84 元勇者の魔王、慣れない距離感
下山を果たし、実家にて一泊する事になった訳だが、流石に夜も更けており、早々に皆就寝する事となった。
緑色の球体とブラックドッグは、母さんが抱いて連れて行ってしまった。
余程に気に入ったのか、あるいは、単に無類の生き物好きなのか。
遠い記憶からは、そんな印象すらも思い出せなかった。
十数年ぶりの自室にて、一人就寝する。
珍しく夢を見た。
勇者であった頃は、夢など見る事も無かった。
それもまた、勇者としての特性故だったのか。
幼い自分が、嬉しそうに母さんに何かを見せているらしき場面。
何かは、子供の両手に収まる程度の大きさだろうか。
どうにも判然としない。
所詮は夢。
意味など無いのかもしれない。
もしくは、昔の記憶だろうか。
しかし、覚えが無い。
結局、印象に残ったのはその場面のみで、他は忘れてしまった。
夜が明け、窓から日の光が差し込む。
瞼越しに光を感じ、意識が浮上する。
夢の残滓が纏わりつく。
目を開けはしたものの、眠気を未だ強く感じる。
昨夜は就寝するのが遅かった。
寝ていた時間が短かったのだろう。
ベッドから身を起こしたものの、しばし微睡む。
薄目を開き、窓の外を見る。
昨日見た時と変わらぬ、緑豊かな山が聳え立っている。
窓枠越しでは、全容が一望出来ない程だ。
王都の近くにあった、よく皆でハイキングしていた山とは、規模が段違いだ。
登頂するのに、何時間かかるのだろうか。
試そうという気持ちすら、萎む程の巨大さだ。
昨日、山中を駆けた印象からは、最初こそ傾斜を感じられていたものの、途中からは自分の位置を見失った。
慣れぬ人間は遭難必至だろう。
日の位置で方角を計ろうにも、木々の枝葉が頭上を覆っているばかりか、夜でも日の光が陰りもしなかった。
普通の山ではない。
あろう筈も無い。
故郷の山が、これ程までに異質だった記憶は無い。
幾度か父さんに連れられて、山の中へと入った覚えがある。
野生の動物や、魔物を狩った覚えもある。
しかしながら、昨晩の父さんの言い様では、あの山に魔物は侵入出来ないようであった。
俺の記憶違いで無ければ、不在だった十数年間で山は変質した事になる。
そもそもが記憶違いなのではないか?
何せ十数年前の、子供の頃の記憶だ。
余り当てにはなるまい。
とはいえ、故郷を飛び出し、一人で王都を目指した際、色々な敵と遭遇した。
それらに対処出来たのも、偏に俺のレベルが高かったお蔭だろう。
つまりは、故郷において経験値を積み、レベルを上げていたに相違ない。
今とは違い、かつては山に獣や魔物が出没していた証拠だ。
ともすれば、山の変化のお蔭で、故郷が魔物の被害に見舞われる事も無く、無事だったのかもしれない。
原因として疑わしいのは妖精だろう。
緑色の球体然り、他にも山に妖精が住み着いては居そうである。
色々と考えていたら、目も覚めて来た。
そうしてある事に思い至る。
本だ。
学者くんから餞別として貰い受けた、妖精についての書籍が纏められた本。
流石に故郷の山について書かれてはいないだろうが、緑色の球体については何か分かるかもしれない。
さっそくベッドから抜け出し、バッグの中を漁る。
大して時間もかからずに、目的の品を発見した。
妖精の種類については、かなり疎い自覚がある。
魔物に間違われている妖精ならば、もしかしたら名前ぐらいは知っているかもしれないのだが。
昨日救助した緑色の球体に関しては、流石に魔物と見間違われる事も少なかろう。
自分ですら初見だった程だ。
人に危害を加えるような様子も見受けられ無かったし、人を恐れてもいなさそうだった。
そもそもが、危険を覚える容姿をしてはいなかった。
魔物として知られてはいないだろう。
本を開き、調べ始める。
――寸前にドアが軽くノックされた。
「――そろそろ起きたかしら? 起きてるならお返事して? 朝食にしましょう」
母さんの声だ。
調べ物の出鼻を挫かれてしまったが、折角の好意を無下には出来ない。
「起きてますよ。すぐに行きます」
「なら良かったわ。でも、朝食の前に、外の井戸で顔を洗って来なさいね」
「分かりました」
はて、家の外に井戸などあっただろうか?
見覚えが無い。
記憶はどうにも曖昧だ。
有った様な無かった様な。
とはいえ、外に出ればすぐに見つけられるのだろう。
本を持っていくかは迷ったが、洗顔する際に濡らしても事だ。
焦る必要もない、か。
すぐ読めるよう、ベッドの上に置いておく事にした。
遠ざかる足音を聞き届けながら、洗顔の為に井戸を探す事にした。
自室から廊下へと出て、そのまま玄関へと向かう。
ドアを開ければ、新鮮で爽やかな空気が肺を満たしてゆくのを感じた。
空気が旨い。
そんな言葉が浮かぶ。
山の麓でこうなのだ、山中では余程に違いあるまい。
昨日はそんな事を感じる余裕も無かったが。
井戸は程なく見つかった。
どうやら家の裏手、丁度影になっていたので気が付かなかったらしい。
そして、先客が居た。
言わずもがな、父さんだ。
「――――」
足音に気が付いたのか、布で顔を拭ってこちらに視線を向けて来る。
無言だ。
朝の挨拶すらも無い。
表情から察するに、不機嫌という訳でも無さそうだが、どうにも思考や感情が読み辛い。
未だ残る苦手意識の所為だろうか。
互いに無言で見つめ合うこと数秒。
流石に挨拶ぐらいはするべきかと、覚悟を決める。
不意に視線を逸らし、父さんがすれ違うようにして歩み去っていく。
挨拶するタイミングを逸してしまった。
やはり苦手だ。
井戸へと歩み寄る。
思考を振り払うように、強めに顔を洗う。
冷たくて気持ちが良い。
顔を洗い終わり、己の失敗に気が付いた。
手拭いの類を持ってくるのを忘れていた。
こういう場合、魔法使いなら速乾魔法とか、その場で思い付きで使って見せるのだろう。
生憎と、光魔法にそんな利便性は望めない。
光熱により、普通よりかは早く乾かせるかもしれないが、試してみるか?
不意に聞こえた、ザッという背後からの足音に振り返る。
視界を何かが覆った。
柔らかい。
「素手で顔を洗いに来るとは、間が抜けてるな」
そんな声が覆いの向こう側から届く。
先に戻った筈の父さんの声だ。
こちらの返事も待たずに、足音が遠ざかっていく。
覆いを取り去り確認すると、手拭いだった。
どうやら、俺が何も持たずに顔を洗いに来たのに気が付き、一足先に手拭いを取りに行ってくれていたようだ。
何だろうか、この気持ちは。
言い様の無い、モヤモヤした感覚。
素早く手拭いで顔を拭き、家の中へと足早に向かう。
自宅からは、朝食らしき良い匂いが漂って来ていた。
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