新たなる帰還、新たなる旅立ち
今日、俺はマリに告白する。俺たちの旅が終わってしまうその前に。絶対。
──そう決めていたはずなのに。俺たちの旅はあっけなく終わった。魔王の断末魔と共に。
「終わった……!」
マリは俺に振り向くとガッツポーズをしてみせ、ニッと笑った。死闘の後というのが信じられないくらいに、眩しい笑顔で。いつも通りの、彼女の心から出る明るい笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
「終わったよ!キース」
やめてくれ。
「わたしたち、ついに魔王を倒したんだ!」
旅が終わっただなんて。たとえそれが俺のわがままだとしても、嬉しそうに言わないでくれ。
告白をしてマリをこの世界に──俺に──引き留めようと思っていたのに。俺は意気地なしだ。
数年前、マリはこの世界に導かれてきた。
彼女によるとこの世界の創造神の手により、チキュウという場所から来たのだそうだ。
もちろん当初は誰もそんなこと信じられなかった。だが、大賢者ノエルがマリは異世界人であると認めたところで風向きは変わった。
大賢者ノエル──俺の師であり、俺の命の恩人でもある。
「おいキース」
ノエル先生も旅に同行しており、たった三人だけのパーティで攻めに守りにと八面六臂の活躍を見せてくれていた。
魔王討伐もノエル先生なくしてはきっと無理だっただろう。その先生が俺のそばに立つとささやいてきた。
「お前、このままでいいのか」
先生は年齢不詳で、幾つになるのか誰にもわからない。最低でも300歳は超えていると噂される先生は、傍目には30歳前後の人間に見える。見た目も服装も中性的で、もう何年も共に暮らしていた俺でさえ、先生が男なのか女なのか知らない。
「……何がですか」
いやっほう!とはしゃいでいるマリに聞こえぬよう、俺もささやき返す。
「このままだと女神の元に行ってしまって、マリは元の世界へ帰るぞ。帰ってしまうぞ」
「……喜ばしいことではないですか」
はぁ、とノエル先生はため息をつくと俺から離れマリの方へと歩み寄っていった。
「ならもっと嬉しそうな顔をしろ」
していますよ。していますとも。
そんな反論の言葉は、口から出てこなかった。
***
俺たちの王都への帰還は盛大な出迎えと共に果たされた。半信半疑、駄目で元々の精神で送り出された時とは打って変わっての祝福。都の大通りは人、人、人。人で埋め尽くされ、少しでも俺たちを見ようと、建ち並ぶ家々の屋根に登って手を振る人もいる。
「ふん、いい気なもんだ」
口ではそう言いつつもノエル先生も野次馬たちに手を振り返していた。マリもニコニコとして片手を大きく動かしている。
「嬉しいね!」
感情をまっすぐに表現するマリが俺は好きだ。少し無茶を押し通すようなところもあるけれど、彼女の芯の通ったまっすぐさにはずっと心を惹かれていた。
***
マリがこちらの世界に現れてから数ヶ月経った頃のこと。
「あのさあ。ちょっと、わたしに付き合ってくんない?」
考え得る限り最悪の誘い文句だった。王立図書館の奥まった倉庫。本を傷めぬよう窓もない、俺の一等地。そこに突然、聞き慣れぬ女性の声がした。
「……は?」
業務である図書の整理をさぼって読みふけっていた本から顔を上げると、そこには渦中の女性が立っていた。
「……ただいま業務時間内ですので、またの機会にお越しください」
言い放つとまた本に視線を落とし、読みふけっているふりをしたのだった。
当時、まだ俺はマリがどんな人間かということを知らなかった。ただ、チキュウと呼ばれる場所から魔王を打倒するためにこの世界へ呼ばれ来たことと、彼女の支えとなる仲間を探していたことは知っていた。
要は無関係な人間だったということだ。当時の俺にとっては。正直なところ、勝手にやってくれればそれでいいとさえ思っていた。
「いやサボっているよね?ねえ、ちょっと!」
「館内ではお静かに願います」
「あのね、わたしについて来てほしいの」
「……」
「……手荒な真似はしたくないんだけどなあ」
彼女の言葉に身構える余裕もなかった。鋭い風切り音と共にマリの腕が俺の身体を抱えたかと思うと、次の瞬間には肩に担がれ、図書館の屋上へと運ばれていた。
この時は知らなかったが、マリはこちらの世界に顕現する際に“ギフト”と呼ばれる特殊な力を女神に貰っていたのだった。マリの腕力も脚力もそのギフトのおかげで強化され、人間離れしたものになっている。
図書館の屋上は強い風が吹いていて、彼女の長い髪が風に暴れていた。
「ノエルさん、連れてきたよ」
「仲良く手を引いて連れてくることはないだろうと思っていたが……これではまるで人攫いか何かだな」
いたずら成功、と言わんばかりに俺の師はくくく、と笑いを抑えきれずにいた。
「先生……これは一体どういうことですか」
マリに担がれたまま俺は、ニヤニヤとしているノエル先生を睨んだ。
「お前もたまには虫干しせんといかんだろうと思ってな」
「風呂にはちゃんと入っています」
「ま、そういうことではない。わかるだろう?」
マリから降ろされて俺はその場にドサリと腰を落とした。
「なんなのですか」
「言葉にするまでわからぬふりか?──この三人で魔王を打倒しに行こう、と」
「いや、なぜ俺たちが」
「マリが得たギフトとやらは肉体を強化するものばかりらしくてな。そこらの一流武術家が束になってかかっても片手でいや、指先一つで一蹴できる強さだ。だが、魔法に関してはとんと駄目なんだ。どうやらチキュウという所に魔法なんてもの、ないらしくてな」
つまり、魔法が使える人間を探していると。
「魔法といえばトップが私。で次点は──おお、自慢の愛弟子キースよ。お前以外にいないだろ?」
大仰に両手を広げた師に俺は顔をしかめた。たしかに俺にはノエル先生仕込みの魔法の腕がある。孤児で野垂れ死にそうな俺を救ってくれただけでなく、生きる術を教えてくれたノエル先生にはいくら感謝しても感謝しきれない。
ただ俺は、教わった魔法の腕を使って成り上がろうとは考えたこともなかった。孤児で家柄も何もない俺が目立っても反感を買うだけだ。
だから俺は食うに困らないだけのひっそりとした閑職に就いたのに──。
「そそ、頼むよキースさん」
調子良く手のひらを合わせて「お願いっ」と懇願する彼女の表情を俺はまっすぐ見れなかった気がする。
***
「キース、これ美味しいのに食べないの?」
王都に帰還してからは毎日がお祭り騒ぎだった。今まで飲み食いしたことのないようなものが毎食現れ、これまで会話するどころか視線を交わすことさえ許されなかったようなお偉方がやって来ては、クドクドと何事かをまくし立てていく。それにお付きの者たちまでもがワラワラとやって来るから、挨拶をしても誰が誰だか覚えてなどいられない。
料理の味なんて、わかるわけもない。
旅の時のような、三人だけの食事が恋しい。
時には野宿もした。大したものを食べられない日もあった。でもあの頃の方が。
白の眩しい大理石の床は寒々しく、壁を彩る絵画や装飾はよそよそしい。
美しくしつらえられたテーブルを囲むよりも、身を寄せ合うようにして焚き火を囲んだあの夜が。
知らない人たちが話す過度に飾り付けられた言葉は退屈で、きっとそれは一日花のように明日には無意味になるだろう。それよりも、マリがざっくばらんに語ってくれたチキュウのことを俺はもっと知りたい。俺もマリに話したいこの世界のことがまだ沢山ある。
それなのに。
「あー、今日も沢山食べたー!」
マリ、きみは違うのか?
***
食事を終えて俺たち三人だけになった時、マリは居住まいを正すと俺とノエル先生に打ち明けてきた。
「実はさ……」
昨晩のこと。夢の中に女神が現れ、三日後に自分の元へと繋がる扉が開くとマリに告げたらしい。
三日。そう遠くないうちにマリはチキュウへ帰ると思っていたけど、まさかこんなに早いなんて。思わず「三日後って今日も入れてあと三日か!?」と咳き込んで言ってしまった。
「うん。今日、明日、明後日」
指を三本折ってマリは平然と言う。
「そうか。いよいよか」
ノエル先生も極めて冷静だ。先生もマリとの別れで思うところがあるはずなのに、それを一切に表に出さない。俺ももし数百年も生きればこうなれるのだろうか。
「マリは──」
「ん?」
「いや。なんでもない」
俺が語ろうとした言葉こそ、今更、まるで無意味なものだ。マリが望んで元いた場所に帰ろうとしているのに、それを引き留めようとする権利なんて、俺には、ない。
***
頭ではそうわかっていても、結局その夜は一睡もできなかった。時折風が窓を叩き夜が過ぎゆくのを知らせていく。俺はそれをただベッドの端に腰掛けて聞いているだけだった。
翌日、俺はフラフラと城の中を歩き回り、その末に城から少し離れた場所に位置する庭園の東屋に腰掛けて、ぼんやりと色とりどりに咲く花々に目を向けていた。
昨日のマリの言葉がずっと俺の頭の中で繰り返されていて、眠れなかった以上にそれが苦痛だった。明日にはもうマリは帰ってしまう。俺は何をするべきなんだ。何ができるんだ。
「──キース殿、こちらにおいででしたか」
気がつくと恰幅の良い紳士が東屋のそばに立ち、俺に微笑みかけていた。
「アルフレッド伯爵」
「だいぶお疲れのようですね」
伯爵は俺に向かい合うように座ると、俺がぼんやりと眺めていた方を見やった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが。以前申し上げた娘との婚姻の件。少しは考えていただけたでしょうか?」
なんてことはない。魔王討伐の褒美にと、俺たち三人には半ば強制的に爵位が与えられていたのだ。ただそれだけのことで、こんな縁談話があちこちから舞い込むようになってしまった。
肌感覚で上流階級の人間とは合うわけがないと決めつけ、そういうことからは何かと理由をでっち上げて逃げ回っていた俺だったが、この柔和なアルフレッド伯だけは避ける気になれなかった。
彼には年頃の娘がおり、どちらかというと娘の方がこの話にかなり乗り気らしい。伯爵は娘に尻を叩かれるようにして、俺にこの縁談を持ってきているようだった。
たしか娘の名は──ティタだったかティコだったか。
「まずは我が家へ来ていただけませんか?それでゆっくりと互いに語らって。身内のことを褒めそやすのは面映ゆいですが、あれはよくできた子ですよ」
俺の沈黙を気にすることなく、アルフレッド伯は続けた。
「どうです?一度ゆっくり、旅のことを私たち家族にお話しも来てくださるだけでも……」
にべもなく断るのも彼の誠意に対し失礼ではないか。乗り気になどなれないが、皆で行けば他の二人と違って社交的でもなく面白おかしく話を盛り上げることもできない自分をアルフレッド家も知ることとなる。
そうなれば、伯爵も娘自身も「あの男はつまらぬ人間だしやめておこう」とでもなってくれるだろう。
「ではいずれ三人で──」
そこまで言った所で、無意識の内にマリが帰還することを記憶の片隅に押しやっていたことに気がついた。
思わず言葉を中断する。きっと今、酷いしかめ面をしていることだろう。
「──キース殿?」
気まずい沈黙。それを破ったのは明るく弾む女性の声だった。
「お父様!」
「ティアナ」
どうやら伯爵の娘のようだ。そして俺は、体格の良い伯爵の身体の陰になっていたらしい。彼女は父親が一人でいると思い込んでいたらしく、少し気を緩めた様子で近づいてきた。
「柄にもない場所にいらっしゃって……」
そして間近になってようやく俺の存在に気がつくと、「キース様!」と悲鳴に近い声を出したのも束の間、すぐに平静を取り戻し軽やかにお辞儀をしてみせた。
「はじめまして……ですわね?キース様。娘のティアナです」
ブロンドの髪。くりくりとした瞳。そして楚々とした彼女の立ち居振る舞い。向かい合った彼女は「可憐な」という形容詞がぴったりと当てはまるような女性だった。きっと彼女が微笑みかければ、十人中十人が頬を緩ませ彼女のためにかしずくだろう。
「キースです、よろしく」
「……」
ティアナはすぐに己の父親の横にくっつくようにして座ると、口をとがらせた。
「お父様がこちらにいらしていると伺ったものですから来てみれば。まさかキース様もご一緒とは存じませんでしたわ」
本当にたまたまだったのだ、とアルフレッド伯爵は娘と俺と両方に言い訳するように答えているが、それが果たして本当なのかどうか。俺に確かめる術はない。
「──それで、今ちょうどキース殿を我が家へ招待していたところだったのだ。旅の話でも御三方から伺えればと」
「まあ素敵!ぜひ、ぜひいらしてくださいね?」
「そうですね……」
俺がどう答えようか逡巡していると、伯爵はおもむろに立ち上がり娘の肩に手を置いた。
「今はキース殿も皆に歓待され心身ともに休まる時がないでしょう。わたしたちだけで独占するのも気が引けます。キース殿、返事は後日、落ち着いてからで構いません」
そう言うと、「ティアナ、行くよ」と声を掛け東屋を出て行った。
ティアナも腰を浮かせたが父親の背中をすぐに追っていくようなことはせずに、中途半端に腰を浮かせた状態のまま、俺に顔をグッと寄せてきた。
「わたくし、本気ですから」
「は」
眼前にある彼女の紅潮していく顔を、俺は直視できずに視線をそらす。
「もし──もし来ていただけるのなら、キース様だけで来ていただけませんか?その……キース様はわたくしのことを『にわかに有名になった男に浮かれているだけの、流行り物が好きな女』とでも考えていらっしゃるかもしれませんが」
「いやそこまでは……」
「本気です。わたくし、貴方に本気なのです」
そこまで言うと、ティアナはくるりと身体の向きを変え、東屋から出て行った。
時間にしてわずかなものでしかなかったのに、たったこれだけのことで俺はドッと疲れてしまった。もう眠い。
東屋で深く息を吐いていると、アルフレッド親子が去った方向とは異なる方角からマリがこちらに歩いてきた。
「ずいぶんと疲れているのね」
「……見ていたのか」
「まあね」
「どこから?」
「おじさんに言い寄られているところから」
つまり最初からか。しかし伯爵に対して「おじさん」はないだろう。
「……あの人はアルフレッド伯爵だ。あとからやって来たのが娘のティアナで……」
ティアナと縁談の話が持ちかけられていることを率直にマリに言ってしまっていいのか。だが俺の迷いとは裏腹に、マリはちゃんとわかっているらしかった。
「で、どうするつもり?あの子と結婚したいの?」
「いや……断るつもりだ。ただ家に招待されてしまって。英雄譚を聞かせてほしいんだと」
ハハッと自嘲気味に笑う俺をマリは黙って見ていた。
「何もかも断るのは失礼じゃないか。せめてそれだけは果たすべきかと思っていたんだが──俺と先生の二人だけでお邪魔してもいいものかと悩んでいたんだ。あちこちで派手な活躍をしたのはきみだしな。主役がいないのでは向こうも退屈するかもしれない」
「……結婚を断るつもりなら、家に行かなくてもいいんじゃない?行けばやっぱり、そっちの話も断り難くなるんじゃないの?」
正直に言うと、その恐れはあった。マリがいなくなった世界で自分が自棄気味に溺れるようにしてティアナに傾倒していく様を想像するのは──とても容易い。
だが、それをここから離れていくマリに指摘されるのは少しカチンと来るものがあった。
「別にマリが心配することではないだろ」
「いやわたしは心配なんて」
「どうせ、ここからいなくなるんだから」
「……は?」
まずい、とは思ったものの言葉を止めることはできなかった。
「そうだろ。マリは役目を果たしたんだから。終わったんだ」
「……魔王を倒してからずっと、キースってわたしに冷たいよね」
マリは東屋の脇に立ったまま、声を震わせて俺を睨んでいる。その視線から逃げるように俺は顔を伏せた。
「冷たい?元々こうだったろ」
「嘘。魔王を倒す役目を果たしたら、わたしはもう他人ってわけ?」
「何を言っているんだよ」
「じゃあちゃんと言ってよ」
気づかずに握りしめていた手のひらがじわりと汗をかいていた。
「……」
「ちゃんと、言って」
「……マリがあの日、図書館の屋上に連れ出してくれたあの日。あの時から俺は──」
「ちょっと待って、そこから!?」
「……聞けよ。俺は……マリの笑顔が好きだった。最初から。嬉しい時や喜んでいる時だけじゃない。どんな時でもマリがそばで笑ってくれていたから、俺はあの旅で苦しい思いをしている時でも、最後まで立っていられたんだ。それにマリは言動にぶれない芯があって、それも俺は好きだ」
「……そ、そう……」
マリは俺の隣にストンと腰をおろした。
「でもマリはさ。チキュウのことを話している時、ふと遠い目をして懐かしそうな顔をするだろ。いや、するんだ。わかるんだよ。俺はそんなマリの顔を一瞬でも見るのが辛いんだ。『ああ、やっぱりマリはこの世界の人じゃないんだ』『ああ、元のチキュウに戻るべき人なんだ』って。だから俺は、マリがこの世界に思い残すことのないよう、チキュウに帰ってくれるのが一番いいと思っている。でも。いや、だから──。……もし、俺がマリに冷たくしているように見えていたのなら、謝る。ごめん」
本当はマリに「俺のそばにこれからもいてくれ」と伝えたかったけど、それは言えなかった。何もかもをマリに打ち明けることで彼女をこの世界に引き留めようとすることは、俺にできなかった。
「……悪い、本当に、俺はマリにはチキュウに帰って幸せになってほしいんだ」
そそくさと席を立ち東屋を出ようとした俺の袖をマリは掴んで、笑った。
「わかった」
それだけ言って微笑んだマリの笑顔は一点の曇りもなく眩しくて、俺はそれ以上何も言えなかった。
でも、わかってくれたのなら、それでいいか。
***
次の日の午後。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言い残して、マリは王都から近い遺跡にある崩れかけの神殿へと一人で入っていった。その中にマリだけが認識でき通れる扉があるのだと言う。
マリの希望で彼女の帰還は国の誰にも知らせず、見送りは俺とノエル先生の二人だけだった。
振り向くことなく奥へと進んで行ったマリの背中がやがて見えなくなっても、俺たち二人は神殿の入り口に佇んでいた。
「帰ってしまいましたね」
俺はそれなりに自分の気持ちを伝えたし、それ以上のことがマリに伝わった……と思う。その上でマリが自分で帰還を選んだのなら、俺が文句を言う筋合いはない。
「行ってくる」──か。最後の最後まで、マリらしい別れだった。
「先生、他の人達にはどう説明しましょう?」
「ん?ああ、そうだな……」
ノエル先生は相変わらず冷静で、のんびりと俺に返事をした。
「わたしが上手いこと言っておこう」
そう言うのでノエル先生にマリ不在の説明を一任して、俺はその日、空虚な一日をぼんやりと自室で一人、過ごした。
ノエル先生の手前できるだけ平然としたふりをしていたけれど、一人になるとやっぱり駄目だった。
旅に出た当初は早く戻って本でも読みたいと思ったのに。
落ち着いたらゆっくり読もうとあれほど思っていた書物も、反発し合う斥力が働いているみたいに文字も言葉も作者の熱量も、何もかもが俺の中へと流れ込んでこなかった。
本当はもう後一日猶予があったんじゃないか。もしかするとマリが「ごめん、勘違いしてた」とか言って帰ってくるんじゃないか。そんな思いに囚われて窓の外を眺めていたりしても、ついぞ彼女の姿が現れることはなく。
深夜になって、胸の空洞から吹き上がる風の正体が「寂しさ」だと、ようやく理解した。
俺の寂しさを伝えたい人が──マリが──いなくなってようやく、寂しさを理解した。
***
翌日。マリの姿が消えたことを勘繰った貴族の一部に「英雄マリは存在を気に食わない者たちにより暗殺されたのではないか」という風説が流れたらしく、皆の前で詳しく説明せよとのお達しが俺たちに届いた。
「先生……どう説明したんですか」
「うーん、言葉が足りなかったか。仕方ない。とにかく説明するしかないさ」
午後、貴族たちが居並ぶ大講堂の中央に設けられている壇上に、俺たちは立った。
ぐるりと見回すと、様々な思惑を感じる彼らからの視線が刺さる。
「皆さんご存知のように、マリは魔王を討伐するためにチキュウと呼ばれる地より来ました。これはこの世界の創造主たる女神との契約によるものです。その過程、“ギフト”で強力な能力を得た彼女は、見事役目を果たしました。契約を達成したわけです。故にマリは女神の元へと向かった。そういうわけです」
ノエル先生の言葉に、舌鋒鋭い貴族の一人が立ち上がり早速俺たちを詰問する。
「大賢者であるノエル様に反論するような真似はしたくないのですが、しかし。聞けばお二人は神殿の中には入らず外で、中へと入っていくマリ殿を見送った。そうですね?」
「はい」
「ならば、内部で何者かが待ち伏せていて、彼女を襲ったという可能性もあるのでは?」
思わず俺は吹き出してしまった。何を言っているんだ。ノエル先生が相手をするまでもない。
「そんな馬鹿な。マリは我々人類が長らく滅ぼせずにいた魔王すら容易く凌駕した人間ですよ。そんな彼女を襲う身の程知らずがどこにいるのですか」
「どのような人間にも隙というものがあるでしょう。不意を狙えば」
「机上の空論ですね。それにたとえどんなに彼女の隙をついたとしても、すぐに反撃されておしまいですよ」
やれやれと俺はわざとらしく首を横に振って大げさにため息をついた。
ノエル先生はと言うと、横で退屈そうにしている。馬鹿馬鹿しい気持ちはわかるけど、ノエル先生も何か言い返してください。
「──そうでしょうか?」
先ほどとは異なる貴族が代わって立ち上がり、意味ありげに言葉を切ると壇上の俺たち二人を指差した。
「貴方たちが暗殺の協力者ならば、彼女の隙をついて致命傷を負わせることなど容易いのでは?」
不躾な言葉と構内のどよめきに、頭に血が上る。隣のノエル先生を窺う余裕すらなかった。
「馬鹿な!」
俺の怒号に反応して講堂は瞬間、シンと静まり返った。
「何を──馬鹿な。馬鹿馬鹿しいにもほどがある!俺もノエル先生も彼女のことを好いていた!なのに彼女を殺すだと!?戯言もいい加減にしてくれ!彼女は彼女の、元いた世界、チキュウに帰ったんだ。それだけのことだ!」
きっと他の誰よりも帰ってほしくなかった俺が、なぜ、こんなにも今、彼女がここにいないことを反芻し噛み締めなければいけないんだ。
「俺たち三人の信頼関係を侮辱するような発言など、謹んでもらいたい!」
「だが──金を眼の前に積まれ将来の地位を約束されると転ぶのが人というものだろう」
「愛する女性を傷つける者が、どこにいる!!」
再び静まり返った講堂の大扉が、音を立てて開いた。
***
扉の開いた入り口に立っていたのは、たった今問題になっていたマリ自身だった。横には見知らぬ女性。そして少し離れた後ろには大勢の群衆が見守るようにして、そこにいた。
「いやー、遅くなってごめん!みんな、何してるの?」
ツカツカと俺たちの方に近づきながら、マリは不思議そうな顔をして呟く。
「説得に時間がかかって、大変だったんだよ」
「いや、マリ。え?なんで……」
「なんでって……『おかえり』ってそこは言うべきじゃないの?」
ふふ、と笑ってノエル先生は片手を挙げた。
「おかえり、マリ」
「ただいまです」
ノエル先生はこのことを予測していたのか?いやでもなんで。
「え?え?」
「キース、マリの言葉をちゃんと聞いていたのか?『行ってきます』と言っていたじゃないか」
「はあ……?」
「にぶいやつめ。もう二度と会えないどころか連絡手段もない相手と別れをするのに、『行ってきます』と言うだけの者がどこにいる」
「そうだったのか……マリ?」
「そういうこと」
マリの横にいた見知らぬ女性はうなだれていて、まるでばつの悪い子どものようにマリの後ろからおずおずとついてきている。
「こちらは?」
ノエル先生は己の席をその人に譲りながら彼女に会釈をした。
「この人?人って言っていいのかなあ。えっとハルモナ。この世界の女神様」
「は?」
きっと今までの人生で一番間抜けな顔をしていたと思う。
「なるほど」
俺には何が何やらわからないのに、ノエル先生は一人合点がいったようにうんうんと頷いている。
「ま、待ってくれ!マリ!ちゃんと説明してくれ!」
「最初はわたしだけ行き来できればそれでいいかな、と思っていたんだけどさ。せっかくならと思って」
「帰ったんじゃなかったのか?」
「え?帰ったよ?それでまた、帰ってきたの」
「一体何を言っているんだ?」
「いやだからさ。地球とこっちと、好きな時に行き来できるようにハルモナに頼んだの。それでついでに、わたしだけじゃなくてキースやノエルもと思ったんだけど、ハルモナも頑固でさあ」
「……本来は二つの世界を自由に通行できるなんて、誰にも許可できないのです」
「それでわたし、かなり説得したんだよ。そうしたら、わたしと、もう一人だけなら、ってようやく折れてくれてさ。ならキースをと思って」
「……『神殺し』のギフトを得てしまった人間に強く逆らえる神などいません……」
席に座ってますます縮こまって見える女神様が小さな声でボソッと呟く。待て。今何か物騒な単語が出てきた。マリ、きみは一体どんな『説得』を神様相手にしてきたんだ?
いや、違う、そうじゃない。
「どうして……?」
「『どうして』って。キース、わたしのこと好きでしょ?だから」
思わず、俺はマリの両手を取っていた。
「ああそうだよ。俺はマリのことが好きだ、大好きだよ!」
「うん、知ってる」
「『知ってる』じゃなくて!俺は……俺は、マリの気持ちを知らない」
「……わかるでしょ」
「わからない」
俺に両手を握られたまま、マリは耳まで真っ赤にしてうつむいている。
魔王の前に立った時よりも手足が震えた。魔王の前で呪文を唱えた時よりも口の中が乾いた。
でも、眼は逸らさなかった。
「俺は、マリの口から、マリの気持ちを聞いていない。教えてくれ」
いつもそうだ。いつもマリは言葉よりも先に行動で自分の態度を示してきた。今回、女神様を説得してきたことだってそうだ。一言。たった一言だけでも言ってくれれば、俺はあんなに思い悩むことなんてなかった。
「……今?」
「今じゃなきゃ、駄目なんだ」
「いやでも……ね?」
横にいるノエル先生や女神様、それに講堂にいる他の人のことなど、俺は関係なかった。
マリの気持ちだけが、この世界のすべてだ。
「言ってくれ」
「…………わ──わたしもキースのことが、好き……です」
俺も好きだ、と小声でささやくと、マリが不服気に口をとがらせる。
「『好き』って言ったって……わたしは神様を説得するくらい動いたのに、キースは口だけじゃ──」
すかさず、俺はマリの両手を引くと抱き寄せ、そのまま唇を奪っていた。
どれくらいそうしていただろうか。講堂にうるさいくらいの歓声が上がる中、あたふたと俺から離れたマリは椅子で居心地悪そうにしていたハルモナ様を左脇に抱え、次に俺を右脇に抱えた。
「お、おい」
「じゃあね!みんな!また帰ってくるから!ノエルも元気でね!」
逃げるようにしてマリは講堂を駆け、大扉から外へと飛び出すと、神殿の方角へと全速力で行く。
「わたしの両親にも会ってもらうから!少しくらい愛想よくしてよね!」
「──ああ、わかった」
抱えられたままちらりと彼女の顔を見ると、喜んでいるような、恥ずかしがっているような、なんとも言えない表情をしている。きっと俺も似たりよったりの顔をしていることだろう。
*********
「ようやく行ったか」
やれやれと大賢者ノエルは講堂の壇上にあぐらをかいて座った。実の息子のように育ててきた愛弟子が、まさか文字通りこの世界を飛び出していくことになるとはノエル自身、想像だにしていなかった。
「ノエル殿、これは一体!?」
「いや……見た通りです」
本当は己も外の世界、チキュウというものを見てみたいノエルだったが、一人だけというのならば仕方がない。それにノエルがこの世界にいることで、あの二人がこの世界に顔を見せる一つの理由になるのならそれでいいと、己を納得させていた。何より、自分がくっついていったのではとんだお邪魔虫だと。
「ま、時折戻ってくるようですし。その時、盛大に出迎えてやればそれでいいんじゃないですか?」
「そうではなく!」
良くも悪くも二人を英雄として前面に押し出し国政に利用するつもりだった大臣は、自分の算段がもろく崩れ去ってしまったことに意気消沈しその場にうめき声を上げてうずくまった。
「どうして行っちゃうかなあ」
「あー……まあ、そう気を落とさずに」
「ノエル殿……」
「わたしでよければ、あの者らの抜けた穴を埋める手伝いくらい、致しますから」
「本当ですか、ノエル殿……!」
「ええ。今まで『大賢者』とおだてられ好きに遊ばせてもらっていた身。多少なりともこの国に恩を返さねばならぬでしょう」
「おお、ノエル殿……!では!」
「そうですね。とりあえずキースがやっていた図書館での仕事を引き継ぎましょう。あそこならわたしでも務まりそうだ」
「ノ、ノエル殿ぉ……」
もっと要職に就いてとすがりつき懇願する大臣には悪いが、とノエルはこっそり思う。
あいつらが帰ってきた時いつでも迎えられる立場にいないとな。本当にのけものになったみたいで、寂しいじゃないか。
***
さざめき立つ講堂の隅には一部始終を見聞きしていたアルフレッド父娘の姿があった。ティアナは肩を震わせ両手で顔を覆い、人前にも関わらず大粒の涙を流している。
「もう少し、もう少しだけわたくしが──」
先日庭園で「はじめまして」と挨拶したのとは裏腹に、ティアナとキースが最初に出会ったのは彼が国立の図書館に勤めだしたばかりの頃。魔法を習いたてのティアナが書物から知識を得ようとした折に、師匠譲りで魔法への造形が深いキースがあれやこれやと書物の世話をしてくれたのが初めての出会いだった。
それからティアナはキースのことをそれとなく調べ上げ、キースが賢者ノエルの養子にして愛弟子であること、それがキースの立ち位置を微妙なものにしていることを知ったのだった。だからキースが魔王を打ち倒し爵位を得たのは、ある意味、彼がわかりやすく明確な立ち位置を得、自分のような者がアピールしやすくなったことと同義だった。
これ幸いとばかりに彼へと接近を試みたティアナだったが──。
「ティアナ……」
娘の肩を抱き、アルフレッド伯は嘆息した。もしあの庭園で娘が「はじめまして」とキースの記憶を試すようなことを言わずに「あの時お世話していただいた」と言えば事態は変わっただろうか?それとももっと以前に、娘が身分違いの恋に怯えずにいれば。もしも──。
父親は首を横に振った。
すべては詮無きことだ。
彼はただ、娘の悲しみを共に受け止めてやることだけしかできない。見上げた講堂の天井は普段よりもやけに低く、滲んでいる。
*********
神殿が近づくと、ようやく俺とハルモナ様はマリから降ろされた。
「ところでキース──」
本当は、マリの言いたいことなんて俺にはよくわかっている。長い年月共にいたわけじゃないけど、あれほど素晴らしい旅を俺たちはしてきたのだから。だから今、マリが俺にどんな言葉をかけてほしいのかも、彼女の口から言葉となって出てくる前に、わかっている。
「おかえり、マリ」
「──うん!ただいま!」
彼女の満開の笑顔がぶつかるくらい俺の眼の前にあった。眩しい笑顔が。目を閉じるのはもったいないけれど、やはり目を閉じてしまった。
「あのー。神の前ではいちゃつくの、控えてほしいのですが……」
ハルモナ様の祝福の言葉が聞こえても、しばらく俺たちはそうしていた。そしてようやく目を開けた時、胸の内のすきま風が完全に凪いでいる自分を発見した。
身を寄せた彼女から伝わる鼓動が、穏やかなぬくもりを伝える鼓動が、そこには満ちていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。