阿部定事件
薄硝子一枚隔ててアスファルトを乱打する雨音に鼓膜を揺らされながら、神屋有了は右折のウィンカーを上げた。チカチカと等間隔に鳴るランプに照らされて、夜道に降り注ぐ水滴がキラキラと乱反射する。
昨日からパインズゲート市にかかった秋雨前線は、四季の移ろいに逆らうかの様に、まるで梅雨前線の色を呈していた。
常ならば仕事を切り上げて布団に潜り込んでいる頃だったが、就寝の折に突如鳴った携帯端末に浮かんだ文字に、有了はあくび混じりに重い腰を上げたのだった。
ちらりと左手を見ると、長短の針が共に天を指している。連なったはずの時間という連鎖を今日と明日に区切る一瞬を経て、今日だったはずの数秒前がいつの間にか昨日へと置き換わるのと、車が目的地に辿り着いたのはほぼ同時のことだった。
(ここか……)
見上げた先にあったのは一見落ち着いた色合いの二階建てのビル。歓楽街に似合わない作りだが、平時は扇情的な衣服の男女がひっきりなしに出入りする、ごく普通のラブホテルだ。
念のため、携帯端末に書かれた文字とビルの看板を見比べて、有了は助手席に置いていた断熱ボックスを肩に掛ける。中には丁度五本のビン入りカクテル。今日の顧客のために有了が用意した、特性の高度数品だった。
それを下げてラブホテルの自動ドアを潜ると、事前に連絡があった通り、無数の部屋のパネルが有了を出迎えた。
(えっと……)
その中から、顧客に指定された十六番のパネルを押すと、程なくしてスピーカーが鳴り、『もしもし?』と聞き慣れた声が響いてきた。
「もしもし、十々丸か?」
『ああ、有了くんか』
有了がマイクに返事をすると、スピーカー越しの声が妙に柔らかくなる。
「今来たとこだけど、直で部屋に行って良いのか?」
『ああ、もちろんだとも。部屋の鍵は開けておくから、好きに入ってきてくれたまえ』
受話器越しの声に「あいよ」と頷きスイッチを切るのと、隣のエレベーターから事を終えたらしいアベックが姿を現したのはほぼ同時の事だった。
◆
「やあやあ、よく来てくれたね有了くん。夜遅くに済まなかったねえ。雨は大丈夫だったかい?」
敢えて照度を落としたランプの灯る廊下を抜け、指定された部屋のドアを開けると、先の声の主である首藤十々丸がけらけらとした笑みと共に有了を出迎えた。
「車だから特に問題ないって。知ってるだろ?」
「それでもさ。こんな真夜中に呼び出してしまったしねえ」
そう言いながら、十々丸が片目を瞑る。
首藤十々丸。しっとりとした艶を放つ射干玉の長髪と、白磁の肌に宿る猫の様な金目銀目のオッドアイがトレードマークの、このパインズゲートでも知る人ぞ知る美少年売りの男娼だ。その両目と同じく何処か気紛れな猫を思わせる風貌は、人懐っこさと囚われなさという、相反する印象を見る者に抱かせる。
「気にするなって。いつも客を紹介してもらってるからな」
そう言って肩を竦めた有了は、玄関に下ろしたクーラーボックスから、入れていたボトルと伝票を取り出す。
「頼まれてたもんだ。スペシャルを二本とチェリーグミベースを二本な」
「後の一本は何だい?」
「それはおまけだ。丁度、結構良いはちみつが手に入ってな。意外と上手く行ったから持ってきてみたんだ」
「もし良かったら試してみてくれ」と有了が言うと、「そういうことならならありがたく貰っておくとしよう」と笑った十々丸は確かめる様に少しだけおまけのボトルの口を開ける。
途端にぷんと玄関を満たす甘ったるいはちみつの香りと酒精の匂い。
「うん、相変わらずパーフェクトだね、有了くん」
有了の作品の出来栄えに、十々丸は満足そうに頷いた。
「一応、注文通りうんと甘く作って来たけど、よかったのか?」
「うん?」
そんな十々丸に、有了は念のために確認を取る。
「普段より大分遅いだろ? 前に甘いのは美容の天敵~って言ってたから」
「ああ」
有了の説明に得心したように、十々丸が頷いた。
「なに、こういうのもたまにはアリさ」
「さよか」
「それにね」
「ん?」
クスクスと笑いながら、ぺろりと瓶の縁に舌を這わせる十々丸。
「女性とベッドでいちゃいちゃしながら飲ませるには、べたべたに甘い方が雰囲気が出るものと相場が決まっているのさ」
蠢いた舌先がぬらぬらと妖しく光を散らし、その微笑に顧客である女性には見せない危険な色が浮かぶ。
(飲ませる……ね)
その言葉の意味を、有了は正確に理解する。要するに、有了が届けた酒は十々丸にとっての戦略物資な訳だ。
(まあ、僕にとってはどっちでもいいけど)
自身の供したカクテルがどう使われるかという事に、有了は興味が無い。このパインズゲートで酒を造り始めてから既に数年が経ったが、一度としてその辺が気になる事はなった。十々丸に問い掛けたのも、どちらかといえば単純に十々丸との関係から、ふと漏れた言葉に過ぎなかった。
「美少年はいくら甘いものを食べても太らないだっけ?」
故に有了も軽口を叩く。その意味は言わずもがなだ。
「そうだとも。美少年は永遠に美少年のままってね。何なら、後で有了くんにもサービスしようか?」
茶化す有了に、十々丸が悪乗り半分にニヤリと笑って身をくねらせると、前かがみになったためか射干玉の長髪が割れて、その間から雪原の様な華奢な背中が顕わになった。
元が美少年売りをしているだけあって、十々丸の風貌は下手な女性よりも遥かに可憐で、声音も中性的な色をしている。
「十々丸が本気なら考えるぞ?」
そんな十々丸の誘惑に、有了はあっさりとそう言い切った。
「……」
「……」
「……」
「……ぷっ」
しばし対峙した有了と十々丸。先に沈黙を破ったのは、十々丸の方だった。
「はっはっは。いや、これは一本取られてしまったねえ」
おどけた様子で肩を揺らす十々丸に、有了も苦笑交じりに肩を竦め返した。
元より、有了にそっちの気は皆無なのだが、実を言えばこんな風貌と言動をしている割に、十々丸自身も女性以外は無理なタイプだった。
当然ながら、有了もその事は十全に弁えており、つまるところ、今のやり取りは有了と十々丸の単なるじゃれ合いなのだった。
「十々丸君?」
と、そんな馬鹿をやっているところに、不意に落ち着いた音色の女性の声が響いた。
見ると、奥の部屋に続くドアが開き、パーマで丁寧に髪をセットした初老の女性が訝し気な表情でこちらを覗いていた。
「おっと失礼、このボクとしたことがレディを待たせるなんて。ちょっと、良いお酒をお勧めしてもらっていてね。二人で飲むならどれが良いかって悩んじゃってたんだ……ごめんね?」
大仰に天を仰ぎながら、くるりとターンをする十々丸。
「あら、そういうことなら私も呼んでくれればよかったのに」
「おねーさんにボクからプレゼントしたかったんだ。これとかおすすめなんだって!」
そう言って、有了が渡した瓶を「おそろいだね♪」と差し出す十々丸。差し出された女性の方の機嫌も、既に満足気なものに変わっていた。
(流石)
即座に品を作って篭絡に掛かった十々丸の変わり身の早さに、有了は内心で呆れとも賞賛ともつかない感想を抱く。実際、少し不機嫌そうな表情をしていたマダムが、十々丸の微笑に一瞬で絆されている。女性の腰を抱いて奥の部屋に下がる十々丸のプロの仕事に、有了は「失礼致しました」と一礼をして部屋を後にしたのだった。
◆
(上手くいってるかな?)
ホテルを出た有了は、いつの間にか小雨になった夜空の下でふと後ろのビルを見上げる。窓硝子にはぽつりぽつりと明かりが灯り、中では時折蠢く人の陰が見えた。
有了と十々丸の関係は正しい意味での共存関係にある。
十々丸の要望に応えて望む通りのカクテルを作る有了と、有了が作った酒精をただ消費するのではなく、それを使って新たな女性を篭絡して販路を開拓する十々丸。
本来ならばごくごく真っ当なはずだが、何をするにも暴力が介在するパインズゲートにおいては極めて珍しい関係とも言えた。
故に有了は十々丸の要望に応えて、成功を望む。出たばかりのビルを振り返ったのも、そんな関係性があってのことで、
―んなあああああああああああああああああ!?!?―
幸か不幸か、その僅かなひと時が、有了にその声を拾わせたのだった。
(十々丸?)
男性にしては中性的な、ややもすれば甲高い声。それはこの街で幾度となく耳にし、そしてつい今しがたも聞いたばかりのもの。その事に気付いた有了は、即座に元来たビルへと駆けこんでいた。
一応、有了も十々丸の稼業が男娼であるという事は心得ている。実際、二人で食事に行った際に聞いた話では、顧客である女性の性癖次第では被虐行為加虐行為共に使い分けるとも言っていた。だが、そういった際の悲鳴とは明らかに違う、困惑ともつかない動揺の色が見て取れた。
―ボクはお客様の要望のためなら、どんなプレイにでも合わせてみせるよ。この猫目の様に千変万化にね―
そう言って、したり顔をした十々丸の男娼としての器量と度量を、有了は知っているし信用している。だからこそ、その十々丸があんな悲鳴を上げたというのは、どう考えても異常事態としか思えなかった。
幸いなことにエレベーターは有了が下りた時のままで、すぐさま階を昇り、十六番の部屋がある三階へと到着する。ドアノブを捻ると、有了が出た後もオートロックなどはかからなかったらしく、押してみればあっけなく、元居た一室が顔を出した。
「十々丸っ!?」
玄関を抜けて、先の初老の女性が顔を出した奥の部屋に入った有了の眼に最初に写ったのは、仄灯りの下でもはっきりと分かる純白の華奢な背中と、僅かな光すら散らす射干玉の御髪。
「あ、有了くんっ!?」
ぺたんと床に座り込んで、有了の声に振り返る……少女の姿があった。
「十々丸……でいいのか?」
一瞬、部屋を間違えたかと思った有了だったが、明らかに覚えのある風貌と呼称に、戸惑いながらも問い掛けた。
「ああ、もちろんだとも! 君の親友にしてパインズゲート一の美少年男娼、首藤十々丸さ!」
「いつから親友になったんだよ」
良い所、悪友がせいぜいだろうと突っ込みながら、有了自身は目の前の光景に幾分落ち着いていた。
(呪術の類……だよな?)
先程からの混乱の元、「うあああああああ!?!?」と懊悩する十々丸の懐でぽよんぽよんと揺れる、華奢な体躯には不釣り合いな程たわわに実った胸元を見おろしながら、有了は内心で首を傾げた。
このパインズゲート市は大和三幕府が一、関東以北を治める江戸幕府が開かれて以降、炙れた流れ者を吸収して肥大した街だった。
その成立ちゆえに犯罪者や胡乱な半生を持つ者も非常に多く、その筆頭として挙げられるのが所謂呪術師、魔法使い、陰陽師と呼ばれる、ある種特別な力を持つ者達だった。そんなまつろわぬもの達によって引き起こされる現象は千差万別。このパインズゲートでは不可解な現象が起きれば、一先ず呪術師が原因に挙げられる程度には、その存在は水面下では広く知れ渡っている。
(さっきのおばさんが呪術師だった?)
そして、この場に居ない第三者の事に思い至り、有了は「ん?」と首を傾げた。
「なあ、十々丸」
「うなああああああ、あ、なんだい、有了くん」
「さっきのおばさ!?」
不意に産毛が逆立ったのは偶然か、或いは生物としての本能だったのかもしれない。
居なくなった十々丸の今晩の客の事を尋ねようとした矢先、有了の胎の底の臓腑がカッと熱くなり、有了は殆ど衝動的に目の前の小柄な友人の身体を思い切り突き飛ばしていたのだった。
「ひゃん!?」
咄嗟の事だったからか、やけに可愛らしい悲鳴が聞こえた気がしたが、そんな事にかかずらっている余裕は有了には無かった。
「っ!」
有了と十々丸の間、丁度今の今まで十々丸が懊悩していたその場所を、文字通り断ち切る様に、一筋の銀光が疾ったのだった。
十々丸を突き飛ばした反動で、自身も咄嗟に身を捩った有了が振り返ると、
「ふ、ふふ、ふふふふふ……」
そこには悄然と立ち尽くす、先の初老の女性の姿があった。
「んにっ!?」
その女性の醸し出す雰囲気に、隣の十々丸が悲鳴を上げたのが聞こえた。
(まあ、気持ちは分かるけどさ)
油断なく女性を見詰めながら、有了は内心でそう嘆息した。
十々丸の客だったはずの女性。その表情や風貌、果ては纏う雰囲気まで、先の一瞬の邂逅の時とは何もかもが一変していた。
丁寧にセットされたはずのパーマは散り散りに乱れ、所々跳ねたところがゆらりと陽炎の様に逆立っている。綺麗にあてられた夜化粧も剥げ、頬にまでなすり広げられた口紅が、まるで吐血の様に彼女の肌を穢している。歪んだ目尻と乱れたバスローブの合わせ目の肌は深く皺が刻み込まれ、初老だったはずの彼女は老婆か何かの様にすら思われた。
その右手には明らかに日常生活では有り得ない刃渡りのナイフが握られ、口元からは何やらブツブツと譫言の様な物が漏れ出ている。
何より、虚ろな両目は焦点が合わず、それでいて奥底にどろりとした情念の炎が見て取れた。
まるで幽鬼か怨霊の様なその姿に、有了は思わず顔をしかめる。
「またかよ」
「ちょ、またかよってなんだい!? またかよって!!」
有了のぼやきに、十々丸が抗議の声を上げる。
「だってそうだろ」
しかし、有了は十々丸の悲鳴を即座に両断する。
「お前がベッドの上で女にナイフ向けられんの、これで何回目だよ?」
「そ、それはそのー……」
有了の指摘に、図星を突かれた十々丸は気まずげに頭を掻いた。実際、十々丸が修羅場を引き起こすのも、有了が痴情のもつれに巻き込まれるのもこれが初めてではない。一応、男娼という十々丸の職業を考えれば仕方のない事でもあったが、巻き込まれる側の有了としては愚痴の一つも言いたくなるというものだった。
そう、この場において、有了は確かに純粋な"巻き込まれた側"の人間だった。
それは巻き込んだ側の十々丸すら十分に認識している程度には。
しかし、その巻き込まれたはずの有了と巻き込んだはずの十々丸がヤレヤレと言わんばかりに顔を見合わせて苦笑した瞬間、
「!!!!!」
「「!?」」
それまで幽鬼のように佇んでいたはずの女が突如弾けるように着火したのだった。
「お、ま、え、かああああああああああああああああああああああああ!!」
吐き出される怨嗟の声。
臓腑から絞り出された様な憎悪と爛々と輝く両目に、有了は「マジかよ」と呟き、十々丸は「これは想定以上だねえ」と冷や汗を流す。そしてその一瞬、まるでばね仕掛けの人形の様に弾け飛んだ女は、肺腑のそこから吐き出された暴風のごとき怒声と共に、身構える有了に踊り掛かったのだった。
「くっ!?」
その暴走染みた突貫に、有了の反応が一歩遅れた。
身を捩り躱そうとするが、一瞬早く懐に潜り込んできた刃の根本に辛うじて手を伸ばして、女の刺突をギリギリで受け止める。
「っつぅ!?」
しかし、勢いまでは殺せない。全身を乗せてぶつかってきた女の体重に押し負け、つるつるのフローリングの上に、もつれあったまま二人はどうと倒れ込んだのだった。
「はぁ……はぁ……」
(マジかよ……)
果たして、上を取ったのは女の方だった。有了との鍔迫り合いを制し、肚の上に覆いかぶさった老婆は荒い息と共にギラギラとした両目で獲物を見おろしたのだった。そして、
「死ねええええええええええええっ!!!!!」
「どおおおおおおおおおおお!?!?!?」
溜まりに溜まった怨念と共に、逆手に持った大ナイフを怨嗟を込めて振り下ろしたのだった。
「有了くんっ!!」
しかし、その白刃が振り下ろされたその瞬間、咄嗟に我に返った十々丸が紙一重の差で女の脇腹に体当たりを噛ましたのだった。
「がっ!?」
小柄とはいえ、油断しきったところへの意識外からの一撃に、女は肺の空気を吐き出しながら吹っ飛ばされる。
「有了くん、大丈夫かい!?」
「あ、ああ。助かったよ、十々丸」
駆け寄った十々丸に礼を言いながら、有了も乱れた息を整えつつ身体を起こす。見れば、十々丸に不意打ちを食らった女の方は、何処か呆然とした様子でへたり込んでいる。
(今のうちに逃げられないかな?)
(逃げるって言っても入口は塞がれているぞ)
立ち上がり、チラチラと辺りを見回す十々丸に、有了は肩を竦める。
(武器とかは持ってないのかい?)
(生憎、全部車の中だな)
(なんで有了くんは護身具という人間の叡智の結晶を携帯しないかなあ!)
(流石にこの一瞬でこうなるとは思わなかったんだよ。お前の悲鳴が聞こえた時は兎に角急ぐことしか考えてなかったし)
(それは……ありがとう)
何故か面映ゆそうに頬を掻く十々丸に「おう」と頷いた有了は、油断なく座り込んだ女に目を向ける。
「そう……やっぱりそうなのね」
果たして、その警戒は適切だった。
茫然自失で何処か上の空にブツブツと何かを呟いていた女の唇が、突如明朗な言葉を紡いだ。不意に焦点が合った女の両目からは先の情念の靄が消え失せ……代わりに純粋なまでの憎悪が浮かんでいた。
「ふ、ふふ、ふふ……」
「「……」」
有了が顔をしかめ、十々丸が困った様子で頭を掻く前で、ゆらりと立ち上がった女はぽつりぽつりと語り始めた。
「初めてだったのに……初恋だったのに……」
俯いたまま紡がれた言葉は、小声のはずがやけにはっきりと有了と十々丸の耳に届いた。
「この街で生まれて、から、ずっと父と母に言われるままに生きてきて、嫁入りして……恋も知らないまま妻になって……その後もずっと夫と義両親に命じられたままだった私に……愛してるって言ったくせにっ!!!!!」
最早悲鳴にも似た女の金切り声が、ビリビリと周囲を傷付け、あまつさえその細い喉すら切り裂き、血反吐すら撒き散らさんばかりに辺りを震わせた。
(言ったのか?)
(多分……)
(多分?)
(そりゃ、リップサービスの一つだからね。一々誰に何を言ったかまでは流石に覚えていないって)
呆れ混じりに頭を振る十々丸に、有了もそりゃそうかと頷く。記念日やらなにやらで特徴的な顧客の事は覚えてもいるだろうが、「愛している」なんて汎用品の使用状況は流石の十々丸でも記憶していないだろう。
「……やっぱり、間違っていなかった」
そんな、目配せをする有了と十々丸を眺めながら、女がポツリと呟いた。
「覚えているかしら? 十々丸君……」
「? 何がかな、おねーさん?」
不意に水を向けられた十々丸が、訝りながらも解決の糸口を掴もうと努めて仕事用の声で問い返す。
「先月の……最後にデートをした日のことを」
「?」
女の言葉に記憶を探るが、思い当たらなかったらしく十々丸は僅かに身動ぎだけをした。
「場所は丁度このビルで……あの日も私は十々丸君だけのお姫様だった……」
陶然と呟いた老婆は「もう、忘れちゃったのね……」と妙に芝居じみた言葉を口にした。
「本当に、最高の一日だったわ。家の事も何もかも忘れて十々丸君にエスコートをされた私は、一日中燃え上がったの……。あの時は"ああ、これが恋なんだ"って、そう思ったわ……」
まるで夢を語るかのように微笑を浮かべて囁く女。が、その視線が有了を捉えた瞬間、再びその双眸に憎悪が宿った。
「その男が、私達の前に現れるまではっ!!!!!」
向けられた、覚えのない怨念に、有了の中で疑問符が浮かんでは消え……、
「あ」
そして、不意に辿り着いたある記憶に、有了ははたとその動きを止めたのだった。
(もしかして、あれか?)
(有了くん?)
訝りつつも小声で呟いた有了に、隣の十々丸が首を傾げた。
(ほら、先月の頭に次の客の好みに合わせた酒の材料選びに行っただろ?)
その十々丸を見おろして、思い当たった事を口にすると、十々丸も思い出したのか「ああ!」と小声で器用に叫んだ。
(まあ、あれが仮に男女であってもデートかって言われると怪しいんだが……)
そもそもが男同士ではあるのだが、目の前の女が口にした同伴は間違ってもデートではなく、強いて言うなら共同視察というのが適切だった。
(別の大口顧客にプレゼントするための、カクテルの材料選びだもんなあ……)
もし、仮に有了が無罪になったとしても、間違いなく十々丸は血祭だろう。
(おばさんからしたら、許し難い裏切りなのは変わりないだろうしねえ)
有了と同じ結論に達したのか、十々丸も呆れ混じりに肩を竦める。実際、春を売って生計を立てる男に貞節を求めるのは論外だし、男娼に操を立てる事を求めるのは死ねと言っているに等しい。
「だから、先生に相談したの……どうしたら十々丸君を私だけのものに出来ますかって」
そんな、生暖かい視線を向けられている事に気付いてもいないのか、女は瘴気を漂わせたまま言葉を続けた。
(先生ねえ……)
女の言葉を、有了は内心で反芻する。女の身形を考えれば、先生と呼ばれ得る相手は恐らく先の見立て通り呪術師で合っているだろう。
「そしたら先生が言ったの。これを十々丸君のあそこに貼れば、男の子の十々丸君は永遠に私だけの物だって……」
そう言って十々丸の股間に舐める様な視線を向ける女。そこに込められた情念にゾワリと背筋の気を逆撫でられた十々丸が本能的に後退りをする。
女の視線を追いかけてみれば、女性の身体になった十々丸の下腹部、男性器があったはずの場所には、確かに何かの札の様な物がピタリと皺ひとつなく貼りついていた。
(阿部定かよ……)
惚れた男の性器を切取るという、昭和の狂女の手口を思い出し、有了は思わず天を仰いだ。
(つか、十々丸も何でそんな見え見えの手に引っ掛かったんだよ)
(仕方ないだろう? 女性からゴムを着けてくれるって言われたら、勃たせるのが作法なんだから)
(まあ、そうなの……か?)
呆れ混じりに問う有了だったが、十々丸がよく分からないが妙に説得力のある理屈で反駁してくる。
「でも、それもこれでおしまい。男の子の十々丸君は永遠に私だけの物になるの……。だから……」
「「!?」」
うっとりとした表情で呟く女。そして、不意に滾った眼に、有了と十々丸が身構える。
「私と十々丸君のために……お前は死ねええええええええええええっ!!!!!」
「っ!」
再び込められた憎悪と共に夜叉の様に裂けた口元から泡を撒き散らし、殺到してくる老婆。
(速い!?)
その、明らかに人間のリミッターを振り切った突貫。或いは、本当に箍が外れているのだろう。
「ぎゃoauせnΣraoろts◆hg×oisGAEmtkがsGOUbioNEOWIbstjisoukre!?!?!?!」
「っ!」
最早、人語とも思われない叫声と共に振りかぶられたナイフを見上げ、有了はその時の為に身構えた。が、
(……?)
その軌道が大きく旋回したところで、有了の内心に疑問符が浮かんだ。時間にして一秒にも満たない一瞬。しかし、その凝集した時の中で、女のナイフは明らかな緩急を見せていた。
(……しまっ!?)
瞬間、虚を突かるれる有了。その一拍が明確な遅速となって現れたのは、女のナイフが隣の十々丸に向けられた後の事だった。そう、女の狙いは初めから有了ではなく十々丸だったのだ。
(くそっ!)
内心吐き捨てながら振り返った先では、自分と同じく虚を突かれた十々丸が咄嗟の事に二拍の遅れを取っていた。
「あ、あははは! あははははははははははははっ!!!」
女のキンキンとした哄笑が狭い室内に反響する。それは勝利を確信した笑みだった。
「……」
その一歩を追いかけて、有了が十々丸に手を伸ばす。
「なっ!?」
その光景に、勝利を確信していたはずの女の笑みが驚愕に染まった。
確かに、無傷で逃げるには一拍が足りない。十々丸が逃げるには二拍も足りない。しかし、一拍差で迫った女の刃の前に、自分の手を差し入れるには十全な時間だった。
「ぐっ!?」
十々丸を庇う様に差し出した右手に、焼ける様な痛みが走ったのは、その直後だった。振り下ろされた女のナイフの切っ先に皮膚を撫で切られ、噴き出した鮮血が滴り落ち、十々丸の白い腹をどす黒く汚していく。
「お前! お前ぇっ!?!?」
「っつぅ……」
痛みにマヒした両腕で、華奢で妙に柔らかくなった十々丸の身体を引き寄せる中、女の激昂する声が耳に刺さった。
(これは、本気でやばいか?)
元より、憎まれているのは知っていた。しかし、女の画竜点睛を邪魔した今、その殺意は決定的なものだろう。
(まあ、今更っちゃ今更か……)
現状を踏まえたうえで、さてどうしたものかと思案する有了。その腕の内に庇っていた、十々丸の重みがふっと消えたのは、正にその時だった。
「えっ?」
突然の事に、有了はまたも虚を突かれる。とはいえ、それも仕方ない部分もあった。寄りにもよって、この場の中心だったはずの十々丸の重みが掻き消える様に消失してしまったのだから。
一瞬、腰が抜けて座り込んだのかと視線を下に落とす有了だったが、その場に十々丸の姿は無く、
「は?」
代わりに有了の腕の内にあったのは、有了の首程の長さの、木製とも土製ともつかない一本の棒だった。
(どういう事だ?)
あまりに理解不能な、直前の状況とリンクしない光景に、有了は思わず首を捻る。まるでおとぎ話の忍者の変わり身の術か何かの様に、忽然と姿を消した十々丸がこの棒切れにとって代わられてしまったかのようですらあった。が、
「あ、ああ……」
「っ!」
直後に聞こえて来た震え声に、有了は強制的に現実に引き戻される。視線の先には先の狂女。しかし、その表情には深い悲嘆と絶望の色が浮かんでいた。
「……?」
一瞬前の憎悪と独占欲は何だったのか。思わずそう問い掛けたくなるような女の表情に、有了は訝りながらも腕の内の棒を握り締めていた。状況が状況だけに、何も無いよりは遥かに心強くすら感じられた。
(ひあっ!?)
「?」
その瞬間、耳の奥で何故か妙に艶かしい声が聞こえた気がしたが、その空耳も直ぐに意識の外に追いやり、有了は半ば見様見真似で、その杖の先端を女へと向けるのだった。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
果たしてその判断は正しかった。
有了が杖の穂先を向けるのとほぼ同時に、女は再度狂乱の声と共に有了に踊り掛かってきたのだった。それは、有了の目には先の突貫以上にやけくそ染みた突撃に写った。
「っ!」
或いは、先に何度か女の動きを目にしていたのが良かったのかもしれない。髪を振り乱しながら遮二無二に襲い掛かって来た女。バスローブの帯もほどけ、萎びた乳房を振り回してみせるその姿に、有了の目には女の急所がありありと映った。
「!!!」
半ば衝動的に手に握った杖を突き出す有了。
「ごふぇっ!?!?」
その一撃は吸い込まれる様に、鬼女の皺だらけの喉に突き刺さり、女の身体を部屋の窓際まで吹っ飛ばしたのだった。
グリンと反転した白目、ぶしゅりと噴き出した涙と洟。だらりとまろび出た舌先からは泡となった涎が糸を引く。まるで、スローモーションの様にありありと映ったその光景を、何処か他人事のように感じながら、有了は突き出した杖を引き寄せた。
「はぁ……はぁ……」
荒く上下する肩と胸元の息苦しさ。ドクドクと早鐘を打つ心の臓の音に、頸動脈が共鳴するのを感じながら、有了は無理矢理に胸の息を吐き出した。
「貴様っ! きしゃまああああああああああああああ!?!?」
「!?」
そんな有了の状況を他所に、備え付けられた調度品を巻き込んで吹っ飛んだ女が立ち上がる。
咄嗟に杖の穂先を再度向けた有了だったが、女の方は明らかに目の焦点が合っておらず、それどころかまともに意識が無いのか、まるで闇雲にそうするようにやたらめったらに辺りを切り付けようとする。が、女の暴走は突如終わりを迎える。振り回した大振りのナイフ。その一撃が窓硝子のサッシに付いた半月状の錠に引っ掛かり、分厚いはずのガラス窓がカラリと開いてしまう。しかも、女の方は全身を乗せた一撃に身を取られ、勢いのままに上体が空を泳いでしまう。
或いは、それだけで事も済んでいたのかもしれない。しかし、女の上体が泳いだ瞬間、まるで見計ったかのように、浮いた女の脚の付け根に、丸い金属の手すりが引っ掛かったのだった。
絵に描いたような梃子の原理。女の上体が金属の棒を軸にくるりと反転する。
「あっ……」
それは、先の絶叫が嘘の様な、やけにあっけない言葉だった。
顔を乱し、服を乱し、武器を振るった女は、その小さな一言を置いて、降り注ぐ雨と同様、真っ逆さまに夜空の下へと堕ちて行ったのだった。
(おいおい!?)
思わず窓際に走り寄った有了。が、見下ろした先には白い染みの様に広がった女のバスローブの姿。そして、墜落の瞬間に頭蓋かどこかが割れたのか、弾けた脳漿が降りしきる雨に混濁していた。
ほんの一瞬、半ば事故の様な形で訪れた呆気ない結末に、有了は思わず天を仰いだ。
降り注ぐ雨は未だ止まず、かといって地に落ちた女を洗い流す程の力も望むべくも無かった。
(有了……くん)
そんな有了の耳に、不意に聞き慣れた十々丸の声が響いた。いや、正確には耳に響いたのではなく、まるで脳内に直接話しかけられたかの様な感覚が訪れたのだった。
「十々丸? ……っ!?」
思わず返事をした有了が慌てて辺りを見回すと、不意に手に持っていたはずの物が棒切れでは有り得ない重さを帯びる。
「有了くん……」
果たしてそこにあったのは、今の今まで消えていたはずの、十々丸の姿だった。
「……」
「……」
無言で見つめ合う二人。だが、お互いに言葉を発することは無い。言葉を口にするには余りにも整理しなければならない事が多すぎた。一先ずは、
「一度、僕の部屋に来るか?」
水を向けた有了の言葉に、
「有了くん……」
「おう」
「素直に助かる」
十々丸の方も深い溜息と共に頷いたのだった。
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