短編 『おちうど』
タツマゲドンさん主催の戦闘シーン祭りに参加した作品です
はっきり言います。
かっこよくありません。
いつもの俺を想像するとがっかりするよ。
戦闘シーン祭り参加作品
タイトル「落人」
長篠の戦いというものがある。
歴史書の類を紐解けば、武田と織田徳川連合軍のぶつかり合いだとか、日本戦史上初めて野戦構築がなされ大規模に銃火器が導入された野外戦だということは少し歴史の教科書をかじった人間なら誰でも知っていることだ。
その他にも鳥居強右衛門が男気を見せたとか、武田勝頼が自分自身を認めさせたいただその思いが暴走するがゆえに武田家没落の引き金を引いてしまっただとか、織田が天下統一の王手をかけたがゆえに、これ以後徳川はむしろ織田にとって邪魔になる存在になったとか色々な逸話があるのだが――
そんなものはこの際どうでも良い!
長篠の戦いが終わりに近づき武田は総崩れとなり、有名武将が勝頼を生かしたいがために次々に犠牲となって討ち死にしていく。
名のある名家の生まれで、それなりに実績のある武将であるならば死んで一花咲かせることも可能だろう。
だがそれは武名を持つものでも、ほんの一握りに過ぎない。敗残軍の一員ともなれば、多くは刀の露と消え無残な野ざらしの髑髏を晒すことになるのだ。
ましてやそれが陣ぶれ一つで集められた一介の農兵ともなれば死んだところで追い剥ぎの小遣い稼ぎ程度にしかならない。
大体が織田家中以外なら、農民はどこまで行っても農民であり武功をあげたからといって士分に取り立てられるとか、そういうことは絶対にありえない。
だから逃げる。
とにかく逃げる。
死体から武器を取り上げ、ついてこれないものを置き去りにし、時には地元の者たちを駄賃の手土産代わりに殺して路銀を稼いででも彼らは生きようとする。
それが戦であり、戦国の世の最下層で当たり前に行われている事実であった。
今まさに長篠の合戦上から北西へと進んだ山の中のケモノ道。そこに三人の男が血だらけになりながら藪を掻き分け進んでいた。
長篠の合戦に退路なし。
織田徳川に完全に挟撃された状況下で無事逃げられたのはほんの一握り。そしてこの三人はそのほんの一握りだったのである。
その藪の中の獣道を掻き分けて進んでいた男は三人。そのいずれもが薄汚れた足柄姿であり武田家の家紋が彫られた質素な陣笠と到底鎧とはいえぬ薄い胴巻きひとつしか見つけてない。腰には脇差を指していたが、戦場において刀などおまけ程度だ。普通は槍を持つ。だが今の彼らにはあんな長物邪魔でしかない。
恰幅はいいが背が低く醜男の部類に入る〝佐平次〟
痩せた長身で折れかけの槍を担いでいるのが〝文蔵〟
中肉中背で足腰のがっちりしている日焼け男が〝次郎太〟
三人は何とも元々は農民である。それが陣触れで集められて武器を持たされ連れてこられた経緯がある。それなりに俸禄は与えられたがそれとて命をかけるような金額でないことは誰の目にも明らかだった。
ましてやこの戦で彼らが属していた武田家は見るも無残に負けたのだ。まともな俸禄すら与えられない可能性すらある。事ここに至っては何とかして生き残り国へ帰るよりほかはない。
そのためには〝生きること〟何でも生き延びるより他はないのだ。
西の空に血の色のような太陽が沈もうとしていた。何としても日が沈みきる前にこの名もなき峠を越さねばならない。それができねば追い剥ぎか土民どもに無残に駆られて終わるだけである。
三人の中で一番後ろを歩いていた醜男の佐平次が問い掛けてきた。
「おい次郎太よ」
「なんじゃ?!」
「少し休まぬか」
「阿呆かお主は! 少しでも足を緩めれば追っ手が追いついてくる! 当たり前じゃろうが!」
「で、でもよぉ……」
佐平次はよほどに根性がないのか半べそをかきながら言葉が駄々をこねるようにブツブツ言い始めた。
だが次郎太はそれを無視してさらに歩き続ける。
「行くぞ文蔵」
「あいよ」
長身の文蔵も佐平次には関わろうとしない。彼とてどう生き残るかで精一杯なのだ。
「ま、待ってくれ――後生じゃ?」
狼狽えて騒ぎ始めた佐平次をふたりは完全に置き去りにし始めた。なまじ騒がれると余計に気付かれる恐れがある。だがそんなこと馬鹿の佐平次にはまるでわかっていなかった。
「頼む!」
そうひときわ高く叫んだ時だった。
―ヒュッ!―
飛んできたのは真ん中から折れた槍。片手で投げるにはかえってちょうどいいくらいだ。それが見事に醜男の佐平次の左の背中に突き刺さった。運悪く心の臓を一撃である。悲鳴を上げる暇もなく佐平次は事切れた。
「ほっほう!?」
「えらく綺麗に決まったのう!」
「やっぱり勝ち戦の後は調子ええのう!」
妙にはしゃいだ声が聞こえる。声の主は三つでいずれも男、粗野な感じからして身分や位はそう高いものには到底見えないが、戦場の最前線で彼らがかぶった陣笠に書かれた家紋を次郎太は忘れるはずがなかった。
「織田木瓜……」
勝ち組である織田方の足軽崩れである。
織田に農兵はいない。何もが金で雇われた職業的兵隊たちである。そのため金が切れればさっさと逃げるが基礎戦闘力はずぶの農兵よりもはるかに高い。特に負けた側の兵卒や武将から身ぐるみ剥いで巻き上げてまで小銭を稼ごうとする貪欲さは次郎太たちは戦場で何度も目にしてきた。
下手な土民たちや山をねぐらにする山賊などよりも余程たちの悪い連中である。
次郎太は文蔵に告げる。
「逃げるぞ。全力で走れ」
次郎太が言うと同時に文蔵も一気に走り出す。二人のその姿、まさに死に物狂いである。
腰の辺りの高さまでの藪なら何とか前に進んでいたが、そんな後のことを考えて体力を温存するやり方などもはや何の意味もない。追いつかれて死んでしまえばそれで終いなのだ。
「ぎゃあっ!」
カエルが潰れたような悲鳴が上がる。隣を走っていた文蔵がもんどりうって前のめりに倒れた。僅かに視線を走らせればその後頭部に拳の大きさほどの石が投げつけられていた。
「ほほう! また当たったぞ!」
「的が大きいから当たりやすいの!」
「そいじゃ黒いのはわしじゃ!」
「逃げ足早いから追いかけ甲斐があるのう」
そんな雑貨な会話の中から聞こえてくるのは、誇りある戦士の言葉ではない。戦場での命のやり取りに慣れきった倫理も慈悲心も矜持もどこかへとクソと一緒にひり出してきたごろつきたちの戯れ言である。
「こいつら!」
次郎太は思う。彼らは遊んでいると。逃げ惑う敗残の兵たちを野山のたぬきかきつねでも狩るように弄んでいるのだ。そしてあわよくば金目になるものを巻き上げる算段なのである。
「こんな奴らに捕まってたまるか!」
生き延びればならない。それに次郎太には帰らねばならない理由があるのだ。
「おっかあ!」
次郎太には母がいる。もはやかなり老いていて頭も白髪だがよく働きよく笑う母であった。母は次郎太が戦場へと出るときこう告げていた。
――手柄なんぞたてぬでええ。頼むから生き残って帰ってきてくれや――
それは人の親としてあまりにも当たり前すぎる純粋な理由であった。そして次郎太もそれに応えることだけを考えてこの戦をここまで乗り切ってきたのだ。
「糞っ!」
そこからは無我夢中であった。
ひたすら藪をこぎひたすら先へと進む。
逃げて逃げて、逃げまくり、脇から伸びていた小枝に服を引っかけようが、肌を切ろうが、次郎太は無我夢中で走り続けた。
「またんかぁ!」
「身ぐるみ置いてかんかい!」
「ぶち殺すぞコラ!」
背後から三人たちの怒号が響く。刀一本、陣笠一つ、身につけていた着物一枚でも構わない。後から金になればなんでも構わぬのだ。
それが追い剥ぎというものであり、戦に負けた落人を待ち構える現実なのである。
すでに佐平次と文蔵は命を落とした。
ならば次に来るのは次郎太の番である。だが彼にはそんな蒙昧な運命を受けるつもりは毛頭なかった。
「死んでたまるか!」
次郎太がそう叫んだ時だった。
ふいに次郎太の視界が開いた。藪を抜けたのだ。だがそれは新たなる困難を彼に告げるものであったのだ。
「糞っ!」
次郎太は己の運命を恨んだ。一度負け落ちたものは運命ですら見放すのだ。
次郎太の目の前に広がるもの。それは立木の立ち枯れによる倒木のある場所で少しばかり開けた場所だった。その光景は次郎太に状況が悪化したことを告げていた。
「いかん!」
藪の中なら追手も足元を取られて容易には追いつけてこれない。ましてや回り込むことも出来ないだろう。だがこのような開けた場所であれば三人に一斉に襲いかかられる可能性もある。
次郎太はついに覚悟した。逃げ切れるのであれば立ち向かうまでだ。
そして次郎太の中で思い出されるのは彼を召抱えていたかつての主である。
「昌良様!」
かつての主人の名を思わず口にする。
神津昌良――齡十八になるかならぬかの若輩で、武家の家名としては下から数えたほうがいい下級武士の範疇にある男だった。だがこの長篠の戦いに出るにあたって少数ながら槍足軽を20人ほど与えられ戦陣の末席を任されていた。これで織田徳川を破り、武田の武名に貢献することができれば名を挙げることが出来る――そう言う立場の男だったのである。
次郎太はこの若き主人に様々な物を学んでいた。そもそもが足軽など武家の者にとって替えはいくらでも効く存在である。物を教えたり鍛えたりと言った事は最低限でいい。
例えば有名な織田の三間半槍は、やりの使えないド素人でもいかにすれば武家の者や武術の使える達者たちを倒せるかという問題を解決するために生み出されたものだ。そんなご時世である。足軽風情に槍刀の使い方を今節教える武将など居ようはずがなかった。
だがこの神津と言う男はその中でも例外中の例外であった。次郎太も神津から度々講釈を聞かされていた。もしかするとただ単に人に説教をするのが好きなだけだったのかもしれんが。
大抵の足軽が面倒そうに聞き流す中で次郎太と文蔵だけは真面目に聞き入っていた。その効き目もあったのだろう。戦場ではそれなりに敵の雑兵の首をとる成果を上げていた。これで戦に勝てれば褒美ももらえるだろう。そしてなによりその事を一番喜んでいたのは当の神津に他ならなかった。
だがその神津も今は居ない。織田方が築いた馬防柵陣、野戦陣地構築の最たるものとして有名だが、主君武田勝頼からくだされた突撃命令。騎馬隊による接近戦の命に従い出陣し、そして無残に散っていった。負けを悟った神津は早々に次郎太たちを解き放ち、逃げる事を勧めたのだ。
「農兵のお主らまで死ぬことはない。帰って田畑を耕せ」
それが神津が次郎太たちに残した最後の言葉である。
次郎太はその神津から聞かされた言葉の数々をその脳裏に思い描いていた。この長篠の戦いの行軍の中でなんどその教えに助けられたかもしれぬ。次郎太はその教えの数々をその脳裏に思い起こしていた。今こそ、その教えを駆使せねば追手の手にかかって死ぬだけである。
そこは広さ三十間ほどの開けた場所であった。周囲を鬱蒼とした木々や藪に囲まれ、そこだけが木々の根腐れや水気などにより草木が育たなかったのだ。だが当然、足場は良くない。走って逃げるだけの広さもない。追手の三人をなんとしても返り討ちにせねばならないのだ。
次郎太は腰に挿した大脇差を抜くと正眼に構える。だがその腰つきは――
「なんじゃそのへっぴり腰は!」
「ぬししゃぁそんなので良く足軽ができたのう!」
「こりゃ楽な仕事じゃ!」
追手の三人が口々に嘲笑する。見れば三人の中で一番恰幅のいい男が大刀を右手で抜いて振り回しているところだ。
「こんな腰抜け、ワシ一人でええ! お前らはあくびでもしとれ!」
連れの二人を制止して一人だけで出てくる。この男は完全に次郎太を見くびったのだ。
その光景に思い浮かぶのはかつての主人の神津の言葉の一つだ。
――ええか、戦場では偉そうに正眼で刀を構える必要などない。なまじ強そうに見えれば多勢でかかられる! 己の力量を悟らせないのも兵法じゃ!――
騙しもれっきとした作戦である。敵の慢心を呼び、戦局を有利にする事も可能なのだ。次郎太は敵がまんまと思惑にかかった事を知った。
「う、わぁああああ!」
へっぴり腰で奇声を発し、わざと刀を握る手を震えさせる。進退窮まって恐怖に怯えているさまを演じてみせる。だがそんな次郎太の演技を疑う素振りは追手の男には微塵もなかった。次郎太をあざ笑いながら声をかけた。
「無駄なあがきはよせ! 痛くならぬように死なせてやるからのう!」
そしてその男と次郎太との距離は十五間ほど――その距離を詰めるべく男は駆け出すと右手に握りしめた刀を大ぶりに振り上げた。
「死にさらせぇ! 武田もんが!」
その振り上げた刀が男の右肩の頭上に振り上げられきったときだった。次郎太が動く。
追手の三人は気づかなかったが、腕と上半身は腰抜けの臆病者の様にだらしなく震えていたが、次郎太の腰から下は微動だにしていなかった。ぬかるんだ足場の中でしっかりと立てる場所を見つけて体を安定させていた。そしてそれがあるからこそ次郎太は一気に駆け出す事ができたのである。
ぬかるんだ足場の上で泥飛沫をあげながら次郎太は駆け抜ける。両手で握りしめた脇差を振り上げることもなく腰の前辺りにて構えると、敵の男の懐に一気に飛び込む。あいては大ぶりに振りかぶったのが仇となり、次郎太の思惑に気づいてももはやどうなるものではない。
「死ねえ!」
一気呵成に次郎太が叫び、その手握りしめていた脇差を前方へと突き出す。両腕の長さと脇差の長さ、それが功を奏して脇差の切っ先は男の喉笛へと届いた。それもまた主である神津の講釈を聞いてから夜寝る前に一人ひっそりと突きの鍛錬を素人なりに繰り返した成果である。
――次郎太よ、斬って敵を倒そうと思うな。突きじゃ! 槍と同じぞ! 突いて敵の急所を一撃にすることを心がけよ!――
その教えを想起したときだ。
――ズブリ――
湿った肉音が響いて嫌な感触とともに、次郎太の脇差の切っ先は見事に敵の急所を一撃にした。縦に構えた刀をねじるようにこじりながら引き抜けば、頸動脈が裂けて生血が一気に吹き上がる。当然、こうなっては死ぬより他はない。
「一人――」
次郎太が血走った目でつぶやけば、仲間を一人あっさりとやられた織田方の追手たちが驚きながら立ち上がり慌てて脇差を抜こうとするところであった。位置関係は残り二人の片側が次郎太の正面、残り一人が次郎太からみてその右隣り、距離にして三間ほど離れている。
「この野郎! よくも!」
「ぶっ殺す! 武田がぁ!」
二人とも仲間を屠られて激昂をしていた。だがそれも次郎太にとって好都合だ。
――次郎太! 戦場では囲まれる事を何よりも避けよ! 相手が足軽と言えど多勢に囲まれれば攻撃を躱しきれなくなる! 退き気味に動いて敵を一人づつ片付けるのだ――
次郎太は左手側に動くと敵の二人が縦に並ぶように立ち位置を決める。
――みだりに自分から攻めるな! 相手の出方を吟味しろ!――
とっさの事で敵も連携して次郎太を攻めるとは思い至らなかったらしい。近い方から無思慮に襲いかかってくる。
ふと気づけば右足がぬかるみに足首まで浸かっている。次郎太は天啓を得た。
――ビシャッ!――
右足を思い切り振り上げると、脚の甲の上に載った泥を跳ね飛ばす。そしてそれは敵の顔にまともに降り掛かった。
「うわっ!」
敵は驚き叫び顔をしかめていた。泥の中の小石が目にあたったか中に入ったのだ。これも好都合――次郎太は一気に駆け寄り敵の左わきから脇差を突き刺す。胴巻き鎧の脇の下の隙間。そこから一気に心の臓をめがけて一突きである。
「邪魔じゃ」
そう吐き捨てながら二人目を屠る。そして足先で相手の胴を蹴るようにして敵の体を引き離した。
そして残りはいよいよ一人である。
恰幅のいい男が先に殺られ、次は普通の身なり。最後に残されたのは次郎太よりも背丈の小さい痩せた小男である。
「は? ひゃぁ! うわぁあああっ!!」
小男は悲鳴を上げながら逃げ始めた。またたく間に二人を屠った農兵に驚き恐れをなしたのである。こうなるともう何も太刀打ち出来ない。
「わぁああっ! おた! お助けぇえ!!」
足元のぬかるみに滑って男は仰向けに倒れた。その手に握っていた脇差はその際に離してしまう。そしてだ。その機を逃すような次郎太では無かった。
足先で相手の脇差を蹴り飛ばすと、小男の胸ぐらを一気に踏む。苦し紛れに足を掴んでくるが何の意味もない。
「ご、後生じゃ! 助けて助けくれい! 頼む!」
顔を恐怖でくしゃくしゃに歪めた男の懇願。だがそれを聞くような耳を次郎太は持っていない。
「すまんな。お主を殺さねば他の追手に知られる。そうなれば逃げようがなくなる」
「誰にも言わん! 誓う! 神にも仏にも誓う!」
「そうか誓うか」
「そうじゃ! 誓うから許してくれぇ!」
男はとうとう神仏まで口にし始めた。そんな醜態を目の当たりにして次郎太は冷たく言い放った。
「ワシは此度の戦で、神仏を信じるのをやめた。何しろ負けて何もかも死んだのでなぁ!」
そして脇差の切っ先を真下に向けると、相手の喉笛めがけて一気に突き刺したのである。
「ギャッ! ゴブっ!」
悲鳴の声が途中で濁ったのは、切り裂かれた頸動脈から登った血が喉笛で溢れたためである。次郎太は相手が事切れるまで、しっかりと脇差を突き刺し続けた。やがてさしたる時間も立たずに男は動かなくなる。
「死んだか」
次郎太は何の感慨もなく言い放つ。そして死んだ追手たちの装束や荷物をあさりはじめる。
「悪いが今度はワシがお主らの身ぐるみをはがせてもらうぞ。ここから郷に帰るのに路銀が入り用なのでな」
それは戦場の習いだ。生き残ったものだけが利益を得るのだ。男たちは相当、武田方の者の身ぐるみを剥いだのだろう。隠し持っていた金子は相当な物になっていた。
「これだけあればなんとかなるじゃろう」
さらに追ってから逃れるために織田木瓜の書かれた陣笠を一つ奪い取る。他の追手に遭遇した時に見を偽るためである。
「昌良様――あなた様の教えで生き残ることができました」
そうつぶやくと、かつての主人と死にはぐれた二人の仲間のために両手を合わせた。
「さて、行くか――」
次郎太はそう呟き再び歩きはじめる。向かう先は峠越えの険しい山道である。
あとに残ったのは5柱の野ざらしのみ。
これよりのち大敗した武田は再起を図るべく死に物狂いで戦うが破竹の勢いとなった織田勢には叶うはずもない。
小山田信茂に裏切られ、天目山にて勝頼が自害した事で武田家は滅びることになる。
だが、神津昌良の名も、次郎太の名も、書き記している歴史書も古文書も存在しない。
ヒーローじゃない現実の闘いなんてこんなもんだ。
合掌