【プロローグ sideA】少年と妖精の出会い
自分はごく一般的な人間だと、ずっと思っていた。
けれど、気づいた時には深い深い穴の底まで落ちている――。
その日は高校二年生になって最初の登校日だった。
無理を言って親元を離れて一人暮らしを始めて一年、もう随分とこの生活にも慣れた。
ただ、家に帰って一人なのはやはり少しだけ寂しいとも思う。
身支度を済ませた後、テーブルの上に散らばった物の中から、食パンの袋を取り出し、無理やり口に押し込んだ。
教科書が詰め込まれたカバンを持って、バタバタと慌ただしく家を出る。
「行ってきます!」
自分以外が居ない家に、大きく声を出して走り出す。
入学して二年目に入ったというのに、未だに登校時間はギリギリだ。
全速力で学校へ向かい、教室へとたどり着いた。
「ま、間に合った。皆、おはよ――」
突然、視界が暗くなって、激痛と共に大きな音が聞こえた。
耳に入る甲高い悲鳴、動かない身体。
そこでやっと、自分が倒れたのだと気づいた。
けれど、立ち上がれない、目が開かない。
混乱する頭の中とは裏腹に、意識が遠のいていく。
段々と周囲の音が聞こえなくなっていき、最後には何も聞こえなくなった。
――目が覚めた時、最初に見たのは、白い天井だった。
自分が倒れたことを思い出して、この場所はきっと病院なのだろうと悟った。
目が覚めたことに気づいたらしい看護師が、大急ぎで誰かを呼びに行った。
そこからはよくわからないまま色々なことを質問されたり、簡単な検査を受けたりした。
暫くすると両親がやってきて、泣きながら抱きしめられた。
そして、この病院で少しの間入院しなくてはならないことを伝えられた。
二人とも涙を流していて、なんだかすごくその表情が印象に残った。
……だけど、その日以降、両親が病室にやってくることは無かった。
――看護師に、一人で出歩かないようにと言われた。
けれど年頃の男子高校生である自分にとって、一人の時間はとても退屈で、看護師が居ない隙を狙って、病室から抜け出した。
なぜだかあまり力が入らなくて、あぁ、やっぱり自分は病人なんだと思いながら、廊下を歩いて行く。
こっそりと近くの病室を覗いていったけれど、この病院の病室は、【個室】ばかりだった。
自分の病室も【個室】で、なんだかあまり普通の病院の印象とは噛み合わない感じがした。
この病院はそれなりに大きな病院らしく、自分のいる階は8階だった。
階段で他の階に行ってみようと考えたけれど、今の自分の足では心許ないので諦めた。
エレベーターに乗ることも考えたけれど、看護師に出会う可能性が高かった。
だからその日はそれ以上のことはせずに、静かに自分の病室へと帰っていった。
――自分の病室へと戻っても、特に怒られたりはしなかった。バレずに戻ってこられたということだろう。
バレなかったと安堵していたけれど、夜にご飯を持ってきた看護師に遠回しに注意された。
あれだけ動き回ればバレないわけがない。わかっていて、見逃されていたのだ。
「ここは、そういう場所だから……ね。私が貴方に教えたってこと、秘密にしておいてね?」そう看護師は言った。
なんだか、子供扱いされているようで、悔しかった。
けれどそれ以上に今の自分がどういった状態なのかということもわかってしまった。
頭の中がスッと冷たくなっていく感じがした。
その日以降、何もかもが面倒になって病室から抜け出すことをやめた。
――最初の内は学友や、担任の先生が見舞いにやってきた。
元々そんなに大勢の友達が居たわけではない自分にとって嬉しい反面、学校での話を聞くと悲しくもあった。
進級してすぐだったのもあって、段々と誰も見舞いにやってくることはなくなっていった。
本当に、ほとんど時間をひとりで過ごすことになった。
そして、ひとりでいる時、時間だけは沢山あったので、何かをしようと考えた。
行き着いたのは、山ほど存在している童話、神話を読み漁っていくということだった。
自分にどれだけの時間が残っているのかなんて実際のところわからないけれど、やりたいことをしようと思った。
このことを看護師に伝えると、後日大量の本が病室に運び込まれた。
なんでも両親が用意したらしい。見舞いには来ないというのにこういった我儘は叶えてくれるらしい。
看護師はなんだか複雑な表情をしていたけれど、気にしないで本を読んでいった。
気づけば看護師は病室から居なくなっていた。
――沢山の本を読んだ。
送られてきた本は大体読んでしまった。
梅雨の時期、雨の音を聞きながら読む本はなんだか一段と良い物に感じた。
だけど、気持ちとは裏腹に、起きていられる時間が短くなった。
読めば読む程に一冊読み終えるまでの時間が段々と長くなっていった。
一回の読書の時間が短くなった代わりに窓から外を眺める時間が増えた。
外を眺めていると雲の流れや、空の色の変化。鳥や人を見るのも面白い。
一日として同じものはなくて、それがなんだかおかしかった。
――段々と身体が弱っていく自分が嫌だった。
立ち上がることが苦痛なのが悔しいと思った。
手をつかなければ歩けなくなった、涙が出そうになった。
それでも、調子が良い時は窓辺に置いて貰った椅子まで行って、外を眺めた。
空を自由に飛んでいる鳥が羨ましいとさえ思うようになった。
――ある夜、不思議なことが起こった。
最近は消灯後にこっそり窓から星を見ることが日課になっていた。
星空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。
自然と口が動き、流れ星を見つめながら一言、呟いた。
「友達が欲しい」
寂しさからやってきた、本心からの願いだった。
入院してからもう、ここへやってくる人は居なくなっていた。
慣れたつもりだった。だけど本当はとても、寂しかった。
……突然病室に柔らかな光が現れた。
まるで幻覚でも見ているかのように、その光は綺麗で、まるで吸い寄せられるように辿々しく近寄っていった。
近づくと光は可愛らしい小さな妖精のような姿に変わった。
妖精はこちらに気づくと少し驚いたような表情で言った。
「貴方はだれ? ここは、一体どこ?」
それが、これから起こる小さな奇跡へと繋がる【彼女】との出会い。
もう、季節は初夏になる頃だった。