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第四章 偶然の鉢合わせ


第三章 偶然の鉢合わせ


普段よりも数十分も早い時刻に目覚ましを設定したため、いつも以上に愉快に鳴り響く目覚まし音が不快に聞こえる。


「……なんだよ、うるせぇな」


手探りでスマートフォンを見つけ出し、顔を枕にうつ伏せた状態で『停止』ボタンに指を伸ばしたと思った……のだが、数秒後にまたしても不快な音が心地よい睡眠を妨げる。


「チッ、……なんだよスヌーズかよ」


寝起きは特に機嫌が悪い俺は口調までも荒くなる。

「あ"あ"あ"あ"眠い!!」と枕で両耳を塞ぎながら雄叫びを上げていると、ヘッドボードに置かれたスマートフォンがぶる、ぶる、ぶる、と小刻みに振動する。


(なんだよ……)


重く垂れた眠たい瞼を最低限に上げながら、スマートフォンの液晶を確認すると、何となく予想はしていたが案の定、岳からのメッセージが絶え間なく届いていた。

もちろん現在進行形で。

鈍い指先を動かしながら、極力短文でメッセージを送信する。


「なに」


【早く俺ん家来いよ】


「まだじかんある」


【一応さ余裕持たせたいだろ】


「よゆういらん。ぎりぎりがいい」


【さっきからロボットみたいなカタコトメッセージはなんだよ】


「しらん、さっしろ」


岳からのメッセージが途絶えた数秒間、俺はぼふんと再び枕に顔を埋めながら、今にでも落ちそうな力で握られたスマートフォンがぶると振動する。


(メッセージ打つのはぇよ)


【どうせ今起きたとかだろ?】


「あ」


【なんだよ、あ、って】


「あたりだよ」


【三文字くらいちゃんと打てよ。了解をりで略すみたいなのやめろ。俺そういうのには疎いんだから】


「ちょうぶんよむのだるい、みじかめたのむ」


【お前はいいから今すぐ支度して、俺ん家来い!】


「ん"ん"ん"!!」


鈍い唸り声を発しながら、数回ベッドをボンボン叩き、二度寝をしたいという欲求を必死に押し殺し、重たい身体を起き上がらせる。

ぐぅっと両手を広げて伸びをしながら、足枷がつけられたような重々しい足取りで身支度を済ませる。

朝食、歯磨き、寝癖直し、着替え、を全て済まし終えた俺は通学鞄を片手に玄関へ向かう。

上がり框で腰を下ろしながら、靴紐を結んでいると、背後からシャカシャカシャカと歯ブラシの音を立てた寝起きの恋乃葉が口を開いた。


「にいさん、きょうは、はやいんだね」


「あぁ、色々あって友人に呼ばれてな」


「いろいろって、きのう、いってた、やつ?」


「あ、あぁ、そうだけど」


「なんかよく分からないけど、兄さんも大変そうだね」とシャカシャカ鳴らしながら洗面所へ向かっていく恋乃葉。

靴紐を結び終え、扉の取っ手に手を掛けながら「行ってきます」と挨拶を述べると、スタスタと駆け足で麗華さんがリビングからこちらに向かってくる。


「それじゃあ、翔奏くん。気をつけて行ってくるのよ」


「はい」


聖母のように優しく微笑むエプロン姿の麗華さんは寝起きの今でさえも心を落ち着かせる、アロマキャンドルのような効果を発揮していた。


(目を奪われるほど可憐な姿をこんな朝っぱらから見られるなんて、なんか贅沢だな)


ガラガラとうがいをしていた恋乃葉が洗面所から顔だけを覗かせて、「兄さん、行ってらっしゃーい」と軽く手を振ってくる。

「あぁ、行ってくる」と目配せを送り、扉を開けると、肌寒さを感じさせる涼しい風が一気に吹き込み、長く伸びた前髪をゆらゆらと乱暴に荒らしていく。



自宅から徒歩十五分ほど歩みを進めると、ようやく岳の住むマンションのエントランスに到着する。

エレベーターのボタンに指を伸ばし、早々に開くエレベーターに乗り込み、ほどなくするとチーンと到着音と共に目的の七階でその場を後にする。


(確か、七〇五だったよな。久しぶりで記憶が曖昧だけど)


扉の前で足を止めると『籃堂』と記された表札を確認して少し安堵する。

黒いインターフォンに指を伸ばすとピンポーンとチャイムの音が鳴り響き、数秒後には岳からの「今開けるからよー」との応答があった。

ガチャと扉が開かれると、上半身制服、下半身パジャマのだらしない姿の岳が片手に食パンを咥えながら現れた。


「お前なぁ、着替えるのか食べるのか一つに絞れよ」


「いやいや、これが一番効率的なんだって。着ながら食べれる。なんか近未来的じゃね?」


「近未来?どこがだよ。そんなことをするのは時間に遅刻しそうな奴かお前みたいなせっかちな馬鹿くらいだ」


「馬鹿とは失敬な。これでもこの間のテストは高得点だったんだからな」


「何を言ってんだよ。赤点ギリギリの三十二点だったのは知ってるぞ」


「な、なぜそれを……」と多少の驚きをみせながら、ベーコンエッグトーストを噛み付くと、とろりとチーズが伸び、じゅるりとヨダレが垂れてきそうになる。

湧き溢れる食欲を制御しながら、靴を脱いで岳の自宅へ上がらせてもらう。

「お邪魔します」とリビングに顔を出すと、洗い物をしている岳の母親が「あら、いらっしゃい」と光沢の見せる煌びやかな黒髪ボブを揺らしながらニコリと微笑む。


(顔の整った岳の生みの親なだけあって、母親もこれまた美人さんだな)


「あっ、母さん!そこの牛乳まだ飲むから残しておいてな!」


「はいはい、分かりました。でも、早く洗い物済ませておきたいから、なるべくすぐに飲み干してね」


「はいよー」


軽く手を挙げて返事をする岳は再び片手に持っていたベーコンエッグトーストをガブッと豪快に噛み付き、口に入った状態で「かなた、こっちこっち」と手招きをしてくる。

リビングの通りを抜けて、一番最初に現れる扉の目の前で岳は足を止めた。


「ここが俺の部屋、って前にも一回来たことあったっけ?」


「いや、岳の部屋に入るのは今回が初」


「あぁ、そうだったか。前は確か、リビングだけだったもんな」


「お前が無理矢理、『高級プリン買っから食ってけ食って』って引っ張って連れてきてな」


「そうだった、そうだった」とニコニコ笑いながら自室の扉を開けると、俺の部屋と大して変わりようのない風景が広がっていた。

多少の相違を取り上げるのであれば、ゲーム機の品数が豊富なことと、白い壁にアニメキャラクターのポスターを隙間なく貼っていることくらい。

至って男子高校生の部屋である。


「先に言っておくが、ベッドの下を覗いてもエロ本は出てこねぇからな」


「別に探してねぇよ」


「そう、ならいいんだが」


最後の一口を頬張った岳はモグモグと咀嚼を続けながら、ごくりと喉を通す。

ブラウン色の勉強机に置かれたティッシュを一枚引っ張り、雑に口元を拭くと、ポイッと四角いゴミ箱へ投げ捨てた。


「それで早速本題にはいるけど、希望の髪型はあるか?一応翔奏の髪だし意見は訊いておきたくて」


モコモコの座り心地の良い座椅子にもたれている俺とは違って、キャスター椅子に腰を下ろした岳はガラガラと音を鳴らしながらタイヤを回転させていた。


「希望は特にないけど。っていうか髪型の種類とか深く知らないし」


「あぁー、そうだよな。翔奏はいつもノーセットだもんな」


「ちょっと待ってな」とキャスター椅子に腰を下ろした状態で扉の横に設置されている棚まで移動すると、数々のラノベや漫画が収納されている中から一枚の雑誌と思われるものを取り出した。


(あれだけ、漫画やラノベがあるのに一冊も参考書がないのは逆にすごいな……)


「これだこれ。この雑誌に色んなメンズヘアスタイルが載ってるから見てみるといいよ。きっと気に入るのがあると思う」


「メンズヘアスタイルねぇ……」


そんなどこか引っかかるような言い草で岳から一枚のヘアカタログを手に取ると、ペラペラと何となく目を通しながらページをめくっていく。


「こういうのって、似合う似合わないとかあるよな?それってどうやって判断するんだ?」


「まぁ、普通は顔の形とか大きさとか毛量とか。あとは……顔つきとかもだけど、お前は比較的イケメンだから似合う似合わないとかはあまり気にしなくていいんじゃないか?今回は初めてなんだしさ」


「な、なるほど……」


(ヘアスタイルって以外の奥深いんだな……)


岳の助言を元に今回に関しては似合う似合わないは一旦置いといて、自分が気になったもの、惹かれたものを最優先事項にすることにした。


(気になるものねぇ…………)


無心にペラペラとめくっていくと、あるページでその指を止めた。


「これとかどうかな?」


「ん?どれどれ」


俺が選別している間、ラノベの鑑賞に浸っていた岳は片手に持っていたラノベをポンっと机に起き、俺の持ってるヘアカタログを覗き込んだ。


「あー、いいんじゃねぇの。その髪型なら量産型にならないし、長さも毛量もお前にピッタリだと思う」


「岳がそう言うなら安心だな」


「そ、そうか……?なんかお前にそんなこと言われると照れるなぁ。俺って案外信頼されてんだな……」


てへてへと後頭部に手を添えながら、小刻みに頭を下げる岳は普段では滅多に見せない照れ顔を披露していた。

女子にとってはイケメンの岳の照れ顔など『可愛いー!』と捉えるのかもしれないが、あいにくのところ男子の同性の俺からしてみれば、『可愛い』どころか、むしろ少しだけ『キモイ』と思ってしまう。


「それでなんだが、岳はこの髪型作れるのか?」


「あん?俺を誰だと思ってんだ!巷で名高いヘアスタイリストの申し子とは俺のことだ!」


張り上げた声量でそう言い切る岳は右手の親指を自分に向けながら、ふんすと鼻息を荒くして誇らしげな表情を湛える。


「いや……知らねぇよ。どうせ"自称"だろ?」


「ま、まぁ……そうとも言う……かな……?」


「それと早く取り掛かることも希望したいのだが」


「ん?なんでだ?まだ、時間は時間は余裕だぞ?」


「あぁ、そうだけど。なるべく、人目の少ない時間帯に登校したいんだよ」


「はぁ……」とわざとらしくため息を漏らした岳は呆然と目を細めながら「どんだけ目立ちたくねぇんだよ……」と言いながらも「分かった、それじゃあ早速始めるか」となんやかんや即急に取り掛かってくれた。



ヘアスタイリングを開始してから三十分ほどが経過した頃、「まぁ、こんなもんかな」とワックスの付着した手を払いながら完成の雰囲気を醸し出す岳。


「終わったのか?」


「あぁ、自分で見てみろ。ほらよ、鏡」


机の引き出しから取り出した丸い手鏡を俺の方へと投げ、それを手に取った俺は鏡の先に映る自分の姿に唖然とした。


「すげぇ……すげぇよ岳……」


「まぁ翔奏の顔あってのことだけど。それでもだいぶ印象変わったな」


「あぁ……俺じゃないみたいだ」


「だから言ったろ?お前は素材がいいんだからちゃんとお洒落すれば化けるんだって」


言葉を失うほどにさせたのは他でもない、鏡の先に映る、ガイルヘア姿の自分自身だった。

紛れもないその姿は自分でさえも目を疑ってしまう。


(自分で言うのもなんだけど、俺って案外、顔整ってたんだな……)


「その……ありがとな、岳」


「いいよ別に。そもそも、髪の毛をセットするって言い出したの俺だし」


満足気にキャスター椅子に背中を押しもたれかける岳は「それに」と言葉を続ける。


「本番は午後からの合コンだしな!その風貌可愛い女の子ゲットしちゃおうぜ!」


「あ、あぁ……そういえばそうだっな」


(合コンのことすっかり頭から抜けてたわ)


「よしっ!じゃあ、行くか」


「まだ、随分と早いけどいいのか?別に岳はまだ家にいてもいいんだぞ」


「いいや、俺も一緒に行くよ」


「そうか……」


「…………それにお前の隣歩いてたらいつも以上に注目浴びれそうだし」と俺の耳に届かないよう小声で本来の策略を呟く岳はニヤリと不敵に口角を上げながらうししと笑っていた。


(いや……普通に全部丸聞こえなんだけど……。でもまぁいっか……)


そうして俺らは通学鞄を手に取って岳の自室を後にすると、岳の母親に別れの挨拶を告げるため再びリビングへ赴いた。


「岳のお母さん。朝早くからすみませんでした、俺はここで失礼します」


ふかふかなソファーに腰を下ろしながら、テレビ中継されている朝の情報番組を視聴している岳の母親はお茶の注がれたグラスを手に持ちながらこちらを振り向く。


「あらそう?もう少しいてもーー」


こちらに視線を向けた途端、なぜだか言葉は途中で途切れ、手に持っていたグラスをテーブルに置くと、両手を頬に添えながら「えっ〜!?なぁにその姿!!翔奏くんいつもと印象違うじゃない!!」と口を大きく開きながら、ぽかんとしていた。


「イメチェンしたのぉ?」そう言いながら早い足取りで歩み寄ってくる岳の母親は身振り手振り、様々な角度から俺の髪型を注視する。


「かっこいいわ……!とても似合ってる」


「そ、そうですか……?」


「えぇ、それはもう、アイドルに入れちゃうくらい!」


「それはさすがに大袈裟ですよ」


「いいえ、ちっとも大袈裟なんかじゃないわ!あたしが勝手に応募しちゃってもいいかしら?」


「ちょっ!母さん!ダメに決まってるだろ!それな翔奏が困ってるからそこまでにして!」


喧嘩の仲裁に入るように俺と岳の母親の間に岳が手を広げながら、距離を遠ざける。

そうして岳は「もうちょっと話しましょうよ〜」と語り掛ける母親を置き去りに「また今度な」と俺の腕を引っ張って玄関へ連れていく。


「それじゃあ、お邪魔しました」


「いいのよ、また来てね。あたしはいつでも待ってるから」


「はいはい、ほら行くぞ翔奏」


「あ、あぁ……」


岳の母親に向けてぺこりと会釈をすると、ニコニコと白い歯を見せながら屈託のない笑みを浮かべる岳の母親。

岳に引っ張られるがままその場を後にした。


「でもあれだな。岳の母さん、意外と若いんだな」


「若い?あれでも三十路だぞ」


「年齢じゃなくて、見た目がな。振る舞いとか接し方とか、なんか姉さんと話してる感覚で」


「姉さん……?それ本気で言ってんのか?」


「あぁ、俺はお世辞を言えるほど器用じゃないしな」


俺の言葉にそれほどまで衝撃を受けたのか、岳はコンマバングから除く額からだらりと汗を垂れ流し、強ばった表情を貼り付けながら若干後ずさる。


「翔奏が若いって言ってたって、今度母さんに教えておくよ。きっと、大喜びすると思うから」


片手に持っていた鞄をヤンキー持ちのように切り替える岳。

そして、やはり根は優しい岳はまるで自分のことのようにニコニコと満面の笑みを眩しいほどに輝かせていた。



周囲の視線を集めたくないからと、ホームルームの時間よりも遥かに早くに登校したため、通学時は思いのほか人目に留まることなく校門まで至り着いたわけなのだが…………そんな策略も教室目前に迫ると見事に無力と化し、なぜだか俺は今、予想を覆す多数の女子生徒に囲まれながら、廊下の中央で呆然と立ち尽くしていた。


「ねぇねぇ、君この学校にいなかったよね!もしかして転入生!?」


「すごい格好いいけど、なんかアイドルとかやってるの?」


「いや……アイドルもやってないし、そもそも転入生じゃないし……」


「えっ!?そうなの!?それなら、君の名前なに?」


「凪霧……翔奏……だけど……」


「凪霧……翔奏……?あぁ!あの、隅の席の子?」


「そう……だけど……」


逃亡する隙も与えられず、徐々に距離感を縮めてくる女子生徒らは絶え間なく質問を投げ付けては「連絡先交換しよう!」と願望の眼差しを向けながら、制服の袖を引っ張ってくる。


「連絡先……?まぁ、別にいいけどーー」


「はいはーい、女子生徒ら諸君。一旦離れましょうねぇー」


「藍堂くん、そこどいてよ!邪魔!」


「今いいところなの!ねぇ、凪霧くん連絡先!連絡先交換しよ!」


「いつも女子から人気なあの俺が……雑な扱いを……」胸元を右手で抑えながら、女子から苦情を吐かれる度にグサグサと精神的ダメージが蓄積されていく岳。

けれど、それでも岳は決して屈することはなく、どれだけ女子生徒から愚痴を吐かれようと、「はいはい、どいてどいてー」とまるでイベントスタッフのように爽快に仕切り出す岳は両手で境界線を引くように、芸能人の通り道を作るかのように俺を座席まで導いてくれた。


「お前すっかり人気者だな」


「こっちはいい迷惑だ」


(女子からチヤホヤされるのがこんなにもストレスに感じるとは思いもしなかった)


「昨日までは何の関わりもなかった女子が髪型を変えたらすぐこれよ。『キャー、イケメン!』『連絡先交換しよ!』『わたし、タイプかも!』だぜ?」


「なんでお前が不機嫌なんだよ。もしかして、嫉妬か?」


「はぁ!?嫉妬じゃねぇし。俺はずっど前からモッテモテだから、お前のことなんか妬まねぇよ」


「あっそ……」


ようやく一段落がついたところで、先程の疲労を吐き出すため、机にうつ伏せながら両腕の中へと顔を埋め、大きなため息を漏らす。


(イメチェンも考えようだな……)


チラッと顔を前へと上げると、忍び足で近づいてくる女子生徒らを「しっしっ!」と手を上下に下ろしながら追い払う岳が不満そうに顔を歪めていた。


「岳って案外女子に冷たいんだな」


「真摯な女子にはそりゃあ俺だって優しいぜ?でも、ついこの前まで無碍に関わってきてた奴らが都合がよくなった途端に距離を縮めてくるのは気に食わねぇんだ」


「へぇ〜。かっこいいこと言うじゃん」


「そ、そうか?なんか照れるなぁっ……」


「キモイから照れんな」


(でも、今の岳の言葉で俺がどれだけ大切に想われているのか、嫌でも分かった。……照れてぇのはこっちだっつーの)


恋乃葉に麗華さん、そして岳。人間関係に恵まれ、心優しい人達に囲まれた俺はどれだけ幸せ者なんだと無性に嬉しくなり、自然と表情筋が緩む。

口元は両腕で隠されているため、俺が今無意識に口角を上げていることは気付かれなくて済む。

それがなんだかとても安堵の気持ちが膨らんで、ほっとする。


(岳に見られたらなんて言われるか分からないからな)



あれからというものの、休み時間になると女子生徒のことごとくから「連絡先交換しよ!」と持ち掛けられたり「彼女いるの?」「どんな子がタイプ?」と恋愛関連の質問を耳にタコができるほどに問い掛けられたりと、一限目から放課後まで散々な目にあった。

そうして、岳の手助けもあって、どうにかこうにかその状況を切り抜けることに成功した俺らは周囲に女子生徒はいないなと確認を済ませると早速合コンを開催する場所へと足を向けた。


「ここがその場所か……」


学校の門を抜けてから徒歩数十分程度で位置するその場所は『カラオケ鈴蘭』とLEDで縁取られた大きな看板を掲げた至って普通のカラオケ店だった。


「俺はてっきり居酒屋とかでするもんだとばかり」


「居酒屋って大学生かよ。俺らはまだ酒もタバコも吸えないんだから、居酒屋は不相応だろ」


「言われてみればそうだな」


隣で立っている岳はブレザーのラベルをシュッと引っ張りながらシワを伸ばすと、「よしっ、行くか」と掛け声をかけて、早速店内へと入っていく。


(今から本当に合コンが始まるのか……。女子とまともに関わったことのない俺が失礼なしい会話できるとは思えないんだけど)


けれどそんなことを今この場で思ったところでもう手遅れで、心の中でグチグチ弱音を吐くくらいなら、むしろ開き直った方てこの先どんな未来が待ち構えていようと後ろを振り向かず前だけを突き進む、それが聡明な考えだと思う。

フロントで全ての受付を済ませると、今回対談する女子が待機している部屋へと向かい、扉近くで岳が足を止めた。


「なぁなぁ、翔奏……!あの子たちじゃない?」


「この部屋が開催場所なんだから当然だろ」


「後ろ姿だけでも可愛さが伝わってくるよなぁ〜」


透明なガラス扉越しに室内で待機している女子の後ろ姿を眺めながら、チーズのように顔をとろけさせている岳はいつも以上に意気揚々としていた。


「ほら、待たせてるんだから早く入ろうぜ」


「おっ!案外翔奏も乗り気じゃんかよ〜」


「そういうのいいから」


面倒くさい絡みを適当に受け流すと、先程まで不安感で押し潰されそうだった俺が扉を開けた。


「あっ……どうも。遅れてすみません」


「二人ともぉー!こんちゃーすっ!」


(なんだコイツ……。急にテンション高く……いや、狂ったぞ……)


けれど、そんな突拍子もない岳の破天荒な性格にも全く動じない女子二人は至って冷静に「こんにちは」と淡々と言葉を返した。

カラオケ店特有の低反発ソファーに腰を下ろすとようやく相手の目鼻立ちを確認することが出来た。

俺の右側で腰を下ろしている岳はテーブルから身を乗り出して相手二人の顔をじっと凝視しながら「二人とも可愛いねぇー!」とまるでナンパをするかのような、出会って早々口説くような口振りでニコニコと笑顔を向けていた。

岳の正面にいる女子はいかにも天真爛漫の言葉に相応しい風貌。

チャームポイントは笑った時に口角の端に現れる愛らしいえくぼ。

肩にギリギリ届かない長さで切り揃えられた黄金色のボブヘアー。

顔を動かす度に耳たぶの先で揺れる星型のイヤリング。

パッと見、破天荒で外向的な岳とは気が合いそうな雰囲気がする。

というか、もう既に俺を置き去りにして談笑を開始しているところ。

そして、もう一人の俺の目の前にいる女子はこういう場所には慣れていないのか緊張のあまり、ずっと視線を下へ落とし続け、あまり顔全体を確認することが出来ない。


(多分この子も俺と同様に無理矢理連れてこられたんだろうな……)


そんな深く共感をしていると、遂に意を決したのか例のその子は緩慢とした動作で顔を前へと上げた。


(は……?……はっ!?ちょ、ちょちょちょ待て待て!!は……?どういうこと!?)


顔を露にしたその姿にはどことなく見覚えがある……どころか、どれだけ月日が流れても、どれだけ老いても決して記憶からなくなることのない、それどけ常に眺めていた面識のある姿が確かにそこにはいた。


(……こ……恋乃葉じゃないか……。なんでここに……)


予想外の展開に動揺を隠せないでいる俺とは対照的に恋乃葉は未だに気が付いていないのか、視線が交わっても混乱の色一つ見せない。



中学三年生に進級した際に友人となった一人の女子生徒ーー城宮雪音に連れられて、無理矢理合コンとやらに参加しているのだけれど…………なんてことだ。わたしの目の前には翔奏くんがいる!!


(ど、どどどどどどどどうしてこんなところに翔奏くんが!?昨日と今日言ってた"色々"って合コンの事だったの!?っていうか待って待って!その髪型なに!?いつもも充分格好いいけど、これも印象変わって、すっっっごく素敵!!)


多すぎる情報量と押し寄せる様々な感情が混合して、爆弾のように頭が破裂しそうだ。


(でも……翔奏くんがここに来たってことは……彼女が……ほしいって……こと……だよね……)


『わたしと同じで友人に無理矢理連れてこられた、だったらいいな』そんな淡い期待を抱きながらも、わたしの感情は耐え難い焦燥感と恐怖心で支配されて、頭の中に浮かぶ言葉は『翔奏くんを誰にも取られたくない!』ただそれだけだった。


(あれ……?でも翔奏くん、わたしに気がついてないのかな?元々表情に出ないから本当の思いが感じ取れないんだよなぁ)


わたしのことをじっと見つめているけれど、表情から推測するならば恐らくわたしが妹の恋乃葉だってことは気が付いていない様子。


(でも……これってチャンスなんじゃ……)


この時のわたしの頭にはとある策略が浮かび上がった。

その名もーー『普段できないことを思う存分いしゃおー!』。

わたしのことを恋乃葉だと気が付いていない以上、普段絶対出来ないような接し方も今なら関係ない。

翔奏くんに寄せる想いを包み隠さずさらけ出してしまえば、全くの別人と化す。

それほどまでに常日頃、自分の恋愛感情にリミッターを掛けている。


(それにもしうまくいけば、翔奏くんと……その……つき……付き合えたり……しちゃうかもだし……!そうなったら、わたしどうしよぉー!)


それはそうと、なるべく即急に翔奏くんとの親密性を高めなければ、いつ雪音が翔奏くんにターゲットを向けるか分からない。

現段階ではもう一人の男の子と楽しそうに話してるけど、意外と雪音は面食いだから。

世界一……宇宙一イケメンな翔奏くんを狙うのも時間の問題。

そう思い立ったら最後。わたしは普段鍵を閉めている恋愛感情の扉を豪快に解除し、思いのままに翔奏くんに迫っていく。


「ねぇねぇ、かな……あなたの名前なんて言うのぉ?」


「え……、あ、あぁ……。俺は……翔奏だよ。凪霧翔奏」


「へぇー、翔奏くんって言うんだ!世界一イケメンな顔にお似合いな名前だね!」


「世界一……いけ……それはどうも……」


あからさまに頬を紅潮とさせる翔奏は気恥しそうに頭をかきながらペコペコと会釈していた。


(な、なに!?この可愛い、小動物のような子は!?いつもは狼みたいにクールだけど、こんな照れることも……あるんだ……!!)


心の鍵を解除したら最後、普段溜め込んだ感情が一気に溢れ出して、リードを離した犬のように留まることを知らない。


「それで翔奏くんはさーー」


「ねぇねぇ、そっちの子はなんて名前の子?好きな食べ物は、異性のタイプは?」


先程まで雪音と愉快に談笑に興じていた、藍堂岳が次はわたしにターゲットを向けて、身体を乗り出してくる。


「俺は岳!藍堂岳、気軽に岳くんでも岳ちゃんでも好きなので呼んで構わないから!」


「……へぇー、そうですか……」


(別に訊いてないし)


「どうしたの恋乃葉〜?さっきはなんか楽しそうにそっちの男の子と話してなかったぁ?」


(それは世界一大好きな翔奏くんだからの話で、他の男の子には興味ないし。というか、翔奏くん以外は全員同じ顔に見える)


「そうか!君は恋乃葉ちゃんって言うだ!」


「ちょっ……!雪音!」


「ごめんごめん!でも、今後関わっていくなら名前はいつか知られるしさ」


パチンと手を合わせてぺこりと頭を下げると、舌を突き出しながら「てへぺろ」と全く反省の意を感じ取れない謝罪を済ませた。


(翔奏くん以外の男の子と関係を深める予定はこれまでもこれからも絶対、確実に、一○○%有り得ないし)


軽々しく名前を呼ばれたことと、興味の示さない異性の人に名前を知られたことに苛立ちを覚えるが、好きな人の前で機嫌の悪い顔は是が非でも見せたくないと、テーブルに置かれた自身の飲み物をストローで喉に通す。


「それで恋乃葉ちゃんはさーー」


「わたしのことはNさんって呼んでください」


「え……えぬ……?さん?なにそれ、なんかの暗号?まぁ、そうだよね。急に名前呼びも困るよね。じゃあさ、苗字教えてよ」


「苗字も……無理です……」


極力目を合わせないように顔を下に向けると、雪音にはその姿が困り果てているように映ってしまったようで、わたしの代弁をするかのように。


「恋乃葉の苗字はなぎーー」


「ちょ、ちょ!ダメ!それは絶対ダメ!」


咄嗟に雪音の口を両手で精一杯塞ぎ、その先の言葉を遮る。


「ろうしてー?ろうして、言っちゃなめなのー?」


「ど……どうしても!」


(名前もバレちゃったうえ、苗字まで明らかにしちゃったら、本当にわたしが妹だって翔奏くんにバレちゃうじゃん!!まだ、恋愛パレードは始まったばかりなぉー!)


「だから、とりあえずNさんと呼んでくれれば」


「まぁ、しょうがないかぁ」


「あっ、ちなみに翔奏くんだけは特別。わたしのことは、"こ の は"って呼んでいいからね!」


「な、なんか俺だけに冷たくない!?なに、翔奏くんだけは特別って!」バンッとテーブルを叩きながら立ち上がったモブキャラAはこれ以上ないほど不満そうに口元と眉を歪めていた。


「言葉の通りですよ。試しに呼んでみてください、翔奏くん」


「……恋乃葉」


「なぁに?翔奏くん」


「……なんだこの二人。もう、付き合ってんじゃねぇのか?」


「つき……付き合ってなんかぁ……なくはない……?」


「いや、付き合ってないから」


この場の誰よりも冷静沈着な翔奏くんは至って真面目にそう答えた。


(『付き合ってないから』まぁあ?本当のことですけどぉ?それでもちょっとだけ、ほんのちょっとでいいから、戸惑ってもいいんじゃなくて?翔奏くんは全く意識してないの……!?)


目の前に置かれた、オレンジジュースの注がれたグラスの中で氷がカランと爽快な音を奏でながら愉快に踊っていた。

ストローでジュースを啜っていくと徐々に氷が姿を現して、歪な形でグラスのそこに居座る。


「あたしもちょうど飲み干しちゃったし、恋乃葉のもついでに入れてきちゃうよ。オレンジジュースでいいでしょ?」


「それなら、わたしが自分でーー」


「いいの、いいの!」


ニコニコと微笑みながら、立ち上がろうとするわたしの肩を押さえて、雪音は空になった自分のグラスとわたしのグラスを手に席を立つ。


「じゃあ、俺も行くー!俺もそろそろ喉乾いたし!」


「あ……岳くんもここに残って大丈夫だよ。でも、その代わり翔奏くんは一緒に来てもらいたいかな」


「えっ!?な、なんでコイツ!?俺が一緒に行くって!」


藍堂岳は焦燥感に駆られながら勢いよく立ち上がると隣に置いてある通学鞄がパタンと倒れる。

心底不満そうに顔をしかめている藍堂岳に向けて。


「だって、わたしまだ全然翔奏くんと話してないもん。ここは……そう、公平に公平に行きましょうよ!」


「こ……公平って……」


謎の理屈に呆然とため息を漏らす藍堂岳は「まぁ別にいいけどよ」とゆっくりと腰を下ろすが、言葉とは裏腹に彼の表情は微塵も晴れていない。

表情と言葉が一致しないとき、人間は言外の感情を抱いてるものだ。


「それじゃあ、翔奏くん一緒に行きましょ」


「あ、あぁ……」


「翔奏ー、俺はコーラな」


「へいへーい」


「ちょっ……ちょっと待って!」


グラスを持ちながら扉へと向かっていく雪音の腕を掴み、歩みを進めていた足を止める。

「どうしたの?恋乃葉?」と首を傾げながら疑問符が浮かび上がりそうな面持ちでこちらを見つめている雪音。


「それなら、やっぱりわたしが行くよ……!」


「いいよ、あたしが恋乃葉の飲み物入れてくるから」


「なら、わたしも一緒に行く……」


「ここは待ってなさいよ。岳くんを一人にさせるのはさすがに失礼でしょ?」


「な、なら、雪音がここに残ればいいじゃん!」怒ってはいないものの、耐え難い妙な焦燥感に駆られるわたしは、どうにかこうにか必死に雪音と翔奏くんを二人っきりにさせないと行動に移す……が。


「わたしも少しは翔奏くんと二人っきりで話したいもん!」


「ふた……ふたりっきり……」


このとき、頭の中で白い霧のようなモヤがかかり、『ここでわたしが引いちゃダメだ』『意見を押し通さないと』と無性に心がザワついた。

ただよらぬ胸騒ぎ。まだ、なんの確証も根拠もないけれど、それでも恐らく雪音は翔奏くんのことがーー。


「ここはわたしに譲って!ねっ?」そう言って笑みを浮かべる雪音は翔奏くんを連れてこの部屋から出ていってしまった。


「ごめんねぇー、俺なんかと二人っきりになっちゃって」


「はい……そうですね……」


「は、はい……?そこは嘘でもいいから否定してほしかったなぁ」


(なんなのこの人……。さっきから突っかかってきて。チャラい見た目でいかにも女好きで遊んでる感じの。わたしの好みとはまるで真逆なんだけど……)


けれど、それだけ本心で思っている嫌悪感を包み隠さず露わにしても、時折冷酷な眼差しを向けたとしても、藍堂岳が後を引くことは一切なく、むしろ「そういうクール系?塩対応系?の女子、俺どタイプなんだよねぇー」と鼻の下を伸ばしながら、腕をテーブルにつき身体を乗り出してくる。

その度にわたしはわざとらしく後ずさるのだけれど、それでも藍堂岳はやはりわたしの意思などお構いないし距離を縮めてくる。


「なぁなぁ、それでさ、この……Nさんは今好きな人とかいるの?」


「好きな人……?別にいますけど」


「えっ!?いるんだ!いるのに今日ここに来たんだ!」


「わたしは自分の意思で来たんじゃなくて、友達に無理やり連れられて……」


「あぁー、なるほどね。ってことは翔奏と一緒か」乗り出した身体を一旦元通りソファーに腰を下ろすと、筋肉質な逞しい腕を組む。


「一緒?どういうことですか?」


「いやね。翔奏もさ最初はめちゃくちゃ嫌がってて、誘いを断られたんだけど、俺が『青春しようぜ!』って強引に連れてきたわけよ」


「なにそれ……。翔奏くん可哀想……」


(でも、少し安心したなぁ)


翔奏くんが今日ここに顔を出した理由を藍堂岳から聞くとわたしはこれ以上ないほどに心から安堵し、そっと胸を撫で下ろす。


(わたしはてっきり、彼女探しにーー)


けれど悲惨なことに愁眉を開いたのもつかの間、わたしの安心した気持ちはぬか喜びとなってしまった。

とあるーー藍堂岳の言葉によって。


「アイツさ好きな奴がいるんだよ」


「えっ…………いま……なんて……」


「ん?だから好きな奴がいるんだよ、翔奏にはさ」


「すきな……ひと……」


「あぁ。ずっと前から想いを寄せてるんだってさ。全然振り向いてもらえてないみたいだけど」


その事実を耳にした途端、胸が張り裂けるような、グサグサとナイフでえぐられているような、言葉では言い表せない耐え難い苦痛に襲われた。

次第に視線は置いていき、視界には微かに汚れている柄付きの床だけが映っていた。


(すきなひと……かなたくんに……?ずっと前から想いを寄せてるっていつからなの……?ってことはわたし……もう無理なの……?)


先程まで、もしかしたら雪音に翔奏くんが取られてしまうかも、なんて勝手な憶測で慌てて鼓動を乱していたが、今となっては全く違う。

焦燥感が恐怖心に。

微かに感じられた希望が絶望に。

落胆、絶望、嫉妬。数々の押し寄せてくる感情をわたしはどこに逃がしたらいいの。

黒いタイツの穿いた膝の上でギュッと力強く手を握りながら俯いていると、左側からガチャと音を立てて扉が開かれた。

楽しげな声で会話をしながら、部屋に入ってくる雪音と翔奏くん。

普段ならば、ずっと眺めていたいと思えたその姿も今では瞳に映すことすら苦痛になってしまった。

『翔奏くんに好きな人がいる』その事実は恐らく虚妄ではない。

藍堂岳のことを信用しているわけではないが、翔奏くん自身が『想いを寄せている人がいる』とそう言ったのであれば、それは紛れもない事実となる。

わたしの目の前にオレンジジュースの注がれたグラスを置くと雪音が心配そうな面持ちで口を開いた。


「恋乃葉?大丈夫……?もしかして、体調悪いの?」


「う……ううん。大丈夫、なんでもない」


「ほんと?少しでも体調悪くなったら言うんだよ?」顔を覗きながら優しい声で問いかける雪音は「ほら、あんたの大好きなオレンジジュース飲みな」とグラスを手渡ししてきた。


「……ありがとう」


(雪音はやっぱり優しいな……。せめて、翔奏くんの好きな相手が雪音ならば……少しは浮かばれるのに……)


『本当はわたしを好きになってもらいたかった』そんな切望を一身に抱きながら、上目遣いで翔奏くんを見つめる。

烏龍茶の注がれたグランを片手にストローで喉に通していく翔奏くんは楽しそうに藍堂岳と会話をしていた。

「烏龍茶、俺にも飲ませろ!」と藍堂額は無理矢理、翔奏くんの手からグラスを奪いゴクリと喉を通す。

反撃に出るかのようにテーブルに置かれた、コーラの注がれたグラスを取り上げるとゴクゴクと半分ほど減らす。

『お前飲みすぎだ!』『先に飲んだのそっちだろ!』『ケチ野郎!』そんな言い争っている彼らはどこか楽しそうで、微かに笑っている翔奏くんの姿は普段とは違う印象を与えた。


「ん"ん"!えぇ、それではせっかくカラオケに来たことですし、なにか歌でも歌いましょう!」隣に腰を下ろしていた雪音がマイクを片手に立ち上がりそう言うと、「それもそうだな!」と藍堂岳も乗っかってきた。


「それでは早速あたしから」


「おっー!先陣切るとかなかなか勇気があるねぇ、雪音ちゃん」


「ま、まぁあ?それほどでもぉ〜。歌にはちょっぴしばかり自信があるもんでぇ」照れくさそうに頭をかきながらタブレットを操作し、早速曲を選曲すると、右側に置かれた大きめのモニターに題名が表示される。

『愛の片隅』その曲は雪音の十八番であり、以前には一日で平均二十回以上は聴いていると言っていたほどのお気に入り曲。

けれど、今のわたしにとっては恋愛ソングなど耳にもしたくない。

歌詞に感情移入してしまっては、わたしら恐らく泣きそうになってしまうから。


「それでは皆さん聴いてください。愛の片隅」


藍堂岳、翔奏くん、そしてわたしはマラカスとタンバリンを片手に演奏を手伝う。


(……雪音の歌声やっぱり好き。……でも、だからこそ思いに馳せちゃうんだよ……)


プロの歌手でも、趣味で音楽関連を学んでいるわけでもないため、歌い方の技術面に関しては全く無知で分からないけれど。

それでも、優しく苦しみや悲しみに寄り添うようなその歌声は次第にわたしの瞳を潤わせていった。


(……わたし……まだ告白もしてないのに……振られちゃったよ……。ずっと前からってことはわたしがいくらアタックしても、一途な翔奏くんは一切わたしになんか振り向いたりしてくれない……。でもそんな一途なところも好きなんだけどね……)


「フゥ〜!!雪音ちゃん上手いじゃん!!」


「で、でしょぉ〜?」


わたしたちがパチパチと拍手をする中、藍堂岳だけは以上なまでに喝采を上げては雪音を褒めちぎる。

けれど、雪音はすぐさま翔奏くんに視線を向け、普段では見たことのない乙女な顔で質問を投げかける。


「翔奏くんは……どう……だった……?」


「すごく上手だったと思うよ。つい、聴き入っちゃうくらい」


「ほ、ほんと!?」


子供のように無邪気でぴょんぴょんとその場を跳ねる雪音はマイクを胸元で抱きながら、心底嬉しそうに感情を露わにしていた。


「なぁ、翔奏!俺たちも遅れを取ってはいられない!一緒にデュエットしようぜ!」


「お前とデュエットとか嫌に決まってんだろ。誰が見たいんだよ男同士のデュエットなんて」


「はぁー!?お前、ノリわりぃなぁ!」


ガックシと肩を落としている藍堂岳を払い除けるように雪音はトコトコと翔奏くんと前まで歩み寄り、「なら、あたしとデュエットしようよ!」と夜空に輝く一番星のように瞳を煌めかせ、希望に満ちた眼差しを向けていた。


「なんだぁ?さっきからお前ばっか。モテ期到来かぁ?って学校でも散々注目浴びてたか!」


「そんなんじゃねぇよ」


「ねぇねぇ、いいでしょ?翔奏くん!」


「え……ま、まぁ……いいけーー」


「……っ!翔奏くんっ!」


頭で理解するよりも先に身体が動き、バンッとテーブルを叩きながらその場を立った。


「わぁ!びっくりした」


「ん?どうしたんだ恋乃葉」


「いや……その……」


(言うんだわたし!ちゃんと言うんだ!このままただじっとしててもライバルが増えるだけ!雪音だってアタックしてるんだから、わたしだって!)


「わ、わたしと!……デュエットしようよ!」


「えぇー!先に言ってたのあたしなんだけどぉ?」


「ねぇ、ならさ。Nさんは俺とーー」


「わたしがデュエットしたいのはあなたじゃなくて翔奏くんだから」


「え……えぇー、なんでぇ……」


「ねぇ、いいでしょ?翔奏くん!」


雪音に遅れを取るまいと翔奏くんの目の前まで駆け足で近寄るわたしは「ねぇ?ねぇ?」と必死に圧をかけ続ける。

わたしと雪音を交互に目配りする翔奏くんは多少後ずさりながらも「はぁ……分かった。二人とも交互にデュエットしよう……」と渋々互いの要望を受け入れてくれた。

肩を落としながら「はぁ……」とため息を漏らす翔奏くんは憔悴した眼差しを隣で呆然と立ち尽くしている藍堂岳に向け「……お前も後で俺とやるか……?」と尋ねる。


「やらねぇよ!誰が男同士のデュエットが見たいんだよ!全く需要ねぇだろ!」


先程とはまるで違う対象的な不平を募らせ、フグのように頬を膨らませながら愚痴を吐いていた。



あれからというものの、わたしと雪音は翔奏くんを奪い合うかのように争い、一度のデュエットだけでは留まらず、二度三度と様々な曲で翔奏くんをデュエットに誘った。

当然、普段から頻繁に歌唱を行っていない翔奏くんの喉は案の定枯れ果て、ハスキーボイスへと変化した。

流石に限界を突破した翔奏くんは命の危機を察したのか隣にいる藍堂岳に「……かわってくれぇ……」と何度も助けを乞うていたが、彼も彼で二人の女子から全く見向きもされない悲惨な現実に打ちのめされ、翔奏くんとは違う意味で憔悴し、灰となって硬直していた。

そうして予定の三時間を迎えた頃、男子二人は酷くやつれた状態で、女子二人はこれ以上にないほど満足した様子で、カラオケルームを後にし、店頭で解散する目前となっていた。


「……それじゃあ……雪音ちゃんとNさん……俺たちはこれで……」


放物線を描くように背中を丸め、肩を落としながら重々しい足取りで帰路へと着く藍堂岳と翔奏くん。

まるで歳を取ったかのような姿にわたしと雪音はくすくすと口元を押えながら笑い合い、「わたしたちも帰ろっか」と敢えて翔奏くんとは違う経路に進もうとしたときーー。


「……なぁ、恋乃葉!」


背後からわたしの名を呼ぶ翔奏くんの声が耳まで届いた。


「ん?どうしたの翔奏くん」


『も、もしかして……!次のお誘い……!?』そんな見るからに自分の都合のいいように解釈をし、淡い期待を膨らせているわたしはキラキラと満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくる翔奏くんの元にわたし自身もまた足を進める。


「ちょっと、恋乃葉と二人っきりで話したいことがあるんだけど」


「ふ、二人っきり!?」


「あぁ、いいか?」


「べ、べべべべつにいいけど!!」


(こ……これは確定演出きたぁぁぁー!!!……次のお誘い……告白……デート……き、……きききす!!)


「ごめん雪音。翔奏くんがわたしと話したいことがあるみたいだから悪いんだけど先に帰っててもらえるかなぁ〜」


「べ……別にいいけど……抜けがけは禁止だからね!」


「ぬ、抜けがけ……!?な、なんのこと!?」


疑い深い雪音は眉をひそめながら怪訝な面持ちで、「絶対だからね」とだけ言い残して、その場を後にした。


「そ、それで……翔奏くんの話したいことってな、なにかな?」


「いつまで別人演じてるんだ」


「べ……別人……?な……なんのこと?」


「とぼけなくたっていいだろ」


「も、もぉ……翔奏くんったら急にどうしちゃったの?なんかおかしいよ……?」


妙の胸騒ぎと同時に額からはだらりと汗が流れ、「あは……あはは……」とぎこちない苦笑いを浮かべる。


(ま、まって……。この展開嫌な予感が……)


頭の中で警笛がカンカンカンと騒がしいほどに鳴り響き、『今すぐ逃げろ!』と心の中の自分がそう叫んでいる。


「わ……わたし……急な用事思い出したから……やっぱり、帰るね……」


見るからに焦燥感に駆られる強ばった笑顔を向けながら、「それじゃあ……」と駆け足でその場から逃げようとしたときーー翔奏くんに腕を掴まれた。


「……お前、恋乃葉だろ?」


「え……?そ、そうだけど。わたし恋乃葉だけどーー」


「じゃなくて、俺の妹の恋乃葉なんだろって言ってんだ」


「な、何言ってのさぁ……!わたしが妹……?ないない」


苦笑いを浮かべながら顔の前で否定的に手を振ると翔奏くんは一秒の間も与えずに。


「俺が妹の顔を忘れるはずないだろ。初っ端からお前が妹の恋乃葉だってことくらい知ってたから」


掴まれた腕は次第に離され、ぶらんと腕が脱力していく。


(し……知ってた!?初っ端から!?なんで言ってくれなかったの!?っていうかそんなことどうでもいい!!……まってまってまって…………わたし……翔奏くんに……あんなことやこんなこと……恥ずかしいことたくさんいちゃったっていうのに……翔奏くんはわたしのこと気がついてた……!?)


俯かれた額から流れる汗はぽたぽたとアスファルトを丸く濡らしていき、同時に手汗が滲み出る。

ドクドクドクと高速の脈を打つ中、わたしは精一杯震える声で対応する。

というか……開き直る……。


「き……気づいてたの……?」


「あぁ、最初からな」


「なんで……言ってくれなかったの……」


「あの場合言わない方が得策だろ。逆にややこしくこじれるだけだ」


「……そう…………」


傾いた夕日はわたしたちを照らし、赤面のわたしの顔をも誤魔化してくれた。


「恋乃葉も俺に気がついてるのかと思ってたけど、あんな感じだったから分かってないのかなって」


そしてわたしはこの状況をどうにか逆転できないかと頭から言葉を引き抜き、まくし立てるように口を開く。


「っていうか、なんで兄さんが合コンなんかに来るのさ!そんな恋愛に興味あったの?」


「それはこっちのセリフだ。お前受験生だろ?それに昨日だって勉強頑張るとか言ってたじゃーー」


「今はわたしのことなんでどうでもいいの!」


「ど……どうでもいいって……」


翔奏くんは何か言いたげな雰囲気に顔を歪めていたが、そんなことお構いなしにわたしは言葉を続ける。彼に一秒の隙も与えないように、


「そ……それで……だ……誰なの……」


「え?誰って何が?」


「だ……だから……!に……兄さんの好きな人……!」


「す、好きな人……!?」翔奏くんは少し驚いたように後ずさり不自然に視線を逸らすと、前髪を触りながら「な、なんのこと……?」と白々しくとぼける。


(あくまでもシラを切るつもりね……)


「誤魔化したって無駄なんだから!わたし聞いたんだから!あの……なんだっけ……兄さんの隣に座ってた人に!」


「……チッ。岳の奴、余計なこと恋乃葉に言いやがって……」


眉間に皺を寄せながら舌打ちをする姿はどこか殺気を感じさせる。

そうしてこれ以上誤魔化しても無駄な行為だと察したのか、翔奏くんは潔く白状した。


「……そうだよ。俺には好きな奴がいる」


「……やっぱりそうなんだ」


「だからって恋乃葉には関係ないだろ」


「……関係ない。……そう……かもだけど……」


「はいはい。これでこの話は終わりな」


くるりとわたしに背を向けると片手に持っていた通学鞄をだらしなく肩にぶら下げ、空いた左手は制服のポケットに突っ込む。

そして、夕焼けに照らされた顔でこちらを振り向くと「恋乃葉。帰るぞ」そうして、彼はわたしの少し前を歩き、その背中を追うように早足で向かう。


「それにしても恋乃葉。合コンに来たってことは案外お前も彼氏とか欲しかったんだな」


わたしの歩幅に合わせて隣を歩いてくれている翔奏くんは片方の口角を上げて、嘲笑うように横目でこちらを見る。


「ち、違うから!!わたしは雪音に無理矢理連れてこられて、それで参加したの!!だから、今日の合コンはわたしの意思など一ミリも入ってないからね!?」


「ほんとかぁ?本音を言えよ、本音を。『本当は彼氏が欲しくて来ましたぁ』ってさ!」


「だ か ら !!さっきのが本音だって!!」


「へいへーい、そういうことにしておくよ」


いししと笑う翔奏くんは心底楽しそうにわたしをからかい、「でも……」と顔色を曇らせながら言葉を重ねる。


「俺以外の男にはあんな風に接するんだな」


「あ、あんな風……?あ!ち、違くて!あれはーー」


「恋乃葉のあんな姿初めて見たよ。……なんていうのかな、恋する乙女みたいな?」


後頭部に手を当てながら切なげに笑う翔奏くんは夕焼けに照らされているせいか、なぜだか泣いているようにも見えてしまった。


(……違うんだよ翔奏くん。わたしは……わたしは……翔奏くんが好きで……翔奏くんにしかあんな姿見せないよ?……だからそんな顔しないでよ……翔奏くん……わたしは……わたしはね……)


「かな……兄さん、わたしは……」


「でも、今回は俺が恋乃葉のああいう一面を体験できたわけだし、まぁいっかな。……今後、俺以外の男に見せるんだなって思うとちょっと癪だけど」頬をかきながらはにかむ翔奏くんは優しく目を細める。


(それって……どういう……意味……?……そんなこと言ったら、わたし……勘違いしちゃうじゃん……)


「今日は案外楽しかったな」


「……わたしもだよ」


「そうか?なら、よかった」



頭の後ろで手を組みながら、意外だと言うかのように目を見開く翔奏くん。


(……あなたがいたから楽しめたんだよ?……それが言えたら苦労しないのになぁ)


翔奏くんがわたしに語り掛ける声は微かに枯れていて、それでも普段通り優しい声。わたしが世界で一番大好きな声。

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