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第二話 千住の幽霊(上)

 浅草は観音様のお膝元、雷門と駒形堂を繋ぐ参道沿いの、駒形は駒形でもちょいと西に入った裏小道。人通りはあるが人目は多くない、そんな小道を選んで暖簾を垂らす、水茶屋『はなや』に来る客には大きく分けてニついる。可愛い娘たちが供じる茶や酒を楽しむ客と、酒や娘たちより高い話を買う客だ。

 水茶屋に来る客は前者が当たり前だが、この水茶屋にはちょいっと変わった娘が働く。

 無論、その変わった娘こそ、先程棒振りを鼻先であしらった小菊(こぎく)である。


 歳は数えで十五。痩せぎすで小柄。店のお仕着せの着物の幅が余って、それが余計幼く見せる。だがその稚気な体型に不釣り合いに、時に大人びた顔を見せる娘だった。

 顔の造作はどうと言って見栄えもしないが悪くもない。

 少し太めの眉は、意志の強さを表すかのように真っ直ぐに伸び、固く引き結ばれた唇は、薄紅を刺さずともふっくらと桃色に輝いている。

 だが、一番目を引くのはその瞳。

 烏の羽のように濃い黒の瞳は、どんな客にも怯むことなく真っ直ぐに見据えてくる。


 今もまた、目の前に座る疲れ切った様子の小吉(しょうきち)をまっすぐ見据えていた。



   ❖



 『はなや』の二階には、(ふすま)で区切った小部屋が店の表に面して五つ並んでいる。

 茶屋で働く娘たちは、決して自分を安売りはしない。大抵はお小遣いを弾んでくれた旦那を伴ってこの二階の部屋に引きこもり、ほんの一時甘い睦言など耳元で囁いて、娘ごっこやら恋人ごっこを楽しむだけだ。本当に気に入ったお客さんなら、それより先だってあるかも知れぬ。

 もっと色っぽいことになりそうでならぬ。それが水茶屋遊びの醍醐味だ。

 まあ、稀にそれを分からぬ野暮もいるが、年端もいかぬ娘相手に、相手の意に沿わぬことをしようものなら爺婆に暴かれて、店先で良いように笑いものにされるのが落ちだ。

 そんなふうに普段は華やかな声が聞こえる二階部屋だが、小菊の上がる部屋はいつもひっそりと静かなもんだ。


 薄暗い二階の部屋には昼下がりの気だるそうな日差しが障子越しに差し込んでいる。折角の天気にもかかわらず、小吉は部屋に上がるなり障子を閉めさせた。

 水茶屋の二階を借りる客ならまあ当たり前だが、小吉の理由は他の客とは全く違う。小吉が払うのは一両であって、千両ではないのだ。その一両だって、決して小吉が自分で払える値じゃあない。それは小菊も無論承知の上だった。


「実は旦那さまの千住通いがお内義さんに疑われてる」


 小部屋の中央に座布団を二枚、窓を背に小菊と向かい合わせに座った小吉は、さも重大事だと言うように、神妙な顔に低い声で小菊に打ち明ける。


「今までばれてなかったんですか?」


 小菊の言葉に小吉が困ったように曖昧な苦笑いを浮かべた。



 小吉は日本橋の端にお(たな)を構える反物屋『清瀬(きよせ)』の手代の一人だ。決して出世頭ではないのだが、旦那『吉兵衛』の腰巾着のように身の回りの世話をしてまわっている。まるで母親のように大旦那の心配をするこの生真面目な男の曖昧な苦笑いは、言いづらい背景を十二分に伝えてくれた。


 『清瀬の若旦那』と言えば、昔ここらでは有名な遊び人だった。江戸中の名のある花街で旦那の顔を知らぬ者はいないと言われたくらいだ。ちょいと気に入った娘にはすぐ(かんざし)渡して「いつか見受けに来るから待っておいでよ」と安請け合いばかりするもんだから、「烏鳴かすは起請文(きしょうもん)、女郎泣かすは見受け簪」て唄われてたくらいだ。

(起請文=女郎の婚約文。一枚書けば熊野の烏が一羽死ぬという)


 見かねた先代が上方からわざわざ歳上のお内義さんを充てがった。それでしばらくは鳴りを潜めてたんだが、三年たっても跡取りが出来ない日には先代も目を瞑り、また堂々と花街に顔を出すようになってたっていう根っからの女好き。

 流石に先代が亡くなり、代替わりしてからは近場で浮名も聞かなくなったが、代わりに江戸の外では羽目を外してるのだろう。


「まあ、東照宮さん通いがあれだけ続いてりゃぁ、無論少しは思うところもお有りだっただろうが、お内義さんはそりゃ良くできたお人だから……」


 見てみぬふりをしてきたと。


 小菊は小吉が続けられなかった言葉を胸のうちで継ぎ足した。


 千住は日光東照宮様参詣道の初宿で名高い。江戸っ子の東照宮さん参りは年中行事ではあったが、そうそう年に何度も通うもんじゃない。それでも通っていたとすれば、よっぽど信心深いか、さもなきゃ自ずと理由も分かると言うものだ。


「じゃあ、どうして今更?」


 小菊の問に、小吉が薄い眉を垂らす。

 小吉はもう二十を三つ四つ超えているはずなのだが、元々が柔和な顔立ちのためかどうにも侮られやすい。それでもなんとか歳相応の威厳を出そうと、お(たな)では普段顔をしかめていることが多い。だが、小菊には他で漏らせないような相談事ばかり繰り返してるので、ときに店じゃ見せられないような情けない顔がこぼれ出る。


「旦那さまが先月、とうとう千住に小店を出すと言い出してな……」

「ああ、それはまた……」


 千住のような土地勘のない場所に、暖簾分けでもなく店を出す。

 それすなわち、女を囲う口実である。

 この近所でも深川や浜町のそこここに同じような訳で店を商っている小売が幾つかあった。

 大した客もいないのに、潰れることは決してない。もっとも、大店のお妾さんはこんな場所ではなく、少し離れた渋谷あたりで別宅を頂いてるらしいが。


「まあ旦那さんもそれだけ店を大きくされたってことでしょうか」


 千住であろうと、妾を一人囲えるだけの金子(きんす)を自由にできるご身分になったということだから、まあおめでたいとも言えなくもない。

 そう思って口にした小菊だったが、小吉のしかめっ面に、あ、これは藪蛇だったと後悔する。


「残念ながら、うちの帳面はまだ赤い。二年前、持ち蔵が一つ貰い火した穴は、そんな簡単に埋まりゃしないよ」


 反物屋『清瀬(きよせ)』の商いものの半分近くは上方からの(くだ)り物だ。美しい錦の反物は酒や海産物などと一緒に船に乗って海を廻り、一石橋の荷場で一旦お店の蔵に収まる。そこからまた必要な数が荷馬車に乗せられてお店の内蔵へ運び込まれる。


 以前、その蔵屋敷で火付けがあり、清瀬(きよせ)の蔵は延焼こそ免れたが、黒煙が入って多数の反物を処分せざるを得なかった。

 その時蔵から大急ぎで運ばせた荷馬車が行方不明になり、その件で首を括ろうとしていた小吉を救ったことから実はこの二人の繋がりは始まっていた。

 おかげで知りたくもないお店の内情を、小菊は色々深く知りすぎている……のはさておき。


 まあ、散々浮名を流したあの旦那さまじゃあ、それこそ長くは辛抱利かなかったのだろうなぁ。


 小菊は以前島原の八千代姉さんの席で鼻の下を伸ばしてる『若旦那』を見かけたことがある。その呑気を絵に描いたような旦那の顔をぼんやりと思い出しつつ、小菊は居住まいを正して小吉に向き直る。


「ならお内義さまも今回は見逃すわけにいかないでしょうね」

「やはりそうか……」


 小吉はこれで頭は悪くない。当然の結果として、今回はお内義が旦那を嗜めるであろうことは予想していたのだろう。ただ、表立って話し合うとなると、芋づる式に今までの諸々が溢れ出て、下手をしたら修羅場と化す。

 だがそれの仲裁を小菊に頼もうと言うならお門違いだ。お内義さんが小菊のような小娘の仲裁に聞く耳持つとは思えない。どうとでも言って追い返されるのが落ちだろう。


「残念ながら今回はお代を頂けるようなお話は出来そうにないですね」


 金にうるさい小菊だが、働きもないのに金を取る気は全くない。小菊が求めるのは、彼女の資質から生まれる価値への正当な対価だけなのだ。


 時間の無駄だったと顔に書き、さっさと立ち上がろうとする小菊に、すがるように小吉が声をかける。


「ま、待ってくれ、話はそれで終わりじゃあないんだ」


 どうやらここまでの話はまだ前振りだったらしい。

 まどろっこしい。

 胸の中でついた悪態をそのまま顔に出しつつ、小菊は座り直して小吉と向き合う。

 だが慌てて小菊を引き止めたにもかかわらず、小吉の声がまた小さくなる。


「……でるらしい」

「でる?」


 小吉の小声を拾おうと、のそっと前のめりになった小菊の前に、小吉も同じく背を丸めて乗り出してくる。


「ああ、出るらしいのだよ、その千住の店に」

「何がでるんです?」


 小菊と自分以外、誰もいない小部屋で左右を見回し、一旦宙を見上げ、意を決するように顎を引く小吉。

 小菊も思わず釣られて顔を寄せる。

 すると小吉は両の手を胸元でだらりと垂らし、生真面目な顔のままぼそりと言うのだ。


「お内義さんの幽霊さ」

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