循環
3.
また照明が暗くなる。もう常夜灯ほどの明るさしかない。
「敬吾! 敬吾ってば! 帰ろう!」
静まり返った通路に、私の絶叫と二人の足音だけが響く。そのうち、敬吾は振り返りもしなくなった。ただ水槽を覗いては、頷いたり考え込んだり嘆息したり笑ったり、くるくると表情を変えている。満足すると、次の水槽を求めて進むのだ。
いつの間にか、展示されている生物は、凡そ水族館で飼育できるような代物ではなくなっていた。
目の前で、マッコウクジラとダイオウイカが戦っている。両者とんでもない体格だ。全長二十メートルはあるだろうか。
ダイオウイカが太い脚で締め上げれば、マッコウクジラが巨体を捩って引き千切る。その際に体当たりを食らって、ぐにゃり。ダイオウイカの頭部が歪む。そこへマッコウクジラが齧り付く。囓られながらも、残った脚は巨体を縛る。
青と赤の血液が、暗い海水の中で煙めいて漂う。あんな巨大生物が暴れているというのに、此処はあまりにも静かだ。ガラス越しに伝わるドス黒い殺意だけが、これが映画ではないことを如実に物語っていた。
敬吾は、ニヤニヤと嗜虐的な笑みを浮かべて、そんな二頭を眺めている。
いっそ一人で帰ろうか、という考えが、ひっきりなしに頭を過ぎった。
だけど、此処で別れたら、もう二度と敬吾に会えないと思った。
深い深い、決して手の届かないところへ。
沈んでいって、帰ってこない。そんな気がして仕方がなかった。
だって私達は、水の中では生きられない。
海は人間の住む世界ではないのだ。此処では、私達の方こそアウェイで、完全な弱者。泳ぐどころか、息すらできない異端者なのだ。せいぜいが食いでのある餌でしかない。悲しいほどに無力だった。
次の水槽では、ラブカが泳いでいた。
カイコウエビが跳ねる。ダイオウグソクムシが這う。
オオグチホヤが笑い、リュウグウノツカイが、ゆったりと舞う。
脳味噌を見せびらかすデニメギス。場違いなネオンを振り撒くウリクラゲ。
あれはスケーリーフットかな。
あとは、よく知らない。目玉の飛び出した奴や、顎の外れたような奴。頭部から謎の突起が生えまくってる奴。鱗のないブヨブヨした物体。エイリアンとゾンビのハーフ的な奴。本当に、神様の悪ふざけとしか思えないデザインだらけだ。
大きなサメが泳いでくる。
メガマウス……違う、メガロドンだ。
とっくの昔に絶滅しているはずなのだけれど……。
何度トンネルを潜っただろう。
ゾーンが変わるたび、水槽の中の海は深さを増してゆく。
徐々に魚達は姿を消して、誰も知らないクラゲやヒトデ。埃のような原生生物。生き物なのかどうかも疑わしい、浮いているだけの何か。そんなものが大半を占めるようになってきた。
叫ぶ声も枯れ果てて、私はぼんやりと敬吾の後ろを歩いていた。既に自分の手も見えない。真っ暗だ。足音と衣擦れ、たまに聞こえる声で、敬吾が前にいるのだとわかる。距離感はなかった。なんだか息苦しい。耳がキンキンする。
歩く先に、はらはらと光の粒が踊っていた。
雪?
こんなところで……?
トンネルを抜けて、その正体がわかった。
マリンスノーだ。
闇の中で輝くそれは、私達を中心に円を描く形で、仄白く辺りを照らしていた。
此処は円形の広場になっているらしい。ということは、壁に沿って水槽が曲げられているのか。金魚鉢みたいに。
いや。
それとも、丸い水槽の中に、私達が閉じ込められたのだろうか。
私には、もうどちらが観察されているのか、わからない。
敬吾がふと歩みを止めた。
何か探しているようで、辺りをキョロキョロと見回している。
それで気が付いた。
順路灯がない。
チョウチンアンコウの疑似餌を模した、あのランプ。これまで、必ずトンネルの上に設置されていた道しるべ。それが、ないのだ。
「終点か……」
どこか感慨深げに、敬吾が呟いた。
それきり、音を出すものはなにもない。押し潰されそうな静寂に包まれて、雪のように積もるマリンスノーだけが、変化のすべてだった。きっと千年経っても一万年経っても、此処はずっとこのままなのだ。地球の底なのかもしれない。
あぁ、こんなに深く沈んでしまった。
これからどうすればいいの?
途方もなく寂しくなって、私は敬吾の手を握った。
敬吾が握り返す。
言葉もなく、二人で海底に降る雪を見ていた。
どれくらいそうしていただろうか。
水槽の底に沈殿していたマリンスノーが、動いていた。
まるで見えない手が砂山を作るみたい。私達の目の前に、ゆっくりと、集まってくる。白い境界線は、一粒一粒が意思を持っているかの如く、とろり輪郭を後退させて闇に場所を明け渡し、代わりに中央がこんもりと盛り上がってゆく。
頭が出来る。肩が出来る。胸が、腹が、腰が出来る。
脚だけがない。腰から先は水槽の奥、気の遠くなるほど長く霞んで、漆黒の海水に朧な一筋の光を放つのだ。
やがて音もなく身を起こしたそれは、真っ白な身体の、人間もどきだった。
いつだったか、ネットで見た画像を思い出す。
ヒトガタ。
その裂けた口が、正解と言わんばかりに吊り上がった。目も鼻も耳もない。髪もない。なのに、そいつは笑っていた。
ついと、そいつの腕が持ち上がった。指は四本しかなかった。
差し伸べられた手は、こう言っているようだった。
さぁ。
吸い寄せられるように、敬吾が一歩を踏み出した。
「――駄目! 敬吾!」
私は、敬吾に抱き付いた。
敬吾が、ハッと私を見た。
そのとき彼は確かに、私のよく知っている、大好きな顔をしていた。
「…………」
けれど彼は、一瞬だけ寂しそうに笑って、水槽に掌を着いた。
すっ。
あまりにも自然だった。分厚いガラスが、敬吾の手を受け入れた。
そのまま、するするとガラスを通り抜けてゆく。ちょうど水面を押す感覚に似ていた。明らかな抵抗は見えるのだが、それは敬吾の意思をなんら阻害するつもりではない。続いて手首が、腕が、呑み込まれる。人の世界ではない、向う側へ。
ずるり。
抱き付いていた敬吾の服が、皮ごと剥がれた。
勢いに乗り、敬吾は、水の中へと全身を躍らせた。
「敬吾!」
嫌。嫌よ。置いていかないで。こんなところで一人にしないで!
水槽に飛び付き、ガラス面をバンバンと叩く。たった今敬吾が擦り抜けていったガラスは、痛いくらいの無情さで、私の拳を拒んだ。悔しくて悲しくて、何か叫んだ気がする。
敬吾が振り返る。
目も鼻もなかった。
ヒトガタと敬吾は、手を取り合って、水槽の奥へと泳いでいった。
遠ざかるにつれ、敬吾の身体が白くなる。いつしか脚は消滅し、その下半身は、沈殿したマリンスノーと融合を遂げていた。即ち、それはヒトガタと根拠を同じくする結末を意味する。進化なのか退化なのか、私にはわからないが。
長い長いマリンスノーの尾を引いて、二匹のヒトガタは、暗い海の彼方へ去って行った。
あとに残るのは、上も下もない。
――気の遠くなりそうな闇ばかり。
了