欲張り
何も教育されなかった。ちょっと違うかな。親も教育の仕方がわからなかったのだと思う。私の両親は若くして地元を飛び出し、東京に転がり落ちてきた。きっと自分達も未成熟で、何が正解かわからなかったのだろう。そんな親元に産まれたから、していいこと、してはいけないことの分別など、教えてもらった記憶がない。親がわからないのだから、子供に教えるなど不可能だ。そういう意味では、学校にかかる責任は重大だ。家庭環境と学校での過ごし方で、ほとんど人格が形成されてしまう。勉強だけしていれば良い訳ではない。もっとも、私にとっては、勉強が生半可に出来てしまったことが、不幸だったのかもしれない。
かくして、私は、誰かに何かを教わったという思い出が本当にない。きっと実際は色々と教えてもらっている。ただ記憶には残っていない。自分の人生に対して、幾らかの自尊心を抱いているからなのかもしれない。私自身を正義だと信じて止まないからかもしれない。自ら人生の選択をしてきた、というと聞こえはいいが、それは同時に孤独を意味する。誰にも頼ることなく、縋ることなく、道を切り開いてきた。やはり少し驕りが昂ぶりすぎているかもしれない。二十代も後半に差し掛かった今では、親に相談することもできるようになった。でも、求めている答えが帰ってくるとは、思っていない。求めても求めても、期待に応えてもらえなかった。そんなイメージが、心でも脳でもなく、本能に刻み込まれている。私は誰にも期待せず生きていくのだ。
ピエロになって弱みを晒すことはできる。でも、本当に自分の弱い部分を人に見せるのは怖い。もしそれを否定されたら、私の存在が消えるのと同義だ。この世に私がいる価値が無くなってしまう。自尊心の皮を被って、不安に縮こまった本来の自分を、覆い隠している。そうしなければ、社会に顔向けできない。私は、常にできる私でいなければならない。何故なら、世間はできる私を常に求めてくるからだ。わかってるよ。安心してくれ。私はしっかりやるよ。
誰か私をここから救い出してくれないか。いや、ごめん、私も何が救いなのかわからない。こんなこと人に求めるべきじゃないだろう。世の中には本当のお人好しがいる。自分の不利益を顧みず、他人のために尽くせる人がいる。そうした人の存在は認める。もしかしたら私を救ってくれるかもしれない。けれど、私はその人達ですら、心から信用することができない。何か打算的なものに突き動かされているのではないか、という疑念を完全に払拭することができない。むしろ利害のない人間の方が怖い。私利を追求する人間には、私の価値を説くことで、関係を築くことができる。しかし、利害のない人間は、腹の底が知れない。何故私に良くしてくれるのか理解ができない。この世にひしめくグロテスクな欲求の波動に侵されていない理由がわからない。今は純真だけれど、時が経てばやがて牙を向くかもしれない。懐疑は、私をより深い闇へと引きずり込んでいく。周りが暗くても関係ない。目を瞑ってしまえば同じだろう。そうだ、そうだった。私は自分の見えるものだけを信じるのだ。これからの道も私が決める。