(五)そして謎解き疲労……披露回
白く寂しい通りのリリィーナ不思議探偵事務所へ風変わりな依頼人が訪れるのは、そう珍しいことではない。
しかし、勝手に入ってきたこの客は、これまで不思議探偵リリィーナが手がけた風変わりな依頼のなかでも群を抜いていた。
「あれ? 猫ドアが……?」
リリィーナが呟いたとき、玄関ドアの下部にある小さな猫用ドアの揺れはほとんど収まっていた。
「鍵が掛けてあったはずだけどな」
リリィーナは猫を飼っていない。この家の前の住人の趣味だ。ドア自体は頑丈で良いものなので替えずにそのまま使っていた。
どうして開いていたのだろう?
と、なにやら床の上を、白いクッションみたいな物がトコトコとこっちへ来る。
フワフワの白いかたまり……いや、大きな白い猫だ。
魔法の気配がした。
「ごきげんよう、不思議探偵リリィーナさん」
輝くような純白の毛皮をまとった猫の貴婦人は、このうえなく優雅な歩みで近づいてきて、デスクへ軽々跳びのった。
ふわりと着地した風からは、かすかにラベンダーの香りがした。
あまりにきれいで清潔なので、現実の猫とは思えないほど。
リリィーナは言葉も無くきれいな猫を見つめた。
「わたくしはレディ・ドルレス。わたくしのことはご存じですわね。不思議探偵のご高名は実家の父から常々伺っておりました。さっそくですが、魔法使いに連れ去られたわたくしの息子を取り戻して欲しいのです。手掛かりは、これですわ」
白い右前足がすっと出され、また引っ込められた。
デスクには、淡い桜色の花びらが一枚があった。
右前足の肉球の間にはさんで持ってきたものらしい。
この変わった依頼人にして、その提出された品も、これまたおそろしく風変わりである。
――なんだか厄介な仕事になりそうだな。
リリィーナは花びらをよく観察した。
見たことがある色と形。桜の花びらで間違いない。
「レディ・ドルリス、これはどこで?」
「息子が連れ去られたとおぼしき道に落ちていましたの。近所に桜の木はありません。きっと犯人が落としていったのですわ」
レディ・ドルリスは落ち着き払っていた。息子を連れ去られた母親にしては冷静だ。
「もしや犯人にお心当たりがおありですか?」
「お察しの良いこと。じつはそうなのです。犯人はわたくしの父かもしれませんの。その可能性も考える必要があるのですわ。父も魔法使いですし……。わたくしの事情はご存じかしら?」
「あまり詳しくは……」
レディ・ドルリスの飼い主であるドルリス卿とは顔見知りだ。しかし、ドルリス卿の友人は喫茶エクメーネのマスター。友人の知り合いなので、リリィーナが個人的に話をしたことはない。
「月光街にお宅があることくらいしか……。あなたは現在、白く寂しい通りのフェスティ夫人のお宅に住んでいらっしゃるとか」
フェスティ夫人ならリリィーナもよく知っている。白く寂しい通りで会社を経営し、裕福な生活をしている名士である。
「ええ、フェスティ夫人は夫の母ですわ。わたくしは父にいまの夫との結婚を反対されたので駆け落ちしてきましたの。そのせいでドルリス家の跡継ぎがいなくなりました。わたくしが絶対に戻らないとわかれば、父はわたくしの子を跡継ぎに欲しいと思うでしょう」
レディ・ドルリスは魔法使いの猫だ。
飼い猫は家に付くという。そういった猫は代替わりをして、その家の守りを継いでいくという話がある。
レディ・ドルリスもそういった魔法の猫の一族なのだろう。
「なるほど……。それは誘拐の動機になりそうですね。しかし、レディ・ドルリス。依頼を引き受けるには問題がありまして」
リリィーナはできるだけ生真面目な表情をキープした。ここであきれたり、面倒だという感情を浮かべたら、もっと面倒な事態になりそうだから。
「なんですの?」
「わたしは猫の依頼は受けないのです」
「なんですって!」
タシッ! と、白い前足が机に叩きつけられた。
「行方不明者の捜索には時間とお金が掛かるんですよ。猫は報酬を払えません。なにせ猫ですから」
リリィーナ不思議探偵事務所はれっきとした探偵事務所である。
ボランティアではないのだ。
1日の探偵費用は交通費まですべてを必要経費として依頼人へ請求する。
「んまあ、差別ですわ! いくらわたくしが猫だからと言って、このような侮辱をされる筋合いはございませんわ!」
レディ・ドルリスは予想通り憤慨した。
「では、お訊きしますが、猫の貴女に費用を払えますか。この件では絶縁されているお父上のドルリス卿には頼れないし、ましてや御夫君の母上には言えないでしょう」
もっとも、猫をかわいがっているフェスティ夫人なら依頼料を出してくれるかもしれないが、先に迷子猫の捜索費用を交渉しに行くのは、リリィーナとて気が引ける。
なによりフェスティ夫人はたおやかな外見とは裏腹にやり手の実業家。逆に丸め込まれて、無償で迷子猫探しをさせられる可能性もある。
「んまあああ、なんて無礼な方なんでしょう!」
レディ・ドルリスはふわふわ尻尾をぴんっと振り立てた。ぐっと顔をうつむけて、右前足を胸の前で何度か動かしている。
チリン!
白い毛並みの胸元がキラリと光り、黄金色に光る物体がデスクへ落ちた!
「さあ、手に取ってよくご覧くださいな。不足があるとは言わせませんわよ」
たおやかな白い手の先がリリィーナの方へそっと押し出したのは、目にもまぶしい黄金のコインだ!
「え?」
リリィーナはポーカーフェイスも吹っ飛んで目を丸くした。
金貨の中央には小粒ダイヤモンドがきらめいている。こんなデザインの高額金貨はこの世界で1種類のみ。
「サールバント金貨!」
金の含有率九十四パーセント、裏面の中央には金剛石の粒が埋め込れた高額金貨だ。
金貨の表と裏には世界樹と海の紋様。
その繊細にして豪華な彫金は、美術品としても評価が高い。価値が通用する境海世界で、1枚を流通する通貨に換金すれば、1ヶ月は余裕で遊び暮らせる。
――なんで猫がこんなお金を?
この近隣世界の住人ならば、知らぬ者とてない金貨だ。それでも猫が持ち歩くとは発行元の銀行さえ想定外であっただろう。
よくよく見れば、金貨上部に小さな穴が開けられている。
首輪の飾りにされていたらしい。
レディ・ドルリスの首輪はフワフワの毛並みに隠れて赤い色しかわからない。まだ他にもサールバント金貨が付いているのだろうか。
こんな高額貨幣を猫の首輪飾りにするなど、レディ・ドルリスこそ、いつ悪い人間に誘拐されてもおかしくない。
元飼い主のドルリス卿か現保護者のフェスティ夫人どちらの趣味かは知らないが、お金持ちのやることは庶民の理解を超えている。
「いかがかしら。これはわたくしの持ち物ですから、依頼料は確かにわたくしの財産でお支払いできましてよ」
レディ・ドルリスは緑の目をきゅっと細め、ピンクの鼻をヒクヒクさせた。
――飼い猫は飼い主の財産という理屈は通じなさそうだな。実際、レディ・ドルリスは実家を出てきたわけだし……。
『子猫の急な失踪事件』は、緊急を要する案件には違いない。
レディ・ドルリスは自分で夫を選び、住む家を選び、飼い主というか保護者すら選定して、自分の猫生を送っている。
レディ・ドルリスの現在の責任者はフェスティ夫人という人間になるが、それはレディ・ドルリスの依頼を断る理由にはならない。
リリィーナはサールバント金貨をデスクへ置いた。
「わかりました。お引き受けしましょう」
ぐうの音も出ないとはきっとこんな気分。
「ただし、レディ・ドルリス、ご子息は遊び盛りの子猫です。じつはこの近所で迷子になっていただけで、いまごろお家に帰っているかもしれませんよ?」
リリィーナは念を押した。
子猫が生後何ヶ月かは知らないが、1人で遊びに行ける程度に成長しているなら、遊びに夢中になって遠出して、いまごろ戻っている可能性もある。
「いいえ、今日だけは違います。魔法使いが関わっているのですわ。そうでなければこのわたくしが我が子の匂いをたどれないなど、あるはずがございませんもの!」
机の上でシュッと背筋を伸ばし、世界で最も美しい猫のポーズと同じ姿勢でレディ・ドルリスは訴える。その真剣さ、必死さは確かにリリィーナにも伝わってきた。
「それはたしかに。ここは魔法使いの多い街ですから」
誰かが子猫を連れていった。
その誰かは魔法使い。あるいは魔法使いや魔術師のように普段から己の痕跡を残さない者。もしくは何らかの魔法を使って痕跡を消した。
魔法でなければ説明がつかないこともある。この白く寂しい通りでは。
そして、魔法が関わっている疑いが濃厚となれば、事件は多次元管理局の管轄であり、リリィーナが引き受けるべき種類の仕事だ。
「では、レディ・ドルリス、今から捜索に動きますが、もしも行き違いでお子さんがご自宅の方に戻られていたとしても、依頼料は返却いたしません。よろしいですね?」
「ええ、もちろんですわ。あの子の匂いは本当にすっかり途絶えてしまっているのですから、もうわたくしでは見つけられませんもの。わたくしはこれで家に帰りますが、あとでフェスティ邸に連絡してくださいませ。では、またのちほど」
レディ・ドルリスは、フワフワ尻尾を優雅に揺らしながら、ふたたび猫ドアから出て行った。
「猫用ドア、ふさがないとだめだな……」
あのドアは、この住居の前の住人の趣味だ。リリィーナは猫を飼っていないので掛け金を掛けておいたはずが、ドアを開け閉めする振動で長い間に掛け金を留めるネジがゆるみ、壊れたらしい。
「さて、迷子の可能性があるといったが、たいへんなことを引き受けちゃったかもしれない……」
リリィーナはサールバント金貨を指先で空中に跳ね上げ、キャッチした。
白く寂しい通りでは普通の犯罪事件はめったに発生しない。
住人のほとんどが多次元管理局に関わりがある魔法使いや魔術師だからだ。
とはいえ、犯罪事件が完全にゼロというわけでもない。
さらに最悪な可能性も、ある。
世に猫好きな人間は多い。
レディ・ドルリスは極めて美しい猫だ。
その子もきっときれいな猫だろう。
レディ・ドルリスは隣の月光街に住んでいたときから美しい猫として有名だった。
その噂を聞きつけてはるばる誘拐にやってきたコレクターの犯行とも考えられる。
または、白く寂しい通りに住む魔法使いや魔術師の誰かが、気まぐれに迷子の子猫を保護していたら。
これはかなりマシな方の可能性なのだが、場合によってはあまり良くない。
なにせ、白く寂しい通りの住人は、ほぼ全員が魔法使いや魔術師の類なのだ。
そのなかの誰かがたまたまレディ・ドルリスのことを知らなくて、家の中だけでこっそり飼い始めたり、お節介な親切心から遠い街の猫を欲しがっている知り合いなどに譲り渡したりしたら?
迷い猫のチラシを街中に貼って待つだけでは見つかるまい。
「独自の魔法で護られた各家を、一軒一軒迷い猫の写真を持って訊ねて歩くとか?……冗談じゃないぞ」
子猫の居場所を絞り込む手掛かりは、他にないだろうか?
「手掛かりは桜の花びらが1枚か」
レディ・ドルリスはあきらかに魔法の猫。子どもを愛する愛情深い母猫でもある。その勘は無視できないのではないだろうか。
「この桜の花びらが、本当に子猫の行方に繋がるものなら、関わっている人間は誰だろう?」
リリィーナは花びらに触ってみた。
小さな花びら1枚から読み取れる『記憶』はほとんどない。イメージとして浮かんでくるのはレディ・ドルリスの肉球だけだ。
「レディ・ドルリスがしっかり持っていたからだろうな。それでも他に何も無いのもおかしい。だとすれば、レディ・ドルリスの推理した犯人が魔法使いという推測は、それはそれで正しいのかもしれない……」
白く寂しい通りで、桜の木が生えているのは2カ所。
魔法学院の中庭と、白く寂しい通りの北にある『月の光園』という公園だ。
現在、花びらが落ちてくる程度に満開なのは、魔法学院の中庭にある桜の木のみ。
レディ・ドルリスが言うように、ドルリス卿がこの件に関わっているなら話は簡単なのだが、ドルリス卿が完全に無関係だった場合、捜索は振り出しに戻る。
それどころか、捜索の手掛かりが0以下となり、マイナスからの再スタートにもなりかねない。
唯一の手掛かりである桜の花びらは、魔法学院の桜だ。
比較するサンプルはないが、リリィーナが覚えている公園の桜とは色も形も違いすぎるのだ。
そこから推理を組み立ててみる。
仮に、子猫を連れ去った魔法使いが、魔法学院に関わりのある人間だと仮定しよう。
まず、大人ではない。
魔法学院の大人は全員が優れた魔法使いだ。迷子の子猫がいたら保護するかもしれないが、魔法の猫とわかるものをこっそり連れ去ったりはしない。
「となると、見ただけでは魔法猫と気づくことが出来ない未熟な魔法使いか。学院にいる生徒の全員が対象になるな。それにあの子たちには我々が守りの魔法を掛けているから、普通の方法では追跡できない。これで現場に普通の人間の痕跡がない説明がつく。では、今日の午後にこの通りをうろついた生徒は誰だろう。うちの生徒に、初対面で迷子の子猫になつかれるような慈愛にあふれた動物好きがいたかな?」
すべてはまだ憶測の域にある。
「まず初めは、ドルリス卿へ確認するか」
ドルリス卿とは友人というより単なる知人。だが、電話番号はエクメーネのマスター繋がりで連絡用に知っている。
リリィーナは、黒と金のアンティークなデザイン電話の、優雅な受話器を持ち上げた。
「その電話をした直後に、ちょうどサー・トールが来たというわけさ」
そういってリリィーナ教官は、僕に小さな穴の開いたサールバント金貨を見せてくれた。
僕がリリィーナ不思議探偵事務所にやってきたあのとき、事務所の前で僕が見た風のように走り去った白い影。
あれは、駆けていくレディ・ドルリスの後ろ姿だったのだ。
〈了〉