!どうか勘づかないで!)


翔奏くんはわたしの言い分に釈然としないのか、訝しげに目を細めるとじっとわたしの目を見つめる。


(ここで逸らしたら間違いなく疑われる……!で、でもっ……こんなに翔奏くんと見つめ合ってたら、意識保てないよぉー!)


「まぁっ、本当に橘高校に行きたいなら俺はそれでも全然いいけどよ」


「えっ……いいの?ほんとにほんと……?」


「なんで俺に訊くんだよ。これはあくまでも恋乃葉の人生だ。俺に限らず誰かが決める権利なんてないよ。行きたいところに行って、したいことをすればいい。誰も咎めやしねぇよ」


「そっか……ありがと、兄さん……」


外で騒々しい強風が窓を揺らしガタンと音を立てる。

そして優しい言葉を掛けながら微笑む翔奏くんを向けられたわたしの鼓動もまたドクンと騒々しい音を奏でる。



自室に続く階段を上りながら、先程の三者面談を思い耽る。

熱狂的でわたしの能力を高く評価してくれている担任だったけれど、わたしの意思を無碍にすることも、高校を強制することも特になく、無事三者面談を終えることができた。

待ち時間で懸念に感じた兄が保護者でも大丈夫なのかという点は結局最後の最後まで言及されることはなく、それどころか教室を出ていくとき「よくできたお兄さんですね」と褒められ杞憂として終わった。

自室に入るなり、どっと疲れたわたしはベッドに倒れ込むと仰向けの状態で右腕で両目を隠す。

その震動制服のポケットにしまっていたスマートフォンがひょっこりと頭を見せる。

そして先日届いた雪音からのメッセージを思い出す。


【あたしね、翔奏くんのこと好きになっちゃったみたいなんだよね】


そのメッセージを目にした途端、『あぁ……やっぱりね』と予想通りの結果にすんなり受け入れられた自分と『雪音まで翔奏くんのことが……。どうしよう……』迫り来る焦燥感と不安が感情を込み上げ、結局わたしは雪音に返信を送るまで五分以上を費やしてしまった。

既読マークを付けてしまった故に雪音からは【おーい!既読スルー?】と先に返信が送られてきたほどだ。

不自然に思われないようにとすぐさま「そうなんだ。応援してるよ」と自分の気持ちとは反して、まるで翔奏くんのことなど好きではないかのように第三者目線で応援の言葉を送信してしまった。

その後【あれ?恋乃葉も翔奏くんのことが好きなんじゃないの?】と予想外の言葉にわたしは思わず、片手に持っていたスマートフォンを顔の上に落としてしまった。

それはあまりにも本質を捉えている言葉だったから。

『わたしの気持ちが見透かされていただなんて』これでわたしも翔奏くんへの想いを雪音に隠さなくてよくなる、そんな少し嬉しいようなでも、それをここで肯定してしまって本当にいいのだろうかと当惑するような気持ちが入り交じり、結局わたしは「違うよ」と自分の気持ちに嘘をついてまで雪音の恋心を応援する立場へと回ってしまった始末。

「好きじゃないよ」その言葉は絶対に入れたくなくて、あくまでも想いを隠すだけで、わたしが翔奏くんに抱いているこの気持ちは決して否定したくないから。

だからこそわたしは『違うよ』とそう返したんだ。



新年を迎えた四月。無事受験に合格した恋乃葉は俺の通う橘高校へと入学し、つい先程入学式を終えた新一年生はぞろぞろと各教室へと向かっていった。

それと同時に俺と岳は高二へと進級し、昇降口の掲示板に貼られたクラス表を確認すると去年同様に岳と同じクラスでこれを腐れ縁と言わずに何となる。

そんなこんなで担任の川端が来るまでの間、普段通り談話を興じている。


「良かったな岳。無事に進級できて」


「あったりめぇだろ!」


「岳は毎度テストの点も悪いんだし、留年する可能性だってあったと思うけどな」


「それはあれだよ。お前のおかけだ!」


ガハハと胸を張って大袈裟に笑う岳は本当に自分の置かれた状況を理解していない様子。

逆に留年せず進学できたことの方が奇跡的で、それほどまでに岳の頭は悪い。


「でさでさ、お前昨日のテレビ見たか?三時間スペシャルの歌番組!」


「歌番組?あぁ、あれか。なんかやってたな」


「って、お前見てねぇのかよ。せっかく、俺の好きなバンドが出てたのによぉ」


「知らねぇよ。えぇっとなんだっけ、ぐろー……ぐろー……。あ!そうだ。グローブナイト!」


「グローバルライトな。そろそろ覚えろよ……」


机に座る岳は呆れたようにため息を漏らすと、背中を後ろへと傾けた。

『グローバルライト』そのバンドは数年前まで売れないマイナーでその名を知っている人は極小数であった。

けれど、気まぐれで作曲した失恋ソングがSNSでバズりにバズり、一気にその名を世界に轟かせた。


「それで、昨日新曲をーー」


「おーい、凪霧!お客さんが来てんぞー!お前をお呼びだってよ」


教室の前の扉から手を振りながら俺のことを呼ぶ一人の男子生徒。


「俺をお呼び?」


「誰だろうな」


「悪い、岳。ちょっと行ってくるわ」


椅子から立ち上がると早足で扉の方へと向かう。

『一体誰だろう』そんな疑念を抱きながら、廊下に顔を出すとそこには確かに見覚えのある女子生徒がニコニコと屈託のない笑みでピースしていた。


「えっと、君は……確か恋乃葉の友人の……」


「雪音です!もぉ、ちゃんと覚えてくださいよ、翔奏先輩!」


「それは悪い。人の名前を覚えるのはあまり得意ではなくてな」


頭をかきながらペコペコと謝ると雪音は顔の前で手を振りながら「冗談ですよ、冗談!」と揶揄するように笑ってみせた。


「それにしても、雪音もこの高校に進学したんだな」


「あたし、頭には自信がないもんで」


「えへへ」と頬をかきながら困ったように笑う。


「恋乃葉がこの高校に来ることは知ってたんですけど、まさか翔奏先輩までいるとは思いませんでしたよ!」


「あ、あぁ……偶然……な……」


(この感じ、俺と恋乃葉が兄弟であることは知らないみたいだな。きっと、俺が兄貴だってことを雪音に知られたくないんだよな……)


「それにしても、今日はあの時と同じ髪型じゃないんですね」


「まあな。髪をセットすると女子に話しかけられて、たまらんからな」


「先輩、女子が苦手なのですか?」


「苦手……ではないんだが、ああも大勢で来られると対応が……その……面倒というか……」


眉をひそめながら廊下の窓に視線を逸らす。

電信柱の電線にカラスが集まり、カーカーカーと耳障りなほどに鳴いていた。

まるで、髪の毛をセットしたときに群がってくる女子生徒のように。


「ぷっ!先輩、おかしな人ですね……!それモテてるって分かってます?」


笑い声を吹き出し、目尻に浮かぶ涙を人差し指で拭う。

未だに口角の端がピクピクと震えながら、心底愉快そうに表情を咲かせる雪音。


「俺は別にモテたいわけでも、女子からチヤホヤされたいわけでもないからな。合コンのときだって岳に髪の毛セットした方がいいって言われたからしたのであって」


「なら、その貴重な姿を見れたあたしはラッキーですね!」


「俺をそんな四つ葉のクローバー的な扱いをするな」


「あたしにとっては四葉なんかよりも、もっと幸運をもたらしてくれますけどね」


「言っておくが、俺にそんな能力も効果もないからな」


腕を組みながら、なぜだか自慢げにそう答える俺を見て、雪音は少し硬直した後、ケラケラと腹を抱えて笑った。


「……先輩、やっぱり何も分かってないです!」


「分かってないってなにがーー」


「あ!もう、チャイム鳴っちゃいます!あたしの教室はここから遠いいのでもう行きますね!それじゃあ!」


「え……!?ちょっ!」


駆け足の中、後ろを振り向きながら手を振る雪音はまるで台風のように去っていき、曲がり角の階段を下っていく。


「……結局、俺に用ってなんだったんだ?」頭をかきながら小首を傾げ、疑いの眼差しを雪音の向かっていった廊下の先へ向けていると、下ったはずの雪音が階段横の壁からひょこっと顔だけを覗かせて。


「先輩!放課後、下駄箱で待っていてくださーい!」


周囲の視線など一切気にせず、ただ俺一直線に飛んでくる雪音の声はやはり、廊下にいる生徒という生徒の視線を一気に集めた。


(そんな大きな声で言わなくたって聞こえるのに……)


けれど俺は何を思ったのか、雪音の真似をして。


「あぁ!分かったよ!」


ここ最近で一番声を張上げ、俺もまた周囲の視線を集めてしまうことになった。

呆気に取られ、きょとんと目を大きく開いたまま硬直している雪音はとても嬉しそうに手をぶんぶんと振りながら「先輩!大好き!」と突然の愛の告白を叫んだ。


(まったく……心にも思ってないことを)


当然、周囲の生徒らは「えっ!?」と明日、世界が終わりますとニュースで告げられたかのように驚愕し顔の部位全部を吊り上げながら、俺と雪音の顔を交互に視線を送る。

そうして雪音は「じゃあね、先輩!」と二度目の別れの言葉を告げて、今度こそ階段を駆け下りていった。



帰りのホームルームを終えると普段通り俺の席まで岳が駆け寄、「帰ろうぜ!翔奏!」と太陽のように眩しい笑みを向ける。


「悪いが今日は先約がいるんだ」


「先約?俺以外で一緒に帰りを共にする奴なんてお前にいたのか?」


「それがいるんだよ」


「へぇー、物好きな奴もいるもんだな」


「それはお前もだろ?」


髪型を変えたあの日以降から、主に女子生徒だが以前とは比べようならないほど声を掛けられる機会が増えた。

だが、それまでは皆無と言っていいほどに女子生徒はおろか、男子生徒ですら俺に声を掛ける生徒など存在しなかった。

ある一人の生徒ーー藍堂岳だけを除いて。


(だけどそうだよな。前髪は長くてノーセットのままでは目が隠れる。口数も少なくて、そのうえ無愛想ときたら誰だって関わりたくないだろう)


「じゃあ、俺はもう行くから」


「そうかよ。そんじゃ、楽しんでこいよ。どうせ、女子なんだろ?」


「な、なんで分かる……」


「何年の付き合いだと思ってんだよ。ほら、そんなことより女子なら尚更待たせちゃダメだろ」


「あぁ。じゃあまた明日な、岳」


「あぁ、また明日」


机の横に掛けられた通学鞄を手に取ると、満面の笑みで手を振ってくる岳に背を向けて教室を後にした。

校庭からは部活動に励む生徒らの掛け声が聞こえ、下駄箱へ向かう途中に通過する委員会室からは何やら講義を繰り広げている対話が聞こえてくる。

そんな生活音を耳に入れながら階段を下ると、下駄箱に背を合わせながら、脚の前で鞄をぶら下げている雪音の姿があった。

下を俯いたり、横に目をやったりと恐らく俺が来るのを待っているのであろう仕草は階段から下って俺の姿を目にした瞬間に途絶えた。

そして、女神が舞い降りたかのように神々しさを放った笑顔を向けながら「せんぱーい!」と手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。


「悪い、待たせたな」


「いえいえ、あたしも今来たところですし……ってこのセリフ立場逆じゃないですか?」


「確かに。大抵は男が言うセリフだよな」


「まぁでも。これはこれで悪い気はしないです!」


「今度は俺が言えるように気をつけるよ」自分の靴がしまわれている下駄箱へ足を伸ばしながらそんなことを口にすると、雪音はその場で足を止めて目を丸くし「……それって、これからもあたしと一緒に帰ってくれるってことですか?」と若干上目遣いに問いかける。


「雪音がそうしたいなら俺は別に構わないが。あぁでも、嫌なら無理にとはーー」


「嫌じゃないです!できれば……毎日帰りを一緒に……なんて……へへ……」


「あぁ、別にいいが」


「えっ……!?ほ、ほほほんとうにいいんですか!?」


自分で言ったにも拘わらず、雪音は声が震えるほどに驚き、宝石のように瞳を輝かせながら距離を縮めてくる。

俺は少し身体を後ろへと引きながら。


「あ、あぁ……」


「そ……それ……なら、明日も一緒に帰ってくれますか……?」


子犬がくぅーんと鳴くかのように上目遣いで要望する雪音。


「いいよ。……でも、もしかしたら岳も着いてくるかもしれない」


「岳……あぁ、あの日の。岳くんもこの高校だったんですね」


(雪音、岳のこと忘れてなかったか?)


「別にいいですけど、できれば……二人が……」


「分かった。善処するよ」


上履きから靴に履き替えた俺らは昇降口を後にする。

夕日が傾き、外に足を踏み出した途端に目映い夕焼けが視界を妨げ、陽の明かりを右手で遮る。

校庭の半面づつ使用している野球部とサッカー部が試合を開始し、それを横目に校門を抜ける。


「先輩は休みの日とか何してますか?」


「気分にもよるけど、大抵は本を読んでるかな」


「本を読んでる人って知的なイメージがありますが、先輩も頭はいいんですか?」


「中の上くらいには」


(それに俺が読んでいる本は知識が広がるような哲学とかそういった類のものではなく、至って普通のラノベなのだけど。それは敢えて口にしないでおこう)


「それなら先輩!来月の中間テスト、あたしの家庭教師になってくださいよ!」


「別にいいけど、俺なんかよりも恋乃葉に訊いた方が教え方も効率も全て期待できると思うが」


「そんなことはありませんよ!やっぱり、勉強に一番必要なのは意欲ですよ!勉強嫌いのあたしの意欲を引き出すには恋乃葉じゃなくて先輩の方が確実に有力ですっ!」


妙に押しが強い雪音は人差し指をくるくるとさせながら、必死に俺を説得させようとしていた。


「それなら来月、うち来るか?」


「い、いいいいいんですか!?先輩の家に行っても!!」


「俺が雪音の家に行くのでもいいけど」


「せ、先輩が……あたしの家に……」


どちらを選択すれば最適解なのか、その時の光景を目にするかのように「……ん〜」と唸り声を上げながら妄想する雪音は顎に両手を添えながら、茜色の夕日に照らされる顔を更に紅く染まらせて表情をとろけさせていた。

「……雪音?」そう肩をポンッと叩きながら声を掛けると、雪音はハッと我に返る。


「あ、あたしが先輩の家に行きます!」


「そうか。なら、予定をあけておかないとな」


「一応余裕を持って三ヵ月先まで予定をあけといてもらえます?」


「三ヵ月先ってテスト終わってるだろ」


雪音の頭を軽くチョップすると、「チョップされたぁー!」と騒ぎながらも、うへへと鼻の下を伸ばしながらはにかむ。


(なんだか、恋乃葉とはまるで違う性格だな)


「雪音。俺はこっちの道だから」


突き当たりの右方面を指差すと雪音はしょぼんと表情を曇らせ「……あたしはこっちですぅ」と俺とは真逆の左方面を指差した。


「なら、ここまでだな」


「そうですねー……」


「じゃあ、また明日」


「はい……また明日ですぅ。……先輩」


それほどまでに俺と別れるのが悲しいのか、雪音は俯き気味に俺の背中を眺める。

時折後ろを振り向けば、雪音は別れが惜しい面持ちで唇を尖らせていた。


(そもそもの話、俺なんかと一緒に帰って雪音は本当に楽しいのか?俺が雪音の立場なら金輪際帰りを共にするどころか、まともに話すらしないけど)


そんなことを考えながら、スタスタと住宅街を歩いていると、自分の足音とは違う誰かの足音が微かに聞こえてくる。

足を止めれば、スタと一秒遅れて背後の誰かも足を止める。



(ストーカー……?それとも幽霊……?)


疑念と警戒心を抱きながら、恐る恐る後ろを振り返るとーー。


「はぁ……。なんで雪音、お前まで着いてきてんだ」


背後に感じた気配と妙な足音の正体は予想をしていたストーリーでも幽霊でもなく、先程まで談話をしながら隣を歩いていた紛れもない雪音だった。


「だってぇ、先輩ともっと一緒にいたいんですもーん」


「だからといってなぁ、お前の家はこっちじゃないんだろ?」


「そうですけどぉ」


「なら、戻らないと」


「もぉ〜!先輩、冷たくないですかぁ?」


俺の対応に心底不快そうに頬をぷくぅっと膨らませる雪音は不機嫌に俺の通学鞄を強引に引っ張ってくる。

これではまるで、親との別れを拒絶する幼稚園児ではないか。

けれど、そんな不機嫌もつかの間。雪音は何かを思いついたかのようにポンッと手を打ち、「そうだ」と人差し指を立てて呟いた。


「先輩があたしの家まで来ればいい話じゃないですか!」


「は、はぁ……?」


「だから!先輩、家まで送ってください!」


雪音自身もこれだけでは俺の意思が折れないことを理解しているのか、更に畳み掛けるように「それにぃ、もうこんなに暗いじゃないですかぁ。あたし、怖〜いです」必殺技のように繰り出された言葉にぐぬっと一瞬意思が揺らぐと雪音はより一層に言葉を並べる。


「先輩は女の子を日が暮れた道に置き去りにするような、意地悪な男の子じゃないですもんねぇー!」


「これくらいの暗さなら一人で帰れるだろ?まだ、街頭もつかない明るさだし」


「そ、それは……こ、壊れてるんですよ!前に誰かが言ってました!この辺りの街頭は夜になってもつかないって」


「昨日通ったときはしっかり機能してたけど」


「ギクッ……」


「まぁ、嘘だけど」


「ああー!」と声を上げながら眉尻を吊り上げ、頬を膨らませる雪音は「先輩!騙しましたねー!」と胸元をポカポカ殴ってくる。


「悪かった、悪かったよ」


「分かりました。あたしは優しいので許します!ですが、嘘をついた罰としてあたしを家まで送って行ってください!」


これ以上断ったところで押し問答になる未来は目に見えているし、結局俺に選択肢はないんだ。

『送る』『送らない』の二択ではなく、あくまでも『送る』『送る』の二択に見せかけた一択。

仕方がないからと、渋々雪音のわがままな要望を聞き入れる。


「家まで送ったら今度こそ帰るからな」


「はーい!先輩が泊まりたいって言うなら全然あたしはOKですけど!」


「上がるとも言ってないのに泊まるわけがあるか!」


「もぉー、先輩ったら照れちゃってぇ」


「どこをどう見たら、俺が照れてるように思うんだ!」


まるで小学生と会話をしているような感覚に陥るが、俺が今言葉を交えているのも歩幅を合わせて隣を歩いているのも、決して小学生なんかではなく、紛れもない高校一年生。

けれど、雪音の破天荒な性格と待ち合わせたコミニュケーション能力のおかげか、他の人と話しているときよりも遥かに居心地がいい。

表面上の自分を作り上げないでいいというか、包み隠さず本心で語り合えるというか。

岳以外でこんな風に思える人が見つかるなんて思いもしなかった。ましてや女子とは。



あれからというものの、突き当たりを左に曲がり雪音の自宅に到着する一〇分ほどの間、一秒の沈黙も挟まずに他愛ない会話でそこそこ盛り上がった。

雪音の自宅前までたどり着くと、「今日、うちに泊まってく?」と本気で言っているのか冗談で言っているのか分かりづらい言い方に多少戸惑いながらも「泊まらないに決まってるだろ」と至って冷静にそう答える。

自宅まで送ってやったというのに、まだ名残惜しそうに見つめる雪音に「また明日帰ろうな」と声を掛けると、「……当たり前です!」と切なげに微笑む。

そうして、普段よりも帰宅時間が大幅に遅れ、ようやく自宅前へとたどり着き、鞄から取り出した鍵で扉を開ける。


「……ただいまー」


上がり框にボスンと鞄を投げ、靴を脱いでいると、扉の開閉音を聞きつけたのか階段から降りてきた恋乃葉が手すりを掴みながら口を開く。


「兄さん、今日は遅かったわね」


「……あぁ。予想外のことが色々と起きてな」


「どうせまた、あの友人が原因なんでしょ?」


「ああー、いや。今回は岳じゃない」


「あの人じゃないの?じゃあ、誰?兄さんに友人はあの人だけのはず……」


まるで難問数式を解くかのように顎に指を当て、悶々と熟考しながら近くまで歩み寄ると、クンクンと俺の制服を犬のように嗅ぎながら、「……兄さん」と眉をひそめながら怪訝に睨む。


「お……俺、もしかして臭かった……?」


「そうじゃなくて……。この香り……この香水の香り……もしかして……雪音と帰ってきたの……?」


「あ……あぁそうだが。すごいな恋乃葉。香水の香りで誰か当てるなんて」


「わたしがすごいかどうかなんてどうでもいいの。……どうして雪音と一緒にいたのさ……」


(な、なんで恋乃葉、怒ってるんだ?全く身に覚えがないんだけど。雪音がどうこうとか意味がわからないし)


「雪音から一緒に帰らないかって誘われて」


「な、名前呼び……。へぇ〜、なるほどね。それで……?」


「いや、それだけ」


「本当に?雪音に何もされてない?」


「され……されてない?普通はしてない、じゃなくて?」


「兄さんにそんな度胸ないでしょ」と恋乃葉はしかめっ面で腕を組む。


(度胸がない……か。まぁ確かに、未だに恋乃葉に告白もできてないし、あながち間違ってはいないのかも)


「俺はもう部屋に戻るから」


玄関の端に置かれた鞄を手に取り、階段に足をかけると、「ちょっとぉ?まだ話は終わってないのだけど」と手を腰に当てながら睨みつけてくる恋乃葉。


(なぜ俺が説教をされないといけないのか……。できることならば早く部屋で休みたいのだけど)


「悪いがまた後でで頼む」


謎に機嫌が悪い恋乃葉を階段下に置き去りにし、俺は「はぁ」とため息を漏らしながら階段を上り、自室に入る。

両手を上へ伸びをし、片手に持っていた鞄、纏っているブレザーを乱暴に放り投げ、ボフンとベッドに倒れ込む。

寝返りを打って、天井に設置されたシーリングライトを眺めながら、制服のポケットにしまわれた"あるモノ"を取り出す。


「……遊園地なぁ」


雪音を自宅前まで届け終えたとき、「今週の土曜日、一緒に遊園地に行きましょ!」その言葉と一緒に一枚の遊園地のチケットを受け取った。

仰向けに掲げられた一枚のチケットをゆらゆらと揺らしながら、部屋の照明と照らし合わせる。


(貰ったてしまった以上、断るわけにもいかないしなぁ。……なんで俺なんだか。せっかくなら恋乃葉を誘って行けばいいのに)


突然一緒に帰りたいと言ったり、友人との別れにも拘わらず名残惜しそうな顔をしたり、はたまた遊園地に行かないかと誘ったり。

雪音の行動にはよく理解できず、謎が深まるばかり。

疑念を抱きながら「ふぁ……」とあくびをする。


(でもまぁ。雪音といる時間、なんだか居心地がいいんだよなぁ)


新たな友人に思いを馳せていると次第に眠気が襲い、手に持っていたチケットを胸元に置くと、そっと夢の中へと誘われていった。





第五章 関係の変化


先日、雪音から誘われた遊園地の日を迎えた今日。

微かに開かれたカーテンの隙間から一直線に差し込む太陽光に苛まれ、スマートフォンに設定した目覚ましよりも早く起きてしまった。

寝起き故に手を伸ばしてカーテンを閉める気力も湧いてこない。

布団に潜ったところで寝返りを打ち続ければ、いずれ顔が出てしまうし、枕で埋めようと思っても、なぜだかその枕はベッドから落ち、床で寂しそうに転がってた。

仕方がないからと僅かばかり予定時間よりは早いが、身支度を済ませるためベッドから身体を起こす。

授業の合間や昼休み。雪音が俺の教室まで足を運んで出迎えることが徐々に日課となりつつある。

そして昨日の昼休みも毎度のように顔を出す雪音は「明日はやっと、待ちに待った遊園地ですね!」と遠足を前日に控えた小学生のように張り切っていた。

当日の日程や突然のトラブル等に対応できるよう、連絡先を交換したのだが昨晩は就寝時間ギリギリまで雪音からの連絡が途絶えることはなく、それ故に去年から連絡先を交換しているにも拘わらず、ほんの数分で恋乃葉とのトーク履歴をいとも容易く超えた。

一度のスクロールで全てを読み終える恋乃葉とのトーク画面とは違い、数十回のスクロールを経てようやく一番下まで辿り着くことができる雪音とのトーク履歴。

今思い返せば、二時間に亘るメッセージのやり取りは雪音が初めてだ。

昨晩の記憶を遡りながら、昨日の昼休みに岳から助言を貰った服装をタンスから取り出し、着用していると、ベッドのヘッドボードに置かれたスマートフォンが小刻みに振動をする。

手に取って液晶を確認しなくとも容易に予想がつく相手。


(……雪音だな)


案の定、メッセージの送信の相手は雪音で液晶に表示された連絡内容は。


【せんぱーい!おはよ!起きてますか?あたしは今起きました!】


早朝からはうるさすぎる言葉の配列とスマートフォン越しでも伝わってくる太陽のような眩しさ。

目が眩む錯覚に陥りながらも、次々に送られてくるメッセージを読み進める。


【おっと!既読がついた!せんぱい起きてるんだ!おはよ!返信カモンです!】


「おはよ」


【おはよです!】


その言葉に続けて、『おはよう』と記された枕を片手に目を擦るペンギンスタンプが送られてきた。


「それで要件は?」


【そうでした、そうでした!すっかり忘れてました】


(忘れるなよ……)


【せんぱいに一つお願いがありまして。できたらでいいんですけど、せっかくのデートなんですし髪をセットしてもらいたくなぁって】


「でーと?初耳なんだけど」


【あれ?言ってませんでしたっけ?】


(デート。そんな俺とは縁遠い言葉は一度だって聞いていないぞ)


「まぁ、なんでもいいけど」


【今日はデートです!あたしにとって人生初の】


「奇遇だな。俺もだ」


【おっ!おそろいじゃないですか〜】


若干ではあるが、本筋から脱線しつつあるこのやり取りをこのまま続けてしまっては時間だけが溶ける一方。

昨晩で痛いほどに理解した俺は無理矢理にでもレールから外れた列車を乗せる。


(俺にとっては髪の毛セットするの結構時間がかかるんだよなぁ。岳にやってもらうとほんの数分で終わるんだけど。でもまぁ、雪音がデートと言うなら仕方ないか……)


「いいよ。今回は特別。髪の毛セットしてやるよ」


【ホントですか!?ありがとー、せんぱーい!】


「その代わり。女の子に絡まれたらお前が対処しろよな」


【それはもう、任せてください!あたしの彼氏だって追い返しますから!】


先程同様に自分を親指で差すペンギンスタンプが『任せんかい』と意気込んでいる。


「彼氏じゃないがな」


【そこはアレですよ!アレ】


「アレというのはよく分からないが、その場しのぎの策略なら一番効果的かもな」


【その場しのぎねぇ〜】


どこか突っかかるような返信を送る雪音。

けれどそのすぐ、【せんぱーい!それじゃまた後で!】と以前のような名残惜しさを一切見せずに淡々とやり取りを終わらせる雪音。

恐らく、数十分後に直接会えるからだろうけど。

雪音とのやり取りを終え、机にスマートフォンを置くと中断していた身支度を再び再開させる。



髪の毛のセットに思いのほか時間を費やしてしまい、待ち合わせ場所である駅前広場に到着したのは集合時間の一〇分前だった。

現在地の目印になるかと思い、偉人の銅像が建立された横に立ちながら、キョロキョロと辺りを見渡していると「せんぱーい!」と正面から手を振りながら駆け寄ってくる雪音の姿が現れる。


「すみません。待ちましたか?」


「いいや、今来たところだ」


「おっ!今度こそ先輩が言えましたね」


「いつも雪音ばかりに言わせては男が廃るってもんだ」


合コンの際に目にした、星型のイヤリングが太陽光を反射してキラリと輝く。雪音が動く度に揺れるイヤリングはまるで踊っているかのようで、雪音自身の感情を表現しているかのように思える。

水色の薄手のトップスに白のワイドパンツを合わせた、普段とは対象的な上品さを感じさせる。

脚の前で両手で持たれたクリーム色のボストンバッグは雪音の姿を更に際立たせる。

普段は毛先をお団子にしたハーフアップをセットしている雪音だが、今回はまるで印象の違う、ウェーブのかけた髪の毛に白い大きなリボンが目立つ髪飾り。

大人らしさを感じさせるその姿はどこか見慣れない感じで、それでいてとても素敵に見えた。


「ど、どう……かな?今日は初めて巻いてみたんだけど……似合ってる……?」


俺の顔色を伺いながら、心配そうに髪をいじる雪音は応えを待つ間もじもじと脚を合わせていた。


「似合ってるよ、すごく」


「ほ、ホント!?それ、ホント!?」


その言葉が想像以上に嬉しかったのか、瞳を煌めかせながら距離を縮めてくる雪音は口角の端にえくぼを作りながら、ニコニコと笑顔絶やさない。


「あ、あぁ。その服装も髪型もいつもとは違う雰囲気で可愛いな」


「か、かわ……。そ、そう……ふ〜ん」


頬を紅く染めながら、ウェーブをかけた髪を人差し指でくるくると巻き、ごにょごにょと上手く聞き取れない声量で独り言ちる雪音。

「……行きますよ」くるりと背を向けて、改札方面へ歩き出す雪音は少し先でピタリと足を止めると、辺りで咲き誇る桜のように笑顔を満開させ「先輩も!今日はいつも以上にカッコイイです!」と無邪気にそう伝える。

改札を抜けて、一時間ほど電車に揺られていると、目的地の駅が次で停車するとスピーカーから流れる。

隣で俺の肩に頭を乗せてぐっすりと寝ている雪音を起こすと眠そうな目を擦りながら。


「ん〜……?もう着くのぉ?」


「あぁ、次な」


「ありがと。起こしてくれて」


「ん〜」と唸り声を上げながら伸びをする雪音は「もう少しかぁ。楽しみだなぁ!」と脚をパタパタとさせる。


「今日が楽しみで、昨日はなかなか寝られなくてねぇ」


「遠足が楽しみな小学生かよ」


「小学生の頃は遠足とか関係なしに寝れたんだけどなぁ。でも昨日は違ったよ」


「そうか。俺はぐっすり寝れたがな」


雪音は不満そうに眉を上げると、目を細くして「……先輩。そこは冗談でも『俺も寝れなかった』って言うべきですよぉ」とぷいっと視線を逸らす。

そんなこんなで次の駅に到着するまでの数分間、俺と雪音は他愛ない会話を膨らませて、時間を過ごした。

窓の外に観覧車やジェットコースターの姿が現れると、雪音は無邪気な子供のように感情を昂らせ「先輩!先輩!見えてきましたよ!」と乱暴に肩を揺らしてきた。

電車から降り、改札を抜けると、雪音は俺一人を置き去りに前方へと走っていき、「先輩!早く早く!」と大きくて手招きをしながら催促してくる。

本当に高一なのかと疑いたくなる腕白な性格に振り回されながらも、片手にチケットを持ち遊園地のゲートを抜ける。


「先輩、まずはどこから行きますか?」


「そうだな、俺はーー」


「アレにしましょう!今なら人の並びも少ないですし、すぐに乗れますよ!」腕をぐいぐいと引っ張りながら、雪音はとあるアトラクションを指を差す。

雪音から訊いておきながら俺の希望など一切興味ないかのように言葉を遮り「早く行かないと混んじゃいますよ!」と肌白い雪音の手が俺の腕を優しく包み込み、強引に引っ張っていく。

キャストが掲げている看板に一〇分と記されている通り、俺らは大して並ばずにアトラクションへと乗ることができた。

雪音が言うには、ほぼ開門時間同時に入門することができたから、それほど待たなかったものの、実際ならは少なくとも四十分は待たないと乗れないとのこと。

そうして俺らが今から乗るアトラクションは『怪物ノック』という名の射的メインの乗り物。

けれど、祭りの屋台とかで見かけるただの射的単体ではなく、課せられた『モンスター討伐』のミッションをヴァイキング船に乗りながらこなす、アトラクション。


「先輩!先輩!あの猫みたいな怪物狙ってください!あたしはその隣のドラゴン倒しますから!」


「あぁ、分かった!」


ヴァイキング船に乗った俺らはただひたすらに三Dで登場する数々のモンスターを倒していた。

モンスターごとに決められたポイントは異なり、十ポイント二十ポイント、そして三十ポイントと振り分けられている。

ポイントが高い分、銃弾を命中させる箇所や回数は大幅に増加していき、難易度も高くなっている。

最終的にポイント獲得数の多いい上位三組は出口あたりに設置されている電光掲示板に名前が表示される。

そして過去の最高記録を塗り替えることができたならば、達成者にしか獲得することのできない限定ストラップが贈呈される。

雪音はその限定ストラップ欲しさにこのアトラクションに乗り、懸命にモンスターを倒していた。


「あ"あ"あ"あ"あ"!!一体逃したぁ!!先輩、頼みます!」


「ど、どれ!?」


「アレですアレ!あの狼みたいなやつです!」


「お……おおかみ?あ、あぁ、アレか!」


引き金を引く度にバキュンバキュンと効果音が流れ、見事標的のモンスターを討伐することができれば、ポイント数が表示されている液晶に加算されていく。

俺らの現在のポイント獲得数は百十ポイント。

そして雪音が欲しがっている限定ストラップを手に入れるには残り百五十ポイントが必要。

三十ポイントが加算されるモンスターを五体討伐すれば成功だが、言葉以上にそのミッションは容易ではない。


「せ、先輩っ!残り時間がもうありません!!も、もう、アトラクション終わっちゃいますよぉ!」


「わ、分かってる……!」


当然、アトラクションが周り終わるまでの間でポイントを稼がないといけないのだが、三十ポイントのモンスターを五体討伐する以前に百五十ポイントを稼ぐ術が見当たらないのだ。

視界の端に外の光が入り込み、それが意味することはもうアトラクション終了が間近だということ。

周囲に登場するモンスターを全体討伐したとしても、雪音が欲しがる限定キーホールダーには到底届かない。


「ぐすんっ……。せんぱ〜い……!あ……あたしの……限定キーホルダーが〜」


眉を八の字に肩を落とす雪音はズビズビと鼻をすすりながら、ゆらゆらと俺の後ろを歩いていた。


「まぁ、そんな悲しまずに元気出せよ」


「元気……でませんよぉ〜」


「ほら、あそこのポップコーンひとつ買ってやるからよ」


「ポップコーン……?ほんとに買ってるれるのぉ?」


「今日はお前にとって、その……デート……なんだろ?なら、こういうときは男が奢るもんだろ」


目をぱちくりしながら、ぱぁっと表情を咲かせる雪音は「せんぱ〜い!」と大きく手を広げながら、勢いよく抱きついてくる。

頭をすりすりとしてくる雪音の姿は、まるで猫とでも戯れているかのような錯覚に陥らせる。


「そんなくっつくなって」身体を引き離そうと両肩を押し返すが、意外にも雪音の力は強く、磁石のN極とS極のように離れようとしない。


「あ!そうだ!先輩、少しの間このままでいてください!」


「まぁ、少しだけなら」


「ありがとうございます〜!」


抱きつく雪音の手元にはボストンバッグが持たれており、背後でゴソゴソと鞄の中身をいじる素振りをしながら、雪音はスマートフォンを取り出す。


「はい、先輩!こっち向いてください!」


「……ん?」


雪音の示す方向へと顔を向けると、スマートフォンがパシャと音を鳴らす。


「写真?」


「せっかくなんですから、今日はたくさん写真撮りましょ」


「思い出作りってやつか?」


「ん〜、まぁそんな感じです」


スマートフォンを指先で操作しながら、先程写真フォルダに納められた一枚の写真をタップする。

「せんぱーい、変な顔してますよ……!」手で口を隠しながらクツクツと笑う雪音は「見てください、この顔……!」と悪意の込められた指で示していた。


「仕方ないだろ、突然だったんだから」


「だとしても、タイミング最悪じゃないですか。目は瞑ってるし、驚いて口は半開きだし……!」


「おい、笑うな!お前の変な顔もとってやろうか!」


「別にいいですよぉー!先輩に撮れるならの話ですが」


「……言ったな。……雪音の気が付かない間に五十枚くらい撮ってやるからな……絶対に」


「わぁーい!先輩のスマホにあたしの写真が五十枚も保存されるなんて最高じゃないですか!」雪音は口角の端にえくぼを作りながら、両手を上へ上げながら万歳を披露する。

弾む度に裾が揺れたり膨らんだりし、それと同時に耳たぶでは星型イヤリングが踊っているように揺れる。


(俺が何を言ったって雪音に全部、無力化されてしまう……。なんなんだ、このチート技を持ち合わせた最強キャラみたいなのは……)


呆然としたため息を漏らしていると、雪音は一足先にポップコーンを販売している荷車の元へと駆け寄り、くるりと後ろを振り向きながら「せんぱーい!早く、ポップコーン買ってくださいよー!」とぴょんぴょん弾む。「へいへい、分かりましたよー」そう返事をしながら、俺もまた雪音の元へと駆け寄りに行く。



遊園地に入場してからというものの、初っ端に『怪物ノック』。次に『蛇行コースター』という名のくねくねと上下移動が激しいジェットコースター。高さ五十mから垂直落下する『ライトニング』という名のフリーフォール。

その後もお化け屋敷にバイキング、ゴーカートに空中ブランコと全アトラクション、全エリアを制覇し、その結果体力の底を尽きた俺の腕を引っ張りながら半ば無理矢理に連れ回された。

インドアな俺とアウトドアな雪音とは持久力の差など見て取れるが、自分が想像していた以上に自分の持久力は欠落していた。


「そ……それで、次はどれに乗るんだ……」


ぜはぁぜはぁと肩で息をしながら、先を行く雪音の背中を追っていると、「アレで最後ですよ」とその場で足を止めて、上の方を指差す。

膝に手を当てながら、雪音の示す先に目をやると、そこには緩慢と回転している観覧車があった。


「ここなら休憩できますし、これご最後なので頑張ってください、先輩!」


「……よしっ!乗るか!」


「おっ!?ミイラのように干からびた先輩が復活したぁー!」


「……ミイラとは失礼な奴だ」


(これ以上、雪音には気を遣わせたくないしな)


猫背だった姿勢をピシッと正し、雪音の隣まで歩み寄ると、「行くか雪音」と頭上にポンッと手を乗せ、観覧車の入口まで足を伸ばす。

閉園時間間近ということもあってか、客足は徐々にまばらになっていき、観覧車を並ぶ人も数少なかった。

その客の大半が身体を寄せ合う恋人ばかりで、無性に気まずくなる雰囲気に視線を背ける。


「カップルだらけですね」


「そう……だな」


「見てください、先輩。あのカップルの身長差、理想じゃないですか?」


「そう……なのか?俺、そういうのあんまり分からないんだわ」


隣にいる雪音は俺の全身を品定めするかのように上から下へと注視すると「先輩とあたしの身長差も理想……ですね」と手を頭の上まで上げて、身長を探る。


「そうなのか?」


「そう……ですよ。先輩、意外と高身長ですし……」


遊園地内に設立されているゲームセンター内のクレンゲームで見事手に入れることのできた、ここのマスコットキャラクターのぬいぐるみで顔の半分を隠す雪音。

完全には隠しきれておらず、僅かに覗く血色の良い頬は夕日に照らされていても分かってしまうほどに紅潮としていた。


「男ってやっぱり、身長が高い方がモテるのか?」


「せ、先輩……。もしかして、やっぱり女子にチヤホヤされたくなったんですか……?」


「違ぇよ!恋愛対象として身長ってどれだけ重要視されるのかなっていう素朴な疑問」


「あぁ、なるほどですね」


「それで、女子の雪音からしても実際のところどうなんだ?やっぱり、身長はかなり重要か?」


「ん〜」と唇をへの字に首を傾げ、華奢な腕を組みながら思考を巡らせている雪音は「確かに……」と結論を述べる。


「もちろん、高身長の方が女子からはモテると思いますよ。でもそれは、男子にとって低身長女子の方が恋愛対象に入りやすいのと同じ事です」


「な、なるほど……」


(雪音にしては、珍しく理にかなった正当な意見だ……)


「なら、やっぱりーー」


「でもそれはあくまでも、好きになる条件の一つにしか過ぎません」


「というと」


「つまりですね。高身長だから好きだとか、低身長だから嫌いだとか、ではなくて。結局のところ、身長とかは関係なしにその人の存在が好きなんだと思います。内面とか外見とか。仕草と雰囲気とか。身長なんかよりももっと魅力的な部分があるはずなのに、それを見つけられてないだけで、一番分かりやすい身長を再重要視しちゃってるだけなんじゃないかなって思います」


雪音の優しい言葉に耳を傾けながら、純粋無垢に煌めく瞳をじっと見つめていると、俺からの視線に気が付いた雪音は少し小っ恥ずかしそうに頭をかきながら「これじゃあ、答えになってませんよね」と申し訳なそうに呟いた。


「そんなことない。雪音らしい優しい言葉だな。やっぱりお前はすげぇよ」


「そ、そうですか……?先輩にそう言ってもらえるとすごく嬉しいですっ……」


「えへへ」と頬をかきながら口元を歪めている雪音を横目で見ていると、なぜだか俺まで口角が緩む。


「お待たせいたしました。お次の方どうぞ」


「お!俺らの番が回ってきたみたいだぜ」


「乗りましょ!乗りましょー!」


桜色のゴンドラに足を乗せると、ガタゴトと左右に揺れ、「きゃー!せんぱーい、怖いよぉー!」と誰が聞いても棒読みだと容易に理解できるセリフを吐きながら、俺の両腕をコアラのようにガシッと掴む……というか抱きしめる。


「ゴンドラの中って意外と狭いんだな」


「先輩、観覧車あんまり乗ったことないんですか?」


「観覧車っていうか、遊園地自体に来るのもあんまりなくてな」


「え!?そうなんですか!?あたしなんて、二ヵ月に一回は行きますよ?」


「確かに雪音、友達とか多そうだしな」


「あたし、恋乃葉と先輩しか友達いませんよ。だから、遊園地に来る時はいつも……ひとり……で……なん……です……」


「いや、なんか……その。悪いこと訊いたな……」


「その反応、余計に傷つきますぅー!」膝の上に置かれたぬいぐるみをギュッと抱きしめながら、不機嫌に唇を尖らせる。

そして雪音はじっと俺の目を見つめながら、ぬいぐるみの頭に顎を乗せ「あたしの恥ずかしエピソード聞いたんですから、次から遊園地に行くときは先輩も着いてきてくださいねーっ!」と目力で訴えてくる。


「はぁ……。なんか、嵌められた気もするが分かったよ」


「やったぁー!約束ですからね、先輩!」


ゴンドラの窓から眺められる景色はいわゆる絶景で、遊園地全体を見渡せるのはもちろん、その先の向こう側には茜色の夕焼けをキラキラと反射させた海がただひたすらに広がっていた。

「……綺麗だな」そんな単調でありきたりな短い感想しか述べることができないが、それ以上の言葉を口にしてしまっては今見ている光景に偽り感が増してしまいそうな気がしたから。

だからこそ率直で頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。


「……そうですね。とても綺麗です。年に何回も見てるはずの景色なのに、どうしてか今日だけはとびきり美しく見えます」


窓の外を眺めながらそう呟く雪音に目を向けると、先程感激を受けた海面と同格か、もしくはそれ以上に雪音の瞳は美しく輝いていた。



閉園時間ギリギリで遊園地のゲートを抜けた俺たちは、行き同様に電車にガタゴト揺られながら帰路へとつく。

下車駅に到着するまでの間、雪音は俺の肩に頭を乗せながら眠り、デジャブかと思わせた。

いつも通りに雪音を自宅まで送り届けると、自宅の扉前に辿り着いた頃は十六時半を回っていた。


「ただいーー」


「兄さんっ!」


扉を開けるなり早々、玄関で仁王立ちをしている恋乃葉は鬼のような剣幕で俺を睨みつけていた。


「な、なんだよ恋乃葉……」


「どこに行ってたの!」


「どこってゆーー」


「どうせ、また雪音とでしょ」


その言葉にクンクンと自分の服の匂いを確認すると「……やっぱり、雪音なのね」と恋乃葉は拳を握りながら歯を食いしばる。


「それで、雪音とどこに行ってたの?」


不自然に視線を落としながら頭に手を当てると。


「ゆ……」


「ゆ……?」


「ゆ……遊園地」


「ゆ、遊園地!?だ、誰と!?……って雪音か!雪音……?雪音ってあの雪音だよね!?」


(遂に恋乃葉が壊れた……。な、なに……?すげぇ怖いんだけど)


「ふ〜ん、なるほどねぇ……。朝早くから家を出て、夕方過ぎに帰ってきたと」


片方の眉毛を上げながら、時折こちらを一瞥する恋乃葉の瞳には確かに殺意のようなものが宿っていた。


「そ れ で !その何時間もの間、と う ぜ ん !な に も !なかったわよね?」


「なにかってなんだよ。俺は何もしてないし、されてない」


「そう。ならいいけど」


そう言いながらも恋乃葉の表情は一切晴れることはなく、おにのような剣幕を絶えすことはなかった。

帰宅早々の謎の説教時間が終え、階段を上りかけていた恋乃葉がドタドタ駆け下り。


「兄さんっ!次はわたしと二人で遊園地に連れていきなさいよね!」


「なにも俺と二人じゃなくても、雪音を誘えばーー」


「余計なことは言わなくていいの!兄さんはわたしの命令をそのまま言う通りにすればいいの!」


「へいへーい、分かりましたよーっだ」


(なんかこの頃、恋乃葉の性格が更にキツくなっている気がするんだけど……。以前までは多少の距離感を感じただけで、今のように威圧も強くなければ、口調だってそれほどキツくなかったし……。一体、何が恋乃葉をそうさせるのか……。好きな相手だというのに、俺はまだなんにも恋乃葉のことを知らないんだな……)


恋乃葉の情報が無知すぎる自分に嫌気がさしながら、自室に向かうべく階段をゆっくりと上る。

そうして、なぜだかその日の夜は隣室からドンドンドンと壁を叩くような鈍い音に苛まれ、あまり眠ることができずに翌日を迎えた。



二学年に進級してから一ヵ月が経過した今、徐々に気温が高くなりつつある五月に突入していた。

そして中間テストを来週に控えた今日、以前約束をした勉強会を開催すべく、放課後に雪音が俺の家へと出向いていた。


「おっじゃましまーす!」


「飲み物とか持っていくから、雪音は先に俺の部屋に行っててくれ。階段上ってすぐの部屋な」


「はーい!了解でーす!」


ピシッと敬礼をし、周囲を見渡しながら雪音は階段を上り、背中が見えなくなったところで俺はリビングへと繋がる扉を開ける。


(ジュースとお茶、どっちがいいんだろ?精神年齢が低い雪音にはジュースの方が好みかな)


片手づつにジュースとお茶のペットボトルを持ちながら交互に見比べていると、「えぇーーーっ!?」とリビングにまで届く声量の驚嘆が耳まに飛び込んできた。

両手にペットボトルを持った状態でリビングを抜け、俊足に階段を掛け上る。


(ま、まさか…………)


「な、なんで恋乃葉がいるの!?」


(……やっぱり。今日、雪音が来ることそういえば恋乃葉には言ってなかったな)


まともに俺の話を聞いていなかったのか、雪音は間違えて恋乃葉の部屋の扉を開けてしまっていた。


「そ、それはわたしのセリフよっ!なんで雪音がわたしの家にいるのさ!」


「え……わたしの家?違うよ!ここは先輩の家だよ!」


「……先輩……?」


四つん這いで部屋の奥から姿を現す恋乃葉は狐のような鋭い目つきで、心臓を貫くほどの睨みつけてくる。


「兄さん……?これはどういうこと……?」


「これは……その……」


「ま、待って待って!?今、兄さんって言った!?ねぇ、言ったよね!?先輩が恋乃葉の兄さんってどういうこと!?」


これ以上誤魔化しても、たとえ別の話題を振ったとしてもこの場を乗り越えることはできないであろうと察した恋乃葉は呆然と視線を落としながらため息を漏らす。


「に……かな……翔奏くんは……わたしの兄さんなの」


「中学校から一緒なのに初耳なんだけど!?合コンのとき偶然苗字一緒なのかなぁって思ってたけど、まさか家族だったなんて……」


「別に隠すつもりはなくて。ただ、言う機会がなかったから」


(俺なんかが兄貴なんて恥ずかしいから教えてなかったのかと思っていたけど、別にそういうわけじゃないんだ……)


「でもアレだね。家族と言う割にあんまり顔は似てないね」


「まぁそりゃあ、わたしと兄さんは義理の兄弟だし」


「ぎ、義理なの!?ここで二度目の衝撃事実なんだけど!?」


(いちいち、反応がうるさいなぁ。一人だけメガホン使ってるくらいの声量だな)


そうして雪音は何を思ったのか、俺の方をチラリと一瞥すると、四つん這いで扉の向こう側から顔だけを覗かせている恋乃葉に近づき、何やら耳打ちする。

ごにょごにょと何を言っているのかは聞き取れないが、雪音の時折こちらに向けて送ってくる視線や片方の口角が上げられた不敵な笑みから推測するに恐らく、しょうもないことを言っているに違いない。


「な、何言ってんのよ!!そんなことあるわけないでしょ!むしろ、なさすぎるぐらいよ!」耳打ちを終えた恋乃葉は大きな口を開けながら、顔を紅く声を張上げていた。


(……一体、雪音に何を言われたのか)


「なさすぎる……くらい?」ぽかんと首を傾げている雪音の横でまたしてもブツブツ何かを呟いては、より一層に顔を赤らめる恋乃葉。


「でも、それならなんか安心した」


「安心……?」


「だって、もし何かあるならライバル出現!かもしれないしね」


「ライ……バル……。そうね……わたしと兄さんはそんなんじゃなにもの……」


先程とは対照的に恋乃葉は悲観的に顔を俯け、「……お二人さん、わたしは気にせずごゆっくりどうぞ」と哀愁漂う声音で自室へと消えていき、扉をゆっくりと閉める。


「恋乃葉どうしちゃったんだろ?」


「さぁな。とりあえずお前はちゃんと人の話を聞け」


「聞いてるよぉ、ちゃんと!」


「……聞いてねぇから言ってんだよ」


右手に持っているお茶のペットボトルを握りしめ怒りを露わにしていると、「そんなに怒りなさんな、ねぇ先輩」と腑抜けた笑顔が余計に癪に障る。

それから、何事もなかったかのように再びリビングに戻り、ジュースを注いだグラスとクッキーを盛った樹脂バスケットをおぼんに乗せ、今度こそ自室へと向かう。


「雪音、待たせたーー。お前……何してんだよ」


「いやね、先輩も年頃の男の子だからエッチな本の一冊や二冊、あると思ってさ」


ベッドの下に手を突っ込みながら探る雪音は制服姿というのもあって、目のやり場に困り、適当に視線を横へと逸らす。


「そういうベタなことはするなよ……」


「ちょぉっと待ってくださいねぇ、先輩。もう少しでベッドの下、探し終わるんで」


(よく、アニメとか漫画とかでこういうシーンは見かけるけど、本人の目の前でも続行する奴は初めて見たわ……)


「ベッドの下にはねぇよ。だから、その格好はやめてくれ……」


「その……格好……?」俺の言葉に対して、不思議そうに後ろを振り向く雪音はようやくその意味を理解したのか、俊敏に起き上がり正座をすると「あ、あちゃぁ……これは失敬失敬」眉を八の字に微笑む。


「一応ここは男子の部屋で、今この空間には俺とお前しかいないんだから、もう少しは警戒心をもてよな」


「先輩は……あたしに何かするんですか……?」


「し、しねぇよ……っ!」


「しないんですか……?」


「だから、そう言ってんだろ。何度も言わせんな」


(俺の前では別に構わないが、それ以外の男子、ましてや岳の目の前なんかで無防備な姿を見せたら、何しでかすか分かったもんじゃない)


「そんなことより、本題に入るぞ。ちなみに雪音どのくらい勉強が苦手なんだ?」


「理系はギリ得意なんで何とかなるんですが、……文系がどうも壊滅的で……」


「なるほどな。でもさお前、俺の趣味とか好物とかは覚えられてるじゃん」


「それは先輩のことだからですよ!……他の人の名前とか顔とかはよっぽど仲が良くないとすぐ忘れちゃいます……」


しょんぼりとため息をこぼす雪音は正面のセンターテーブルの上に置かれたクッキーを一つ掴み、口へと放り込む。

「ん!?……美味い」ともぐもぐ咀嚼をしながら、唇についたクッキーのカスを親指で拭き取る。


「あたしに勉強を教えてくれるのはありがたいですが、先輩はテスト範囲とか大丈夫なんですか?」


「俺もそんなに頭がいいってわけじゃないけど、常日頃からコツコツと勉強はしてるからな。ぶっちゃけノー勉でも最低限の赤点は免れる」


「の、ノー勉でも……。先輩って……すごいんですね……。あたしなんてノー勉でテストに挑んだら、○点は確実ですよ……」


クッキーを食べた後の喉の渇きを潤すため、雪音はジュースの注がれたグラスに手を伸ばす。

ごくごくと嚥下音を立てながら、「ぷはぁ〜美味い!」とお酒を傾けるサラリーマンのような嘆声を上げる。


「よぉし。それじゃあ、始めるか。まずは雪音が苦手とする現代文からだな」


「あのぉ……先輩。なるべくお手柔らかに頼みます……」


「それはお前次第だ」


「もぉ〜、先輩のいじわるぅ〜!」


通学鞄から現代文の参考書とノートを取り出し、机の上で広げる。

開始早々に「疲れたぁ……」とほざく雪音の額にデコピンをすると、その部分を両手で抑えながら「痛いですぅ!」とむすっと唇を突き出す。


「えっと、じゃあ次はこの問題。『農家のお爺さんは何を思って愛犬を山奥に置き去りにしたのか』」


「愛犬に似た他の犬だったから!」


「違ぇよ、どんな答えだよ」


「じゃあ!朝起きたら愛犬が怪物に変身してて、身の危険を感じたから!」


「……どこの世界線で生きてんだよ。そもそも、山奥に置き去りにする前に襲われるだろ……」


「それはきっとあれですよ。心のやさしぃーい、怪物だったんです」片手に持っているクッキーを俺に向けながら、ウインクをする。

パクッと口に入れると「そんな情の深い怪物だっているんですよ、先輩」ともぐもぐしながら、誇らしげに語り出す。


「よしっ……。現代文は一旦諦めて、違う科目にしよう」


「なんでですぅ?」


「……お前がとち狂った答えしか導けないからだろ」


「あたしには人の心を読み取る能力なんて大層なもの、ありませんからねぇ」


「そんな能力俺だってねぇよ……」


(やばいな……。まだ一科目だというのに雪音の実力を実感する度に雲行きが怪しくなってくる)


「それで先輩。結局これの答えってなんだったんですか?」


「実はなこのお爺さんには手の施しようのない、不治の病に冒されていたんだ。両親も兄弟も失ったお爺さんにとって、唯一のかけがえのない家族はあの愛犬だけだった。だからこそ、その大切な家族を守るため、自分の病を感染させないためにお爺さんは山奥に捨てる決断をしたんだ。……分かった?雪音ーー」


参考書から正面に座る雪音へと視線を移すと、そこには「ぐすんっ……んぐ……」と目尻に浮かぶ涙を掌で拭いながら、鼻水をズビズビと啜っている。


「ゆ、雪音!どうした!?どこか痛いのか?クッキーを喉に詰まらせたとかーー」


「……すみません、先輩。違うんです……。この話がそんなに感動的だとは思っていなくて……。お爺さんは……大切な家族を……守る……ため……に……」


「雪音…………。そんなに感情移入できるならお爺さん心情くらい読み取れるだろ!」


「なんで今チョップするんですかぁー……!」


床に置かれたティッシュを引き抜き、ズビーッと鼻水をかむ。


(は……鼻が……赤い……!ぶ……!とな……トナカイかよ……っ!)


「せんぱーい……なにあたしの顔見て笑ってんですかぁー?」


「いや……その……な……なん……なんでも……ないんだ……!んぐ……っ!」


「やっぱり、笑ってるじゃないですかぁー!!」


笑いを堪えるように床へと視線を落としているのだが、俺はついついこれ見よがしに雪音の赤い鼻を一瞥してしまう。

その度にクスクスと口に手を当てながら必死に笑い声を押し殺していると。


「せんぱーい……?これ以上笑うなら、この愛犬のように山奥に置き去りにしますよぉ……?」


「こ……この辺りに山奥は……ないと思うが……!」


「もぉー!揚げ足取らないでくださいよぉー!」


雪音は怒りの感情を制御できない子供のように両腕をぶんぶんと振りながら、カゴに盛られたクッキーを鷲掴みし、一気に口の中へと頬張

る。


「……ぷっ……!……アハ……ハハ……」


「もぉー、次はなんですか!」


「いや……悪い悪い。口いっぱいにクッキーを頬張る姿がハムスターに見えてな……!」


「は、ハムスターって、からかってるんですか!」


「違うよ。ハムスターみたいで可愛いなって思っただけ」


「かわ……かわいぃ……。ハムスターみたいで……?な……なる……なるほどね……」


咀嚼をすればするほどハムスターにしか見えなくなり、まるで小さな両手でひまわりの種にかぶりついているハムスターだこれは。


(赤く腫れた目元も。トナカイのように赤く染った鼻も。ハムスターのように膨らませる頬も。いつものようなガサツな姿とは違って、なんというかこぉ……女の子らしい……可愛らしい一面もあるんだな……)


「あぁー!笑った笑った!久しぶりにこんな笑ったわ!」


「先輩が声を上げて笑ったところ初めて見ました」


「俺もだよ。俺も自分がこんなみんなのように笑えるなんて思ってもみなかったよ」


「みんなのように……?」


「俺さ、ある時を境に心から笑えなくなったんだ。当然、面白いときとかは少しくらい口元は緩むけどさ。でもそれだけ。みんなのように笑い声を上げたり、我慢したり、それこそ今みたいに腹を抱えて笑ったのだって何年ぶりだってくらいだよ。俺も、みんなみたいに本気で笑えるんだってこと、もうとっくの昔に忘れてたよ」


俺は古いアルバムを眺めるかのように幼い頃の記憶を遡り、懐かしく思いながら天井を見上げる。


(きっと、そんな頃の自分も確かにいたはずなんだ。だけど、もう……思い出すことができない……。初めからなかったかのようにすっぽり抜け落ちている。蘇ってくるときの自分は全てムスッとしてて、生きることに飽き飽きしているって見て取れる。それほど俺はこの世界に価値を見い出せずにいたんだ)


「でも先輩の笑った顔、あたし誰の笑顔よりも大好きです!」


笑顔を作ることに対して苦難を強いなれているというのに、雪音にとってのその壁は些細な段差にしか過ぎず、いとも容易く太陽のように眩しく笑ってみせた。


(たく……。お前の笑顔はいつだって眩しいな。……純粋に笑えるそんなお前に嫉妬してしまうくらい)


「よぉしっ!脱線はここまで!ほらほら、テスト勉強を再開するぞぉー!」


「は〜い!」


俺の過去の出来事についてこれ以上探りを入れずに執着しないのは、恐らく不器用な雪音なりの気遣いなのだろう。



勉強会という名の歓談タイムが開始してから、早二時間ばかしが経過した頃、雪音は両腕を上に伸ばしながら後ろへと倒れ、意気消沈とした声音で不平を垂れる。


「……せんぱ〜い。そろそろ休憩挟みましょうよぉ〜」


「休憩って……時間の大半は無駄話だったろ。このままじゃ、来週のテストの点は見込めないぞ」


「あたしは別に赤点さえ回避できれば、それでいいんですよぉ〜。だから少しだけ、お話しましょ……?」


「なら別にいいが、それより時間は大丈夫なのか?」


「時間?先輩、今何時ですぅ?」寝っ転がったことで雪音の髪は崩れ、「はわぁ……」と眠たそうに大きなあくびをする。


「ちょうど十八時を回ったところど」


「まだ十八時ですかぁ……。それなら、あと五時間くらいはいれそうですねぇ……」


「五時間ってお前泊まる気かよ」


「泊まる?それもいいですねぇ……」


「ダメに決まってんだろ、ダメに」


眠たげな目を擦りながら、ゆったりとした口調で「せんぱいのぉ……けちぃ……」と横に寝返りを打つ。


「ここ……寝心地悪いですぅ……。せんぱぁい、ベッド借りますね……」


「いや……ベッドはーー」


「有無は聞きませーん」


ぼふんっと魂を吸い取られるように倒れ込み、平泳ぎをするかのように掌で敷布団を撫でる雪音。

そしてゴキブリのようにカサカサカサと枕元まで移動すると、「すぅぅぅ……」と枕を顔に押付けて思い切り息を吸い込む。


「これが……せんぱぁいの……匂い……。ラベンダーのような落ち着く香り〜」


「勝手に人の枕を嗅ぐな!返せっ!」


ほんわかと優しく目を細めながら、穏やかな笑みを浮かべている雪音の両手から枕を取り上げると「せんぱぁい、枕……!枕、返してくださぁい……」とおもちゃを取り上げられた子供のように手を上下にぶらぶらさせる。


「お前マジで変わってんな。男子の枕の匂いなんて、天地がひっくり返っても嗅ぎたくないだろ」


「そんなことありませんよぉ〜。せんぱぁいのなら、何時間でも嗅いでいられますぅ〜」


「はぁ……。雪音、お前なぁーー」


男子の目の前では絶対に見せてはならない無防備な姿と俺の枕の匂いを嗅ぎたいなどとほざく奇態な価値観に茫然自失した。

「いいから、そこから降りろよ」無理矢理にでもベッドから引きずり下ろそうと腕を引っ張っているとーーコンコンと扉がノックされ「翔奏くーん、少し開けるわね」と麗華さんの呼び声が聞こえ、ガチャと扉が開かれる。


「翔奏くん、玄関に靴がーー。ご、ごめんなさい、お取り込み中に……。失礼します」気まずそうに閉めようとする扉を俺は手でこじ開ける。


「ち、違います!麗華さん!」


「……誤魔化さなくても大丈夫よ。翔奏くんもそういうお年頃だものね……。私は何も見てないから……」


「れ……麗華さんっ!だ、だからこれはーー」


そのとき、ドタバタと隣室で暴れるような騒音が響き渡り、ドンッと外れるんじゃないかと思うほどに勢いよく恋乃葉の扉が開放される。


「に、にににににににに兄さん!?そういうお年頃ってどういうこと!?何も見てないってなんのこと!?兄さん、何かしたの!?されたの!?」


ドンドンドンと重々しい足音を立てながら俺の部屋まで出向いてきた恋乃葉は額からだりと汗を垂らしながら堪えがたい焦燥感に駆られた様子でフンスフンスと鼻息を荒くしていた。


「だ、だから!俺は何もしてないって!」


「それじゃあ、何かされたの!?されたんだね!?」


「なぜそうなる!何もしてないし、されてない!信じてくれぇー!」


「もぉ〜……なにぃ〜?うるさいなぁ〜」この期に及んで雪音は胸元で俺が取り上げたはずの枕を抱きながら、ほわほわとした雰囲気を漂わせていた。

ベッドの上でぼさぼさな髪。片手に俺の枕。寝返りを打った故の乱れた制服。


(お前ぇーーっ!!なんでまだベッドの上にいるんだよぉーーっ!!そのせいで要らぬ誤解を招くだろうがぁーーっ!!)


「べ……べ、べベットの上に雪音……。それにふ……ふく……服が……」


(それ見たことか!やっぱりこうなったじゃねぇか!)


「……ごめんなさい、翔奏くん。ほら恋乃葉、私たちはお邪魔だわ。ここは二人っきりに……」


「ちょっ!お母さん!こんなこと許していいの!?兄さんが……兄さんが雪音とーー」


「恋乃葉。翔奏くんも思春期真っ盛りの男の子なのよ。これは仕方がないことなの」


(なんなんだこれは……。どうやったら誤解が解けるんだ……。弁解をすればするほど疑われるし…………ってそうだ、雪音からもちゃんと説明してもらえば)


「なぁ雪音!俺たちは何もしてないよな!単にテスト勉強をして、少し疲れたからーー」


「……その疲れを癒すために……に、兄さんは雪音と……あんなことや……こんなこと……」


「だ か ら !違ぇって!とりあえず、最後まで俺の話を聞け!なぁ、雪音!俺たち何にもなかったよな!な!」


ぱちぱちと目配せで『お前も手伝え!』と伝達すると、雪音は『あ、なるほど!』と口を丸く開けながら手を打つと、ベッドから降りてこちらへ歩み寄ってくる。


「そうそう。あたしと先輩は二人が思っているような関係じゃなくて」


(そうだ!そうだ雪音!弁解をするんだ!)


「あたしと先輩はそれ い じょ う の か ん け い !」人差し指を左右に動かしながら、終いにはウインクで飾り付け。

これで更なる誤解への一歩は踏み込んだ。


(こ、こいつ……!全然分かってねぇー!)


「に、兄さん!?それ以上の関係ってどういうことよ!!」俺の肩を激しく揺らしてくる。


「それは俺も知りてぇわ!」


「恋乃葉……。もちろん、言葉通りだよ?」


「こ、こと……言葉通りって……いつから……?」


「それはねぇ……結構前かーー」


「おい雪音!更にややこしくするな!」


「うぃたいー!うぃたいよ、れんぱぁ〜い!」制裁を下すため、雪音の頬をつねると彼女はでれっと顔をニヤケさせていた。


(こ……こいつ……M気質あるだろ……)


「えへへー、ごめんね恋乃葉。冗談だよ、冗談!」つねられた部分を撫でながら、ヘラヘラと頭を下げる雪音。


「冗談ってことは……その……そういう関係じゃないって……ことだよね……?」


「そうだよぉ〜。何かされたどころか、何もされなすぎたよぉ。部屋で二人っきりでも手出さないし、ベッドに横たわっても襲ってこなしぃ」


「ま……まぁあ?兄さんは誠実だし?そんな簡単に誘惑されないし?意志は強いし、一途だし?そういうところがわたしも…………」


(なんで俺、恋乃葉から急に褒め称えられてるんだ?)


「でさでさ!さっきからずっと気になってたんだけど、恋乃葉の隣にいるこの人って二人のお母さんだったりするの?」


「あぁ、そうだけど」


「えぇ!?お母さん若〜い!お肌ピチピチツルツルじゃーん!」


「若いだなんて、そんなぁ!もぉ〜、雪音ちゃんったら口がお上手なんだからぁ!」


「いやいや、本当のことですよ!」


「またまたぁ〜!」


出会って数分にも拘わらず、もう既に打ち解けてしまっている。

まるで同級生と話しているように見えてしまうのは、雪音が言う通りやはり麗華さんは外見も内面も若いからだろう。


「こう見えても、三十歳後半なのよ」


「えぇー!全然見えませんよぉ!制服を着て学校に潜入しても絶対にバレないと思います!」


「もぉ〜、雪音ちゃんったらホントいい子ねぇ。そうだ!せっかくだし泊まって行ってちょうだいよ」


「え!?いいんですか!?」


「ちょ!麗華さん、それは何がなんでも!」


「そうよ、お母さん!雪音と兄さんは同級生であって、それ以上の関係じゃないのだから!」


「いいじゃないの。こんなにいい子なのよ?私も、もっと雪音ちゃんとお話したいわ」


勝手に話を進める二人は横二列で楽しくお喋りをしながら階段を下りていく。

その場に取り残された俺と恋乃葉は顔を見合せて、少しばかり気まずそうに視線を交える。

この沈黙をどう破るべきかと必死に思慮を巡らせていると、先に口を開いたのは恋乃葉の方だった。


「兄さん……本当に何もなかったのよね……」


「だからそう言ってるだろ。……まったく、疑い深いなぁ」


「し……仕方がないじゃない。あんな光景見ちゃったんだから」


「ただ、雪音が俺のベッドで横たわっていただけだろ?」


「それが問題だって言ってるの!さっきだってテストの勉強とか言ってたくせに、ほとんど笑ってばかりのお喋りだったじゃない!」より一層に甲高い声を張り上げで、さらりと爆弾発言をする。


「な……なんで知ってんだよ」


「ぎ……ギグ。わたし……余計なことまで……」


「まさか恋乃葉。ないとは思うが、壁に耳を当ててこっちの会話を盗み聞きしてた、なんてことはないだろうな……」


「ひゅー……ひゅひゅーひ……ひゅー……」


(なんて分かりやすい奴なんだ……)


出来もしない口笛を披露しながら、不自然に視線を逸らす。


(口笛で誤魔化すなどベタな策略を……。でもなんか……すげぇ可愛いなっ……。ってそんなこと言ってる場合じゃ)


「お前はどこかの情報部員かなんかなのか……」


「だ、だって……!雪音が兄さんに何もしないか心配だったから……つい……。……ごめんなさい」


「はぁ……。別にいいけどよ、前から言う、そこ兄さんが何もされないかって普通逆じゃねぇの?男の俺を心配するより女の雪音を心配しないとじゃん?」


「前にも言ったでしょ。女の子に手を出すほど兄さんにはそんな度胸ないって」


「だとしてもだなぁ……」


(男の俺が無防備な姿の女を目の前にして、理性を保てるなんて保証どこにもないだろうに……。それとももしかして……雪音って実は……空手黒帯とか、柔道の十段とか、いざとなればごぼう体型の俺なんか余裕に吹き飛ばほどの実力者なのでは……?)


「それと兄さん」俺の横を通り過ぎで、階段手前で足を止め、背中の後ろで手を組む恋乃葉は少し小悪魔のような不敵な笑みで。


「次はわたしにも勉強教えてよね」


「俺なんかよりもずっと頭のいい恋乃葉に教えられることなんて何一つないよ」


「そんなことないよ。わたしの知らないことで兄さんじゃないと意味がないことがきっとあるわ。それを今度わたしに教えてちょうだい」


(恋乃葉が知らなくて、でも俺じゃないと意味がないこと……。もしかして……ラノベか?いや、それとも前回のリベンジでテレビゲームとか?)


「まぁ、よく分からないが出来る限りのことはするよ」


「その約束破っちゃダメだからね!」


「約束は破らない主義だからな」


「確かに。兄さんが誠実な人だってことはわたしが一番理解してるもの!」


先程までの冴えない面持ちはどこか消え去り、無邪気に笑う恋乃葉はそのまま階段を下りていった。


(なんか今日は……一段と疲れたなぁ)



リビングのソファで麗華さんが仕事終わりに買ってきてくれたチョコシュークリームをかぶりついていると、背後の方から普段では聞き馴染みのない声が耳に入る。


「あら、雪音ちゃん料理お上手なのね。普段から料理とかしてるの?」


「親の手伝いほどですが」


「偉いわぁ。将来はきっといいお嫁さんになるわ!」


「ほ、ホントですか!な、なんか照れますなぁ、えへへ〜」


キッチンで麗華さんは雪音の共に夕食の調理をしていた。

リビングに漂う香りから推測するにメインはハンバーグだろう。

顔だけを後ろに倒しながら、今日知り合ったとは思えないほどの仲睦まじい姿を眺め、シュークリームをパクリと噛み付く。

そんなとき、自室から出てきた恋乃葉がリビングに足を踏み入れ、俺の視線の先でピタリと止まる。


「兄さん、ほっぺたにチョコクリームがついてるわよ」


「ん?どこだ?」


「ここよ、ここ」


「ん"ん"!取れたか?」


「だから、そこじゃないつまてば」痺れを切らした恋乃葉が自身の人差し指でそのチョコクリームをすくい取り、パクっと口に入れる。


「どんな食べ方をしたらほっぺたにつくのよ」


「知らないのか?シュークリームは食べづらいんだよ」


「シュークリームはね、上下逆さにして食べると、クリームが溢れてこないから食べやすいわよ。もっとも、今から実行したところで遅い話だけど」


「そうだな……。もっと早く言ってもらいたかったよ……」


「翔奏くん。シュークリーム食べ終わったら、お風呂湧いてるから入ってきてもいいわよ」麗華はキッチンでボウルに入れられたひき肉を捏ねながら、パチンパチンと両手で形を整えている。


「分かりました」半分ほど残っていたシュークリームを一口で頬張り、もぐもぐと口端についたクリームをローテーブルに置かれたティッシュで拭き取る。


「じゃあ、あたしも先輩と一緒に入るぅー!」ひき肉のついた右手を上に挙げながら、スタスタスタと俺の元まで駆け寄ってくる雪音。


「は、はぁ!?あんた何言ってるのよ!ダメに決まってるでしょ!?一緒なんて絶対にダメだわ!!」


「ダメかどうかは先輩が決めることですよぉ。ねぇ、どうです先輩っ!今ならもれなく、現役女子高生のボンキュッボンな姿見れちゃいますよぉ〜?」


「に、兄さん!分かってるわよね?ゆ、ゆゆ……雪音と一緒になんて……絶対にダメよ……!」


「せーんぱい!誘惑に負けても い い ん ですよ……?」


右側には焦慮と殺気を宿らせた瞳で『断りなさい!』と言わんばかりで見つめてくる恋乃葉。

左側には小悪魔のように細めた目つきと不敵な笑みで『せんぱぁい……』と誘惑してくる雪音。

当然、言うまでもなく俺はーー。


「そんじゃ入るか、一緒に」


「え……えぇっ!?ほ、ほほほほほほほんと……ホントに入るの!?入っちゃいますの!?」


「に、にににににににに兄さん!?な……何を言って……」


「ま、まぁあ……?先輩も男の子ですしぃ?そんなにはい……はいり……入りたいって言うなら……あたしは……そのぉ……い……いいん……って!やっぱり無理ですぅ!!」プシュ〜と頭から湯気を出しながら、顔を真っ赤にさせる雪音は俺からの思わぬ回答に力が抜けたのか、ゆらゆらとその場で膝をつく。


「なに真に受けてんだよ。こんなの冗談に決まってるだろ。いつも、からかってくるお前に仕返しだ」


「せ……せんぱぁい、酷いですよぉ〜。あたし純粋で綺麗な心の持ち主だから、本気なのかと思って、焦っちゃいましたよぉ〜」


「どこの誰が純粋で綺麗な心の持ち主だって?」


(本当に綺麗な心なら、男子のベッドで横になったり、今みたいに誘惑するような卑猥な発言はしないだろ。言動に矛盾が生まれてるんだよ)


「次からはお前、そういうこと男の前で軽々しく口にするなよ。本気で風呂場連れてかれるぞ」


「…………先輩以外には言いませんよ」


「何か言ったか?」


「別にぃー!」


不満そうに口を横に広げる雪音に背を向けて、リビングから出ようとしたとき、ふと悪知恵が働いた。


「恋乃葉」


「ん?なに、兄さん」


「恋乃葉も俺と入るか?」


「……っ!?かな……兄さんと……お風呂……」


「なんてな!」


恋乃葉に嫌われていると分かっていながら、さらりと気持ち悪い発言をした俺は不審者同等の存在だろう。

これも、普段俺に対して塩対応な恋乃葉への仕返しだ。

「冗談だよ」と心底愉快そうに笑う俺とは対照的に、意外にも恋乃葉は頬を赤らめながら満更でもない顔で微かに口角を緩めていた。


(まさかな……)


普段では見たことのないその笑みに、多少の疑心感を抱きながらも、『きっと俺の気のせいだろ』と勝手ながらに結論づけ、風呂場へと足を運んだ。

その後も俺に続き、雪音、麗華さんと入浴を終え、今は恋乃葉が入浴中。

麗華さんはキッチンで作り忘れた夕食のひと品を素早く調理し、風呂上がりさっぱりした俺と雪音はふかふかなソファーで髪の毛を拭きながらくつろいでいた。


「せんぱぁい、どうですかぁ?あたしのお風呂上がり」恋乃葉から借りた少し小さめの花柄パジャマをまとった雪音は白のバスタオルで濡れた黄金色の髪の毛を拭き取りながらそんなことを尋ねる。


「どうって、髪が濡れて風呂上がりって感じ」


「なんですか……その幼稚園児みたいな感想

……。あたしが訊いてるのはそういうのじゃなくて!」


「じゃあ逆に訊くが俺の風呂上がりを見てお前はどう思ったんだ?」


「どうってそりゃあ…………」


バスタオルを首にかけながら、微かに濡れた長い髪。いつもとは見慣れないパジャマ姿。風呂上がり特有の艶帯びた肌質と溢れる色気。

上から下へと身体を観察する雪音には、当然これほどの情報が得られるのが普通なのだが、頭の悪い、それでいて特に現代文を苦手とする雪音にとっては相手の心を読み取ることができなければ、洞察力も極端に欠落しているらしい、

だからそのため。数秒間、注視させる時間を与えたというのに、雪音の口から発せられた結論はーー。


「髪が濡れて風呂上がりって感じ!」と一言一句俺と同じ回答をする雪音。


「俺と同じ答えってことは雪音も幼稚園児だってことーー」


「ああー!何も聞こえませーん!」


「お前……することまで幼稚園児だな……」


「ああ!麗華さん!あたしにも牛乳くださーい!」


(こいつ逃げる気だな。そうはさせるか!今回という今回は少し懲らしめてやる!)


「あっちには行かせーー」


「…………っ!?」


リビングに逃げ出そうとする雪音の腕を掴み、自分の方へと引き寄せると、不運と呼ぶべきか幸運と呼ぶべきか、ソファーに押し倒してしまった。

……というか正確に言うならば、押し倒したというよりーー。


(これって、よくアニメとかで見るシーン……?)


「せ……せんぱい……はやく……はやくどいてもらわないと……あたし……あたし……もう……!」


「いや……どくもなにも、押し倒されてるの俺なんだが」


「へぇ?」


「こういうのって普通逆じゃねぇの?なんで俺がこっち側?」


「そ、そりゃあ先輩があたしを引っ張ったら角度や体勢的にこうなりますよ」


完全に水分を拭き取れていない潤った雪音の髪から一滴の雫がポツンと俺の頬に落ち、顔をつたって横へと流れる。


「これって……壁ドンならぬ床ドンってやつか?」


「そうかもですね。あたし、壁ドンだってしたことないのに、段階飛ばして床ドンしちゃいましたよ」


「難易度が高い方を先にこなすって、実はお前……上級者だな……」


「な、なんの上級者ですか!あたし恋愛だってしたことないし……初めて恋したのも……せ……せんぱいが……」


「あの……なんでもいいんだが、そろそろどいてもらえないか……?こっち側の体勢も楽じゃないんだわ。な……なんか変な状態に曲がってるというか……とにかく……痛い……」


「へぇ?で、でもまぁ、もう少し少女漫画みたいなシチュエーション体験してもいいじゃないですか!」


(それ……俺じゃないといけない必要ある?)


肩あたりに置かれた雪音の両手は微かに震えていて、普段は妙に積極的な雪音だが、こうも物理的に距離が縮まると流石に彼女も冷静ではいられないか。

というか、男の俺に怯えてるのかもな。

まぁ……立場逆だけど。


「お前がどかないなら、俺の方から起き上がるからな」


「……えっ!?ちょ……ちょっと待ってこの体勢で起き上がられたらーー」


なかなかその場から立ち去ろうとしない謎に硬い雪音の意志に背くように、ソファーに手をついて自ら身体を起こしていると。

ガチャーー。

雪音の背後の扉が開いた。


「な……何してるの……」


(な、なんでこのタイミングなんだよ!?)


「いや……これは違くてーー」


「……きす……しようとしてたの……?」


(き……きす……?)


見当違いの言葉に多少と困惑しながらも、俯瞰的に眺めた自分と雪音の姿を想像すると、瞬時に恋乃葉の言葉と合致した。

覆い被さり続ける雪音に反して、俺が起き上がったことで生じたこの二人の体勢。

傍から見れば、紛れもなくアレだ!

『このシーン、どのように見えますか?』そう質問を問いかけられた際、十人中十人が口を揃えて、こう答えるだろう。


『キスをする直前』


「ち、違うんだ!これはそういうことをしようとしてたんじゃなくてーー」


「じゃあ……何をしようとしてたのさ……。男女が顔を近づけて……それも、そんな体勢で……。キス以外の何をしようとしてたって言うのさ……!」


本日二回目のあらぬ誤解を招いてしまった。

そのどちらも雪音が主の原因なんだけれど。

でも、今回に限っては簡単に誤解を解けそうにない……。


(雪音からも説明してくれ、といっても余計なことを口走るに決まってるし……俺はどうすれば…………っあ!そうだ!この現場にいたのはなにも俺と雪音だけじゃない!もう一人期待できる存在がいた!)


「れ、麗華さん!俺たちは、キスなんてそんなことしようとしてませんでしたよね!」


トントントンと音を刻む包丁の動作を一度と停止させまな板の上に置くと「ん〜」と顎に手を当てながら考え込む麗華さん。


「その瞬間を見てなかったから何も言えないけど、でも……」


「でも……!」


「しようとしてたんじゃないっ?お二人共、年頃の男女だし、私の目を盗んでそういうことをするのもありえないというか」


(れ、麗華さーん!!これは……雪音以上の……難敵……)


「……とりあえず雪音、兄さんから離れなさい……」


「え……?でも恋乃葉、この前応援してーー」


「言ったけど、それとこれとは今関係ないでしょ!」


(雪音は今何を言おうとしたんだ?)


「そういうことをするなら……せめて……わたしのいないところで……してよ……」


「どうして……?」


「どうしてって……そんなの……わたしだって…………っなたくんのことがす……」


雪音と恋乃葉による言葉のぶつけ合いが始まり、恋乃葉からの一方的な怒気を帯びた口調で雪音に対して"何か"を紡ごうとしたときーー。


「はいはい、ここまでよ二人とも」両手をパチンと合わせて、荒々しく重い空気を断ち切る。

ハッと我に返った恋乃葉は頭に乗せていたバスタオルを引きずり下ろし、力強く握りしめたまま「……わたし、髪の毛乾かしてくる……」と再び洗面台へと姿をくらませた。


(……俺が雪音のことを好きなんじゃないかって、恋乃葉に勘違い……させちゃってるよな……。立て続けに誤解を生むようなことが実際に起きちゃってるんだし……。それでも……俺が好きなのは……恋乃葉……だけなんだけど……)


「悪いんだけど翔奏くん。ちょうど、夕飯作り終わったから恋乃葉を呼んできてもらえるかな」


「え……いや……でも、今俺が行ったら余計に機嫌を悪くさせるかも……。それよりかは麗華さんの方がーー」


「いいえ。こういうときは翔奏くんが適しているわ。あなた以外じゃダメだと思うのよ」


(俺……以外じゃ……)


「分かりました。恋乃葉……呼んできます」


「お願いね、翔奏くん」


何かを知っているかのように微笑む麗華さんは俺がリビングを出ていくのを確認すると再びキッチンへと戻って行った。


(さっき、髪の毛乾かしてくるって言ってたよな。ってことは洗面所か?)


リビングを出て、左の突き当たりに洗面所が位置する。

恐らく、恋乃葉はそこで髪の毛を乾かしている……はずなのだが、閉められた扉の前に着いてもドライヤーらしき音は一向に聞こえてこない。


(ここじゃないのか?)


そう思いながら、ガラガラガラと洗面所の引き戸を左へとスライドさせる。


「やっぱりいないかぁ。ってことは自分の部屋かな」


視界の先に映る光景は誰一人として姿はおらず、無人の空間が広がっていた。

洗面所にいるという予想は見事的外れという結果になり、次に有力な恋乃葉の自室へ向かおうと洗面所から立ち去ろうとしたときーー。


「…………かなたくん」


(……かなた?)


パジャマのズボンをぐぃぐぃと引っ張られ踏み出す足を止められた。

それと同時に俺が今探しているであろう人物の声が俺の名前を呼ぶ。

引っ張られた方向に目をやると、扉側の壁に背中をもたれ掛けながら、体育座りで顔を埋めていた。


「……わたしならここにいる」


「そんなところで座ってたら気づかねぇよ」


「でも兄さんはちゃんとわたしを見つけれてくれたじゃん」


「そりゃあ、ズボンを引っ張られたからな」


「……そこは嘘でも『愛の力だ』とか『兄弟の絆だ』とか言いなさいよ……」


「俺にそんなカッコイイこと言えねぇよ」


恋乃葉の横に並ぶかのように、俺もそっと隣に腰を下ろす。

恋乃葉はあぐらを組んでいる俺の太ももにポンッと身体をこちら側に倒して頭を乗せる。


「ど、どうした恋乃葉」


「なんでもぉー」


(これって膝枕っていうやつなのか?できれば俺がしてもらいところなのだが……)


「髪、濡れてるな。乾かすんじゃなかったのか?」恋乃葉の髪の毛の水分を吸い取って、俺のズボンが次第に濡れていく。


「……兄さんが乾かしてよ」


「俺なんかに髪の毛触られたくないだろ。そういうのはだなーー」


「いいの!兄さんならわたしの髪の毛触ってもいいの。…………兄さんになら……いいよ……」


(兄さんなら……そんな勘違いさせるような言い方すんなよ……)


「へいへい。分かりましたよ、お姫様」


「お姫様?それなら兄さんは王子様だね。いつか結ばれーー」


「俺なんかに王子様なんてさすがに不相応だろ。よくても執事、悪くて……近所のお兄さん……?」


「確かに……!」


「た、確かにって、少しは否定しろよ!」先程まで冴えない表情を貼り付けていた恋乃葉だったが、それが嘘だったかのようにニコニコと楽しそうに笑っていた。


「…………わたしにとって翔奏くんは王子様以上の存在だもの」


「ん?何か言ったか」


「ん〜?なんでもぉー。そんなことより早く髪の毛乾かしてくれる?わたし風邪ひいちゃうわ」


「それは俺も困る」


恋乃葉の頭をどけ、「よいしょ」立ち上がった俺は恋乃葉に手を差し伸べる。

その状況に数秒間困惑し手をじっと見ながら硬直している恋乃葉に向けて「お姫様。お手をどうぞ」とセリフを付け加える。

「……ふふっ!何それ!」と雪音は愉快そうに笑うと、「ありがとう。王子様」と俺には大層過ぎる呼び名を口にし、差し伸べられた手を取る。

鏡を正面に恋乃葉の背後に立ち、ドライヤーを片手に電源を入れる。


「痛かったら言えよ」


「優しくしてよね」


(ここだけを切り取ったら、変な妄想を膨らませるやつが続出しそうだな)


ドライヤーの吹出口から強風の温風が噴出され、恋乃葉の胡桃色のセミロングヘアを踊らせる。

誰かの髪を乾かすなど一度だってしたことのない俺からすれば、正しい方法とかを知っているはずもなく、見様見真似で何とか行う。


「……んふっ。ふっ……に、兄さんくすぐったいよぉ〜」


「く、くすぐったい?そ、それは……我慢してくれ。対処がわからん!」


「ふふっ……!んふっ……!がま……我慢できないよぉ〜」


「ふふっ!」と可愛らしい笑い声を上げる度に片方の肩が上がったり、身体をぶるぶると震わせる。


(なんかあれだな……猫とじゃれ合ってるみたいだ……。まぁ正直のところ、猫なんかよりも可愛いんだけど)


「よぉし、これでいいんじゃないか?」


「はぁ……やっと終わったぁ。笑い死ぬかと思ったよ」


「悪かったな。これを機に今度からは自分でやるか、俺以外の奴に頼めよ」


「ううん。自分でもやらないし、兄さん以外の人なんかには何がなんでも頼まないよ。兄さんだけ。兄さんをわたし専属のドライヤー係に任命します!」


鏡に映る俺に向けて人差し指で示す恋乃葉は眉間にシワをよせながら「命令を破ったら、お仕置が待ってるからねぇ〜」と不敵に笑う。


(お仕置ねぇ〜。恋乃葉にだったら何をされたって嫌じゃないし、むしろご褒美な気もするが)


「分かりましたよ、お姫様。私ながら、貴方様のドライヤー係に尽力して参ります」


左手を左胸に、右手を腰に当てながら、どこか誇らしげに口角を上げながら、腰を曲げる。


「ぷっ!兄さん似合わな〜い!」


「お、お前が言い出したんだろ!」


「ふふ……!そうだけどさ……!…………やっぱり翔奏くんには王子様の器には収まらないよ」


先程の会釈のポーズを思い出しているのか、恋乃葉はその度にくすくすと笑っていた。


「ま、まぁ……恋乃葉の期待に応えられるように頑張るよ。いつか役立つときが来るかもだしな」


「…………役立つとき。…………その相手はきっとわたしじゃないんだよね」


「ん?どうかしたか恋乃葉」


「う、ううん……!なんでもないて……!これで兄さんも多少は女子力上がるかもね〜!」


「うっせぇ……!」


距離感が縮まったような、そうじゃないような。

様々な誤解を与えてしまい、恋乃葉に失望されてしまったかもしれないが、それでも以前よりかは多少、本当に微微ではあるが恋乃葉が俺に対して抱く苦手意識は解消されたことだろう。

少なくとも、俺が髪の毛を乾かしてもいいほどには。

栄光の道までは長く果てしないけれど、それでも俺はいつかこの想いを恋乃葉に打ち明けたい。



夕飯を食べ終えた、わたしと雪音はリビングのダイニングテーブルに腰を下ろし、翔奏くんは普段通り定位置のソファーに、そしてお母さんはキッチンで洗い物をしていた。

気の利くよくできた子とお母さんが言うだけあって、「あたしも洗い物手伝いますよ、麗華さん」と自ら名乗り出していた雪音だったけれど、「雪音ちゃんはお客さんなんだから、ゆっくり休んでてちょうだい」とお母さんに優しく断られていた。


「せんぱぁい。先輩の部屋で楽しいことしませんか〜?」


「するわけないだろ。そんだけ暇なら、俺の部屋でいいからテスト勉強の続きでもいておけよ」


「先輩も一緒ならいいですけどぉ」


「今日は疲れたから俺はここにいる。何か分からない問題があったらもってきてくれれば。…………それにこれ以上恋乃葉に誤解されたくないし」


「先輩がいないなら、あたしもやらないですぅ」スライムのようにぐったりうつ伏せる雪音はテーブルに顔をつけながら、翔奏くんのことをじっと見つめていた。


(雪音……本当に翔奏くんのことが好きなんだな……。いつも積極的だし、一生懸命だし。それに比べてわたしは……何一つ行動に移してない。ううん……移そうとしていないんだ。ドライヤーを頼むですら相当の勇気が必要だったのに、告白なんてできるはずがーー)


「ねぇねぇ、先輩ー!」


「ん〜?」


顔だけを後ろに反らせながら、こちらを見てくる翔奏くん。

長い黒髪が重力に従ってゆらゆらと垂れ、額が現れる。

額の右上に微かだけれど目立つ、歪な形をした傷の跡。

ガイルヘア姿のときも左側の額を見せ、その傷跡を隠すかのようにセットされていた。


(……あの傷……きっとあの時つけられたものだよね……。それも……わたしのせいで……。まだ、謝ってないや……)


「恋乃葉、どうした〜?そんな辛気臭い顔してさぁ」


(わたし……本当にダメな人間だ……。告白も謝罪もできずに……わたしの恋が叶うわけーー)


「恋乃葉っー!」


「……っ!……な、なに?」


「本当に大丈夫か?もしかして具合悪いとか……!」


「う、ううん……!全然そんなことないよ。ちょっとぼーっとしちゃってただけ」


「そうか?ならいいんだけど。何かあったらすぐに言えよな、俺が何とかするからよ」


「う……うん……ありがと」


(やっぱり翔奏くんは優しい。わたしにはもったいないほどに……。好きなんて言ったら君はどんな顔をするかな……。『俺が何とかす』その言葉通り、君は……翔奏くんは……わたしと付き合ってくれちゃったり…………しないよね……)


「先輩!先輩!」


「なんだよ、さっきから!」


「あたし、ずーっと前から考えていたことがようやくまとまったんです」


「考えていたこと?」


「はい!それはですねぇ……」


「ふっふっふっ……!」と悪役のような不敵な笑い声を前置きに、雪音は人差し指を差し出して天井に向ける。

「ずばり!」その言葉と同時に突き上げられた人差し指は誰かを示すために振り下ろされた。


「あたしと先輩が同室ってのはどうですか?」


「急になんのことだよ……」


「もぉー、先輩ってば勘が鈍いですなぁ」


「……お前よりはマシだわ」


「つまりですね。あたしと先輩が一緒の部屋で寝るってことですよ!」


(一緒の部屋で寝る……。……っ!?一緒の部屋で寝る!?な、ななな何言ってんの雪音!!)


「お前の発言はいつもぶっ飛んでるよな。普通に考えて無理に決まってんだろ」


「えぇ〜!先輩のけちぃ〜!」


(よ、良かったぁ……。そうだよね、翔奏くんは誠実な人なんだし、最初から断ってくれるって分かってたけど……分かってたけど……!ちゃっと、ヒヤッとしたよぉ〜。で、でもそうだ!このノリなら……わたしも……もしかしたら……!)


「じゃ、じゃあ……兄さんとわたしが一緒の部屋で寝るっていうの……ど、どう……どうかなぁ?」


「……ぷっ!あは……はは……!」


「な、なによ、兄さん」


「いや……お前もそういう冗談言うんだなって。普段なら『気持ち悪い……。嫌に決まってるでしょ』って突き飛ばすからよ」


「そ、そんなこと言わないわよっ!」


(仮に言ってたとしても、その言葉の裏には想像を絶する愛情が隠れているの!……でも、わたしは意気地無しだから……いつも本音を口にできない……)


「雪音は恋乃葉の部屋でいいんじゃね?親友なんだろ?」


「そうだよぉ〜!あたしと恋乃葉は強い絆で結ばれてるんだもーん!ねっ、恋乃葉!」正面に座っている雪音はテーブルから身体を乗り出して、わたしを抱き寄せる。


「そ、そうだね」


(だからこそ、わたしが翔奏くんに対して抱いている『好き』という感情を打ち明けられないんだ。それが原因で大切な親友を失いたくないから。……きっと言ってしまったら今の関係にはもう戻れないから……)


その後も雪音はしつこく「せんぱぁい、一緒に寝ましょうよぉ〜」と願望を必死にアピールしていたが、一度も翔奏くんが了承をすることはなく、結局雪音はわたしと一緒にわたしの部屋で寝ることとなった。


「ねぇ、恋乃葉〜。先輩ってさ世界一鈍感じゃない?」雪音はわたしのベッドに座りながら、クマのぬいぐるみを抱きしめていた。


「それはわたしも思う」


(雪音まで積極的とはいかないけど、それでもわたしだって自分なりに行動に示しているというのに翔奏くんったら全く気づいてくれないんだから!それどころか、わたしは翔奏くんのことが嫌いだって思われてるみたいだし……。かといって『好きだよ』おも言えなければ『嫌いじゃないよ』って言っても信じてもらえるどころか逆に怪しまれそうだし〜)


「それでなんだけどさ。あたし、どうすれば先輩に振り向いてもらえるかなぁ?なんか、異性とすら見られてない気がするんだよ」


「雪音がさっき言ったように兄さんはすごく鈍感だから、関わり方を積極的にするってよりかは、言葉で伝えないと一生気づいてもらえないと思うよ」


「伝えるって、この気持ちを?」


「うん」


「無理無理無理無理!」右手を高速に振って否定をする雪音は、身体を前のめりにしながら顔を突き出す。

その結果、お腹あたりに座っているクマのぬいぐるみはお辞儀をしているように首が倒れる。


「……よく言うよ。今日だってあんな際どいことしてたくせに……!」


「まぁ、あのときはふざけてたけどさ、ぶっちゃけ、あたしだってそこそこ緊張してたんだからね」


「嘘だぁ〜」


「ホントだよ!先輩の部屋のときはまだしも、リビングでの出来事は不意に先輩の方からしてきたから、あれは本当に心臓飛び出るかと思ったよ!」


「ま、待って!?兄さんの方からあんなことしたの!?」


体勢的にてっきり雪音から押し倒したのかと思っていたため、衝撃の事実に驚倒してしまう。

そのせいで、キャスター椅子から滑り落ち、尻もちをついてしまった。


「まぁ〜、意図的ではないと思うけど。腕を引っ張ったらああなっただけ。逆に意図的だったら、普通押し倒されるのはあたしの方でしょ」


「そ……それは確かに……」


(偶然だったとしても、心のモヤモヤが消えない……)


「でも、あれが意図的だったらあたしも少しは期待できたんだけどなぁ〜」


「それはダメっ!」


『意図的だったら』そんな現実を想像したくなくて、否定したくて、わたしは思わず声を張り上げてしまった。

当然、雪音の表情は硬直し、苦笑いを浮かべると、すぐにすました顔へと切り替えた。


「ねぇ恋乃葉ってさ、もしかして……」


「なに…………」


その先の言葉が雪音の口から紡がれるまで、数秒間の静寂が流れ、『もしかして、わたしが翔奏くんのことが好きだってバレた……?』そんな心配が渦を巻いては、ドクドクと鼓動の音がうるさい。

固唾を飲んで雪音の言葉を待っているとーー。


「『……お兄ちゃん取られたくない〜』とか思ってる?」


「……へぇ?」


想像していた言葉とは違い、気の抜けた変な声が口から漏れる。


(バレて……な……い……?)


「ん〜、なんて言えばいいんだろ。自分だけに懐いていた犬が他の人に懐いちゃってちょっと残念、みたいな?」


「……?」


「上手く説明できないんだけど、恋愛感情とは違う……そう……!家族としての愛!よく言うでしょ、『友達としては好き』って。その、家族バージョンだよ!」


(まぁ、そうだよね……。義理であっても、妹が兄に恋愛感情を抱くなんてこと……普通はありえない……。だから、仮に雪音に勘づかれるようなことがあったとしても、せいぜい"家族として"兄を心配している。"家族として"兄が好き。必ず、最初には"家族して"がセットなんだ)


「それでここからが本題なんだけどさ……」


先程とは打って変わって、雪音の表情、目の色、声音に一段と真剣さが増し、雪音は膝の上に座らせているぬいぐるみをギュッと抱きしめる。

そして、数秒間の沈黙を挟むと雪音は意を決して口を開く。


「……あたし、明日先輩に告白しようと思うの」


(えっ…………)


『告白しようと思うの』その言葉を耳にした途端、背中に冷たい汗が流れ、胸裏がざわつく。


「こ……告白……?」


「うん。本当はもっと先にしようかと思ってたんだけど、これ以上積極的になっても意識してもらえないなら話は別」


「で……でも、さすがに明日は急すぎない……?せめて……来週、いや……来月とかでもーー」


「あたしも最初はそう思ってた。実はこう見えても、あたしってさ引っ込み思案なんだよ……!どの口がって思うかもだけどさ……」


「でも……」と一秒の間も開けずに雪音は言葉を重ねた。


「こんなときにそんなこと言ってられない。……先輩はカッコイイし、誰よりも優しいし。きっと、すごくモテると思うの。だからこそ、誰かに取られちゃう前に行動しないといけない。結果に怯えて、気持ちを伝えるのが怖くて、そんな性格を理由に逃げて、告白する前に失恋するなんてこと……絶対に嫌……」


(雪音はわたしとは違う。……違いすぎる。『どうせ振られる』そんな憶測にしか過ぎない結果を理由に最初から諦めて……『どうせ無理だ』って何も行動に移さないで……。そのくせ、雪音が一歩前に進もうとしたら、必死に止めようとして……。わたしはどこまで下劣なんだ……。いじめられっ子に手を差し伸べて、助けてしまう、何に対しても臆することないヒーローのような存在が雪音なら、わたしは……所詮見て見ぬふりをして、自分を一番に考えて、自分が傷つかない選択をする悪者側の人間だ。……結局わたしも、あの……父親の同じのーー)


「って!なんで恋乃葉がそんな顔するのさ!明日告白するのはあたしだよ?恋乃葉の方が緊張してどうすんのさ!」


「……これは……その……」


(……わたしも翔奏くんが好きなんだって言わなくちゃ……。早く…………。言ったところでどうなる……。雪音が止まるわけでもないし……結果が変わるわけでもない……。それなら……わたしが雪音に対してかけられる言葉はーー)


「……頑張ってね、雪音。……わたし応援してるから!」


無理矢理笑顔を貼り付けながら、心中とは真逆に愛想良く振る舞う。


「うん、ありがと!」


少し戸惑ったように柔らかく微笑む雪音は「あたしトイレ行ってくるね」と言い残し、この部屋を出ていった。


雪音の意思が変わらない限り、良くも悪くも明日中には結果が確定してしまう。

明日の雪音の告白は恐らく、成功してしまう。

『してしまう』その言い方も嫌味が感じられるのかもしれない。

去年の合コンの際に藍堂岳が言っていた『アイツさ好きな奴がいるんだよ』恐らくその相手は雪音なんだって今になってそう思う。

『ずっと前から想いを寄せてる』藍堂岳はそう言っていたため、勝手に初対面の雪音ではないんだろうな、と決めつけていたが、今思うとその考えも愚かだった。

翔奏くんが一方的に好意を寄せていた可能性だだて充分に有り得る。

現にわたしだって、中学生の頃そうだったわけだし……。

それ以上にわたしは以前『翔奏くんの好きな相手が雪音ならば……』なんて一縷の望みを抱いていたが、やっぱりそれも嫌だ……。好きな相手が雪音とかそれ以外の人とか、そんなこと関係ない……!……翔奏くんの好きな人はわたしじゃなきゃ……嫌だよ……。

わたしだけを見てほしい。

わたしだけを傍に置いてほしい。

わたしだけを……わたしだけを……。

心の中では際限なく溢れ出てしまうほどの愛情が確かに存在するのに……なのにわたしは……何ひとつとして口にすることも、行動で示すことださえも、できていないんだ……いや、はなからしようとしていないんだ……。



普段の雪音の就寝時間はわたしよりも二時間ばかし遅いとのことで、一時間半ほどは眠気に耐えて、談笑に興じたり、テスト勉強を教えたりと耐え忍んでいたのだが、当然普段ならばもうとっくに寝ている時間のため、うとうととしてしまうほどに瞼が重くなっていた。

それに気がついた雪音は「もう眠いのぉ〜?」と冗談めかして不平を垂れていたが、その後にすぐ「恋乃葉の身体は壊したくないし、もう寝よっか」と優しく微笑んで、わたしの意思を尊重してくれた。

そうして深夜の二時を回っていた頃、わたしはトイレで一度目を覚まし、虚ろな瞳で半醒半睡、自室を出た。

壁伝いに階段を下り、トイレを済ませると行き同様に壁伝いで階段を上がり、自室のベッドへと潜り込む。

そうして迎えた翌日の朝。スマートフォンに設定していたアラームよりも早くに目覚めてしまったわたしは、手を組みながら伸びをする。

そんなときーーまだ隣で眠っている雪音がわたしの上体に手を回し抱き寄せてくるーー。


「…………っ!?」


反射的に隣を見ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。


(どっ……どどどどどどどどどどどうして、隣で眠っているのがーー翔奏くんなのーーーー!?)


思いもよらない言葉を失う現実が当然信じ難くて、幾度となく目を擦り、頬をつねったが、翔奏くんの姿が隣から消えることはなかった。

それどこら、夢なのかどうなのかを確かめるべく、様々な所作を試してしまったため、より一層に現実味を増してしまった。

その結果、スーパーボールを跳ねさせたときのように徐々にわたしの鼓動はスピードを加速していき、ドンドンドンドンドンと大太鼓を彷彿とさせるような心音が鳴り響く。


(ま、まってまってまってまって……!?なんで翔奏くんが雪音と入れ替わってるの……!?どういくこ……と……。…………っ!?)


あわわわと心底慌てながら、キョロキョロと周囲を見回していると、とある決定的な事実を発見した。


(…………待って!?ここ…………翔奏くんの部屋じゃーーーーん!!!!)


雪音と翔奏くんの居場所がテレポートしたわけでも、よからぬ事を企んで翔奏くんがわたしの部屋に忍んだわけでもなく、その全ての逆。

わたしが翔奏くんの部屋にいるんだ。


(で、でもどうして……!?わたし、ちゃんと昨日、自分の部屋で…………)


そう昨晩の記憶を遡っていると、あることに気がついた。


(……まさか、わたし……。夜中トイレから戻ってくるとき、間違って翔奏くんの部屋に入っちゃてた!?……確かにあのときは半分寝てたし、手間と奥の部屋との距離を間違えることも…………ってそんなことはこの際どうでも良くて!!……ど、どどどうしよう……早くここから抜け出さないと……翔奏くんに起きられたら……)


わたしの上体を抱きしめる翔奏くんの腕を解き、ベッドから降りようと床に足をつけ、お尻を浮かすと。

ギィィ……。

こんな時に限ってベッドが警報を鳴らすかのように軋む。静寂のため余計に室内へ響いてしまう

普段ならば、それほど気にも留めない軋み音だが、この状況下では些細な物音でさえも命取り。


「……ん〜」


背後をチラリと一瞥すると、唸り声を上げながら寝返りを打ち、その結果不運と捉えるべきなのかラッキーと喜ぶべきなのか、わたしの背中に翔奏くんの身体が密着する。


(起きて……ない……?)


「……すぅ……すぅ……」


寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。

起こしてしまわなくて『良かったぁ……』と安堵する反面、わたしの心の内にはもうひとつの感情、そして悪知恵が芽生えていた。


(……このまま、わたしがもう一回ベッドで寝そべれば…………)


思い立ったが吉日、躊躇いなど一切見せずに、

『わたしのため』とでも言うかのように作られた翔奏くんの腕の中へとすっぽり入り込む。


(……翔奏くんの体温が感じる。……とても温かくて……このまま眠っちゃいーー)


うとうとと気持ちよく夢の中へと誘われていきそうになったとき、身体に密着する翔奏くんの両腕が強くわたしを抱き寄せる。

それ故に、一瞬にしてわたしの眠気はどこかへと飛んでいった。

冷水で顔を洗うよりも、眠気覚ましのツボを刺激するよりも、痛みを伴うよりも、それ以上に翔奏くんによる抱擁は眠気覚ましには効果抜群だった。


(ま、まぁあ?最初からこういう目的で翔奏くんの腕の中に入ったわけだし?願いが叶ってすごく嬉しいんだけど……!でも!こんなに上手くいくとは思ってないじゃん!!まってまってまって……!さっきとか比べ物にならないくらいに……翔奏くんとの距離が……!鼻息が首に当たって……くすぐったい……!)


笑い声を出さないようにと身体全身に力を注ぎ、必死に堪える。

わたしの身体はぷるぷると微かに震え、それをつたって翔奏くんの身体も小刻みに震える。

翔奏くんが寝ているときでしか、絶対に起こりえないこの距離感。

今までで一度だってなかった、抱擁という行為。

それらの非現実すぎるけれど、確かに現実な事実にわたしは心を躍らせながら、抱擁してくれる翔奏くんの腕を優しく握っていると。

コンコンーー。

扉のノック音が室内に響き渡る。


「……せんぱぁ〜い」


(ゆ、雪音!?どうして、雪音が!?)


「せんぱぁい、開けますよぉ〜。あたしはちゃんと訊きましたからねぇ〜。変なことしてても知りませんよぉ〜」


(ちょっ……!待って……!今は……!)


けれど当然、わたしの切望などが雪音の脳に届くことはなく、視線の下に見える扉の取っ手が傾く。


「あっれ〜?せんぱぁい、まだ寝てんじゃ〜ん」


クローゼットに隠れる時間などなく、わたしは咄嗟に掛け布団の中へ潜り込む。

当然言うまでもなく、布団をめくられたり、触られたりしたら一巻の終わり。

わたしが今できることは、最大限に息を潜めて、なるべく身体を平行に盛り上がりをなくすこと。


「……シッシッシ。もしかしてこれって……寝込みを襲うチャンス?」


(ゆ、雪音ー!!こんな時に限って……そ、そんなハレンチなことを!!……って、わたしが言える口じゃないか……)


「せんぱぁい。こんな無防備な姿をあたしに見せたのが運の尽きだったねぇ〜」


(雪音……何を……!)


「……ん?……なんだぁ、雪音」


(……っ!?)


雪音の独り言に目を覚ましてしまった翔奏くんが目を擦りながら身体を起こす。


(……今、身体当たったけど……翔奏くんにも……バレて……ないよね……?)


「もぉ〜、先輩今起きるなんてタイミングが悪いですよぉ〜!一分だけてもいいから、あたしに時間くださいよお〜」


「嫌だね。お前のことだ、何をされるか分かったもんじゃない」


「まぁ、先輩の寝起き姿見れたから、今回は許しますけどぉ〜」


「なんで俺が許されなくちゃいけないんだよ。……はわぁ…………」


(なんか……楽しそうに話してるなぁ〜……!わたしのときはそんな風に話してくれないくせにぃ〜!!……翔奏くんの……バカ!……でも……大好き……!)


「……それで、なんでお前は俺の部屋に来たんだ?何か用でもあったんじゃないのか?」


「そうだった!そうだった!先輩、恋乃葉知らない?起きたとき隣にいなくてさ」


(……ギグッ。本来はここまで翔奏くんの部屋に滞在するつもりじゃなかったから、そこまでは気が回ってなかったぁ!!)


「恋乃葉?俺は今起きたし、知らないなぁ。トイレとかじゃないのか?」


「トイレもリビングも見たけどいなかったよ。麗華さんに訊いてもリビングには来てないって言ってたし」


「そうか。心配だな。俺も一緒に探すよ」


(さ、探すの!?それはそれですごく嬉しいけど!ても、それは今じゃない!もし……掛け布団をどけられたら…………)


「じゃあ先輩!行きましょ!」


「先に探しておいてもらえるか?俺は少しやっておきたいことがあってな」


「やっておきたいこと……?ま、まさか……!せ……せんぱぁい、エッチ!」


両腕で胸元を多いながら、一方後ずさる雪音。


「なっ、なにを想像してんだよっ!服に着替えたいんだ!」


「なんだぁ〜。それならそうと言ってくださいよ〜。先輩が意味深な言い回しするから〜!」


「お前が勝手に妄想を膨らましたんだろ!」


「まぁまぁ。そんなカッカしないで。あたしは先に探してますから、先輩も早く来てくださいよ」


「へいへい」


何とか勘づかれることなく、雪音はこの部屋から出て行ってくれた。

『ふぅ……』と心の中で安堵しているとーーバサッと掛け布団を剥がされた。


「……?…………っ!?」


「……訊きたいことはたくさんあるが、一番気になるのは、なんでお前は俺のベッドで寝てるんだってことだ」


いつもとは異なる印象を与える、寝起き特有の低い声。

実験失敗した博士を彷彿とさせる、ボサホザな寝癖。

寝返りを打った際に生じた、パジャマの乱れがおへその姿を露わにしている。

頭をかきながら、心底不思議そうに眉をひそめている翔奏くんは、呆然を含む眼差しをこちらへと向ける。

じーっと、見つめ合う数秒間の沈黙が流れた末、わたしがこの数秒間で導き出された秘策は再び目を瞑って狸寝入りをすること。


「……いや、今から目を瞑っても遅せぇだろ」


前髪の隙間から覗く額を翔奏くんは軽くチョップする。


「……ば、バレた?」


「とっくにバレてるよ」


横になっていた身体をゆっくりと起こしながら、あぐらを組んでいる翔奏くんの隣でペタン座りをする。


「い……いつから……?」


気恥しそうに頬を赤らめながら、掛け布団で顔半分を隠す。


「雪音が俺の部屋に来たあたりから」


「ほ、ホントにそこから……?その前は……」


「知らない。だから恋乃葉が俺への日頃の鬱憤を晴らすために、ひたすら殴っていたとしても、罵倒をぶつけまくってたとしても、俺はそれを知らない」


「そんなことしないよっ!!わたしをなんだと思ってんのさっ!」


(でも……よかったぁぁぁ…………!もし、わたしかこの部屋に来たときから、なんて言われたら、きっとわたしは恥ずかしすぎて爆発しちゃう。ってことは、わたしか翔奏くんのほっぺをぷにぷにしたり、自分から翔奏くんの腕に入ったこともバレてないってことだよねぇ〜)


「ってことは、わたしのことを思ってこの部屋から雪音を追い出したの?」


「あぁ、そうだよ。あそこで掛け布団どけて『恋乃葉ならここにいるよ!』なんて言ってみろ。雪音に何を言われるか分からない」


(べ、別にちょっとした誤解なら招いてもいいのにぃー!わたしなんか何度もヒヤヒヤしてさ、昨日だって……きす……しようとしてたのかなぁ、なんて思ってすごくすごく焦ったんだから!)


「そんなことよりも早く雪音のところに行かなきゃだな。今もアイツ、お前のこと探してるだろーー」


「……もうちょっと……このまま」


わたしは翔奏くんのパジャマの袖をグイッとこちらに引き付けながら、ベッドから降りようとする動きを止める。


(わ、わわわわわわわわわわわたし、何言っちゃってんのぉーーー!?もうちょっとこのまま!?ベッドといい今のといい、わたし変だよ!!)


気が付いた頃にはもう既に、心の内で願っていた欲望を言葉にしていて、それどころか『離れないで』と言わんばかりに裾をギュッ掴んでいた。


(これはもう……言い逃れできない……!)


「恋乃葉…………。お前もしかして…………」


(さすがにこれは…………)


「……そうだよ。……翔奏くん、わたしは君のことがーー」


「俺の脚……骨折させただろ……」


「…………。ほぇ?」


気の抜けた声が漏れながら、小首を傾げていると、隣であぐらを組んでいる翔奏くんは震えた手で脚を指差していた。


「『もうちょっとこのまま』を訳すと『脚の骨が折れてるから、動いちゃダメ』ってことなんだろ?」


「……に、兄さん……」


「寝てる間に何かされたとは思っていたけと……まさか、骨を折られているとは……」


「兄さんっ!」


潤った瞳に微かに宿る恐怖心。

ガクガクと肩を震わせながら、そんな眼差しをこちらに向ける翔奏くんは「……なんだ」と怯えた声で尋ねてくる。


「わたしのことを兄さんがどう思ってるのか、よぉ〜く分かったよ」


「……すぅぅ……」と勢いよく息を吸い込むわたしは、ドクドクドクとうるさく耳障りなほどに鳴り響く鼓動に抗うかのように、自分のパジャマの胸元をギュッと掴み意を決して言葉を紡ぐーー。


「わたしはっ……!わたしは…………兄さんのこと嫌いじゃないからっ!!」


翔奏くんの顔色を確認する前に、わたしは口にするのと同時に顔を俯けた。

次第にパジャマを掴む力が強くなり、手汗がジュワジュワと溢れてくる。

『好きだよ』その言葉は今のわたしでは到底言えそうにないけれど、それでも『嫌いじゃない』果てしなく遠回りではあるけれど、その言葉なら伝えられる。

身体の隅から隅まで持ち合わせている勇気をかき集めてでさえも、わたしの想いは伝えられないでいる。

……一体わたしはいつになったら、心の内に潜めるこの溢れ出そうな気持ちを翔奏くんに届けることができるのだろう。


(……あれ?聞こえなかった?)


翔奏くんからの応答はなく、もしかしたら自分が思っている以上に声量が小さかったのかもしれない。

わたしは翔奏くんの顔色を確認すべく、緩慢に顔を上げると、先程よりも一層に顔を青ざめた翔奏くんが後ずさっていた。


「……嫌いじゃない。つまり

……大嫌いってこと!?何となく嫌われてるのかなぁっとは思ってたけど……大嫌いとまでは……さすがに……」


(……かな……翔奏くん…………)


掴んでいたパジャマを離し、徐々に開かれた右手が頭上へと挙げられていく。

そうして、わたしの右手は血色の悪い翔奏くんの頬を目掛けてすぐさま振り下ろされた。

パシンッーー。

平手打ちの音が部屋中に響き、翔奏くんの頬が次第に赤くなっていく。


「…………?」


突然の平手打ちに翔奏くんは右手で頬を押えながら、困惑した瞳で視線を落とす。


「……恋乃葉?」


わたしの名前を呼ぶ翔奏くんの声でハッと我に返る。


「ご、ごめん……。でも……今のは兄さんが悪いんだからね……!」


自分で平手打ちをしたにも拘わらず、流れる気まずい空気に堪え兼ねたわたしはスタスタと翔奏くんの部屋を後にする。

扉に背中を合わせると、ズズズとしたに下がっていき、尻もちをつく。


(た……たたたたたたたたたた叩いちゃったぁ!!!翔奏くんの顔パシンって!すごく困ってたし、わたし何しちゃってんの!?遠回しに言ったのわたしなのに、それで気がついてもらえなかったからって叩くなんて!ホントありえない、わたし!で、でも、翔奏くんも翔奏くんだよ!わたしの気持ちに気づかなかったのは百歩譲って良しとしても、『嫌い』じゃなくて『大嫌い』とか、脚の骨を折るような乱暴者とか!わたしのことそんな風に思ってたの!?)


込み上げてくる整理のつかない様々な感情にとりあえず「はぁ……」とため息を漏らしていると、左側の階段から雪音の姿が現れる。


「ああっ!やっと見つけた!」


「……雪音」


「もぉー、どこに行ってたのさ!あたし心配したんだよ?起きたらとなりから消えてるんだもん!」


「ごめん」


(絶対に言えない。雪音がわたしのことを探してくれている間も翔奏くんのベッドの中にいただなんて。口が裂けても言えないよ)


「それに結局先輩も来なかったしさ。もぉ〜、あとで先輩にはお仕置しないと!」


「……なるべく、お手柔らかに頼むね」


(少なくとも、わたしが原因なんだし)


「って、そんなことより雪音はさっきからずっとなにもぐもぐしてんの?」


「ん〜?朝ごはんの味見ー!麗華さんの料理って本当に美味しいよね」


「なんか、一応調理師免許持ってるからね」


「え!?そうなの!?」口に入っていた食べ物をごくんと喉に通す。


「うん。一時期、家庭科の教員になりたかったらしい」


(……その夢も全て前のお父さんのせいで叶わなかったけど)


「へぇ〜、そうなんだ。でも、あれだね。麗華さんほどの美人な教師がいたら、みんな授業に集中できないよ」


「確かに。それは言えてる」


ケラケラと口元を押えて笑い合っていると、背後の扉がガチャと開かれる。


「お!先輩、遅いじゃ……ってそのほっぺたどうしたんですか!?」


「あ、あぁこれか。さっきタンスにぶつけてな」


「タンスに!?タンスにほっぺたぶつけるとかどれだけドジっ子なんですか……!」翔奏くんの赤くなっている頬を指差しながら愉快そうに笑う雪音。


(……タンスにぶつけた。翔奏くん、わたしに気を遣って、ビンタされたって言わないでくれてる。わたしが大半悪いのに……翔奏くんったらどこまで優しいのよ……)


チラリとこちらを見てくる翔奏くんと視線が交わり、わたしは咄嗟に横に逸らしてしまう。

「あっ……」と翔奏くんは何やら言いたげにわたしに向けて手を伸ばしたが、すぐさま下へと降ろされた。


「みんなー!朝ごはん出来たから降りて来なさーい!」リビングの方から麗華さんの呼ぶ声が聞こえる。


「だってさ。冷める前に行こうぜ」


「今日の朝ごはんは一体なんだろ〜!」


「お前、どうせつまみ食いしただろ」


「な、なんで知ってんのさ!って、つまみ食いじゃなくて、あ じ み ね!そこ結構重要!」


楽しそうに言葉を交えながら、階段へ向かっていく翔奏くんと雪音。

傍から見れば、わたしなんかよりもの余程お似合いに映る二人の姿に『嫉妬』というよりかは『これは敵わないや』と諦めの心の方が強い。


(……きっと、二人にとってわたしはただの邪魔者にしか過ぎーー)


「……その……恋乃葉、お前も早く来いよ」


首の後ろを右手で触れながら、先程の一件もあり、どこか申し訳なさそうに言葉を投げかける。

先程、視線を逸らしてしまったこともあってか、翔奏くんはわたしの目を見てはくれなかった。


(……なんだ。距離を縮めたいとか、この気持ちを伝えたいとか、そんなこと言っている割に、わたしから翔奏くんと距離を取ってるんじゃん。いつだって翔奏くんは優しくわたしに話し掛けてくれていたのに、それに背くように接していたのはどこの誰でもないわたしなんだ。……そんなわたしがら報われたいなんて自分でも虫唾が走る)


「恋乃葉!どうしたのぉ〜?何か悩み事?」


怪訝な面持ちで俯き気味のわたしの顔を下から覗いてくる雪音。

「悩みがあるなら、必ずわたしに言うんだよ?」優しく語り掛けてくれる雪音の声はどんなときも心を落ち着かせてくれる。


「ううん……!なんでもないよぉ〜!」


「ほんと……?」


「うん、ホントだよ!そんなことより、朝ごはん冷めちゃうよ。早く行こ!」


恐らく、これ以上雪音に顔を見られては心情を悟られてしまう。

雪音は昨晩言っていた。

『明日先輩に告白しようと思うの』。

今、わたしの本心を感情を雪音に知られては、迷惑になるどころか、雪音は優しいからもしかしたらわたしに気を遣って今日告白するのを取り消してしまうかもしれない。

それだけは絶対に阻止をしなければならない。

それが、臆病で卑怯なわたしにできる唯一の後押しなんだから。


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