エスカ
1.
遠くに、チョウチンアンコウの疑似餌が見えた。
この器官はイリシウムと呼ばれ、餌を誘き寄せて捕食するためのものであると考えられている。チョウチンアンコウと聞いて誰もが思い浮かべる、あのグロテスクな姿は、実は雌。雄は非常に小さく、生殖のために雌と一体化してしまうらしい。
なんてね。
尤もらしく説明したところで、もちろん本物ではない。チカチカと安っぽい電飾を瞬くそれは、客寄せ用の看板代わりだ。つまり建物。この、裏野ドリームランドに於ける、アトラクションの一つというわけ。
実際、その頭頂部にはデカい看板が突き刺さっている。
「裏野ドリームランド・アクアツアー」
読み上げると、隣の彼氏が、すぐに反応した。
やや不服げな横顔が、私に向けられる。
「また水族館? 遊園地にまで来て?」
「いいじゃない、お願い! ねぇ行こうよ! フリパ持ってるんだし!」
「お前、ほんっと魚好きだな」
「敬吾だってキャンプ好きじゃん」
「あのなぁ、お前がたまには遊園地行きたいっつったから来たんだろ?」
「お願い! ね? ね?」
「……ったく、しゃあーねーなぁー」
口は悪いが、いい奴なのだ。ちょっと説教臭いというか、常識人すぎて面白みに欠けるところはあるけれど、それで大失敗を回避したこともある。結局のところ、私は彼のそういう性格が好きなんだろうな。
はぁ、とこれみよがしに溜息を吐いて、敬吾は優しく私の手を握った。
目的の場所には、すぐ辿り着くことができた。
なんたってチョウチンアンコウである。無駄に目立つ。
しかも、このデザイン。なんというか、ちょっと……スゴい。
独特のフォルム。変に突き出た下顎。ゴツゴツした皮膚。
特徴を残しつつも、どうにか可愛らしさを出そうと苦心したのだろうが。外装は派手なショッキングピンクに塗られ、小さな眼はイルミネーションで、左右で微妙に焦点がずれ、やはりチカチカと不自然な灯りを放っている。
全力で焼け石に水だ、と思った。
これじゃ却ってアウトだろう。小さな子供なら泣き出すかもしれない。
「二名様、ゴ入場デスか?」
ぽっかり開いた口の傍に、ウサギが立っていた。
にゅっ、とモフモフの掌を差し出してきたので、二人分のチケットを渡す。
どうもこいつ、遊園地のマスコットのようで、園内のあちこちで見かける。これがまた、可愛くないのだ。着ぐるみだから仕方ないとはいえ、貼り付いた作り笑顔が、なんとも不気味。どおりでグッズも売れないはずだ。
近々廃園になるという噂は、本当なんだろうな。
「じャア、ゴユッくり! 行っテらっしゃーイ!」
妙に甲高い声を背に受けて、私達は薄暗いトンネルを潜った。
†
館内は結構、賑わっていた。
私達みたいなカップルもいれば、家族連れもいる。あそこの女の子三人は、友達同士なんだろう。中年のソロ男性や、小学生くらいの団体もいた。
やっぱり水族館はいい。誰と来ても様になる。薄暗い照明も大きな水槽も、そこに暮らす生き物達も、なにもかもが非日常でワクワクする。動物園とは違う、この静かで圧倒的な雰囲気が、私は好きだった。
最初の水槽は、胸ぐらいの高さ。上部がフルオープン状態で、蓋もない。正直、一度手を突っ込んでみたいと、この手の水槽に遭遇するたびに思う。たまに頬へと跳ねる水しぶきが、良い具合に臨場感を演出していた。
「ヤマメ……アマゴ……イワナ! うわ、釣りてぇ!」
泳ぐ魚を見て、敬吾が浪漫の欠片もない台詞を吐いた。
「お客さん、困ります。観賞用ですよ」
などと脇腹を突きながら、次の水槽へ。
「コイ、フナ……あ、亀だ。でけぇ。亀って魚なの?」
「亀は爬虫類! 実は魚類じゃないのよね」
「ふーん。でもさぁ、なんか地味だよな、此処」
敬吾が移動させた視線の先には、二メートル四方ほどの水槽がある。
隅の方に岩場と寝床が作られていて、数匹のウナギが、ニョロニョロ動き回っていた。毎年土用に食われまくるせいで今や絶滅危惧種、珍しいと言えば珍しいが、確かに地味だ。
「前に行ったとこはさぁ。こう、初めっからデーンとデカい水槽あったじゃん」
あくび混じりで言う敬吾に、私は人差し指をチッチと振って見せた。
甘い。甘いな。
展示方法には、一定のパターンが存在するのだよ。
魚と言っても、実に様々な種類が存在する。地味魚と派手魚。熱帯魚。海水魚。地域別。水族館によって違うが、だいたいイメージしたコンセプトがあって、そこにちょくちょくアクセントを加えてゆくというのが普通のやり方だ。
たぶんだけど、このアトラクションでは、上から下へ。
「つまり川の上流から海に下っていく構図になってるのよ」
「ふーん」
せっかく私が知識を披露したのに、相変わらず、敬吾は退屈そうだった。あまつさえ、俺は食う方が好き、なんて笑っている。もう。どうして魚の美しさがわからないのかしら。
キラキラ輝く鱗。洗練された体型。躍動感溢れる泳ぎ。生きた宝石、いや芸術と言っても過言ではない。地味とはいえ、彼等はこんなにも綺麗なのに。
いつだったか。私の部屋で熱帯魚の水槽を見せたときも、これ食える? などと言われて閉口したっけ。
まぁいいや。せっかくのデートだし、水族館だし。楽しもう。
気を取り直した私は、次の水槽に没頭することにした。
「あれ? フグ?」
興味なさげに眺めていた敬吾の眼が、ある一匹に引き付けられる。
「フグって海にいるんじゃないの?」
「その子は汽水。ハチノジフグっていうのよ」
そうそう、思い出した。ミドリフグっていう熱帯魚がいて、それがもうすっごく可愛いんだ。鮮やかな黄緑の体表に黒いドット、フグらしい風船体型。つぶらな瞳がまたキュート。一度飼ってみたいんだよね。
こないだネットショップで特売してたんだけど、調べたら意外と大きくなるみたいで。狭いマンションは既に三台の水槽が圧迫してる。これ以上は厳しい。海水も作らなきゃいけないしなぁ。水槽メンテって案外重労働なんだよね。
でも欲しいなぁ。可愛いなぁ……フグ。
「ねぇ、フグ飼ってみたいんだけど」
否定されると知りつつも、隣の敬吾に話しかけた。あと一つぐらい、ダメ押しで諦める理由を求めていたのかもしれない。
ところが、驚いたように此方を向いたのは、見ず知らずのオッサンだった。
――人違いだ!
「す、すみません!」
慌ててその場を離れる。
素で間違えた。身長が同じくらいだから、気が付かなかった。あぁ恥ずかしい。
え、じゃあ敬吾は? 何処?
辺りを見回す。行き交う客の中に、敬吾の姿はない。
やだ、考え事してる間にはぐれた?
バッグからスマホを出して、敬吾に電話しようとした、そのときだ。
「おーい、こっちこっち」
人混みの向こう、笑顔で手を振る敬吾が見えた。
その頭上で、チョウチンアンコウの疑似餌がピンク色に瞬いている。背後には、短いトンネルが続いていた。なかなか凝った準路灯だが、今はそれも腹立たしい。足早に駆け寄り、私は敬吾の腕にしがみつく。
「もう、勝手に先行かないでよ!」
「声掛けたぜ? お前、まるっきり聞いてねーんだもん」
「恥掻いちゃった」
「ははは、悪い悪い」
宥めるように、ポンポンと頭を軽く叩かれる。
私は、ハリセンボンそっくりに膨れながら、敬吾の胸を叩き返す。
そうして、ある意味イチャつきながら、二人でトンネルを潜った。