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レコーディング・一年八か月後の決心

「ミスター・ヤン、お会いできて光栄です」

「ソウ、よろしく」

僕はフィリップと握手した。この手で一伽を抱いて捨てたのか。

僕はしたたか酔ってホテルに帰った。

「お客さん、着きましたよ。降りれますか?」

タクシーの運転手から心配されるくらいに。

「大丈夫です。ありがとうございます……」

クレジットカードで支払い、ロビーから客室に入った。

一伽がどれだけ辛い思いをして生きてきたのか。髪の毛一筋ほども僕は理解していなかった。

部屋に戻り、便器に頭を突っ込んで、さっき飲んだものを戻しながら思った。

僕は最低だ。

僕自身は気持ちを伝えたと満足しているが、彼女は僕が待ち続けると言ったせいで、負わなくていい心の負担を負うことになった。

気を持たせるなんて最低だ。

何が、いつでも連絡して、だよ。

一伽は、自分からはメッセージすら送ってきてくれたことはなかったのに。

酔った頭で、一伽へメッセージを送ろうとアプリを開いたけれど、何を書いても彼女には嘘にしか聞こえないだろう。

一つだけ本当のことを書こう。

”次の曲は、あなたを想って書いてます”

紙飛行機のマークをタップした後、僕は気を失うように寝落ちた。



ホテルをチェックアウトする時に、ロビーを横切る制服の一伽を見掛けたけれど、声は掛けなかった。

僕にはそんな資格はない。

またフロントに竹内さんがいた。

「見城様、ご滞在いかがでしたか?」

「とてもリフレッシュ出来ました。ああ、初日に金庫のことで岡野さんにはお世話になったので、よろしくお伝えください」

一伽からすれば傷を深めただけの僕の滞在。でもありがとうと伝えたかった。

「岡野ですね。申し伝えておきます。またご利用くださいませ。ありがとうございます」

竹内さんはホテルマンらしくうやうやしく頭を下げた。


タクシーの中から、空港までの道のりをぼんやりと眺める。

忘れた方がいい。一伽のことは。

彼女をこの数日であれだけ傷つけて、そんな男を誰が好きになるだろう。

ハトさんが言ったように、ツアーのいい思い出として処理した方がいいんだ。

今思っていることも感じたものも全て曲にすればいい。

僕はそれが仕事だ。



「爽くん、おかえりー!」

アッシュヘアーを揺らして、彼女は僕に抱きついた。

「お疲れ様。疲れたでしょ?」

「ああ、少しね。お土産買ってきたよ」

馴染みの顔と声、身体の感触。

なのに、僕は一伽に会う前とは全く変わってしまったことに気付いた。

「やった!開けてみていい?」

子供のようにはしゃいでいるけれど、彼女はおそらく、一伽がフィリップ・ヤンに抱かれた頃くらいの年齢だ。今の年齢になるまで、どれだけのことを一伽は乗り越えてきたんだろう、一人で。

「わー!このお菓子食べてみたかったんだー!」

僕はお菓子をほおばる彼女を後ろから抱きしめた。

「どうしたの爽ちゃん?したくなった?」

「……うん」

「私も。待ってたよ。寂しかった……」

彼女の唇は今食べたばかりのお菓子の甘い味がする。

きっと彼女を抱いたらいつもの僕に戻る。彼女になってとか結婚しようとは絶対に言わない、ズルいシンガーソングライターの男に。



いつも通りに彼女の肌を辿り、声を上げさせる。

僕が好きな声をたくさん上げているはずなのに、目の前の彼女に夢中になれない。

「爽くん、お疲れだね」

手短に済ませたのがわかったのか、彼女は労わるように僕に言った。

「またゆっくりしような。明日からまた仕事だからさ」

「うん。じゃあ今日は、帰るね」

聞き分けの良い彼女にたっぷりとキスをする。

でもどれだけ時間をかけても、一伽と交わしたキスのように身体が震えることはなかった。

彼女が吐息を漏らして僕を潤んだ目で見上げる。

でも僕は彼女に好きだとは言わない。初対面の一伽には好きだと何度も言ったし、一緒になれないかとまで言ったのに。

「送るよ」

「ううん。爽くん疲れてるから……」

彼女は身支度を整えると、またくるね、おやすみ、と手を振って帰った。



あれは何だったんだろう。一伽とのキスは。

全部が溶けてしまいそうな、あの感覚。

手の甲で口を拭うと、フラッシュバックのようにあの時の感覚が蘇った。

キスだってセックスだって、誰としたって同じようなものだと思っていたのに。

今さっき僕は彼女と身体を重ねたのに、思い出すのは一伽のことばかりだった。

たった三度のキスで、忘れられなくなる人がいるなんて、そんな人に出会うことがあるなんて、自分の人生の予定にはなかった。

「一伽……!」

どうして僕は泣いているんだろう。

泣くようなことなどどこにもないはずなのに。

僕はツアーに行って、帰って来ただけだ。なのに彼女のことを想うと涙が止まらない。

たった二日だけ、偶然会った人。


涙を拭いながら僕は風呂に入った。

申し訳ないけれど、今さっき抱いた彼女の匂いがついているのが耐えられなかった。

湯船に浸かって、ハトさんのバーで二人で何を話したのかを思い出してみる。

僕が名前を訊いた時に、自分の名前が好きじゃないと言った彼女。どうしてそう言ったのか今なら理由が分かる。

名前の通りに一晩だけフィリップ・ヤンと夜伽して、身籠った自分を嘆いて彼女は生きているのだろう。息子を見るたびにフィリップを思い出しながら、自分を傷つけているんだ。毎日、毎日。

それが愚かなことをした自分への罰だとでもいうように。

そのままずっと彼女は生きていくのだろうか。そして地元で父親にするのに適格な男が見つかったら、結婚するのだろうか。

そして、僕は、一伽のいない人生をこれからずっと、生きていく……。

「……っ、う、……」

何度も湯船の湯で顔を洗った。洗っても洗っても僕の目からは涙が溢れて、忘れるどころか一伽の面影が心の中で濃くなっていくばかりだった。





僕はそれから自分でも信じられない量の曲を一気に書いた。アルバム二枚分は書いたと思う。

「爽さん、最近はかどってますね!」

「うん、おかげさまで」

どれもクオリティーが高いかと言われればそうではないが、けれど湧き出たものを形にしておきたかった。これは一伽への僕の気持ちだから。

彼女が聴いても聴かなくても、僕が一伽を好きになったことも傷つけたことも無かった事にしたくない。


僕はアルバム制作に取り掛かっていた。

「レコーディング、ギタリストは誰をブッキングしますか?」

いくつかこの曲にはこの人をお願いしたい、と伝えた後に、僕はあるギタリストを指名した。

「……フィリップ・ヤンに一曲やってもらいたいんだ。この曲」

その曲の歌詞は、女の子を紙屑のように捨てた男を題材にしていた。

「いいですね!フィリップさんのカッティングが生きそうな曲ですもんね。了解です!」

ブッキング担当のスタッフは笑顔で手配をするべく部屋を出て行った。



「ねえ爽くん、最近は忙しいの?」

「ああ。レコーディングが詰まってて」

僕はアッシュ色の髪の彼女とは少し距離を置いていた。彼女にキスをして抱くたびに一伽を思い出して、僕は情緒不安定になってしまうから。もう一人の人とは自然消滅になった。

彼女は一切悪いことはしていない。こんな事なら別れればいいのに、つき合ってもいないから別れることもできないのだ。

「今回は聴かせてくれないの?」

「そう、最近うるさいんだよ、漏れてリークされたらとかいけないからって会社から厳しく言われてて」

前回のアルバムは作成中の楽曲をリリース前に聴かせた。けれど今回は全て一伽に向けて作った曲だ。とても目の前の彼女に聴かせる気になれない。

「むー!私リークしたりしないのに!」

「ごめんな。会社の方針ってめんどくさいけど、仕事だからさ」

彼女の髪を撫でて、額にキスをした。

「じゃあ、私の誕生日に一緒にいてくれたら、許してあげる」

彼女が可愛らしく微笑みながら言った。

それなのに、僕が考えていたのは一伽のことだった。

僕は、一伽の誕生日も知らないな、なのにどうしてこんなに好きなんだろう、と。



レコーディングが始まった。演奏家を呼ぶ場合は、相手の都合に合わせて来てもらう。

「爽さん、フィリップ・ヤンさんが来られました!」

スタジオの扉が開き、長髪をなびかせてフィリップが入って来た。年齢よりもずっと若く見える。僕と二十歳以上違うはずなのに、十個上くらいにしか見えない。一伽を抱いた十年前ならもっと若く見えただろう。

「ミスター・ヤン、お会いできて光栄です」

「ソウ、よろしく」

僕はフィリップと握手した。この手で一伽を抱いて捨てたのか。

僕は血液が逆流しそうな思いに駆られながら、笑顔を作り、フィリップに会釈した。

レコーディングは問題なく進行した。曲の意図を理解し、イメージを伝えるとその通りに弾いてくれる。さすが長年第一線で活躍して来たギタリストだ。

「いい曲だね、ソウ。参加できて嬉しいよ」

僕もミュージシャンの端くれなので、曲がいいと言われると素直に嬉しい。けれど、僕はやはり彼を許せなかった。

「ありがとうございます。この曲を書いていたらフィリップさんのイメージが湧いたんです。そうだ、こないだ、あなたのお子さんに会いました。可愛い男の子をお持ちですね」

「何の話だ?」

訝し気に眉をひそめてフィリップは僕を見た。

「十一歳の男の子ですよ。いやもう十二歳になってるのかな?日本の**県にいる……」

僕は笑顔で言った。

「誰かと勘違いしていないか?私ではないようだが」

不快だという表情をしてフィリップは立ち上がった。

「そうでしたか、失礼しました……。一伽は一人で頑張ってますよ、あなたの子供を育てるために」

「……誰のことかな」

彼は低い声でそう言い切ったが、額には脂汗が浮いていた。

「大丈夫です、一伽は僕が支えますから……今日はありがとうございました!おかげ様で良いアルバムになると思います」

僕は深々と頭を下げ、フィリップは迎えに来たマネージャーとスタジオを出て行った。

「何言ったんですか爽さん、めちゃくちゃ怒った顔してましたけど」

「あの人にもう頼むことはないからいいんだ」

「はあ⁈ 」

「もう彼に頼むことはないよ。ただ、曲のイメージ通りだったから頼んだんだ」

「……爽さん強気すぎますよ、揉め事は勘弁です」

「ミュージシャンてそんなもんだろ。剣の代わりに楽器で斬りあってるようなもんだ」

「まあ、そうですけど……」

一週間後、トラックダウンを終えて、僕の新作アルバムは完成した。



リリースはちょうどクリスマス時期と重なり、僕のシングルは人気ドラマの主題歌にもなった為ヒットした。

「爽さん!いい感じですよ滑り出し!」

チャートの動きを見ながら安藤くんが嬉しそうに報告してくる。

一伽が聴くことがあるだろうか、この曲を。

聴いて気付いてくれないだろうか、消えない僕の想いを。

一伽に出会って、一年八か月が経過していた。


アッシュ色の髪の彼女に振られたのは年末だった。彼女がアルバムを聴いた後だったと思う。

「……いいアルバムだね」

「ありがとう。自分でもそう思うよ」

いいアルバムだと褒めてくれた彼女の表情は真顔で、ニコリともしていなかった。

クリスマスに時間を作ってほしいと言ったのは彼女なのに、身体を重ねた後に、今日は帰るね、とさっさと帰って行った。

そして年末、いつものように寝た後、彼女は、別れようと言い、

「爽くんが書いてる歌詞に、一度も私出てこなかったよ、ね?」

と見事にお見通しの言葉を放って、彼女は振り返らずに部屋を出て行った。

僕はあっけに取られたが、逆にこれで良かったと思った。

だって、もう僕の心は一伽にしかないのだから。



ドラマの主題歌がヒットして、各地のラジオ局を回る仕事ができた。アルバムも買ってもらおうという狙いだ。

もちろん一伽が住む街のラジオ局にも行くことになっていた。

「安藤さん、翌日オフ取れないかな」

「えー?厳しいですよそれ」

「一日だけでいいんだ。またあのホテルに泊まりたくて」

「もう、仕方ないなー」

マネージャーに無理を言って僕はまたあのホテルに予約を入れた。



一伽はその日職場にいるだろうか。

僕は、彼女に会わなくなって以来初めて、一伽の電話番号をタップした。

仕事なら出れないだろうけど、留守電だったらメッセージを残そう。

十回以上コールして出なかったら諦めてまた掛けようと考えた時だった。

八回コールした後に、恐る恐る、といった様子で一伽は電話に出た。おそらく彼女は僕の携帯番号をアドレス帳に登録していないようだった。

「……もしもし?」

「もしもし。わかるかな、爽だよ、見城爽」

「あ……」

電話の向こうで一伽が絶句している。

「切らないで!今大丈夫なら話を聞いてくれないか」

「……何の御用でしょうか」

「一月十日にそっちに仕事で行くんだ。夜はまたあのホテルに泊まる。いつでもいいから話ができないかな」

「……困ります」

「もう誰か決まった人がいるの?」

「いいえ、そういうことじゃなくて……」

「僕のアルバムは聴いてくれた?」

「ええ……」

「じゃあ、わかってよ。僕の気持ちは変わらない」

「なら、どうして、」

涙声で一伽は言った後、言葉を詰まらせた。

「……フィリップ・ヤンにも言ったんだ。一伽は僕が支えるからって。それが言いたくてレコーディングに呼んだ」

「ばか! 仕事で関わったんでしょ⁉  何でそんなこと言うの……!」

泣きだした一伽の声は震えていた。

「一伽、会って話そう。その日や次の日は仕事?」

「十一日は、休み……」

「わかった。朝十時にあの山の散歩道に来て。必ずだよ」

一伽は行くとも行かないとも言わない。

「信じてよ一伽、待ってる」

「……爽さん……」

「一伽、好きだ。……おやすみ」

電話の向こうで泣いている一伽の涙を拭いてあげることもできないのが悔しい。

でももうこんなのは終わりにしよう。

僕はその時に、ある決心をしていた。



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