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鏡と林檎姫

作者: ゆあり




 


 暗闇の中へ、一筋の光が差し込む。



 光を浴びた肌が世界に照らし出される。



 濃く、赤い肌ーー。

 


 優しい真っ白な雪に零れた血を思わせる、熟れた艶っぽい赤の果実が闇の中で眩い輝きを放っていた。



 そこへ透き通るような白い手が伸びてきて無造作にそれを掴み上げる。赤い肌へ爪が食い込み、そのまま唇へと運ばれる。


 そしてゆっくりと牙が食い込んでいく。



 カシュカシュガッーー。



 音が響くたびに溢れる黄金のジュースと乱れていく赤い肌。豊潤な香りが部屋中に満ち床に滴を落としていく。


 手の主は丁寧にその骨のまわりまで全てを舐め取り口の周りを拭った。



 そして芯だけになった林檎を床に落とす。


 ーーガッ!!!



 白い足が芯目掛けて落ちてきた。触れた瞬間、小さくなった塊達は四方に勢いよくはじけていった。そうしてやっと、彼女はその顔に満足そうな笑みを浮かべた。



「これで、一番うつくしいのはーー」



 


 赤い瞳が覗いた。そのまわりを長く潤うまつげ達が囲む。頬はほんのりと色付き、どこまでも続く川を思わせる透き通った髪が扉を開く風に合わせて踊る。



 ふんわりと心地良い、雪のような絨毯を踏みつけながらまっすぐと部屋の中心まで彼女は歩いていった。



 その足は、ひとつの鏡の前で止まった。装飾の施された鏡は頭の上から足先まで全てを映し出すとても立派な鏡だった。




「鏡よ、鏡ーー」




 彼女の口から零れ落ちる音に反応して鏡の面から光が溢れる。


「どうしました、姫さま」



 それは少し低く、しかしまだ大人になりきっていない素直な少年らしい音だった。



「あなたが一番うつくしいと言った林檎はもうこの世に無いわ。それどころか、私はその林檎を自身の一部にしたのよ。」



 姫さまは鏡に向かって自慢気に話していく。



「ふふ。確かにうつくしい林檎だったわ。あかあかと熟れたあの肌。中から溢れだす香りと味のバランス。爽やかな酸っぱさが鼻を抜けたら甘い果汁が口の中にゆっくりと広がって私を抱きしめるのーー」





 鏡は美味しそうに語る姫さまを見つめながら、ほんの少し前の出来事を思い出していた。


 




 それは、いつも通りのことだった。


 

 姫さまが、鏡の前に立ち丁寧に身なりを整えていく。


 慎重に眉と真っ赤な口紅を引き、上質のブラシを握りしめ音を奏でるかのように髪を撫でる。



 甘ったるい香りで全身を包みながらお化粧をし、完璧な自分を作り上げていくーー。





 何もせずとも美しいのに。




 そう鏡は思っていたが、それと同時に深く尊敬もしていた。それは彼女の美への追求心に対してだった。



 なぜなら彼女は、自分が何よりも一番美しいことを知っていながらそれでもなお一日たりとも手を抜かず努力していたのだから。



 さてここで一つ疑問が浮かぶ。彼女が、どうして自分は何よりも美しいということを知っているのか。



 それは鏡の力によるものだった。



 

 この鏡は、姫さまが「一番うつくしいのは」と尋ねると、嘘偽りなく必ず真実を答える魔法の鏡だったのでその答えを聞いている姫さまは、知っていたのだ。





「何よりも、姫さまがうつくしい。一番、うつくしい」ということを。


 



 そうしていつも、姫さまが尋ね鏡が真実を話した。何よりも姫さまがうつくしいと。






 しかし、そのときは違った。



 いつも通り姫さまは鏡の前に立ち身なりを整え、口を開いた。




「鏡よ、鏡。一番うつくしいのはーー」




 鏡が光を放ちゆっくりとその身に真実を映し出していくーー。



「え?」


 姫さまは目を丸くした。



 なぜなら、そこには美しい自分の姿が映るはずだったのだ。



 しかしどうしたことだろう。そこにあるのは暗闇に佇む赤い何かだった。



姫さまが鏡を睨みつけると、鏡はいつもの口調で淡々と真実を語りはじめた。





「姫さま、それはこの城のキッチンにある林檎です。それがいちばんうつくしい」





 その言葉を聞いた姫さまは恥ずかしさと悔しさから顔を真っ赤に膨らませました。



 そしてそのまま靴も履かずに部屋を飛び出して行きました。


 廊下を激しく叩きつけ、大きな扉を嵐のような音を立てながら開きキッチンの中へ駆け込みました。





 ぐるりとキッチンの中を歩いてまわります。それからゆっくりと見渡してみても、林檎の姿は見当たりませんでした。


 

 姫さまは鏡に映った林檎の姿を思い浮かべて薄暗い場所を探すことにしました。



 そして、壁際の戸棚に目をやりました。


 その扉をゆっくりと少しずつ開けて中を覗き込んだ姫さまは、小さく笑いました。





 その美しい透き通るような手が、闇の中へとゆっくり伸びていきましたーー。






 「さぁ、改めて問うわ」



 空気が一瞬で張る、まるで鈴の音のような声が鏡を過去の記憶から現実に呼び戻した。






「鏡よ、鏡。一番うつくしいのはーー」





 その声に答えるように鏡から光が溢れ出しゆらりとその鏡面を波立たせると、そこに一人の娘が映った。





 白く淡い肌、優しい桃色の頬。額には雫がきらめき、可愛らしい紅色の唇からは歌が聞こえるようだった。



 見たもの全てを魅了する。そんな美しさが彼女……ではなくその手に包まれた、いいや彼女を取り囲むように点々とたくさん実っていた。


 

 美しいそれらを丁寧にひとつひとつもぎ取ってカゴへと運ぶ。





 彼女の名は、しらゆき。うつくしい林檎を育てる果樹農家だった。


 




 険しい表情を浮かべながら姫さまは鏡の中の光景を眺めていた。




「まだ、こんなにたくさんあったのね。」




 城のキッチンにあった美しい林檎は、どうやらこの果樹園から仕入れたものらしく美しすぎる林檎とそれを育てあげる農家しらゆきは広く世に知られているようだった。




「この林檎がある限り、私は一番にはなれない!」



 ギリギリと歯が擦れ鈍く悔しい音が部屋を満たしていったーー。







 それから数日経った頃、姫さまの部屋へ一人の狩人が呼ばれることになった。





 コン、コンと扉が鳴り入ってきたのは動物の毛皮をよく加工してつくったベストに、どんな山道も難なく歩けるであろう底の厚いブーツを履いた強面の男だった。




 その容姿を見るなり、鏡は姫さまが何をさせようとしているかを察した。




 姫さまは鏡の思った通りに狩人へ言いつけしらゆきのもとへ向かわせた。




 「ほほほほほ。鏡よ、鏡。これで今度こそ一番うつくしいのは私よ」と姫さまは嬉しそうに笑う。その顔を少し残念に思いながら鏡は問いかけた。「姫さま、どうしてそこまでなさるのです? なぜ一番うつくしくあろうとするのでしょう」




 その言葉を聞くと、姫さまはさもおかしそうに高く笑い声をあげた。「そんな当たり前のことを。うつくしければ偉いからよ。一番うつくしければ一番偉く、誰からも褒められる」




 そうしてまた一段と高い声で、笑うのでしたーー。





 その頃、狩人はお目当の果樹園を訪ねていました。しらゆきと林檎の木全てを亡きものにするために……。




 ところが狩人は、すっかりそんな気はなくなっていました。




 果樹園に足を踏み入れた途端甘い芳醇な香りに毒気を抜かれ、輝く赤い果実達を愛おしく思ってしまっていたのでした。




 狩人は来たときとは正反対に、なんとか林檎を守ることは出来まいかと考えました。



 そして、姫さまよりも林檎がうつくしくなければ良いのだという考えに至り、しらゆきに相談へ行きました。



「なんとか、このうつくしい見た目を封じることは出来ないだろうか。俺はこの林檎たちと、それを育てたあんたを殺すことはしたくないんだが……」



 事情を聞いたしらゆきはその暖かな顔を真冬の寒空のようにし、大事に育てた林檎たちを守る術をうんうん唸りながら考えました。




 「どうもこの赤くて艶々した見た目が、気に入らないようだったが……」狩人の言葉を聞いて、しらゆきの目に光が灯りました。




「それなら、これはどうでしょうか」しらゆきは果樹園の横に建つ小屋へと走って中から複数のものを運んできた。狩人はそれらを確認しながらしらゆきに尋ねた。




「こいつは……身体に悪くなったりしないのかい?」



「いいえ問題ありません。味も変わることはありませんわ」



 そうしらゆきが微笑むので、それならと狩人も頷き二人は月が昇るまでぺたぺたと木々の間に音を弾かせながら休むことなく赤を消して行った。








 コン、コンーー。


 太陽が空を支配する頃、扉を叩く音を聞いた姫さまは顔をパッと明るくして喜んだ。




 一晩経ってやっと戻ってきた狩人は、どことなく要領を得ないお喋りを繰り広げ実に姫さまをイライラとさせたが、あのうつくしい見た目の林檎はもう一つたりともありませんと言うと姫さまの機嫌も砂糖菓子のように甘くなった。



 たんまり褒美を持たせ、狩人を帰してしまうとその足で姫さまは鏡の前へとやって来た。



 そしていつも通りに、鏡へ尋ねた。





「鏡よ、鏡。一番うつくしいのはーー」





 そう尋ねられると、姫さまのにこやかな表情とは反対に鏡は少し困った音を出した。




「姫さま、お答えします。一番うつくしいのは、それはしらゆきのつくる林檎にございます。それが、いちばんうつくしい。」言い終えるとその鏡面に果樹園の姿を映した。




 驚いた姫さまが覗き込んだそこには、あのあかあかと美しい色を持つ林檎はひとつたりともなかった。



 しかしそこには、カラフルな美しい果実たちが憎たらしくしかし愛らしく実っていたのだった。



「これはどういうこと!」林檎のように真っ赤な色をその顔に浮かべて姫さまは鏡に手をバシンと叩きつけた。赤い目がギョロリと動き出し、色とりどりに塗られたそれらをひとつひとつ確実に睨みつけていく。





「他人に任せたからだわ」と唐突に姫さまがこぼした。「自分自身で努力しなければ、そうよいつもそうしてきたのに……」






 姫さまはドレスをその場に脱ぎ捨て、動きやすい軽い服をその身に纏った。その細い腰にギュッときつくベルトを締め、部屋を静かに出て行った。





 城の薬品庫へ向かい、戸棚に並ぶガラス瓶に閉じ込められた液体をまじまじと眺めその中身を確かめていく。



 次に引き出しを開けて紫や黒といったひどく醜い粉ばかりを選んでいった。





 キッチンにやってくると数多の果物の中からひとつ、真っ赤なものをとりあげて大きな鍋の中にゆっくりと溺れさせた。



 その鍋の中へ、選び抜かれた液体と粉とが混ざり合っていく。



 姫さまがなにか言葉を呟くと、鍋の表面は灰色のどんよりとした雲に覆われてその中身を隠してしまった。






「出来たわね」そう言って、姫さまはその唇の端を持ち上げた。





 鍋の中へ腕を伸ばし、なにかを掴んでゆっくりと持ち上げる。そしてそれをカゴへ詰めて、城から姿を消したのだったーー。







 足取りは軽かった。



 なにもかもがこれで解消されるのだ。





 また、一番うつくしくなれるーー。そう思うだけで心が弾んだ。






 そうして彼女は目的の地へと足を踏み入れた。そう、しらゆきの果樹園へとーー。


 




 まず一歩、そしてまた一歩。歩くたびに心を溶かすような甘い香りが身体を纏う。姫さまは、まるで芳醇なドレスを着せられているかのような気持ちになった。



 次はくるり、くるり。周りを見渡す。右も左も上も下も、柔らかな緑に包まれて姫さまの心を穏やかに撫でてくれた。





 そして最後に、何よりもうつくしいものから姫さまの目は離せなくなった。


 まるで空に浮かぶ星のように、キラキラと色とりどりの輝きが姫さまの顔に降り注いでいたーー。






「何よりも、うつくしい……」






 あまりの美しさに心を奪われ、姫さまは小さく呟くだけで精一杯だった。



 その美しさが、見た目だけでないことに姫さまはもう気付いていた。



 赤くても、赤くなくてもそれは美しい。






 それに比べてーー。



 姫さまが目を落とした先には、城からつくって持ってきた表面だけがつやつやと偽りの輝きを放つ赤いだけのなにかがあった。



 姫さまは鏡とのお喋りを思い出していた。なぜ、美しくあろうとするのか。それは偉くあるため、そして褒め称えられるため。


 


 そう。そのために見た目ばかりを美しく育て、自分より美しいものは排除しようとしたのだ。





 姫さまはもう一度よく赤い果実を見つめました。



 そしてーー。



「私には、これがお似合いね……」そう言って笑うと、ゆっくりその赤い肌にキスをしてからそれを味わいました。




 甘い香りが口の中いっぱいに広がったと思うと、その全てが姿を変え今度は苦々しい虫の這うような感覚が押し寄せてきました。




 姫さまはあまりの苦しみに耐えられなくなりその場にぱたりと倒れ込み、そのまま息もたえてしまいました。








 そこへ七人の小人達がやって来ました。彼らはしらゆきの果樹園で働いた帰りでした。






 一番前を歩いていた小人が、倒れた姫さまを見て叫びました。


「だれか、果樹園に侵入した者があるぞ」




 その後ろを歩いていた小人は驚きました。


「なんだって!」




 さてその後ろの小人は前の二人よりも大きかったので「だれか、倒れている者があるぞ」とそのようすを見て叫びました。




 さらに後ろを歩く小人は「それはいけない。ベッドへ運ぼう!」と提案しました。




 その後ろの小人はしらゆきへ報告に、そしてさらにその後ろの小人は他に人が侵入していないか見回りにいきました。



 一番後ろを歩いていた小人は、七人の中の誰よりも大きかったので姫さまをベッドに連れて行く係になりました。



 そうして姫さまはしらゆきの小屋へと運ばれて行ったのです。







 ふわりと白く柔らかいベッドに寝かされた姫さまは、まるで飾り付けられたお人形のように美しく愛らしいのでした。しかし残念なことにすっかり冷えきってしまって、息をしていませんでしたーー。



 



 鏡はその様子を見ていました。



 姫さまの部屋から、鏡面に映し全てを眺めていたのです。



「姫さまは、死んでしまった」





 鏡は嘆きました。


 姫さまにありのままの事実ばかりを伝えてしまったこと、いっそ優しい嘘をついていれば良かったのだということ。






 自分が彼女を追い詰めてしまっていたのだということーー。




「姫さま、姫さま、姫さまーー」




 何度呼んでもそこに生まれるのは後悔の渦ばかり。嘘をつけばよかったんだ。もっと彼女に寄り添った嘘を!






「……嘘じゃない。」





 そうだ、嘘なんかじゃない。僕にとっては姫さまが一番うつくしかったのにーー。




 でも姫さまは僕の声が聞きたかったんじゃない。世間の評価が欲しかった。だからいつでもその望みに従ってきた。




 ……それでももし、もしも僕の真実の気持ちを伝えていたら。




 

 鏡の中に銀色に輝く大粒の雫が光りました。





 それが何個も何個も現れてはぽろぽろと落ちて、落ちてーー。






 そのとき、落ちていく雫を冷たいと感じる者がありました。



 その者は初めての冷たいという感触に驚き目を開け、顔を上げました。



 そこには一人の少年と、それを映す立派なただの鏡がありました。





「……え?」



 少年は鏡に手を当てその姿を上から下へまじまじと眺めました。



 カラスの羽のような蝶ネクタイにブーツ。白いシャツの上には短めの黒い外套。


 銀色に輝く瞳からはその目を溶かしたような優しさがぽろぽろと流れ、頭には一本一本が絹糸のような柔らかい髪が生え、そして鼻は真っ赤に眉は悲しみでひどく下がっていました。



 少年は鼻を擦り眉を上げました。

 

 それから、手を閉じたり開いたりしてその体を動かしてみました。足を持ち上げ、降ろすという行為も試みました。



 そして前を向きました。




「歩けるんだ。僕には、足がある。姫さまのところへ歩いていけるんだ!」




 また大きな粒が目からこぼれ落ちました。






 少年は部屋を飛び出し、走り出しました。慣れない体を急に、それも素速く動かすのは思ったよりも難しくあちこち針を刺されるように痛みました。




 足はいまにももげてしまうのではないかと思われました。それほどの痛みでした。



 しかし少年は足を止めませんでした。痛みも苦しみも彼の心にとって些細なものでしかなかったからです。




 その足で姫さまのもとへ駆け付けられること。




 その目で姫さまを見つめられること。



 その手で姫さまに触れられること。




 なによりも、今度こそ伝えられる。僕の真実を、僕の口からあなたへーー。



 




 ブーツに赤い血が滲み、痛みを我慢するよう握りしめた手の腹にも爪が食い込み赤くあたたかいものが流れていました。





 そうして彼を照らしていた空に浮かぶ光が沈む頃、やっとその場所へ辿り着いたのです。



 ふらふらと、足を踊らせながら少年はしらゆきの小屋へと近寄り、血塗れの手を外套でよく拭いてからその戸をコン、コンと叩きましたーー。







 キィィーー。音とともに戸が動き中からしらゆきが顔を覗かせました。




「あなたは、だれ?」しらゆきは少年を見つめました。



 誰という質問に少年は答えられませんでした。鏡はうまれてはじめての答えられない問いに戸惑い恐れを抱いて下を向いてしまいました。



 しかし姫さまのことを想うと勇気が湧いてきてグッと顔を上げ、しらゆきに真摯に頼み込みました。





「僕は中で眠っておられる彼女に会いにきたのです。どうか話をさせてもらえませんか」




 しらゆきは、少年の目から真剣さを受け止め中へと通しました。



 キシキシと軋む床を進み、右と左から小人達の視線を浴びながら少しずつベッドへと歩み寄りました。






 真っ白なシーツの上にはうつくしい、うつくしい人が冷たくなっていました。



 その手に触れ、顔をよく眺めました。




 ほんのりと色付いていた頬は見る影もなく生を失い、唇は薄い紫に染まっていました。



 蝋人形のようになってしまったその顔に少年は笑いかけました。



「姫さま、姫さま。聞こえますか?」




 問いかけは小屋の中に響き、しかし誰も答えることはありませんでした。



 少年は、目に熱いものがこみ上げてくるのを感じました。熱い、熱いーー。血の滲む足よりも血の止まらない手の腹よりも、痛い熱さでした。




「姫さま、姫さま。僕は真実を語っていませんでした。姫さまは僕に尋ねてくれていたのに、僕は僕の真実を伝えてきませんでした」



 


 いよいよ目は燃えるように熱くなり、今にも熱が流れ落ちていきそうになりました。少年は必死にそれをこらえ、声をかけました。







 「もう一度だけでいい、僕に尋ねてくれませんか?」






 ポタポターー。




 抑えきれなくなった粒達が姫さまの頬に落ちていきました。




 すると、なんということでしょう。その涙から光が溢れ出し姫さまの頬に色が戻ってきました。



 唇は赤く、長いまつ毛が潤いそして蝋のようだった肌にはふっくらとした柔らかい表情が現れました。




 重いまつ毛がゆっくりと持ち上がり、赤くうつくしい瞳が姿を見せました。







「……鏡よ、鏡。一番うつくしいのはーー」







「それは……姫さまです。僕にとっては何よりも、姫さまがうつくしい。一番、うつくしい」




 その言葉を聞いた姫さまは優しく、夜に咲く月のように柔らかく笑ったーー。








 あれから、いく年の月日が流れただろう。



 

 あの少年は手にあかあかと輝く林檎の実を抱き歩いていた。



「おや、その林檎あの有名なやつかい?」


 街の商人に声をかけられ足を止める。



「まったくその林檎は世界一さ。何よりも、美しい!」と指差しながら商人は言った。




「そうですね、とてもうつくしい。見た目も、そして……中身も!」そう言うと少年は商人にその林檎をプレゼントし、嬉しそうに笑って駆け出していった。






 向かった先は、ある果樹園だった。





 少年は全身に何よりも甘い香りを感じ、何よりもあかあかと実った輝きを見つめ、その手を伸ばしてひとつもぎ取った。




 カシューー!



 淡く広がってゆき次第に風船が弾けるように口の中を美味しさが支配する。



 その林檎は、中央から淡く優しい光を放ちそれを包む真っ赤な着物はまるで暖かい春の微笑みを思わせた。


「まるで、姫さまみたいだ」







「ーーありがとう」



 少年の声に、誰かが答えた。



 振り返るとそこには、花のように笑う姫さまの姿があった。






「姫さまの林檎を街の商人が褒めていましたよ! 何よりも美しい、と」少年は林檎を頬張りながら嬉しそうに話した。



 姫さまもつられて嬉しそうに笑った。





 姫さまは、髪は少しパサつき手も荒れて肌の美しさも前ほどではなくなっていた。


 姫さまの見た目を褒めるために通っていた王子もいなくなり、そして姫さまも城で偉そうにすることをやめた。




 その代わりに、姫さまは林檎を育てるようになった。もちろん、見た目を磨くことも忘れてはおらず毎日林檎の美しさと自身の美しさの両立に大忙しだ。



「育てた林檎で髪をしなやかに、手をしっとりと潤わせることはできないかしら……」



 いつも努力をかかさない。




 そんな彼女を、少年はやっぱり何よりもうつくしいと思うのだった。








 葉と葉の間から、一筋の光が差し込む。





 サワサワと葉が歌を奏でる。





 その下で、鏡のように光る瞳を持った少年と、とてもうつくしい林檎姫が楽しそうに声を響かせていつまでもいつまでも笑顔を咲かせていたーー。






 

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