(一)依頼人はレディ・ドルリス
白い影が、目の端を駆け去った。
僕の目は、反射的にそちらへ釣られた。
なにもいない。
急に吹き抜けた風か?
ラベンダーみたいな香りがしたと思ったのも、気のせいだったのかな?
人間の目がはっきり認識できる視界は、前に突き出した手のひら1枚分くらいの範囲だそうだ。
数秒も経てば記憶はさらにぼやける。
ほら、もうすでに、白かった何かとしか思い出せなくなった。
――あれが何であれ、追いかけて確かめるほどでもないから、どうでもいいか。
僕には関係ないことだ。
もう少し時が過ぎれば、何かを見たことすら忘れるだろう。
人間の記憶力はよほど印象に残ることでなければ、平穏な日常の、何気ない出来事をいちいち留めておく習慣はないのだ。
そうして僕は、最近通い慣れてきた白く寂しい通りにある建物の扉を開けた。
ここはリリィーナ不思議探偵事務所。
チン、と受話器を置く音。
金と黒のアンティークな受話器が電話機へ戻されたところだった。
「やあ、君を待っていたよ、サー・トール」
大きな書斎机の向こう側で、リリィーナ教官は若々しい顔を上げ、額の黒髪を左手でかき上げた。僕の担当教官にして、境海世界でただ1人の『不思議探偵』だ。
不思議探偵とはなんとも変わった肩書きだが、魔法が絡む不思議な事件全般を扱うのでそういう看板にしたそうだ。
「すいません、遅れましたか?」
僕は、『サー・トール』。
本名は里藤悟。掛け値無しの日本人だ。
だけど、魔法大学付属学院こと通称:魔法学院では、異世界人のクラスメートが呼びやすく呼ぶもんだから、すっかりサー・トールで定着してしまった。
いまや『さとる』と本名で呼んでくれるのは、僕の恋人ローズマリーだけ。もちろん2人きりのとき限定だけどね。
僕は帽子をとり、背の高い木製の帽子かけに掛けた。
「あ、コートを脱ぐのは待ってくれ。今日は掃除はしなくていい」
「え? そうなんですか」
僕はスプリングコートのボタンを外しかけた手を止めた。
掃除無しなら今日の日当は無しかな。がっくり……。
「今日は不思議探偵の助手を頼みたい。もちろん追加手当を出すから」
お、やった!
「はい、僕にできることなら喜んで!」
バイト代が増えるのはありがたい。
でも、不思議探偵の仕事なんて、僕に助手が務まるんだろうか?
魔法学院ではアルバイトは原則禁止。でも『校内アルバイト』はOK。魔法学院内と白く寂しい通りの街中で特別に許可された就労先である。
おまけにリリィーナ教官は僕の指導教官だ。これ以上に安全で優良な仕事先が他にあるだろうか。
最近のリリィーナ教官は教官職をメインにしているので探偵業は開店休業中だ。授業の準備で忙しく、不思議探偵事務所へ帰れるのは週に1度。玄関ドアには終日『CLOSED』の札が下げてある。
その帰宅日に合わせて事務所の清掃アルバイトを募集していたので、僕が応募したのだ。
週に1回、不思議探偵事務所の応接室と資料室の書棚や備品棚にはたきをかける。床は掃除機で、月1回はモップで水拭きもする。
時間は午後3時30分から4時30分の1時間。ときどき書類整理や銀スプーン磨きなどの雑用も頼まれるが、おおむね楽な仕事だ。
「ついさっき、依頼があった。依頼人はレディ・ドルリス。依頼内容は誘拐事件の捜査だ」
誘拐と聞いて、僕はびっくりした!
「えッ!? 大事件じゃないですか!」
そんな大事件を、リリィーナ教官と僕で解決できるんだろうか?
いや、それよりも、不思議探偵事務所は休業中。レディ・ドルリスはよく依頼に来たな。
「たぶん、わたしが事務所に出入りしているところを見たんだろう」
リリィーナ教官は今日、ひさしぶりに朝早くから事務所に居た。
新しい依頼は断っているが、長期に渡って調査している案件もある。定期的に情報のチェックをするそうだ。
今日もそうした雑務で事務所にいたら、僕が来るほんの10分ほど前に訪れたのが、レディ・ドルリスだったという。
「その人、ドアが閉まっているのに、勝手に入ってきたんですか?」
僕が来る時間は決まっているので、鍵は開けてもらえている。魔法使いだからいちいち立って玄関へ来なくてもいいんだけどね。
「それについてはわたしが悪い。長いこと使っていなかったから、うっかり施錠の確認を忘れていたんだ」
「不用心ですよ、気をつけないと!」
「まったくだよ。わたしも反省している」
目をむく僕とは対照的に、妙にげんなりした様子のリリィーナ教官は、依頼内容を説明し始めた。
レディ・ドルリスは隣街に豪邸のある名家出身のご令嬢。若い頃から美貌で名高く、この界隈で彼女を知らぬ者はいないほど。
僕は知らないけどな。地元の有名人か。
現在は結婚して、この白く寂しい通りに住んでいる。
訴えによると、一時間ほど前、彼女の幼い息子がいなくなった。
近所で遊んでいるだろうと近所を見て回ったが、いっこうに帰ってこない。
探し回るうち、いつも息子が遊んでいた小路へいくと……。
そこには、桜の花びらが1枚落ちていた。
近所に桜の木は生えていない。風で飛んでくるはずもない場所なのだ。
なんらかの方法でその場所へ運ばれてきて、落とされたとしか考えられない。
「レディ・ドルリスは、子どもを連れ去った誰かの体についていた桜の花びらが落ちていた、と思っているんですか? 迷子でなく、誘拐と言うからには、もしかして子どもが攫われる心当たりがあったのでしょうか?」
白く寂しい通りは治安の良い街だ。
迷子ではなく即座に誘拐へ結びつけるのであれば、レディ・ドルリスにはそれなりの根拠があったとしか思えない。
「なかなか良い推理だね、サー・トール。じつは、レディ・ドルリスは自分の実家が怪しいと言っている。つまりレディ・ドルリスの父親だ。いなくなった跡継ぎ娘のレディ・ドルリスの代わりに、レディ・ドルリスの息子を連れ去ったのではないかというんだ。レディ・ドルリスが息子を生んでから、父親から何度も子どもを連れて帰ってこいという連絡があったが、後見人であるフェスティ夫人を通じて断り続けているそうだ。つい昨日もね」
なんだ、レディ・ドルリスのお父さんの犯行か。それならかんたん、子どもはすぐに見つかるだろう。
でも、僕の安心はすぐに覆された。
「さきほどレディ・ドルリスの実家であるドルリス邸に電話したが、家政婦の証言では、主人のドルリス卿は朝から留守で、家に子どもはいないそうだ」
リリィーナ教官がさっき受話器を置いたのは、その確認電話の直後だったわけか。
「じゃあ、ドルリス卿が子どもを連れてどこかにいると?」
「まだそう決まったわけじゃない。家政婦がドルリス卿の言いつけで嘘をついているとも考えられるが、ドルリス卿が子どもと一緒にいるのか、まだ確証は無いんだ。この時間だとドルリス卿は喫茶エクメーネにいるだろう。エクメーネのマスターの古くからの友人で常連客なんだよ。わたしもよく知っている」
どうやらご近所の知り合いらしいな。もしドルリス卿が子どもを連れているなら危険はないだろうし……。
そこまで推測できるのに、僕は何をすればいいんだろう?
「そこで問題になるのが、この桜の花びらなんだ」
リリィーナ教官は机の上の花びらを示した。