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5/5

ずっと一緒にいてよ、一伽

「おじさん、僕の先生だけじゃなくてお父さんになってくれるの?」

「ああ、そうだよ」

電話からすぐに時は経ち、僕は一伽の住む街に降り立った。ラジオは生番組で、収録後はオフになるように安藤くんが調整してくれていた。

「爽さん、主題歌がヒットして顔も売れてきたんですから、くれぐれもあまり勝手なことはしないで下さいね?」

「うーん、そしたらさ、一人じゃマズいんでちょっとつき合ってほしい所があるんだけど」

「え?いいですけど、どこですか?」

「マンションのモデルルーム」

「はあ⁈⁈」

安藤くんは素っ頓狂な声を上げた。

「何考えてんすか爽さん!」

「あのホテル周辺が気に入ってさ、あの辺りに部屋が欲しいなって思って」

「別荘的な?」

「そう。あのホテルに泊まってから、いい曲がたくさんかけたからさ。それに、どうせあぶく銭なら形に残しておきたくてさ」

「なるほどな~」

レンタカーであのホテル近くのマンションのモデルルームに向かった。調べてみたら、ちょうど建築中のものがあったのだ。

「爽さん、庶民的すぎやしませんか?」

「いいよ、別に曲作るだけだし」

「壁は厚くしないとダメですね」

「それができるか訊いてみよう」

僕はマスクをして行ったけれど、しばらくして案内をする人が見城爽だと気付いたようだった。

「あの、もしかして……見城さん、ですか?」

僕は自分が思うよりも顔が売れてしまっていた。困ったな。

安藤くんが間に入った。

「そうなんです、この辺りの風景が気に入って、たまに来て作曲する時に使う部屋が欲しいと。防音のオプションとか今なら付けられますかね?」

「結構音を出されますか?」

「ですね」

うーん、とその人は悩み、あ!と何かひらめいたようだった。

「防音とプライバシーの確保が必要でしたら、ここでは無くて、いい物件があります!」

モデルルームスタッフの人は突然電話をかけ始め、案内のものが参りますので、しばらくモデルルーム内をご覧ください、と言った。


その後僕らは、別のスタッフに車に乗せられ、半島の中を走った。

「その建物は、画家の方が持っておられた物件なんですが、ごく最近手放されたんです」

海岸沿いで少し高台にあるその物件は、コンクリートで建てられていて、窓は海岸側にのみ開かれていた。

「道路側にはほとんど窓がありません。採光は海側と天井からだけですが、見てください、これだけ大きい窓なんです」

目の前の海がすべて拓けて見えるくらいの大きな窓。水平線が美しくきらめく。

「主要道路にもアクセスがいいですし、プライバシーは保てるし、おまけにコンクリート建てなので防音も問題ありません」

中も見てみたが、僕はとても気に入った。リビングに、ダイニングに部屋が四つ。あ、この部屋は改造すればスタジオ代わりに使えそうだ。聞けばアトリエだったという。価格も東京の住宅からすれば破格だった。

「明日、また見に来てもいいでしょうか」

「はい、是非とも今日とは違う時間でご覧ください」

「じゃあお昼までに連絡します」

安藤くんは僕をホテルに送りながら言った。

「あんなに大きな家、要ります?」

「要らなかったら売ればいいし、その時考えるよ。もう一度見てみる」

「焦って掴まされないようにしてくださいよ?」

「ありがとう安藤さん」

僕は安藤くんに手を振って、ホテルのロビーに向かった。



チェックインした後、荷物を置いて、海に向かった。一伽は退勤時間だろうか?シフトも知らない。海岸沿いの道を歩いていると、向こうから少年が自転車で走って来る。背中に背負っているのは……ギターかベースのソフトケースだろう、その子の頭の後ろからギターの頭部と思われる形状が見えた。

バンドか今から習いに行ってるのかな。それにしても小さい子なのに……。

急いでいる自転車は、近づいてきて、すぐに僕の横を通り過ぎた。

「リョウくん……?」

僕は呟いてすぐさま叫んだ。

「リョウくん!」

自転車が停まったが、彼は知らない男から呼び止められて驚いた顔をしている。

「こんにちは、一年ちょっと前に山道でお母さんとリョウくんと会ったおじさんだけど覚えてる?」

リョウくんは首を傾げる。僕も髪型が変わっているからわからないかな。

「お母さんが枯葉が目に入って泣いちゃったんだ」

「ああ!あの時のおじさん!」

「そう。リョウくんは楽器してるの?これはギター?」

「うん、今から習いに行く」

蛙の子は蛙だな。きっと一伽はギターや父親のフィリップのことなど教えてもいないだろうに。

「おじさんも音楽やってるんだ。よく弾くのはピアノとかキーボードだけど」

「そうなの?」

リョウくんの目がキラリと光った。

「そうだよ。音楽は楽しい?」

「うん!楽しい!大好き!キーボードも欲しいけど、お母さんが無理だって言うからギター頑張ってる。弾きたくなったら教室のオルガンとかピアニカ弾いてるんだ!」

「そうか、頑張れよ。またいつか会うかもな。気を付けてな」

「うん、おじさんまたね!」

リョウくんは、音楽が大好きだとひまわりのような笑顔で言って、再び自転車で走っていった。

誰も教えていなくても、音楽が好きで楽器が弾きたいだなんて遺伝子なのかな。一伽がたくさん音楽を聴く人だろうから、そこから興味を持ったにしても。

小さくなっていく、背中に背負われたギターの形を見ながら、僕は切なくなった。入門者用のギターだって数万する。どういう気持ちで、キーボードは我慢して、と君は子供に言ったんだろうか。



翌朝、僕はいつも持ち歩いている短めのキーボードをケースに入れて手にした。

約束している時間が近づいてきた。僕はリュックにケースごと挿して、部屋を出た。

チェックアウトを済ませ、スーツケースをフロントに預けた。ホテルを出て山道を登っていく。

一伽に電話したりメッセージを送ることはしなかった。これで来なかったら僕は本当に振られたんだと思うことにしよう、と考えていたから。

久しぶりの山の散歩道は、二年近く前と風景が変わらない。良かった、これならあの場所に辿り着けそうだ。

木々で日の光が遮られている遊歩道は、まだまだ気温が低くて吐く息が真っ白だ。

ポケットに手を突っ込んで歩いた。寒すぎるせいだろうか、歩いている間、誰ともすれ違わなかった。

少し身体が温まってくる。道の脇に溜まっている枯葉を見ながら歩く。

たった二年弱の間に、リョウくんは枯葉の中を探索することを止めギターを手にした。彼の中でどんな変化があったのだろう。そして、一伽の中でも。


ここから下って行ったところだった。僕は少し緊張しながら歩みを進めた。

一伽は来てくれるだろうか。

三分ほど歩くと、じっと立っている人影が見えた。

「一伽!」

僕は彼女の名前を呼んで駆けだした。間違いない。一伽だ。

真っ白い息を吐きながら肩をすくめて彼女は僕を待っていた。

「一伽……」

お待たせ、とも言わずに僕は彼女を抱きしめた。

懐かしい彼女の香りがする。そうだ、一伽はこんな香りがしていた。嘘じゃないんだ。一伽はちゃんと来てくれた。

彼女のぬくもりがコートの上からでも分かるくらいの時間抱きしめた後、

「寒かったろ、待たせてごめん」

やっと僕は彼女の顔を見て一言言った。

触ってみると頬が氷のように冷たい。一伽の頬を両手で包むと、僕はずっと焦がれていたその唇に触れた。彼女の唇の温度が上がるまで。

「……爽……さん」

ポロポロと涙を流す一伽に言った。

「まだ好きなんだけど、信用してもらえないかな。僕は、フィリップ・ヤンじゃない」

「でも、でも……私……」

「着いてきてほしい所があるんだ。それから考えて」

僕は昨日の不動産業者に連絡を取った。



「昨日リョウくんに会ったよ。ギター持って習い事に行ってる途中に」

「会ったの?」

「僕が海に向かってたら偶然ね。今の住まいじゃ楽器弾きにくいだろ?」

「うん……遠慮してる。アパートだから」

「ちょうどね、この近所に僕がスタジオにしたい物件が見つかったんだ」

「え?」

「僕が向こうにいる間、ここを管理してもらえると嬉しいんだけど。住み込みで」

昨日見た物件に着いた。

「どういうこと⁈」

車を降りて僕は一伽の手を引いて、昨日と同じ不動産スタッフの後ろに着いて行った。家の鍵を開けた後、察しの良いその人は、何かお聞きになりたいことがあればお呼びください、私は車におりますので、と言った。

「ちょっと上がって見てみて」

僕は一伽を促した。

「え?こんな広い家を?」

「こっちに来てよ」

僕はアトリエに一伽を連れて行った。

「ここをスタジオにするつもりなんだ。春からリョウくん中学生だろ?入学までにやってもらうから引っ越しておいでよ。楽器だって自由に弾かせてやれるよ、ここなら。僕は向こうにいることが多いけど、曲作りで籠る時はここに帰って来るから」

「そんな、爽さんに甘えられない!」

「一伽、結婚して。リョウくんの将来も考えなよ。音楽やるのは金がかかるって分かるだろ?僕を使って」

「ダメ、私、一人で育てるって、決めたの……」

目の縁を真っ赤にして一伽は泣きじゃくった。

「僕、リョウくんと上手くやれると思うよ。話した感じだと」

「話したの⁈」

「ああ。山で会ったおじさんだって覚えてくれてたよ。鍵盤なら教えてやれる。ここなら君の職場も近いし、問題ないと思うけどな。今夜遅い便で帰るから、夕食三人で食べないか?」

「どうして?あなたなら周りに綺麗な人いっぱいいるはずなのに……こんな子供のいる……」

僕は一伽の手を引いてリビングに向かった。目の前いっぱいに広がった海の風景に、彼女が息を飲んだのが聞こえた。

「この風景を一緒に見たいのは、一伽とだけなんだ。お願いだ、結婚してくれ」

「うん……よろしくお願いします、爽くん……」

やっと一伽は、僕のことをハトさんに呼んでいた時みたいに、爽くん、と呼んでくれた。

一度も寝ていない人と結婚するなんておかしいだろうか?

けれど僕はそんなのは関係ないことだと思った。何度寝たって一緒にいたいと思わない人がいる。

一伽は、あの時二日、数時間会っただけなのに、一生共にいたいと思った。

僕はすぐに契約し、諸々のリフォームについて話を詰めた。

「スタジオの仕様については、伺ったお話をもとにして早々に原案を作ってお送りしますので」

「お願いします」



僕は、一旦ホテルに戻り、荷物を持ってある場所に行った。

「リョウが返ってくるまで、うちに来る?狭いけど」

「うん、ありがとう」

狭いアパートだったけれど、きれいに保たれていて、リョウくんが描いた絵が貼ってあったりした。

「適当に座ってね」

そう言って一伽はキッチンに立った。

「何してるの?」

「お昼、食べてないでしょ?」

「作ってくれるの?」

「そ、そんなに喜ばないで……あるもので作ってるんだから……」

食事の後、一伽はたくさんの話をしてくれた。リョウくんの名前は夏に生まれたけれど風が涼しい時だったから、涼とつけた、とか、今までのこととか、色々。

「……ねえ、涼くん何時に帰って来るの?」

「えーっと、四時ごろかな」

「じゃあ、時間あるよね」

「?」

「もう我慢しないよ」

僕は部屋のカーテンを閉めた。


どうして、彼女の唇は僕をおかしくさせるんだろう。

キスだけで、こんなにも体中が痺れる。何十分キスをしても飽きない。

「爽、くん……」

途切れ途切れに一伽が僕の名前を呼ぶ。

彼女は声が漏れないように、必死で手で口を押えた。

「僕が押さえててあげる」

繋がったまま一伽の手を外して頭の横に置くと唇を塞いだ。それだけで彼女は背中を反らせて涙を流す。

「一伽、愛してる」

こんなに素敵な人を捨てるなんて、フィリップ・ヤンは馬鹿だな。

けれどこうも思った。

フィリップ、彼女を捨ててくれてありがとう。そうじゃなければ一伽を僕のものにできなかった。

いや、きっと最初から僕のものだったけれど、出逢う順番がズレていただけだ。

彼女が一番気持ちがいい時に上げる声まで、全部僕の好みなんだから。



「ただいまー!」

涼くんが元気良く帰って来た。

「おかえりー!」

僕と一伽が同時に言ったのを聞きつけて、涼くんは急いで部屋に入って来た。

「あ!おじさん!」

「お邪魔してるよ。今日は涼くんにキーボードをあげようと思って」

僕はリュックから、ケースに入っているキーボードを取り出し、ケースのファスナーを開いた。

「ほんと⁈」

ランドセルを投げるように置いた涼くんは、僕の横にぴったりとくっついた。

「使い方を教えてあげるね。見ててごらん」

「うん!」

目を輝かせている涼くんは、まるで昔の自分のようだと思った。ピアノは習いに行っていたけれど、初めてキーボードを買ってもらった時、こんな表情だったに違いない。

「中学校は何部に入るの?」

「ギターマンドリン部に入りたい。ほんとは友達とバンド組みたいんだ」

「そうか、いいメンバー見つかるといいな」

趣味が合う男同士は打ち解けるのも早かった。すぐに涼くんは僕を名前で呼んだ。

「爽おじさん!ここ押したらどうなるの?」

「ここはね、ほら、リズムが出るんだよ」

「わー!」

ホッとした表情で一伽が僕らを見ていた。


東京に帰って、マネージャーの安藤くんに結婚する、と伝えた時は、目玉が飛び出るくらい驚かれた。

「だ?誰とですか⁈ ……は?**県の?一般女性⁈」

「うん。だから、あの物件に住んでもらう。曲作りの時は向こうで暮らすからよろしく」

「マジですかー!!俺、仕事どうなるんだろう」

事務所は、ああ、そういう年齢だよね、ということで、地味に発表してくれた。アイドルでも俳優でも無いので、そう騒がれることも無く終わった。




三月の始め。引っ越すにしても、涼くんに理由を言わないといけない。

二月はひと月に三度向こうに行って、リフォームの進捗状況や涼くんとコミュニケーションを取った。いつでもわからない時は電話していいと言ったので、キーボードに関する質問の電話も掛かって来たし、こちらからも電話した。

「わかってくれると思うから、正直に言うよ」

「涼も、何となくはわかってるとは思うんだけど……」

金曜日の夕方、涼くんが学校から帰ってきた。

「ただいまー!あ、爽おじさん!」

「おかえりー!」

僕の声を聞く前にもう靴を見てわかるようになったのか、涼くんは玄関先で僕の名前を呼んだ。手を僕が挙げるとパシッと叩くのもお馴染になった。

「おじさんさ、涼くんのおかげでギターも練習するようになったよ」

「一緒に弾けたらいいのになー」

「うん。それはおじさんもそうしたいと思ってね。それで、色々考えたから涼くんに相談なんだけど」

涼くんが真剣な表情で僕を見つめて来る。

「涼くん、楽器が思い切り弾ける場所に、お母さんと引っ越してこないか?」

「それは、おじさんの家?」

「そう。でもおじさんは東京で仕事があるから、曲作りをする時に帰って来る。その時に一緒に演奏しよう」

「おじさん、僕の先生だけじゃなくてお父さんになってくれるの?」

「ああ、そうだよ」

「やった!ずっと一緒に楽器弾けるんだね!」

涼くんは飛び上がって喜んでくれた。




「ただいま」

「おかえりー!」

ただいまと言ったのは僕で、お帰りと言ってくれたのは一伽と涼だ。あっという間に涼も中学二年生になり、声変りをして背が高くなってきた。

「父さん、待ってたよ!このフレーズ弾けるようになったんだ!」

アンプからクリーントーンのギターの音色が流れ始めた。


見た目もフィリップに似てきて、少し辛いと一伽は言うけれど、僕はこう言った。

「涼はフィリップよりもすごいギタリストになるから待ってろよ。涼を自分の元で育てなかったことを後悔させてやろう」

一伽はキョトンとした顔をすると、こだわってるのは爽くんの方ね、と笑った。


「すごいな!ギターの先生にコツ習ったのか?」

「ううん、自分でいろいろやってみた」

「涼、その時間を少し勉強に充ててくれない?母さん三者面談で冷や汗が出るわ」

「英語はやっとけよ?海外のミュージシャンともやり取りするんだから。そうなると社会も必要だし、理科と数学も音楽理論理解するのとか楽器改造するのに必要だぞー!」

「なんだよ、全部じゃんか」

「そうだよ、だから夕食まで勉強してこい。その後はスタジオに入ろう」

「マジで?父さん俺勉強してくる!」

走ってドタバタと自分の部屋に向かう涼を見て、一伽が溜息をついた。

「爽くんの言うことは聞くんだから……」

「ニンジンぶら下げてるだけだよ。いつもありがとう一伽」


一伽に口づけると、やっぱり体の芯から熱く痺れる。

僕はこの人に出逢うために生まれたのだと思う。

そして、ミュージシャンで良かった。そうじゃなければ、涼ともここまで仲良くなれなかっただろう。

全部は一伽に出会うための必然だったんだ。

「明日の朝、山に散歩に行こうよ」

「うん。久しぶりだね」

そしてきっと、またあの場所で、僕は君を抱きしめてキスをする。

「ねえ、爽くん、そろそろハトさんに報告しなくていいかな」

「一伽からそう言ってくれると思わなかった」

「明日の夜、涼が友達の家に泊まりに行くの」

「じゃあ、久しぶりにハトさんとこ行こうか」



翌日の夜、ハトさんが手を繋いで一緒に現れた僕らを見て、グラスを落とした後、薬指の指輪を見て、大泣きしてくれたのは言うまでもない。

そこにいるお客さん達まで祝ってくれて、皆で踊りまくって大変なことになった。

一伽の踊る姿を久しぶりに見た。

昔、ステージから客席を見た時と同じように自由に踊る彼女。

ずっとこんな風に笑顔で踊っていてもらおう。

おばあちゃんになっても、僕の側で。

それが僕の願いだ。

僕は何度も心の中で繰り返し願った。

「ずっと一緒にいてよ、一伽」

「え?聞こえない!爽くん、なあに?」

僕はハトさんのいるDJブースからマイクを取って言った。

「一伽、愛してる!」

ギャー!きゃー!とあちこちから悲鳴が上がり、フロアは大騒ぎになって揉みくちゃにされた。

一伽が笑って僕の耳元で言った。

「爽くん、ずっと一緒にいてね」

やっと、一伽のこの店での辛い思い出も、それから乗り越えてきた現実も、上書きされたような気がした。



「ただいまー!」

涼くんが元気良く帰って来た。

「おかえりー!」

僕と一伽が同時に言ったのを聞きつけて、涼くんは急いで部屋に入って来た。

「あ!おじさん!」

「お邪魔してるよ。今日は涼くんにキーボードをあげようと思って」

僕はリュックから、ケースに入っているキーボードを取り出し、ケースのファスナーを開いた。

「ほんと⁈」

ランドセルを投げるように置いた涼くんは、僕の横にぴったりとくっついた。

「使い方を教えてあげるね。見ててごらん」

「うん!」

目を輝かせている涼くんは、まるで昔の自分のようだと思った。ピアノは習いに行っていたけれど、初めてキーボードを買ってもらった時、こんな表情だったに違いない。

「中学校は何部に入るの?」

「ギターマンドリン部に入りたい。ほんとは友達とバンド組みたいんだ」

「そうか、いいメンバー見つかるといいな」

趣味が合う男同士は打ち解けるのも早かった。すぐに涼くんは僕を名前で呼んだ。

「爽おじさん!ここ押したらどうなるの?」

「ここはね、ほら、リズムが出るんだよ」

「わー!」

ホッとした表情で一伽が僕らを見ていた。


東京に帰って、マネージャーの安藤くんに結婚する、と伝えた時は、目玉が飛び出るくらい驚かれた。

「だ?誰とですか⁈ ……は?**県の?一般女性⁈」

「うん。だから、あの物件に住んでもらう。曲作りの時は向こうで暮らすからよろしく」

「マジですかー!!俺、仕事どうなるんだろう」

事務所は、ああ、そういう年齢だよね、ということで、地味に発表してくれた。アイドルでも俳優でも無いので、そう騒がれることも無く終わった。




三月の始め。引っ越すにしても、涼くんに理由を言わないといけない。

二月はひと月に三度向こうに行って、リフォームの進捗状況や涼くんとコミュニケーションを取った。いつでもわからない時は電話していいと言ったので、キーボードに関する質問の電話も掛かって来たし、こちらからも電話した。

「わかってくれると思うから、正直に言うよ」

「涼も、何となくはわかってるとは思うんだけど……」

金曜日の夕方、涼くんが学校から帰ってきた。

「ただいまー!あ、爽おじさん!」

「おかえりー!」

僕の声を聞く前にもう靴を見てわかるようになったのか、涼くんは玄関先で僕の名前を呼んだ。手を僕が挙げるとパシッと叩くのもお馴染になった。

「おじさんさ、涼くんのおかげでギターも練習するようになったよ」

「一緒に弾けたらいいのになー」

「うん。それはおじさんもそうしたいと思ってね。それで、色々考えたから涼くんに相談なんだけど」

涼くんが真剣な表情で僕を見つめて来る。

「涼くん、楽器が思い切り弾ける場所に、お母さんと引っ越してこないか?」

「それは、おじさんの家?」

「そう。でもおじさんは東京で仕事があるから、曲作りをする時に帰って来る。その時に一緒に演奏しよう」

「おじさん、僕の先生だけじゃなくてお父さんになってくれるの?」

「ああ、そうだよ」

「やった!ずっと一緒に楽器弾けるんだね!」

涼くんは飛び上がって喜んでくれた。




「ただいま」

「おかえりー!」

ただいまと言ったのは僕で、お帰りと言ってくれたのは一伽と涼だ。あっという間に涼も中学二年生になり、声変りをして背が高くなってきた。

「父さん、待ってたよ!このフレーズ弾けるようになったんだ!」

アンプからクリーントーンのギターの音色が流れ始めた。


見た目もフィリップに似てきて、少し辛いと一伽は言うけれど、僕はこう言った。

「涼はフィリップよりもすごいギタリストになるから待ってろよ。涼を自分の元で育てなかったことを後悔させてやろう」

一伽はキョトンとした顔をすると、こだわってるのは爽くんの方ね、と笑った。


「すごいな!ギターの先生にコツ習ったのか?」

「ううん、自分でいろいろやってみた」

「涼、その時間を少し勉強に充ててくれない?母さん三者面談で冷や汗が出るわ」

「英語はやっとけよ?海外のミュージシャンともやり取りするんだから。そうなると社会も必要だし、理科と数学も音楽理論理解するのとか楽器改造するのに必要だぞー!」

「なんだよ、全部じゃんか」

「そうだよ、だから夕食まで勉強してこい。その後はスタジオに入ろう」

「マジで?父さん俺勉強してくる!」

走ってドタバタと自分の部屋に向かう涼を見て、一伽が溜息をついた。

「爽くんの言うことは聞くんだから……」

「ニンジンぶら下げてるだけだよ。いつもありがとう一伽」


一伽に口づけると、やっぱり体の芯から熱く痺れる。

僕はこの人に出逢うために生まれたのだと思う。

そして、ミュージシャンで良かった。そうじゃなければ、涼ともここまで仲良くなれなかっただろう。

全部は一伽に出会うための必然だったんだ。

「明日の朝、山に散歩に行こうよ」

「うん。久しぶりだね」

そしてきっと、またあの場所で、僕は君を抱きしめてキスをする。

「ねえ、爽くん、そろそろハトさんに報告しなくていいかな」

「一伽からそう言ってくれると思わなかった」

「明日の夜、涼が友達の家に泊まりに行くの」

「じゃあ、久しぶりにハトさんとこ行こうか」



翌日の夜、ハトさんが手を繋いで一緒に現れた僕らを見て、グラスを落とした後、薬指の指輪を見て、大泣きしてくれたのは言うまでもない。

そこにいるお客さん達まで祝ってくれて、皆で踊りまくって大変なことになった。

一伽の踊る姿を久しぶりに見た。

昔、ステージから客席を見た時と同じように自由に踊る彼女。

ずっとこんな風に笑顔で踊っていてもらおう。

おばあちゃんになっても、僕の側で。

それが僕の願いだ。

僕は何度も心の中で繰り返し願った。

「ずっと一緒にいてよ、一伽」

「え?聞こえない!爽くん、なあに?」

僕はハトさんのいるDJブースからマイクを取って言った。

「一伽、愛してる!」

ギャー!きゃー!とあちこちから悲鳴が上がり、フロアは大騒ぎになって揉みくちゃにされた。

一伽が笑って僕の耳元で言った。

「爽くん、ずっと一緒にいてね」

やっと、一伽のこの店での辛い思い出も、それから乗り越えてきた現実も、上書きされたような気がした。



「ただいまー!」

涼くんが元気良く帰って来た。

「おかえりー!」

僕と一伽が同時に言ったのを聞きつけて、涼くんは急いで部屋に入って来た。

「あ!おじさん!」

「お邪魔してるよ。今日は涼くんにキーボードをあげようと思って」

僕はリュックから、ケースに入っているキーボードを取り出し、ケースのファスナーを開いた。

「ほんと⁈」

ランドセルを投げるように置いた涼くんは、僕の横にぴったりとくっついた。

「使い方を教えてあげるね。見ててごらん」

「うん!」

目を輝かせている涼くんは、まるで昔の自分のようだと思った。ピアノは習いに行っていたけれど、初めてキーボードを買ってもらった時、こんな表情だったに違いない。

「中学校は何部に入るの?」

「ギターマンドリン部に入りたい。ほんとは友達とバンド組みたいんだ」

「そうか、いいメンバー見つかるといいな」

趣味が合う男同士は打ち解けるのも早かった。すぐに涼くんは僕を名前で呼んだ。

「爽おじさん!ここ押したらどうなるの?」

「ここはね、ほら、リズムが出るんだよ」

「わー!」

ホッとした表情で一伽が僕らを見ていた。


東京に帰って、マネージャーの安藤くんに結婚する、と伝えた時は、目玉が飛び出るくらい驚かれた。

「だ?誰とですか⁈ ……は?**県の?一般女性⁈」

「うん。だから、あの物件に住んでもらう。曲作りの時は向こうで暮らすからよろしく」

「マジですかー!!俺、仕事どうなるんだろう」

事務所は、ああ、そういう年齢だよね、ということで、地味に発表してくれた。アイドルでも俳優でも無いので、そう騒がれることも無く終わった。




三月の始め。引っ越すにしても、涼くんに理由を言わないといけない。

二月はひと月に三度向こうに行って、リフォームの進捗状況や涼くんとコミュニケーションを取った。いつでもわからない時は電話していいと言ったので、キーボードに関する質問の電話も掛かって来たし、こちらからも電話した。

「わかってくれると思うから、正直に言うよ」

「涼も、何となくはわかってるとは思うんだけど……」

金曜日の夕方、涼くんが学校から帰ってきた。

「ただいまー!あ、爽おじさん!」

「おかえりー!」

僕の声を聞く前にもう靴を見てわかるようになったのか、涼くんは玄関先で僕の名前を呼んだ。手を僕が挙げるとパシッと叩くのもお馴染になった。

「おじさんさ、涼くんのおかげでギターも練習するようになったよ」

「一緒に弾けたらいいのになー」

「うん。それはおじさんもそうしたいと思ってね。それで、色々考えたから涼くんに相談なんだけど」

涼くんが真剣な表情で僕を見つめて来る。

「涼くん、楽器が思い切り弾ける場所に、お母さんと引っ越してこないか?」

「それは、おじさんの家?」

「そう。でもおじさんは東京で仕事があるから、曲作りをする時に帰って来る。その時に一緒に演奏しよう」

「おじさん、僕の先生だけじゃなくてお父さんになってくれるの?」

「ああ、そうだよ」

「やった!ずっと一緒に楽器弾けるんだね!」

涼くんは飛び上がって喜んでくれた。




「ただいま」

「おかえりー!」

ただいまと言ったのは僕で、お帰りと言ってくれたのは一伽と涼だ。あっという間に涼も中学二年生になり、声変りをして背が高くなってきた。

「父さん、待ってたよ!このフレーズ弾けるようになったんだ!」

アンプからクリーントーンのギターの音色が流れ始めた。


見た目もフィリップに似てきて、少し辛いと一伽は言うけれど、僕はこう言った。

「涼はフィリップよりもすごいギタリストになるから待ってろよ。涼を自分の元で育てなかったことを後悔させてやろう」

一伽はキョトンとした顔をすると、こだわってるのは爽くんの方ね、と笑った。


「すごいな!ギターの先生にコツ習ったのか?」

「ううん、自分でいろいろやってみた」

「涼、その時間を少し勉強に充ててくれない?母さん三者面談で冷や汗が出るわ」

「英語はやっとけよ?海外のミュージシャンともやり取りするんだから。そうなると社会も必要だし、理科と数学も音楽理論理解するのとか楽器改造するのに必要だぞー!」

「なんだよ、全部じゃんか」

「そうだよ、だから夕食まで勉強してこい。その後はスタジオに入ろう」

「マジで?父さん俺勉強してくる!」

走ってドタバタと自分の部屋に向かう涼を見て、一伽が溜息をついた。

「爽くんの言うことは聞くんだから……」

「ニンジンぶら下げてるだけだよ。いつもありがとう一伽」


一伽に口づけると、やっぱり体の芯から熱く痺れる。

僕はこの人に出逢うために生まれたのだと思う。

そして、ミュージシャンで良かった。そうじゃなければ、涼ともここまで仲良くなれなかっただろう。

全部は一伽に出会うための必然だったんだ。

「明日の朝、山に散歩に行こうよ」

「うん。久しぶりだね」

そしてきっと、またあの場所で、僕は君を抱きしめてキスをする。

「ねえ、爽くん、そろそろハトさんに報告しなくていいかな」

「一伽からそう言ってくれると思わなかった」

「明日の夜、涼が友達の家に泊まりに行くの」

「じゃあ、久しぶりにハトさんとこ行こうか」



翌日の夜、ハトさんが手を繋いで一緒に現れた僕らを見て、グラスを落とした後、薬指の指輪を見て、大泣きしてくれたのは言うまでもない。

そこにいるお客さん達まで祝ってくれて、皆で踊りまくって大変なことになった。

一伽の踊る姿を久しぶりに見た。

昔、ステージから客席を見た時と同じように自由に踊る彼女。

ずっとこんな風に笑顔で踊っていてもらおう。

おばあちゃんになっても、僕の側で。

それが僕の願いだ。

僕は何度も心の中で繰り返し願った。

「ずっと一緒にいてよ、一伽」

「え?聞こえない!爽くん、なあに?」

僕はハトさんのいるDJブースからマイクを取って言った。

「一伽、愛してる!」

ギャー!きゃー!とあちこちから悲鳴が上がり、フロアは大騒ぎになって揉みくちゃにされた。

一伽が笑って僕の耳元で言った。

「爽くん、ずっと一緒にいてね」


やっと、一伽のこの店での辛い思い出も、それから乗り越えてきた現実も、上書きされたような気がした。





最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。


現実は小説より奇なり、と言いますが、逆に小説はありそうでなさそうであるかもしれないことを書いてみるのもいいんじゃないかな、と思って書いてみました。


友人のニコールちゃんにこの作品を捧げます。


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