無題Ⅸ
目を覚ますとそこはしんと静まり返った暗い海原だった
四方に拡がる海はむっつりと凪いで辺りには風ひとつない
そこに漂う大きな木箱の中にAはいた
海面から高く聳えた分厚い四面が浸水の心配もなくAを囲っている
Aはつくねんと箱の隅に膝を抱えて頭上を仰いでいた
頭上には濁ったインクを流したような空が広がっている
しかし一片の星灯りもない
かといって雲もない
奇妙な空だった
辺りは耳に痛いほど静かで
箱を揺らしていく幽かな波の唄う声さえ耳についた
彼らは唄っている
我らはこの海の彼方
もっと大きなものの一部になるべく生まれた一片で
これから果てしない旅に出ていくのだと
酩酊の上澄みに移ろう漣のような儚い唄を
Aはひとつ予感を胸に秘め
その唄を聞いていた
箱の中には
Aの他にも一緒に漂流するものがあった
ミニチュアの鉢に入ったサボテンだとか
卒業文集だとか
写真だとか手紙だとかかわいいぬいぐるみだとか
香水瓶だとか作りかけのマフラーだとか靴だとか
流行の曲を詰め込んだテープだとか気に入りの本やマンガだとか
それらはAの気に入りの品々だった
他愛ない人生の中で彼女が大事に手もとに置いてきた品たち
Aはしかしこれらを冷めた視線で眺めた
今や彼女の瞳にそれらの輝きは映らない
それはとうの昔に別の場所で剥落して
今やさしたる魅力も感じないのだった
Aは腰を上げ
順にそれらを箱の外に放り始めた
最初は選別もしたが
途中からは片っ端から放擲した
ボチャン…
と放り投げたものが海に落ちる音が壁の向こうに上るたび
始めのうちこそ覚えた寂寥は
しかしじきに快感に変わった
辺りがさっぱり片付いてくうち
清々する気持ちが勝った
Aはがむしゃらに捨てながら
己の中にある激しい憎しみを自覚した
やがて木箱の底はすっかり空いて
ほとんど何も転がっていない状態になったとき
角の暗がりに転がっていたものが目に付いた
無造作に開かれたスケッチブックと
その周辺に散らばった色鉛筆だ
それは今まさに使い終わったところというような無邪気さで在った
Aは手を止めてじっとスケッチブックの絵を見た
幼い頃の自分が描いた友人の似顔絵だった
スラム街の外の土地で迷子になった時のこと
途方に暮れる自分に手を差し伸べてくれた女の子だ
今まで快調に動かしてきた腕を
Aは電池切れのロボットのように動かなくした
その子とはそれきり会うこともなかったが
偶然にも大人になって城で再会した
それがTだった
幼い頃に会ったのはもう十年以上も前のことで
顔立ちも背丈も全く変わってしまっているのになぜ同じ人物だと分かったかと言えば
声だった
少女の声はとても特徴的だったのだ
そしてTの声を聞いた時
この子のことをたちまち思い出した
今まで夢にも思い出さなかったのに
以来
時を経るごとにTに固執している
その理由を自分でもよくわからないままに
その時
不意に木箱が大きく傾いだ
Aはよろめいて壁に手を付いた
空を見上げるといつの間にか分厚い雲が一面に現れていて
凄い速さで流れていくのが見られた
空一面にびゅうびゅうと強風が吹きわたっていた
ついに来た
Aは胸に呟いた
Aの抱えていた予感
それは“嵐が来る”というものだった
やってくれば最期
打つ手の無い恐るべき嵐が来ると
彼女が気に入りの品を捨てていったのは
この危機を少しでも回避するためでもあった
箱の中を軽くして少しでも浮力を上げておこうというなけなしの努力だ
しかし
木箱を揺らす波は瞬く間に激しくなり
たちまち箱の縁を越えて海水が入ってきた
Aは頭から冷たい海水を被った
箱の中はすっかり膝の高さに水が溜まり
残っていたガラクタたちがゴミのように漂った
Aは悲痛な面持ちでそれを眺めた
スケッチブックが流れてきて脚に当たった
激しい虚しさに襲われてAの視線が泳いだ
実のところ
TはAと会ったことを覚えていなかった
どれだけ尋ねてもその片鱗も思い出さなかった
最早人違いであることが否めなかった
Aの目に涙が溢れた
どうしたら
この虚しさから逃れられるだろう
どうにかできるならぜひそうしたかったが
その術が自分には分からなかった
荒れる海原は刻々とその激しさを増していく
やがて底知れないエネルギーが不意に木箱を下から突き上げた
ぬっと立ち上がった大波に載ったのだ
木箱はぐんぐん高度を上げていき
やがて波の頂に達した
達するやたちまち傾いで真っ逆さまに波の腹を滑った
Aは箱の中に容赦なく攪拌された
されながら
このまま素直に海の藻屑になるのが自分の似合いの最期だろうかと考えた
そうしてすべてに瞑目して身を任せた
その時
不意に誰かの呼ぶ声が耳に聞こえた
Aは思わず目を開いた
この世の終わりのように吹きすさぶ風と怒涛の海原が目に入った
それは凄まじい海の光景だった
木箱は今や逆さになって
体は箱の中から投げ出されて広大な海原の上に舞っていた
海の嵩は際限なく膨張していた
乱立する波はどれも山のように高々と立ち上がり
また同じだけ深く沈み込み
巨大なうねりを響もしていた
つとAの目はその恐ろしい光景の先に黒々として不動の島影を見た
見たことのある島影だった
なんのことはない
自分の暮らす島だ
Aは驚いた
縁もゆかりもない絶海と思っていた場所が
実はとても身近な場所だったのだ
と
また声が聞こえた
「探して」
今度ははっきりとそう聞こえた
そして思わぬことにその声はIの声だった
IとはTの気に入りの人だった
城にやってきた新参の部外者であり
自分とTの前に現れるやどんどんその存在感を増していった不思議な旅人…
刹那
Aは雷に打たれたように在ることを思い出した
自分は彼女の大事な品を持っている
ポケットにそれが入っている
それは彼女が喉から手が出るほど探している大事な宝物
Aは俄かに生じた現実的な問題に戦慄した
なんてことを…
Aは羞恥に頬がカッと火照るのを覚えた
もしこれを返さなければ
最早どんな場所でもTに会わせる顔がないと思った
Aは荒れ狂う海の底にも達する後悔に胸を焼かれながら堕ちていった
後悔とは
せっかく重大な課題と使命を手に入れたというのにその目的に向かうだけの術と力がないことである
この狂瀾怒濤の海原をあの島まで泳いでたどり着くというのは皆目不可能な事実である
Aは業火の如き無念に焼かれながら島を凝視した
そうして終に海面にたたきつけられた