大キライに桜の魔法
◇
まだ風の冷たい春の朝。
天気は晴天。
薄い薄い、かき氷のブルーハワイシロップをソーダ水に溶かしたみたいな、なんだか人工的な薄い水色があたしの頭上を覆っている。
「あんたってば、また髪の毛ボサボサ!」
オハヨウの前にまずそれか……知葉は中学に入ってからもう一年近くも続く成子の言葉にうんざりとした表情で振り返る。
毎朝、毎朝、リピート。
なんで髪の毛ボサボサなの、髪の毛結ばないの、隠れてお化粧するのは女の子の義務、身だしなみには気をつけなさいよ。寝癖を直さないなんて犯罪。眉毛ぐらい剃りなさいよ‥‥‥
――― あんたはあたしの母親か!
「いーの!! 髪の毛結ぶのなんて大キライ」
挨拶をしてこないヤツには挨拶なんてしてやんない。
知葉は大好きな祖母の教えに背いてぞんざいな口調で返す。
脱靴場で一年生の学年カラー、まるでGのつく昆虫みたいな上履きに履き替えて、学生鞄とサブバックを持ち直す。
小学校まで自由だった服装が、中学に入った途端に暗転。
紺・紺・紺。
たまにあるのは黒。
ほんのちょっとの白。そしてほんのちょっとのGカラー。
こんなダークカラーばっかり身につけていたら気が滅入ってしまう。こういうのを考えた人ってカラーセラピーなんて言葉知らないんだろうな。
「自然な髪型って範囲を超えてんのよ、あんたの場合」
「どうせ部活で走ったらボサボサになるんだから一緒」
いい加減に名前を覚えろ、植野成子。あたしには相澤知葉っていうたいそうご立派な名前があるんだぞ。
だけど、成子はあたしの心の声なんか知ることもなく、大げさに肩を竦める。
「そんなこと言って! まあ、あんたの場合はお抱え美容師がいるからいいんでしょうけど」
言葉の最後には大人めかした「ふっ」という言葉がつきそうな、いわゆる『上から目線』がプラスされる。
毎朝必ず、彼女とのあたしの髪の毛を結ぶ話から、『彼』の話題になる。
彼と言っても『彼氏・彼女』の彼じゃない。アイマイミー・ユーユアユー・ヒーヒズヒム・シーハーハーのヒーだ。三人称の『彼』。
「もうっ! 毎朝、言ってるけど、数兄は」
「数兄におまかせーー!! 知葉、お待たせ!!」
知葉が言い終る前に脱靴場の扉がバシーンと開かれる。そんなことをしたらただでさえ老朽化している校舎が壊れる!
表れたのは相澤数哉。手には中学生が持つには不釣合いな本皮に入ったヘアメイクセット。
成子が有無を言わせずあたしを押さえ込む、そして早朝の茶道部が陣取っている和室はヘアメイク講座になってしまうのだ。
ああ、また遅刻だ。
完全に遅刻だ。
いくら、一年生でレギュラーになんて手が届かないってわかっていても、あたしはバレーボールがしたい。来年はレギュラーになれるように朝練にもしっかり参加したいんだ。
おしゃれに命を削るかのようにこだわる成子は、数兄の手先をうっとりと見つめている。確かに、数兄の手の動きは父さんたちの美容室にいる誰よりも美しい。小さい頃からたくさんの美容師達を見てきて、練習台にされまくってきたあたしにはそれがはっきりとわかる。
「ここでね、根元まで逆立てるといいんだよ」
でも、それって嫌がる人に早朝にやること? あたしを人並みくらいにしたいって気持ちはわからなくもない。確かに本屋で雑誌が反対向いてたらあたしだってひっくり返すもん。でもでも、それはそれがモノであって無機物で、感情を持っていないから勝手に直すことがあるだけ。イヤだって言っている人間にやることじゃないだろう。しかも今から部活に行くのに髪の毛逆立ててふわっふわにしてなんになるの!?
知葉はついに立ち上がった。
「だーーー! やめやめ!! あたし、部活に行くんだから!」
怒って乱暴に両手を振り回す。その時、数兄の手にあたしの手が当たって、反動でコームが和室から飛び出した。硬い音がリノリウムの床に反響する。
知葉は無言でそのコームを拾い上げ、軽く埃を払って和室の中で呆然とする数哉の前に置く。
和室へ続く三和土の扉を粗い感情をなるべく抑えてできるだけ静かに閉める。(でも、やっぱり大きな音は出てしまった)
ずんずんと、和室から部室棟に続く通路を大股で歩きながら知葉は唇を噛み締める。
あたしはヘアースプレーの香りが大キライ!
ムースの香りもキライ!!
ぎゅうってきつくしばられるのも、ハデな飾りをつけられるのも……大キライ!!
髪の毛をコームで逆立てられるのも、お風呂でヘアスプレーを洗い流す時のベタつきも大っキライ!!
でも……数兄がヘアメイクしてくれるのは……大キライ、ではない、と思う。
実際に言うことも、表情に出すこともしたくないけれど。
結局、朝練はギリギリセーフだった。大急ぎで着替えて飛び出したらちょうど体育館で礼がされる直前だった。そのことに、ほっとする。
三月末の朝練は微妙に本格的ではない。特に一年は未だにボール拾いだけで終わってしまうこともある。一年の人数が多いためか、レギュラー候補以外の一年はあまりしごかれない。ありがたいけれども、やっぱり物足りない。
知葉は二年の先輩たちが使用し終わった後のバレーボール部の部室で着替えて、髪の毛の飾りを外す。逆毛を立てられた髪の毛はきしきしと鳴いているようだ。
それを見た、隣のクラスの子が話しかけて来た。
「相澤さん、とっちゃうの?」
「いいの! どうせ部活でぐちゃぐちゃになってるもん」
「せっかく数哉先輩がアレンジしてくれたんでしょ……」
なんで知っているんだ。いや、あたしが数兄に頭へのちょっかいを受けているのを知らない人は、数兄に興味がない人だ。
数兄は恐ろしいほどに女子受けがいい。あたしは毎朝、髪の毛を解くたびにこの下目遣い(あたしの身長が低いせいでもある)をさまざまな女子から受けるのだ。本心から、イ・ラ・ダ・タ・シ・イ!
「先輩って東高に行くのかな?」
知るか。心の中でツッコム。
「黙ってればカッコいいのにね!」
「そうそう、へアレンジしている時は格段にカッコいいもんね」
きゃっきゃと乙女オーラを出して会話する子達を眺めて知葉は溜息を吐いた。目線も冷ややかになるのは致し方なかろう。うむ。
この一年、あたしはよく我慢をしたと思う。
「知葉も先輩のこと好きだったらもっと素直になんなきゃ!!」
いきなりの話題転換に知葉は息を呑む。
「な……なんであたしが数兄のこと! た……ただの従兄弟だもん」
「なに言ってんのよ! 同棲してるくせに」
「同棲? きゃーー!!」
なっ!!
知葉は息を止めた。
本当にビックリした時って人間って息が止まるんだ。そのことにもビックリだ。
叫んでわざとらしくきゃーきゃー言う部員達。それに思わず大声で反論する。
「違う! 違うもん!! 単なる居候! あたしは数兄のことなんて大キライ!」
だんだん顔が真っ赤になるのがわかる。
知葉は堪え切れずに鞄を引っ掴んで部室から逃げるように飛び出した。
数兄は……従兄弟で……そして引っ越しのために我が家で一家揃って居候してる……ただ、それだけ……それだけだもん。
◇
なんとか、一日を終えて、自宅に戻る。
正直、シンドイ。
今日のレシーブ練習でうっかりサポータを忘れたせいで手首は真っ赤になり、今でも指先がビリビリ震えているよう。
「ただいまーー」
店舗の裏側にある、自宅用の扉を開けて間延びした声をあげた。
靴を脱いでリビングに入ると、
「「「「「「オカエリ」」」」」」
六重奏。
両親と叔母夫婦、そして数兄とお祖母ちゃんが揃えて出迎えの声をかけてくれた。
「知葉! 会いたかったよ~。久し振り!!」
数哉が知葉に抱きつこうと近寄ってくるが、知葉は持っていたサブバックでガードする。次が来たら『悪霊退散』って叫んで学生鞄をぶつけてやる。
「お祖母ちゃん、なにか手伝うことある?」
数兄を無視をして、キッチンに顔を出すと祖母がゆったりと微笑む。
「もうじき用意ができるよ。着替えてきたらお皿、出してくれるかい?」
「うん」
あたしが素直に返事をするのは、お祖母ちゃんだけ。いつからそうなっちゃったんだろう。ふるりと首を振って、急いで着替えて、髪の毛を適当に結ぶ。
階段をリズミカルに降りて、手を洗って、それから人数分のお皿を取り出した。今日は中華。玉蜀黍のスープに酢豚、ゆで鳥と千切りキャベツの山椒ソースがけ、フルーツたっぷりの杏仁豆腐。
和食が多いお祖母ちゃんとしては、今日のメニューは珍しい。
総勢七名で食卓を囲んで、祖母の特製中華メニューを平らげていく。
そんな中、酢豚を口いっぱいに放り込んだ叔母の理子さんが声をあげた。ちなみに、叔母さんと呼ぶと鉄拳が飛んでくるので怖くて呼べない。
「そうそう、数哉。そろそろあんたも準備しておきなさいよ」
「独り暮らしは物入りだからな」
理子さんの声に、叔父の利孝さんが口を開いた。
「徐々に揃えていくから大丈夫だよ。こっちから持ってく荷物は少ないしね」
数兄は苦笑いを浮かべながら、酢豚のパイナップルを口の中に放り込んだ。あたし、酢豚のパイナップルってキライ。
「なに?」
――― その会話に瞳を瞬かせる。
どういうこと?
「あら、聞いてなかったの? 数哉くん、春になったらあたし達の師匠のところで働くのよ」
七名の中でビックリした表情をしてるのはあたしとおばあちゃんだけだった。
「初耳だよ……高校はいかないのかい?」
おばあちゃんが茶碗を置いて数哉に顔を向けた。
「行くよ、定時制の夜間にね」
祖母の問い掛けに大人びた笑顔で数哉が返す。
知葉は、その後の二人のやり取りをぼんやりと聞いていた。
春からの新生活。アパートは既に借りていて、ワンルームのなかなかきれいなところだという。ちょっと駅から遠いけど、十六歳になったら原付の免許を取るから大丈夫。そんな話。
(え……? なんで? そんな話、全然聞いてない!)
そう心の中で思うのに、そう数兄にも言いたいのに、口はまったく動かなくて。しばらくした後、手に持ったままのお茶碗から、まるで機械のように口の中にご飯を運ぶことしかできなかった。
呆然とするって、こういう時に使うんだ。思考が回らなくて、口は開くんだけど言葉が出てこなくて、胸の中で無数の言葉がぐるぐるしているんだけど、ちっとも形にならない。
食べたものの味がしないっていうのも初めて知った。
食事が終わり後片付けをした後、数哉のいる納戸の扉の前で立ち竦む。
右手をノックをするために持ち上げて戸惑う。
なにを話したいの?
なにを話せばいいの?
なにを話したいと思っているの?
引っ越しのこと話してくれないなんてひどい……?
それとも美容師なんてやめなよ?
なんで高校に行かないの?
疑問符だけがぐるぐると周囲を駆け巡る。
すると目の前の扉が開かれた。
思わず「やっ!」と声が漏れる。
「どうしたの、知葉? 俺に愛の告白でもしにきてくれたの?」
扉を開けた張本人の数哉はのんびりと微笑を浮かべた。
その微笑にムカツク。
「そんなことするわけないじゃない!」
可愛げがないと自分でも思う反論に、数兄はまた微笑みを深くして。口を開くとキライしかでてこない、あたしの口。ボキャブラリーが貧困。国語能力の低下が顕著。そんなことを思うけど、対数兄だとそうなってしまう。なんでよ!
「つれないな~。俺はこんなに知葉のこと好きなのに」
「くっつくなーー!」
「……好きだよ」
背後から話しかけられてびっくりする。数兄はあたしがキライって言えば言うほど、まるで鏡のように好きって言って来る。それが好意の好きだってことはちゃんとわかっているし、あたしの口癖のようなキライを許してくれているんだってわかるから、嬉しいんだけど、嬉しいなんて気持ちは心の底辺で燻っているだけで、あたしの表情にも口調にも口からも飛び出していってはくれない。
見た目がふわふわの茶色の髪の毛で大きな丸い目の可愛い雰囲気の数兄が、ちょっと憂いを込めてこんなふうに言うと、対処に困る。本当に困る。
(どきどきして、心臓が口から飛び出しちゃいそう)
口がパクパクと動くだけでなにも言えない。そんなあたしの様子を見て、数兄はくすりと笑って解放してくれた。
「……ヒマだったら付き合ってよ」
腕を引っ張られてドキドキしていると行き先はリビング。
両親と叔母夫婦の四人が見守る中、数兄の特訓が開始されてしまった。
―――あたしへの好きって、ヘアモデルとしての好きですかい?
そう思ってしまう。
頭の上で飛びかう専門用語。わからない動きをする複数の人の手。周囲を取り囲まれて、眺められてわけのわからない言葉が交わされて。あたしは実験動物になった気分。白い鼠。赤い目の鼠。あの、小さな柵の中から一生出られない、真っ白な、小動物。
唇を噛み締めて頭をぐしゃぐしゃにする。
「……やっ」
「知葉?」
「やめて! あたしは髪の毛いじられるのも、美容師も大キライなんだから!!」
叫んで立ち上がる。頭に櫛かなんかが引っかかっている気がしたけど、気にしない。五人の囲みから逃げ出した先はおばあちゃんの部屋。家の中で一番日当たりの良い場所にある和室。
「知葉?」
「入ってこないで!」
いきなり入ってきたあたしをおばあちゃんは不思議そうに見ているが別段咎めはしてこない。
「って、そこはばーちゃんの部屋だろ?」
襖の向こうから数兄のくぐもった声が聞こえる。けれど知らない。
襖を押さえて座り込んだあたしの肩を叩いておばあちゃんが、薄い紙と木でできた境界の向こうに話し掛ける。
「数哉……今日は私に任せなさい」
おばあちゃんのその言葉に数兄は「……よろしく、ばーちゃん」とおとなしく答えて引き下がった。
(どうして……どうして大キライなんて言っちゃうんだろう……大キライって……言えば言う程、気持ちがおかしくなる)
あたしを見下ろしているおばあちゃんは、今のことをなにか聞いてくるでもなく、奥にある押入れを指差し「開けて」と微笑んだ。押入れを開けるとそこには立派な桐の箪笥。
「知葉、その引き出しを開けてくれないかい?」
「え?」
「その一番上の引き出しの着物を出したいんだよ」
「うん」
おばあちゃんの指示通りに箪笥から着物を取り出すと、おばあちゃんはあたしを見て笑っていた。なんでも知っているよ、とでもいうかのような微笑。
――― あたしは、おばあちゃんには逆らえない。
おばあちゃんにだけはキライなんて言えない。
あたしを見つめていたおばあちゃんは、頭を撫でて、そしてささったままの櫛を外してくれた。
「大きくなったねえ……もうおばあちゃんの背も越してしまった」
しみじみとした言葉にあたしは首を傾げる。おばあちゃんから見たらあたしは大きくなったのだろう。でも、あたしからしたらおばあちゃんは小さな頃からおばあちゃんで、今もおばあちゃんだ。
「……これは?」
あたしは話題を変えるために手にした白い紙の袋みたいなのを見下ろした。
「これはね、魔法の着物……恋の叶う着物なんだよ」
白い紙に結ばれている、白いリボン結びを解いて、取り出して広げた。濃紺の着物地。裾は青空。星が瞬き、その中に桜が散っている。裾の桜並木。風が吹いて、花片が空に舞う。
そんな着物を広げてあたしに合わせる。
「おばあちゃんがおじいちゃんに求婚された時も、知葉のお母さんがお父さんに告白した時もこの着物を着ていたんだよ」
恋の叶う……魔法の着物ね。
あたしが生まれた時からおばあちゃんの持っている魔法のアイテムとしてはなんだか納得してしまいそうになる。
「知葉にあげようと思ってね」
「あたし……に?」
あたしは口ごもった。
そして、おばあちゃんを見て首を左右に振った。
「ダメだよ。魔法をかけられたって素直になれっこない。キライしか……大キライしか言えないもん」
あたしのそんな言葉をおばあちゃんは聞き流す。水分の少ない、乾いた手のひらが頬を撫でる。
「知葉は素直ないい子だよ……今だっておばあちゃんの頼みを聞いてくれたし、忙しいお母さん達の代わりに家のこともよく手伝ってくれる。口は……確かにちょっとばかし真っ直ぐじゃないかもしれないけど、もっと自信をおだし。今の知葉で充分、素直で可愛いんだから」
おばあちゃんの手が数兄にセットされた髪の毛を優しく解いていく。
ツンツン引っ張られていた感触がなくなって、その分、素直になれそうなそんな気分になってしまう。本当におばあちゃんは魔法使いだ。
「なんてったって、おばあちゃんの孫だしね」
「おばあちゃん……」
あたしは、おばあちゃんに抱きついた。
◇
結局、その日はおばあちゃんの部屋で一緒に眠った。部屋に戻って数兄と顔を合わせたくなかったし。とはいっても同居をしている以上、避けて通れはしない。
覚悟を決めてリビングに行くと、土曜日のためか数兄しかいなかった。
無言のまま、もそもそと朝ごはんを作る。
数兄はトーストを自分で焼いて食べたということで、リビングから出てこなかった。おばあちゃんがお味噌汁を作っている間に、あたしが焼きトマトと目玉焼きを作る。おばあちゃんが好きなのは半熟。
半熟目玉焼きをぷっつりとつついて、とろりととろけた黄身にソースをかけて食べるのが、あたしは好き。焼きトマトにはあっさりと塩コショウだけというのが定番。
無言で始めたけれど、いざ出来上がって食べ終わればあたしは満腹でご機嫌になっていた。なんて単純。
コーヒー牛乳を手にしてリビングに戻ると、数兄がブラシを取り出した。
「知葉、ヘアモデルになって♪」
なんて、懲りない人なんだろう。一瞬、口ごもったが、あたしは頷いた。
日の当たるリビングで、のんびりとヘアアレンジ。
きっと、こういうオシャレが好きな人には最高のシチェーションなんだろう。なんといってもアレンジしてくれるのは可愛い系のアイドルっぽい男子なのだから。
「……知葉ってなんで美容師が嫌いなわけ?」
「そんなこと数兄に言ったって仕方ないでしょ。美容師も、それを目指す人も大キライ」
また出た。
自分でもそう思うが、対数兄にはこの言葉が真正面に出てきてしまうのだ。なんとかしてよ、あたしの反射神経。
「でも、俺は知葉のこと好きだよ」
まるで、いつものことのようにさらりと数兄は返してくる。赤面するしかない。
「そ……そんなこと平然と言うな! 恥ずかしい!!」
真っ赤になって叫ぶ。
――― なんでだろう……あたしはずっと、これが変わらないと思ってた……
こんなふうに……ずっと数兄が、あたしの髪をアレンジしてくれるって。でも、数兄はもうじき遠くに行ってしまう。
「器用なもんだねえ」
ほぼ完成らしいところで、祖母がリビングにやってきた。日課の読経が終わったのだろう。覗き込むおばあちゃんの手には緑茶の入った湯呑み。
「そうそう、これが似合うような髪型ってないかねえ」
おばあちゃんは笑って湯飲みをテーブルに置くと、和室に戻ってなにかを持ってきた。差し出す手のひらの中には、桜の形の飴みたいな櫛。
「ばーちゃん、これなに? めちゃめちゃ可愛い!」
「他にもあるよ。見たいかい?」
おばあちゃんの問い掛けに数兄は首を人形のように上下に振る。早速、和室に移動して髪飾りを見せてもらう。
「べっこう、真珠、象牙、珊瑚に……どれも古いけれど、良い物だよ」
大事にされていたことが、とてもよくわかる。
おばあちゃんの大事な、大事な宝物なのだろう。
「あれは?」
数兄は欄間にかけられた着物を見て瞳を瞬かせた。
「ああ、おばあちゃんの娘時代の着物でね……知葉にあげようと思って」
「知葉に?」
その口調にカチンと来る。
「なによ、似合わないって言う気!!」
「そうじゃないけど……普段大股の知葉が着たら着物が可哀想じゃん」
「なによ、それ!」
まるで、数兄が発火装置のようだ。あたしはすぐにツンツンキャンキャンうるさくなる。自分でもわかっていても、止まらない。情けない。
おばあちゃんはそんなあたしにはかまわずに着物の袖に触れて呟くように話す。
「人っていうのは、着る物で変わるからね……明るい色を着れば明るくなるし、着物を着れば自然とおしとやかになる……着物だけじゃない、化粧や髪型ひとつでも……変わることが出来る。」
「そうなんだよ、ばーちゃん! 俺が美容師になりたいのも、誰かの変わりたい……綺麗になりたいっていうのを手助けしたいんだ。髪型ひとつでも人は変わることが出来る。明るくなったり、弾んできたり……そんなふうに、人に元気を与えることの出来るヘアスタイリストになりたいんだ……俺!」
勢いよく、明るく話す数兄を見て、あたしは拳を固めた。
「じゃあ、お別れ会を開く」
「は?」
驚く二人。
「あたし……美容師は大キライだけど、数兄のことは応援する」
こんなふうに真っ直ぐに夢を追いかける数兄を、真っ直ぐじゃないあたしだけど、応援くらいはちゃんとしてあげたい。
あたしは、それからすぐにお別れ会の準備を始めた。でも、そんな大げさなものじゃない。数兄の友達には数兄から、あとはあたしの周辺に適当にお知らせした。それでも、かなりの人数が来そうで料理を作るのが不安になる。
お母さんたちが手伝ってくれるって言ったけど、両親と叔母夫婦はお酒が入っちゃうと役に立たないのはわかっているから、ヘルプはおばあちゃんだけに頼んだ。
◇
数兄、出発の前日。卒業式の翌日、春休みに入ったばかりが数兄のお別れ会の日。
数兄は卒業式ではもみくちゃになっていた。帰ってきた時の制服にはボタンがひとつも見当たらなかったくらい。ビックリだ。
想像以上に数兄はもてるらしい。やっかみがそれほど酷くなかったのは今思えば不思議だ。
時間は夜の七時スタート。
両親の美容室が七時終了だから。遅刻者が多いのは地域柄かもしれないけど、開始時間の三十分後くらいに全員揃うことが多い。
買い出しは足腰の弱いおばあちゃんには悪いので一人で行く。歩いて五分もかからないし、自転車があれば結構重いものでも大丈夫。
「重い~!! 自転車が動きにくい~」
百円ショップのエコ買い物袋の中にはたっぷりのビールとジュース類。食品の買出しはお昼頃に先に済ませてあって、下拵えまで終わっている。下拵えまでしておかないと、飲み物を冷やす場所が空かないのだから買い物が二重になってしまうのはしょうがない。
よたよたと自転車を押して帰り道を急ぐ。夕闇の公園。フェンスの向こうに空を見上げる数兄がいた。
「数兄……」
「知葉。買物?」
「うん……今日の飲み物」
「そう……」
数兄はフェンスを乗り越えて、あたしが押している自転車を代わりに押してくれた。
こういうところ、本当に数兄は気が利く。こういうさらりと気が回せる人ってやっぱりもてるんだろうな。ついつい、自分だけに優しい? なんて誤解しちゃいそう。
あたしは数兄を見上げて、平凡な話題を心掛けた。今日は『大キライ』を言いたくないから。
「……なに、見てたの?」
「夕焼け。この街で見る夕焼けもそろそろ見納めだな~って思って」
夕焼けを見つめて、数兄は眼を細めた。
「よく遊んだよな、この公園で……お前いっつも俺の後、ついてきて……いつ頃からだっけ? お前の口グセが…大キライになったの…」
「え………」
「キライ・大キライ……何回言われたんだろうな、俺……それでも、俺は知葉のこと……好きだよ」
顔を逸らさずに数兄はいつだって真っ直ぐにそう言ってくれる。
なんで?
「いつも……嫌だって言ってもちゃんと練習に付き合ってくれるし、進んでおばあちゃんの手伝いをしてる。知葉は本当に、素直ないい子だよ」
「数兄……」
こういう言い方だと、その好きって好悪の好きだとしか思えない。子供に対しての好き。な感じ。
あたしは瞳を瞬かせた。
(文句だったらすらすら言える。大キライだったら何回でも言える。でも、なんでこういう時は言葉が出てこないの?)
「……もう、練習も付き合わなくていいから……嬉しいだろ?」
夕日を背にして数兄が淋しそうに微笑んだ。そんな微笑みはキライ。
「数兄なんて……勝手に美容師になればいいんだ」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
「数兄なんて………数兄なんて、大キライ」
やっぱり言ってしまった。
あたしは……素直ないい子なんかじゃない。
夢を追いかける数兄を素直に応援出来ない……行って欲しくない。傍にいて。
そんな……ワガママ、言えるわけがない。
だから、大キライって言って、あたしは数兄を……応援する。
いたたまれない空気の中、家に戻ると余計にいたたまれない。
お別れ会の会場である、リビングには手作りの飾り付けがされている。成子たちが用意をしてくれて、三時くらいから始めていた。あたしは料理のことばっかり考えていたから、こういう飾り付けはまったくする気がなかったのだけど……いざ、されると、本当に今からお別れ会っていう感じがして、なんだか切ない。
あたしは数兄が運んでくれた飲み物を冷蔵庫に仕舞う。それだけじゃたらなさそうだから、納屋からクーラーボックスを取り出してきてそこへ氷とジュースを入れた。リビングでは人の気配が増えている。人当たりの良い数兄は近所でもファンのおば様方が多い。
お別れ会がはじまっても、あたしはキッチンに近い隅っこでおばあちゃんと料理の上げ下げやジュースを回したり、食器を片付けたりと裏方仕事ばかりしていた。
その方が気が楽だったから。
数兄は、家族や友達と一緒に楽しそうだった。笑っている。
笑っていてくれたら、良いんだと思う。あんな夕日を背にした淋しそうな微笑は数兄には似合わない。
お別れ会はぐだんぐだんの大人たちと、呆れた子供たちが手を振ってわかれ、数兄はお餞別のプレゼントに埋もれて手を振り返していた。
ぐちゃぐちゃのリビングを掃除していると、おばあちゃんが数兄に近付いていく。
「数哉……これはおばあちゃんからの餞別。おじいさんがね、くれた大事なものなんだ。お前に好きな子が出来たらあげな」
「ばーちゃん」
数兄に手渡されたのは、この前見ていた桜の髪飾り。
あたしは、二人の会話が聞こえないように、お皿を持ってキッチンに引きこもった。水をいつもよりも多く出せば、二人がどんな話をしているかなんて、わからないから。
後片付けを終えて、リビングに戻ると、おばあちゃんが手招きをしてくれた。
「はい。これは知葉のよ」
渡されたのは、おばあちゃんの着物。
『恋が叶う魔法の着物』
おばあちゃんと、おかあさんの恋を見守った、不思議な着物。
これを着れば……素直に数兄に好きって言えるのかな?
一瞬間で顔が紅潮。
無理。
ムリ。
いまさら素直なんてムリ。
あたしは衣紋掛にかかっている着物を壁にかけた。それだけで部屋が華やぐ。
着物って、なんだかすごい。
いつか、数兄はあの桜の髪飾りを誰かにあげるのだろう。
そして、あたしはこの着物を数兄以外の人のために、着るのだろうか……
ベッドに座って着物をぼんやりと眺めていた。そして立ち上がって、着物を衣紋掛から外して肩にかけてみる。華やかな桜の舞。あたしにはなんて不釣合いなんだろう。そう思うと淋しくて泣きたくなる。そんな気分でいると、扉がノックされた。
「知葉」
「数兄……」
細く、扉を開けると数兄が微笑していた。なんだか夕日がまだ背中にありそうだ。
「今日はありがとうな。嬉しかった。嫌われたままだけど……美容師が嫌いな知葉が俺を応援してくれる。それだけで充分……」
「数兄……あたし……」
違うの。キライなんかじゃないよ。そう言いたいのに言葉に出ない。
お願い、恋を叶える魔法の着物。今、あたしに好きって言える勇気をちょうだい!
「あたし……数兄のこと」
あたしが重たい口を開こうとすると、数兄がくしゃりと微笑んだ。
「俺、やっぱり美容師になること諦められない……知葉のこと好きなのは本当……でもさ、クサイかもしれないけど……夢ってのは誰かのために目指したり、諦めたりしたらダメだと思うんだ。一生後悔する。だから、俺はお前のこと諦めるよ。ごめんな……知葉のこと大事にしたいと思ってる。好きだよ。でも……俺は歩き出すから」
夕日が差したままみたい。そんなことを言われたら、あたしは黙ることしかできない。
「今まで、嫌だったのにモデルしてくれてありがとう。お礼に……お前がさっきばーちゃんからもらった着物着る時には俺が無料でヘアメイクしてやるよ」
明るく笑った直後、数兄は笑いを収めた。そして、真剣な表情になり着物の袖をとって口吻けた。まるで姫君の手の甲に口吻るかのようにる。
「困らせて……ごめん」
「数兄……」
見上げると、数兄は顔を逸らして、そして背中を向けた。
――― 出発の日も、数兄はあたしとは少ししか話してくれなかった。
春休みが終わって、あたしは無くしたものがどれだけ大きかったかを知った。
手を、取れなかったあたし。
手を、差し出すことができなかったあたし。
いつだって、素直に『大キライ』以外の言葉を伝えたいのに、それができない。
そんな、あたしなんか‥‥‥大キライ。
大キライ。
その言葉しか、出てこない。
◇
結局、素直になれないまま、わたしはこの春に高校生になる。
数兄は、働きながらしっかり勉強もしているらしい。
年末年始には会うけれど、それでも年明けの晴れ着や、お盆の夏祭りの浴衣の着付けとセットに合わせて慌てて帰ってしまう。
まるで、わたしを避けているように……
――― あたしは、自分のことを『わたし』と言うことにした。
「あたし」と言う「わたし」は、きっとまたすぐに『大キライ』と言ってしまうだろうから。
すぐに跳ねてしまう髪の毛は、伸ばすことによって少しだけマシになった。
わたしは、おばあちゃんの部屋の襖越しに声をかけた。
「どうしたの? 知葉」
おばあちゃんは、最近、物忘れが酷くなってきた。
日当たりの良い和室でのんびりしていることが多い。
「おばあちゃん、桜の着物を着たいの。着付けてくれる?」
「桜の着物?」
「おばあちゃんが、私にくれた魔法の着物」
「ああ、知葉にあげたんだよねぇ」
おばあちゃんが少女の顔で笑う。
しゃらりとした着物の流れ。
わたしは着付けてもらって、そして家を出た。
――― あたしが美容師を嫌いだったのは、結局はお休みの日に家族にかまってもらえなかったから。
今、思えば子供っぽい理由。
だけど、中学生の「あたし」にはそれがすべてだった。
両親も、叔母夫婦も数兄も、なりたい職業になっていて、その中でわたしにはなにもしたいことがなくて、ずっとずっと一人。
会話ももたなくて、頭を実験台にされて……それが『あたし』を見てくれていないようで腹立たしかった。
本当に子供。
あの頃の数兄は、なんで、あんなわたしにあそこまで優しくしてくれたのだろう。不思議だ。
桜の花片が風に連れられて空に舞う。
バス停で、次に来るバスを待つ。
数兄は、きっと驚くだろう。
実は、成子の名前で数兄のお店に予約をしてある。きっとわたしを見たらビックリするだろう。そして、この着物を着た時に無料でセットしてくれるという約束を果たしてもらうのだ。
そう、わたしは、この気持ちを変えなければ、ううん、終わらせなければ次のステップに踏み出せない。
おばあちゃん、おかあさんと続いた魔法は三代目のわたしで終わるだろうけれど、それでかまわない。魔法なんて曖昧なものには、わたしは頼らない。
この、恋に恋をしたような感情を終わらせて、わたしは新しい恋を探す。
そう決めたのだから。
反対の道路にバスが着いた。
と、いうことは、もうそろそろわたしが乗ろうと思っているバスが着くはずだ。
お祖母ちゃんが貸してくれた色とりどりの菊柄のがま口タイプの手提げ鞄から携帯電話を取り出した。うん、あともう少し。
バス停の表示もバスが次のバス停を出たことを示している。
「知葉!」
顔を上げると、反対のバスが通り過ぎたところだった。他の降車客がいきなり叫んだ青年を訝しげに見ている。
「数、兄……?」
瞳を瞬かせる。
少し、ううん、だいぶ背が高くなった数兄が手を振る。
「知葉!!」
風が、わたしの髪と一緒に桜の枝を揺らした。
そして、道路を渡ってきた数兄は、前のように、わたしの袖を微笑んで手にした。
反対の左手には、前におばあちゃんが渡した飴色の桜の髪飾り。
おしまい