第1話:異世界の奴隷
東京の片隅、雑居ビルの地下にある研究室は、静寂と混沌が奇妙に共存していた。薄暗い蛍光灯が天井でチカチカと瞬き、埃っぽい空気にコードや工具の金属臭が混じる。壁には設計図が乱雑に貼られ、ロボット工学の数式や回路図が殴り書きされている。中央の作業台に座るタクミ――高見匠、30歳――は、疲れ果てた顔を青白いモニターの光に照らされていた。目の下には深い隈が刻まれ、乱れた黒髪には汗が張り付き、作業用ジャケットの袖は油と煤で黒ずんでいる。彼の手には、小さな球体――災害救助ロボット「ガイスト」のコア――が握られていた。表面には細かな傷が走り、青いLEDが微かに脈打っている。
タクミの目は、コアを見つめるたびに揺れていた。疲労と執念が混じったその視線は、彼が何日も眠っていないことを物語っていた。指先が震えながらも、彼は呟く。
「ガイスト……お前が俺の全てだ。頼む、動いてくれ。」
声は掠れ、低く響いた。かつて家族を失った日から、タクミにとって研究は生きる理由そのものだった。この災害救助ロボットが完成すれば、地震や津波で命を落とす人を減らせる。瓦礫の下で助けを待つ人々を救える。頭の中で、何度もその光景が再生される――瓦礫の中から手を伸ばす被災者、ガイストがそれを掴み、安全な場所へ運ぶ。子供が親と再会し、涙を流しながら抱き合う姿。そして、タクミ自身がかつて失った両親の笑顔が、重なるように浮かんでくる。
「もしこれが成功したら……俺は、俺の人生に意味があったって証明できる。お前が動けば、世界が変わるんだ。」
彼の声には祈りと焦燥が混じり、指がコアを握り潰さんばかりに力を込める。その瞬間、コアが青く強く光り、低い電子音と共に無機質な声が応えた。
「起動準備完了。システムチェック開始。」
タクミの唇がわずかに緩み、疲れた顔に一瞬の安堵が浮かぶ。ガイストの声はいつも通り、感情のない機械的なものだった。それが彼には安心だった――ただ命令に従い、質問に答えるだけの相棒。それ以上でも以下でもない。だが、その希望はすぐに崩れ去った。
研究室が突然、異様な振動に包まれた。床が揺れ、棚の工具がガタガタと倒れ、モニターに映るグラフが乱れる。「次元異常」という赤い警告文字が点滅し、タクミの瞳が見開かれる。
「何!?地震!? 待て、ガイスト! 中止しろ!」
叫びが空を切り裂くが、コアの光は増すばかり。次の瞬間、白い光が爆発的に膨張し、研究室を飲み込んだ。タクミの絶叫が轟音に掻き消され、彼の視界に一瞬だけ映ったのは、机の隅に置かれた写真――両親と幼い自分が写る、失われた過去の記憶だった。涙が頬を滑り、光の中に溶ける。
意識が戻った時、タクミの耳に最初に届いたのは、風の唸りと共に聞こえる金属の軋みだった。瞼を開けると、目の前は赤黒い雲に覆われた空。埃と汗の匂いが鼻をつき、喉が焼けるように乾いている。体が硬い地面に投げ出され、腕に鋭い痛みが走る。見下ろせば、手首に錆びた鉄枷が食い込み、鎖が岩に繋がれている。
「何……!?」
声にならない呻きが漏れ、タクミの頭が混乱で軋む。視界が揺れ、焦点が定まらない。慌てて周囲を見回すと、そこは切り立った岩壁に囲まれた鉱山だった。無数のやせ細った人々が鎖を引きずりながら、黒光りする鉱石を採掘している。遠くで鞭が鳴り響き、赤いローブを纏った監視員が怒号を上げている。
「どこだ、ここ……? 俺、死んだのか? いや、痛みがリアルすぎる。夢じゃない……まさか!また被災したのか?」
タクミの呼吸が乱れ、心臓が激しく鼓動する。研究室から一瞬にしてこんな場所に飛ばされた理由が分からない。頭を振って状況を整理しようとするが、思考は霧に包まれたようにまとまらない。
「落ち着け……まず状況を把握しろ。俺はどこにいる? 東京じゃない。海外か? でも、こんな鎖とか中世みたいな鉱山、現代にあるわけが……」
彼の手の中で、ガイストのコアが微かに光を放つ。だが、反応は弱々しく、声すら発しない。タクミは歯を食いしばり、コアを握り潰さんばかりに力を込める。
「お前まで俺を置いてく気か? 頼む、動いてくれ……俺にはお前しかいないんだ!」
その時、背後から野太い声が響いた。
「黙れ、新入り! さっさと働け!」
振り向けば、革鎧を纏った巨漢の監視員が、鞭を振り上げていた。タクミの頬に熱い痛みが走り、地面に叩きつけられる。血の味が口に広がり、意識が一瞬遠のく。だが、その屈辱が彼の内に眠る闘志を呼び覚ました。
「ふざけるな……俺はこんなところで終わる男じゃない。」
わけがわからないまま鉱山での奴隷としての労働が始まった。タクミは鎖に繋がれ、素手で岩を砕き続ける。指先は血に染まり、汗が目を焼く。だが、彼の目は諦めていなかった。周囲の奴隷たちの虚ろな瞳とは違い、タクミの頭はフル回転していた。科学者として培った観察力が、ここでも働いていた。
彼が手に取ったのは、黒く輝く魔脈鉱石だった。触れた瞬間、指先に微弱な振動が伝わり、掌の中でかすかに熱を帯びる。タクミの眉が僅かに上がり、心臓が速く打つ。
「この鉱石……何か変だ。触れただけで微細な振動と熱反応がある。エネルギー源としての特性を持つ物質じゃないか?」
目を細め、彼はコアを握る手に視線を移す。すると、LEDが一瞬だけ強く光るのを確認した。タクミの頭の中で、あの時の記憶がフラッシュバックする――研究室のモニターに映った「次元異常」の警告。
「待てよ……あの地震の直前、ガイストのエネルギー供給が不安定だった。そしてあの白い光……この鉱石に反応してるってことは、まさか……いや、あり得ないだろ?」
思考が途切れ、彼は首を振る。だが、科学者としての直感が静かに囁く――この鉱石が、別の場所への転移の鍵かもしれない。
夜、監視の目が緩んだ隙に、タクミはジャケットのポケットから工具――ペンチとドライバー――を取り出す。研究室から転移した唯一の遺物であり、彼の希望の象徴だった。指先が震え、汗が滴る中、彼は魔脈鉱石をコアに接触させ、配線を調整し始める。やがて、コアから低い電子音が響き、聞き慣れた声が耳に届いた。
「システム再起動。エネルギー供給確認。タクミ、生きてるのか?」
タクミの顔が一瞬緩み、笑みが浮かぶ。だが、次の瞬間、その声のトーンに違和感が走る。ガイストの言葉に、皮肉っぽい人間らしい響きがあった。タクミの眉がピクリと動き、驚きが胸を突く。
「お前が黙ってた方が驚きだよ……って、待て。お前、今何て言った? 『生きてるのか?』って……何だその言い方?」
ガイストが即座に応える。
「何だよ、嬉しくないのか? お前が死んでたら俺も困るだろ。」
タクミの目が見開かれる。転移前、ガイストは無機質な応答しかせず、「はい」「いいえ」や「システム確認中」といった機械的な言葉しか発しなかったはずだ。それが今、まるで友達のように軽口を叩いている。
「お前……何だその口調? 転移前はお前、ただのAIだったろ。『起動確認』とか『エラー報告』とかしか言わなかったのに、急に人間みたいに喋るのか?」
「知らん。ここの変な鉱石に触れたら、なんか頭がスッキリしたんだよ。お前がどう思うかは俺の知ったこっちゃないけどな。」
タクミの頭が混乱で軋む。科学者としてあり得ない変化に戸惑いながらも、どこかで安堵が芽生える。
「状況を説明しろ、ここはどこだ?」
「データ不足。だが、この鉱石のエネルギー波長は異常だ。俺のセンサーじゃ既存の物理法則じゃ説明がつかない。次元転移の原因かもしれない。」
タクミの息が止まる。
「次元転移……?それってここが俺たちの世界とは別の世界ってことか!? お前、本気で言ってるのか?」
「冗談ならもっとマシなネタを言う。お前がどう受け止めるかは知らんがな。」
タクミの頭が再び軋む。今度はその言葉と、ガイストの変化が現実として彼を突き刺した。
その時、隣に座る少女が小さく声を上げた。リア――18歳、緑の大陸出身の奴隷だ。痩せ細った体にボロ布を纏い、長い赤い髪が顔を隠している。瞳は怯えに揺れていたが、タクミがコアを弄る姿を見て、好奇心が勝った。
「それ……何? 魔導士の道具じゃないよね?」
タクミはちらっと見て、彼女の言葉に引っかかる。「魔導士」という単語が脳裏に響き、彼の眉がピクリと動く。
「魔導士? 何だそれ、魔法でも使う気か? 笑える冗談だな。」
声には皮肉が滲み、現代人の常識が顔を覗かせる。だが、リアは目を丸くし、真剣に首を振る。
「冗談じゃないよ! 魔導士は本当にいるんだから。貴族の命令で、この鉱石を採ってるのも魔導士の力を使うためだよ。」
タクミの笑みが凍りつき、頭が一瞬停止する。
「待て待て……本気で言ってるのか? 魔法? この世界にそんな非科学的なものが?」
彼の視線がリアから鉱山全体に移る。赤いローブの監視員が、手に持った杖から青い光を放ち、怠ける奴隷を締め上げる姿が目に入った。その光は、物理的な力で人を縛り、地面に叩きつける。タクミの喉が鳴り、心臓が跳ねる。
「あり得ねえ……エネルギー操作? いや、でも、あれは……!」
科学者としての理性が拒否する一方で、目の前の現実がそれを覆す。ガイストの言葉と繋がり、タクミの中で「転移」という仮説が現実味を帯び始めた。
リアが小さく続ける。
「変な人……でも、なんか面白そう。」
タクミは彼女を無視するつもりだったが、その純粋な声に、かつての両親を思い出した。心のどこかが疼き、彼は小さく息を吐く。
「お前、名前は?」
「リア……あんたは?」
「タクミだ。覚えておけ。」
夜の鉱山、星一つない空の下で、タクミはガイストのコアを握りしめる。彼の目は、遠くの監視員の影を見据えていた。魔脈鉱石を手に持つ指が、微かに震えている。
「ガイスト、この鉱石を使えば何か作れる。俺はここから脱走するぞ。」
「お前一人でどうにかなるのか? 無謀すぎるだろ。」
タクミはガイストの軽い口調に再び違和感を覚え、眉を寄せる。
「またその喋り方だ……お前、本当にガイストか? 転移前はこんな友達みたいに喋らなかったぞ。」
「だから言ったろ、この鉱石のせいだよ。俺もよく分からんが、なんかお前と話すのが楽しくなってきたんだ。文句あるか?」
タクミが一瞬言葉に詰まり、小さく笑う。
「文句はない……けど、慣れねえな。お前がそんな奴でも、俺にはお前しかいない。それで十分だ。」
その時、背後から小さな声が聞こえた。
「ねえ……あんた、逃げるの?」
振り向けば、リアが膝を抱えてこちらを見ていた。彼女の瞳には怯えと、かすかな希望が混じっている。タクミは眉を寄せ、冷たく返す。
「そうだ。俺はこんな場所にいるつもりはない。」
リアが一瞬黙り、やがて小さな声で呟く。
「私も……逃げたい。ここじゃ、死ぬまで働かされるだけだから。」
タクミの目が細まる。彼女の言葉に、予想外の感情が胸を突いた。現代での孤独な日々を思い出し、誰かと共に戦う意味を一瞬だけ考えた。だが、彼はすぐにそれを振り払い、リアを試すように言う。
「逃げたいなら勝手に逃げればいい。俺は自分のことだけで手一杯だ。」
リアが唇を噛み、目を潤ませながら立ち上がる。
「私だって頑張れるよ! あんたみたいに変な道具は作れないけど……何か手伝えるなら、私も行く!」
その純粋な意志に、タクミの心が僅かに揺れる。彼は小さく息を吐き、リアに魔脈鉱石を放り投げる。
「じゃあお前も一緒に行くか? これを持て。何か作る時に使う。」
リアが慌てて鉱石を受け取り、驚いた顔でタクミを見る。やがて、彼女の瞳に希望が宿り、力強く頷く。
「うん、頑張るよ!」
遠くで監視員の足音が近づく中、タクミはガイストのコアを見つめる。
「なぁ、ガイスト。お前と俺で、この世界を変えられるか?」
「変えるも何も、お前が勝手に突っ走るだけだろ。俺は付き合うしかないさ。」
タクミが小さく笑う。その笑顔は、孤独を埋める新たな絆の始まりだった。地面に刻まれた血と汗の中で、彼の心に小さな火が灯る。それは、現代での夢をこの異世界で叶えるための、最初の炎だった。