遊ばれた友達みたいになりたくない
「……帰ります。フィリップ・ヤンに遊ばれた友達みたいになりたくないもの」
一伽の唇は、固く結ばれていたけれど、触れるだけで気持ちよくて、ついばみながら舌をゆっくり唇の間に差し入れていく。
「ダメ……」
小さく開いた唇の隙間を僕の舌が逃す筈はなく、そこに舌を滑り込ませ彼女の舌を捕らえた。
舌同士が触れると一伽の舌は僕のそれに器用に絡まった。
頭の中が痺れて一瞬クラっとする。
何てキスするんだこの子。こんな、いやらしくて気持ちいいキス、俺したことないよ……。
捕まえたと思ったら、捕まったのは僕の方だった。
キスが止められない。止めるのがもったいないキスがあるなんて知らなかった。
僕らは文字通り貪るようにキスを交わした。
もっと欲しい。
君の舌も零れそうに溢れる唾液も。
ああそうだった、口も粘膜同士なんだ。
あ、ヤバ……イ……!
何だよこれ……!
僕らはキスしかしていないのにカタカタと体を震わせ、お互いに崩れないように支えあった。すっかり蕩けた顔の一伽に僕は息を切らせながら言った。
「……帰るなよ、まだ話したいんだ」
続きをしよう、僕が泊まる部屋で。
彼女の首元に手を差し入れて、もう一度キスしようとした。
なのに。
「……帰ります。フィリップ・ヤンに遊ばれた友達みたいになりたくないもの」
彼女はヒンヤリとした声でそれを言った。
一伽は、僕も憧れる大先輩ミュージシャンのサポートをしているバンドメンバーの名前を口にした。色々なアーティストやアイドルのレコーディングにも参加している名うてのギタリスト。
その人が一伽の友達を弄もてあそんだって?
「僕は、違うよ……」
「友達はこうやってキスされて、そして君のことが大切だって言われて、離婚したばっかりで弱ってたからすぐに本気になったの。そして簡単に捨てられた……」
蕩けた顔のまま泣きだしそうになっている一伽の顔。
こんな表情をさせるために僕は一緒に時間を過ごしたわけじゃない。
違うんだ。
「僕は、本気だ、だから、」
「……子供が待っているので、帰ります」
「子供⁈」
僕はいきなり頭を金槌で殴られたような気分になった。
彼女のどこにも子供がいるような雰囲気も気配も無かった。ましてや既婚者だって⁈
「そうよ、小学五年生。このバーにだって、職場の飲み会の帰りだからやっと寄れたの。母に預けているから、帰らないと」
「待って、ならどうして指輪をしてないんだ?ルール違反だろ、既婚者だってわからないじゃないか」
僕が勝手に引き留めて唇を奪ったくせに、僕は一伽を責めた。
既婚者だったら、子供がいたと知っていたら、僕はこの行動に出なかったか?
今となってはわからない。
もうあんなキスをしてしまった後で、そうじゃなかったらなんて考えても意味がないのだ。
「子供がいるからって、夫がいるとは限らないでしょ。爽さん、さよなら」
灰銀に塗られた鉄の扉を開けようとする一伽の腕を掴んだ。
「待てよ」
「離して!」
「僕はフィリップ・ヤンじゃないよ……連絡先教えて。これっきりなんて嫌なんだ」
僕は彼女の目を見て頼み込んだ。
「……私からは、連絡しないから……」
「それでもいい」
僕はジーンズのポケットからスマホを取り出した。
その翌朝早くに、僕はマネージャーの安藤くんに相談した。
「知り合いに今日のライブを配信したいんだけど」
「はあ⁉」
マネージャーはライブ当日の朝に何を言い出すんだという顔をしている。
「画質は悪くて構わない。スマホでライブみたいなのでいいんだ。今日のライブに来たくても来れない友達がいてさ」
「爽さんこの街に友達いましたっけ?」
「うん。大事な友達がいるんだ。ありがとうって言いたいから」
「仕方ないですねー。そのお友達、お一人ならカメラ通話で良くないですか?」
「出てくれるかどうかわからないから、URL欲しいかな」
「はあ……わかりました」
「あと、セトリ変えるんで」
「ええ⁈」
「一曲だけ。自分で全部やるから」
昨日好きだと言ってくれた曲をやろう。バンドでは急すぎてできないけど、一人でキーボードが何台かとサンプラーがあればできる。
「じゃあ楽器のセッティングの変更はありますか?」
「ないです。そのままでいけるので、セトリの変更だけ連絡お願いします」
アンコールの部分の一曲を、あの曲に替えると決めた。
昼過ぎに、マネージャーから、限定配信のURLをもらった。
「これ、他の人には絶対教えないように言ってくださいよ?僕クビになっちゃいますから」
「大丈夫。こういうのを誰かに教えるような人じゃないんだ」
すぐに一伽にメッセージを送った。
”このURLから僕の今日のライブが観られるから、良かったら見てください。一伽の為に用意したものだから、誰にも教えないで”
リハーサルの合間に、僕は溢れて来る旋律や言葉を書き留め、スマホに録音した。
昨日の彼女の感触が、言葉が、声が吐息が、僕に曲を書かせる。
きっと君が好きだと言ってくれた曲よりもいい曲を書くよ。君が忘れられなくなるような。
どんなに遠くにいても、気付いたら君の側に僕が忍び寄っているような曲を。
「爽さん、お時間です!」
スタッフの声掛けに僕は立ち上がった。
一伽がすべて聴いてくれていると思って僕は歌った。
もう一度君に溺れたい、という歌詞は昔好きだったあの人に書いたけれど、今は君に歌うよ。
汎用性のある愛の歌を書け、とあるプロデューサーからデビュー当時言われた。
誰が聴いても自分の事のように思う曲を、と。
だからどの曲もそういう曲になっているはずだ。
けれど、一伽は僕が誰かに向けて書いた曲だと気付いた。
ならば、彼女に向けて書いた曲ならきっと気付いてくれるだろう。誰しもが自分の事だと思う曲として書いたとしても。
ライブは成功した。
「爽さんテンション強くて、俺もいい演奏できました!」
ベーシストがそんなことを言ってくれた。
「こちらこそです!ありがとう」
スマホを確認した。メッセージは既読になっていたけれど観てくれただろうか。
「安藤さん、再生回数どうなってますか?」
「あ、大丈夫です。再生回数3回。これは僕が二つのスマホで動作確認したのとプラス1回ですから」
「そうか、安心した。安藤さんありがとう。無理を言ってすみませんでした」
マネージャーに礼を言った。
「さて、一旦戻ってまた移動ですね。今日は自分のベッドで寝られるかな」
「安藤さん、オフの間ここに泊まっちゃダメ?」
「別に、明日明後日はオフだからいいですけど、自腹になりますよ~?」
「構わない。じゃあ今からオフってことでいいかな」
「明後日の夜には絶対に自宅にいてくださいよ?」
「わかった」
「どこに泊まるか決めてますか?」
「いやまだ……」
「ほーら爽さんはこれだから。もうアマチュア時代の風来坊的にカプセルホテルとか泊まるの止めてくださいよ?僕の心臓が持たない……そうだ、爽さん海好きですよね?」
「ああ、好きだけど」
「ちょっとタクシーで走るんですが、ここの海辺のリゾートホテルになら友達がいるんです。電話してみますね」
安藤くんは学生時代の友達がいるんですとか話しながら、ホテルに電話をした。
「おー!竹内、良かったいてくれて。今俺ミュージシャンの爽さんのマネージャーしてるって言ったじゃん、今ライブ終わってさ。後泊したいから爽さんが二泊できそうな部屋ある?」
安藤くんがこっちを向いて言った。
「爽さん、オーシャンビューがいいですよね?」
「ああ、じゃあそうしてもらおうかな。あ、ベッドは広いのがいい」
僕は何を言ってるんだろう。一伽が来る訳がないのに。それでもこの街にいて彼女の感触を忘れないうちに曲を書きたかった。
「今空いてる部屋が結構いい部屋なんですけど、連泊割引できるみたいだし、どうせ爽さん曲作るんでしょう?いい部屋にしましょう、半分経費で落とします!」
安藤くんは笑って言った。
「めちゃくちゃ海の風景がきれいみたいだから、満喫してください!フロントに僕の友達の竹内ってのがいますんで!」
そう言って安藤くんはタクシーのドアから離れ僕を見送った。
キャリーバッグには最低限の着替えと、小さな鍵盤を入れている。ノートパソコンはさすがに手持ちのバッグに入れているけれど。
多分連絡したって彼女は来ないけれど、チェックインしたら、ホテルと部屋番号を一伽にメッセしよう。
ホテルに着き、受付に向かった。こんな遅い時間だから誰もいない。
遠目で見ると、男性と女性の二人が受付にいた。
男性が竹内さんかな。
広いロビーを進んで、僕は受付の女性を見てまばたきが出来なかった。
「一伽……」
ホテルのフロントにいた人は、一伽、その人だった。
一伽も僕を見て凍ったように表情を失くしている。受付のカウンターに着いてしまった。目の前にホテルの制服を着た一伽がいる。
「見城爽さま、お待ちしておりました」
ソフトなオールバックにした男性がにこやかに僕に挨拶をした。名札にも”Takeuchi"と書いてある、竹内くんは彼で間違いない。
「ああ、安藤さんが竹内さんとご友人だと伺って。無理を言ってすみません」
「いいえ、市街地から少し離れたこのホテルを選んでいただいて光栄です」
宿泊者カードに記入すると、
「竹内さん、ちょっと」
と裏からスタッフが出てきた竹内さんに声を掛けた。
「岡野さん、すみません、見城さまのご案内お願いします」
竹内さんが一伽に申し訳なさそうに依頼して行ってしまった。明らかに彼女は目が泳いでいて、僕を居室に案内するとは思っていなかった様子だった。
それでも一伽は深く息を吸って言った。
「ご案内いたします。お荷物をどうぞ」
受付には僕と一伽しかいない。
「いいよ、自分で運ぶから」
エレベータに乗り込み、十七階のボタンを彼女が押した。エレベータの重たい扉が閉まる。
「ここで働いてたんだ」
「はい」
「マネージャーが竹内さんと知り合いで、頼んでくれたんだよ、風景のいい場所で曲を書きたいって言ったから」
「そうでございましたか」
一伽の背中が見える。今すぐに抱きしめたいけれど、きっとこういうホテルには防犯カメラが至る所にあるだろう。彼女の仕事を奪うわけにはいかない。
「ライブ、見てくれてありがとう。あの曲、聴いてくれた?」
「……はい」
「どうだったかな?一伽が聴いてくれると思って、入れてみたんだ」
「……素晴らしかったです……」
「良かった、聴いてもらえて」
一伽が仕事中だからというのは理解しているのに、やっぱり僕は彼女に触れたくてたまらない。
ポーン、とエレベータが十七階に着いたと知らせる。
ドアを開け先に降りるように促す一伽の手に、少しだけ触れてエレベータを降りた。
「こちらになります」
広いホテルだ。客室までの道のりも長い。
「朝まで仕事なの?」
「はい」
「その後は?」
「帰ります。家事があるので……お部屋はこちらになります。居室内のご説明を……」
ドアを開けた一伽の後に部屋に入った僕はドアと鍵を閉めた。
「お客様、困ります、ドアは開けておいていただかないと!」
「一伽……」
制服姿の彼女を抱きしめた。ライブの後はアドレナリンが過剰に出てずっと興奮状態になることも多い。僕もきっとそんな状態だった。自制が利かない。
「爽さんダメ、戻らないと……」
「明日仕事上がったらこの部屋に来るって言うなら放してあげる。子供は学校だろ?」
最低だ。母親の彼女に、子供をほったらかしにしてでも僕の所に来いと言っている。ごめんよ。だけど、僕も必死なんだ。
僕はお構いなしに一伽に口づけた。
唇を触れ合わせてしばらくすると、彼女は抵抗を止めた。
そう、飲んでるから気持ちいいわけじゃなかったんだ。多分、元々僕らは……。
昨日と同じように僕らはキスに溺れていく。
力の抜けた一伽をベッドに縫い留めて、僕はまた深くキスをした。
プルルルーー、プルルルーー
彼女が持っているPHSが鳴った。
僕たちは我に返って時計を見た。二十分は経っていたんじゃないだろうか。
「はい、もしもし。はい、金庫の動作の不具合がありまして。リセットして確認をしていました。もうすぐご説明も終わるので、戻ります。はい……」
電話を切った一伽に僕は言った。
「そんな顔のまま戻るつもり?ダメだよ、顔戻して」
僕が頬を撫でると一伽は顔を赤らめた。あんなキスをするくせに恥ずかしがるなんてズルいな。
「……ご説明は宜しいですか?」
「うん。わからなかったらフロントに掛けるよ。僕は明後日の昼までここにいるから、いつでもいいから来て」
大きく一伽の瞳が揺れた。
「……僕がフィリップ・ヤンじゃないって教えてあげる」
多分フィリップに遊ばれたのは彼女自身だ。ミュージシャンなら音楽の話を理解してくれる女の子がいいに決まってる。弄ぶにしても。本気なら尚更だ。
ハッと目を覚ましたように彼女は堅い声で言った。
「……失礼いたします。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「待ってるから」
一伽は踵を返すと、返事をせずに僕の手を振り解いて部屋を出ていった。