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運命の弦

運命の弦





 昔々、というほど昔ではないが、おれが生まれるよりずっと前。山の上の領主様のお城から、村まで素晴らしいピアノの音が毎日聞こえていたという。

 機械が弾いているかのように、決して音が滞ることがなく、正確。当然だ。領主様は貴族。吸血鬼なのだから。 

 しかし、正確に弾くだけなら大概の吸血鬼が簡単にやってのけるだろう。吸血鬼の身体は生殖以外のあらゆる面で人間より優れていると言われている。

 だけど、領主様は違う。彼は最高のピアニストだと誰もが口を揃えた。

 彼の音色には恋や、夢や、喜び、時には怒りや悲しみ、痛み――命を彩る光の全てが見えるのだ、と。

 特に、彼が作曲したと思しき曲たちは切なく恋人の名を呼ぶように、物悲しく情熱的で。

 領主様の奥様は、何百年も前にお亡くなりになっているというのに。

 


 若いラルフは、彼のピアノを聴いたことがない。

 祖父が天才的な調律師で、彼のピアノの調律をしていたため、村の年寄から祖父に絡んだ昔話を散々聞かされてきたが、実際の音色は一度も聴いたことがない。

 人々が祖父の腕前とともに褒め称える、彼のピアノ。

 その音色を聴いた途端に重税に苦しんだ過去の記憶が霞むほど、皆夢見心地になったと口を揃える。

 二度と聞けない、と嘆く年寄に、ラルフは「おれは一度だって聴けていない」と答えるのがお決まりだった。


 領主様ことハルトヴィヒ・ヨハン・フォン・クロイツァーは、伯爵家である本家当主の叔父にあたる人物で、位は子爵。広大なクロイツァー家の領地の一部である片田舎の村いくつかを治めている。

 治めている、といってもラルフの住む村の人々は彼の姿を殆ど見たことがないし、ラルフの祖父、オスカーの贈り物以降は税の取り立てもない。

 かつては他の領主がやるように子爵も強引に税を徴収し、足りなければ血を差し出させていた。

 特に城に家族や数多の召使いがいた頃はひどいもので、村から毎年何人も血を差し出すために生贄が選ばれていた。

 妻を病で失い、子供も得られなかった子爵は、次第に召使いにも暇を取らせ、税はいくらか軽くなっていった。

 しかし税が軽くなり、血を差し出す必要がなくなっても、辺境にあって交易の少ない土地で農業を営む村人が日々の生活に困窮する状態はあまり変わらなかった。

 その苦しみから村を救ったのがラルフの祖父である。

「金で税を払うから困るんだ。金ほど元手がかからず、且つ金より価値があると子爵が思えるものを税の代わりに差し出せば、生活は楽になるはずだ」

 そう言って、ラルフの祖父、青二才のオスカーは、調律師でありピアニストであった己が身一つで城に上がったのだった。

 教会のピアノを調律する以外に村の中での調律師として仕事がない彼は、ろくに畑を手伝わない放蕩者扱いで、音楽などでは腹が膨れない村の人々には、そんなことをしても首を刎ねられその日のディナーになるのがオチだと遠慮会釈なく謗られたが、オスカーの音楽という贈り物は子爵に大変気に入られ、村への税の徴収は周囲の村の半分以下になった。

 結果が出た途端に、村の人々は手のひらを返してオスカーを英雄と称賛した。

 実はオスカー自身、才能はあったが駆け出しの調律師兼ピアニストという仕事で、都会に出稼ぎに行っても税金を治めるのは非常に苦しく、そんな中妻が身ごもり、産まれてくる子供をどうやって養うのか、と苦境に立たされ追い詰められた中での、一か八かの無謀な試みだったのだが、運命は彼の才能に微笑んだのだった。

 子爵は元々ピアノというものを知っていて、城にも立派なピアノがあったらしいのだが、それまで子爵自身が弾くことはなかったという。

 オスカーが子爵のために弾いて聴かせ、興味を持った子爵のために専用のピアノを贈り、楽譜を贈ったことで、子爵は一人の時間をピアノと共に過ごすようになった。

 城から聴こえてくる美しい音色から、ピアノがどれだけ子爵の心の支えになっているかが察せられると、村の人々は音楽を尊ぶようになり、恐怖の対象でしかなかった領主に対しても親しみを覚えるようになった。

 子爵にとっても、村にとっても、最も幸せな日々だった。


 ところがその蜜月も長くは続かなかった。

 何百年もの間若い姿で過ごす吸血鬼と違い、ただの人間のオスカーはたちまち老い、人並みよりは遅いながらも、次第に耳が遠くなっていった。

 勿論、調律をするには鋭い聴覚がなくてはいけない。

 衰えを感じたオスカーは調律を続けられなくなった。

 ピアノもまた、調律する者がいなければ年月が経つにつれ、わずかずつ音が狂っていく。

 そしてある日ついに城のピアノが鳴らなくなった。村の人々は、とうとうピアノの音色が子爵の耳を満足させなくなったと知った。

 しかしその時既にオスカーは亡くなっていたし、村には他に調律師がいなかった。

 税が再び重くなるのでは、と危惧した村の人々は、国内外のあちこちから調律師を探してきては、事情を話して領主のところへと向かわせたが、ピアノが鳴ることはなかったし、調律師が帰ってくることもなかった。

 税が再び重くなることはなかったが、村には深い悲しみと絶望が長年居座ることになった。



 ラルフは物心ついたときからずっと、祖父と子爵のピアノの話を聞かされて育った。

 昔話をするのは、決まって村の老人たち。

 ラルフはおとぎ話のようなその話を聞かされては、子爵のピアノへの憧れを研ぎ澄ましていった。

 そのピアノは一体、どんな音色なのだろう。

 領主様はどんな音楽が好きなのだろう。

 死んだじいさんの調律はどれほどの腕だったのだろう。

 おれは、じいさんの腕に追いつけるだろうか。

 そして毎晩ベッドに入ると、子爵のピアノを夢想しながら目を閉じる。夢の中でいいから聴いてみたかった。

 ラルフは自然と調律師を目指すようになり、十三歳で両親の反対を押し切り家を飛び出して、ヨーロッパ中の音楽家を訪ねて旅をした。

 貴族の家に属さないはぐれ吸血鬼に襲われそうになったこと数知れず、魔物の群れに追われて吸血鬼の軍の野営地に逃げ込んでしまい……なんてこともあったりしながら、ピアノの調律を学んでいった。

 そうして、五年ぶりに村に戻ってきた。

 十八歳の冬。

 子爵の城へ向かう道は雪が深く降り積もっていた。

 大人になった今は、何故村の年寄りがラルフに寄って集って昔話をしたのかがわかる。

 しかし、大人になった今だからこそ、唆されたとは微塵も思わない。

 家を出る時、両親には泣いて止められたが、ラルフの決意は今も変わらない。

 自分で選んだ道を貫き通す。

 この雪道の向こうで、孤独な人とピアノが待っている。

 調律師が再び訪れる日を。



 城は、静寂を苦としていない。

 城主の足音すらしない、僅かな衣擦れさえ厭わしく感じる程の静寂は、かえって美しい。

 時折屋根を滑り落ちる雪の音だけが、時の流れを告げる。

 そうでなければ時が止まっているかのような錯覚を起こす、それほど静寂を湛えた城。

 城主であるハルトヴィヒもまた、静寂を苦としていなかった。

 狂った音があるよりは、なんら音がない方がまだいい。

 それに音は、ありし日を思い出させる。

 この城で音を出していたのは、愛する家族、働き者のメイドたち。静かではあったが有能な執事の思い出もある。

 庭や馬の手入れで雇っていた男たちが新入りを叱るやかましい怒鳴り声も、税を待ってくれと懇願する人間たちの悲壮な声も、聞くことのない今となっては、懐かしさという毒を孕んでいる。

 カトラリーやグラスがたてる音。ペンが走る音。ドレスの裾がカーペットに擦れる音。ページをめくる音。

 そんな些細な音すら、もう聞きたくない。

 思い出すのは苦痛だ。

 ハルトヴィヒはまだ当分死なない。老いすらしない。

 永い余生に余計な苦痛は受け入れがたかった。

 城の周りに張った結界が侵入者の存在をひっそりと告げたのも、苦痛でしかなかった。

 どうせ、村の人間がまた懲りずに調律師を寄越したのだ。

 そう思った。

 あのピアノを調律できる人間など、もうこの世にいやしないというのに、愚かな人間には耳の良し悪しすらわからない。

 ピアノという楽器を作ったのは人間なのに、ピアノのことをわかっている人間は殆どいないというのは一体どういうことなのだ。そう憤っても仕方のないことだが、今までの調律師はまるで役に立たなかった。

 言い訳のように、こんなピアノは見たことがないと口を揃え、なんとか弦を触っても音は狂ったまま。

 調律のためとはいえ狂った音を何度も何度も鳴らされ、それを何日も続けられて気がおかしくなりそうだった。

 散々耐えた挙げ句に音の狂いが残ったままのピアノを指して整ったなどと言われ、その度に怒りに耐えかねて殺めてしまった。

 もう何人殺したかわからない。

 あの男なら、半日もかからず終わらせるというのに。

 あまり下手に弄り回され弦を切られでもしたら、と思うと、とても耐えられなかった。

 もう、触らせることすらしまい、と心に誓っている。

 あの男は、特別だったのだ。

 他にはいない、祝福された才能の持ち主だった。

 もう役に立たない調律師は要らない。

 ピアノもとっくに諦めたのだ。

 それにピアノの音もまた、思い出させる。

 過去はもう、戻らない。


 耳は、身内の中でも特に研ぎ澄まされている方だったように記憶している。

 幼い頃には、親に嗜みとして楽器を勧められたこともあったが、それも恐らく耳の良さを鑑みてのことだった。

 貴族として、学問や芸術をほどほど嗜むのは当たり前のことであるし、直系の跡取りでもない限り、教養のない武骨者では嫁が来ないなどと散々言われたものだが、早々に親が諦めるほど極端に向いていなかった。

 何でも器用にこなす兄には当時、軍人にでもなってはどうか、とひどいからかわれ方をしたが、今の聴覚の神経質さを思えば、索敵には丁度いいのかも知れない。

 城へと続く道で雪をかき分ける音が聞こえ続けている。

 それが日々近付いてきているのも、目で見ているのと変わらずはっきりわかる。

 雪をかき分けているのは一人。人間だ。

 吸血鬼ならばそんなに時間がかかるはずもないし、一人であの範囲の雪かきをしようなどという発想もない。

 村の人間もひどいものだ。

 自分たちの都合で調教師を寄越すというのに、雪かきくらい、総出でしてやればいいものを。

 時間がかかるということは、それだけ耳を騒がせるということだ。

 軽くめまいを覚えながら、耳に綿を詰めた。





 雪かきを甘く見ていた。

 自分一人通れさえすればいいのだから、と高をくくっていた自分は愚か者以外の何者でもなかった。

 どう考えても、傾斜を登りながら雪かきをするのは無茶以外の何物でもなかった。

 城へと続く道は両脇の木々により、日中でも日が差すのは僅かな時間で、人々が行き交う村の道と違い、ラルフの想定を遥かに超える量の雪が押し固められた悲惨な状態になっていた。

 雪が降る時期は過ぎているが、完全に雪が溶けるまでまだ数週間ある。このまま雪をどけずにおけば、半端に溶けて凍ってを繰り返し、しばらく危険で登ることが出来ない。

 若い活力と無謀さだけを頼りに必死に雪をどけながら坂道を登っていったが、丸一日かかっても終わらなかった。

 あまりにも久しぶりの雪かきで、体中が筋肉痛になり、それでも休んでいる場合ではない、と歯を食いしばり、なんとか城まで辿り着くまでに九日かかった。

 城を囲う高い塀と鉄の門が見えたときは、ホッとしてしまいしばらく立ち尽くした。

 雪を集めて重ねて足場を作り、それを登って門を超えた時、やはりこの時期で正解だったのだと思い直したが、この坂の道のりの厳しさは一生忘れないだろう。

 雪の足場で勝手に門を乗り越えたことから分かる通り、城の主はラルフの訪問を歓迎していなかった。

 何度も声をかけたが門が開くどころか、生き物の気配すらなく、埒が明かない、とラルフが無断で門を乗り越えても特に咎める者が出てくるわけでもなかった。

 玄関と言って良いのかわからないほど巨大な正面のドアには鍵がかかっていなかった。

 歓迎されていないどころか、警戒もされていなかった。

 誰もいないのでは、と何度も訝しんだが、そうであればそれを確かめるまでは帰れない。

 くまなく城中を探し回る覚悟を決めて一歩踏み込むと、室内は昼間だというのにかなり暗く、目が慣れるまで部屋の輪郭がわからなかった。

 じわじわ目が慣れて視界が広がると、ダンスパーティが開けそうな、吹き抜けで天井がえらく遠いエントランスホールにいることがわかった。

 ホールを見渡し、ラルフは思わず感嘆の声を漏らした。

「あれが……領主様のピアノ……」

 うっすら声が反響する。

 城のピアノが村まで聞こえてくることから、反響させる器として城が機能しているとは予想していた。どれだけ反響する空間にあっても普通のピアノでないであろうとも予想していた。

 しかしピアノは予想を裏切り、コンサートグランドピアノよりも少し大きい程度で、普通のピアノとの大きな差異は見受けられなかった。

 ただ、そのピアノが纏うオーラが。

 その佇まい、在り方があまりにも清廉で、高貴で、ラルフはその場から一歩も動けなかった。

「!」

 遠くでドアノブが回る音がした、そんなような気がしてラルフは身体をこわばらせた。

 足音は聞こえない。

 だが、背中から、手のひら、足の裏、膝の裏、頭皮、額、どんどん汗の穴が開くのを感じる。

 全身の毛が立ち上がる。

 忘れていた、吸血鬼は……人間を食らう生き物なのだと。

 相手が足音一つ立てずとも、捕食者が忍び寄っていると身体が察知して怯えている。

 貴族は、はぐれ吸血鬼や軍人の吸血鬼とは、格が違う。

「ようやく終わったか、雪かきは」

 突然声が発された。とても静かで落ち着いた声なのにホールに響いて耳に突き刺さる。

 意外すぎる言葉に、ラルフは返答に迷って狼狽えた。

「えっ、あの、おれが、通る分だけ、です、けど……」

「ようやく解放される。うるさかった……」

 暗がりから聞こえてくる声の主は、上の階から踊り場へ、階段を降りてきていた。ようやく見えたその姿は、気だるげで、貴族と聞いて思い浮かべるような華やかさとは全く正反対だった。

 苛烈でもない。

 波打った長い髪の流れは整っておらず、しかもそれを結いすらせず、ガウンに適当にまとわりつかせたまま。

 陰鬱な眼差し、覇気のない肌、その顔に何も表情を浮かべず一歩一歩階段を降りてくる。

「それは、……大変申し訳、ありませんでした……」

「貴様、調律師であろう」

 その言葉に、ラルフは心臓が跳ね上がる。

 しかし、顔に喜色を浮かべようとした瞬間、冷水を欠けるような言葉が続けて浴びせかけられた。

「去れ。二度と来るな。私は必要としていない。そう他の人間にも伝えよ。そのために生かされたと思え」

「領主様……、どうして」

「私は二度とピアノに触れぬ。であるから、調律師は要らぬ。ただそれだけのこと。心配せずとも、税は私の存命中は上がらぬ。わかったら去れ。私の気が変わらぬうちに」

 睥睨。

 ラルフを見下ろす瞳は冷たく、石のようだった。

 殺気どころかなんの感情も伺い知れないというのに、体中が竦み上がってうまく声も出てこない。

「恐怖に竦んで動けぬか。つくづく哀れなものよ、そう私の目を見るからであろ、……貴様」

 急に子爵が言葉を止め、ラルフを呼んだ。

 ヒュッと息を吸うだけで精一杯だった。

 返事など出来なかった。

 子爵の瞳に、感情が、それもあまり好意的ではない色が宿ったのだ。低く抑えられた声音で呼ばれ、ラルフの心臓は肋骨を突き破りかねないと感じるほど暴れ狂った。

「名をなんという」

「らる、ラルフ・フォルスト……」

 ブワッ。

 風を感じたと思った瞬間、ラルフの目の前に子爵が立っていた。

 その視線で切り分けられるような気がした。

 あまりに強く覗き込まれたのだ。

「貴様、オスカー・フォルストの血統の者か」

「オスカーは、じい、そ、祖父です」

 耐えきれず、目をつぶった。

 あまりの恐怖で、人間、誰もが死を覚悟した時は目をつぶるものなのではなかろうか、と現実逃避をした。

 至近距離で感じる捕食者の気配に、目眩がして気が遠くなる。

 気が、遠く――


 気がつくと、ラルフは知らないベッドに寝ていた。

 香水のような香りがうっすらする。

 あれだけ緊張していた身体は不思議と軽く、少しぼんやりしながら身体を起こすと、サイドボードに水差しとグラスが目に入った。

 強烈な喉の乾きだけは、吸血鬼を前にして死ぬほど緊張した事実を主張している。

「起きたか」

 声をかけられても、びっくりしなかった。

「領主、さま……」

「水を飲め。声が掠れているではないか」

 いつの間にか部屋に現れた子爵は、意識を失う前に見た姿と同じだった。

 だが、ラルフは何故か恐怖を感じない。

「毒など入っていない。ただの水だ」

「いえ、あの……頂きます」

 おずおず水差しの水をグラスに注いで口にする。

 恐ろしいまでにするする入っていくので、三杯も飲んでしまった。

「心ほぐしの香が効いているようだな」

「それっていうのは……」

「貴様が口もきけぬほど張り詰めて気を失ったからだ。あれでは話にならんわ」

「申し訳ありません……」

「全くだ」

 そう言うと子爵はくるりと踵を返し、部屋を出ていこうとする。

「あ、あの」

「何をしている」

「は、はい……」

 ついてこい、ということだろうと解釈して、慌ててベッドを出た。

「あ、あの! 領主様」

「なんだ」

「ありがとうございます」

 子爵はろくに返事もせず、足音一つ立てずに廊下へ出て行った。


 子爵はすらっと背が高く、腰より下まである長い髪の色が薄くて、後ろ姿では年齢も性別もわかりにくい。

 ただただ美しい。

 少しもザラつきのない、低く落ち着いた、ベルベットのような耳障りの声が、よく似合う。

「貴様、オスカーの孫と言ったな」

「はい。父親の父親がオスカーです」

「父親は何をしている」

 廊下を歩きながら、子爵は振り返りもせずラルフを質問責めにした。

 回答に迷うことを許さない威圧は感じる。

「父は家具職人です」

「兄はいるのか」

「兄も家具職人です」

「貴様は何故職人にならなかった?」

「それは……」

 言い淀んだ。

 本人を目の前にして、言いにくかった。

 しかし即答しないことに子爵は「何故答えない?」と苛立ちを隠さなかった。

「申し訳ありません! どう答えようかと考えてしまって。え、ええと、調律師になりたい気持ちの方がよっぽど強くて。だから、です……」

「何故調律師を選んだ? 祖父の影響か?」

「祖父は……おれが生まれた時にはとっくに亡くなってて、話に聞くだけなんですけど……でも周りがみんな立派だって言うし、影響がないわけではないんですが……」

「……」

 回答に納得して満足したのか、逆に何か問題があったのか、子爵の質問がやんでしまった。

 沈黙に不安を感じなくもないが、子爵が言っていた香の所為なのか、なんとか落ち着いていられる。

 落ち着いている所為で、香がなかったら全身から嫌な汗をかくような場面だろうな、と他人事のように思った。

 子爵はその後も特に何も言わず、後ろを歩くラルフを顧みることも一切なく、滑るように歩いていく。

 薄暗い廊下を歩き、数段しかない階段をそっと降り、また歩いてしばらくすると視界がひらけた。

 大きな階段に差し掛かる。

 エントランスホールから見えた大階段だろうと思ったが、見る向きが違うし薄暗くて定かではない。

 子爵は特になんの躊躇も見せずにガウンの裾を広げて優雅に階段の真ん中を降りていくが、ラルフは転げ落ちたら死にかねないのでおとなしく手すりに手を添えて降りた。

 降り切ると例の規格外に大きなグランドピアノが見え、やはりエントランスに戻ってきたのだとわかる。

「貴様に祖父の話を吹き込んだ人間は、税に怯えるあまり、浅ましくも子供の貴様に重責を背負わせた。私が役に立たぬ調律師を何人も殺めていると知りながら、貴様がオスカー・フォルストの孫であるというだけで、唆した」

 突然沈黙を破った子爵は、宣告という言葉がふさわしいような声音で、ピアノの前に立ちはだかってそう言った。

「運良く貴様がこのピアノを調律出来れば良し、出来ずとも、出来たら良いと思っていることが私に伝われば良い、と思っている。貴様が死ぬことは、連中の心中ではものの数のうちに入っていない」

 ラルフは震えた。

 心を落ち着かせる香が効いていて尚、打ち震えずにいられなかった。

 鼓動が強すぎて、体中が脈打っているかのようなのだ。

「知っています。おれも、もう子供じゃないから。祖父の話をする人たちの言葉に……おれが調律師になるように、音楽に憧れるように、領主様のピアノを目指すように、そういう意図があったことくらい」

「わかっていて尚、私に殺生をさせようというのか? 身体が震えているぞ、フォルスト。死が恐ろしいのなら、音楽を愛しているのなら、死に場所はここではない」

「いいえ。たとえ今日死ななくともおれの死に場所はここと決めています。震えているのは、領主様が……」

 震える右手を左手で掴む。声も震えるが、恥ずかしいと言っている場合でもない。

 呼吸が苦しいが、吸えば吐ける、吐けば吸える、と己をなんとか奮い立たせる。

「領主様が、おれの命を数えてくれるお方だというのが、すごく嬉しくて……それがたとえ、オスカー・フォルストの孫だからって理由でも」

「……私は人間を食らう。税を取る権利を有している。生殺与奪を握る、決して変わらぬ絶対的な力の差がある。人間は我々を恐怖して当然だ。小さき生き物は、大きな生き物の気配に怯えて暮らさねば生き残ることが出来ない。そうあるべきなのだ。自然に逆らわず、本能に逆らわず、貴様も」

「じいさんは違ったんですよね。おれは別にじいさんになりたいわけじゃない、けど、領主様……あなたは、そういう例外を受け入れる器を持ったお方だ。おれは、祖父への憧れを拗らせてるわけでも、使命感や正義感に酔ってるわけでもない、音楽は好きだけど、それだけじゃないんですよ、……本当はおわかりなんじゃないんですか? だってほら、あなたは! 今おれの言葉を遮らずに聞いてくれてるじゃないですか。領主様……おれは、あなたのピアノを聴くために、あなたに! ピアノを弾いて、頂くために……今まで生きてきました。たった、十八年だけど……」

 そこまで喋って、喉がつらくなって声が詰まった。

 何故だか涙がこみ上げてくる。

 香の効果があっても、堪えきれないものがある。

 子爵がどんな表情をしているのか、薄暗いし涙で滲んで全くわからないが、あまり知りたいとも思わなかった。

 下を向き、口を両手で押さえ、荒くなる呼吸、それとともに漏れそうなる声になんとか抗う。

「もうしわけ、ありません……めちゃくちゃ、言って」

「そこまで言うからには、貴様。実績はあるのだろうな」

 一瞬意味がわからなかった。

 意味がわかった瞬間、涙が一粒、溢れた。

「はい! ワルシャワのステファンスキ閣下、リヨンのバルニエ様、他にもお墨付きを頂いております!」

 ジャケットの内ポケットに入れて肌身放さず持ち歩いていた、貴族や音楽家の署名が入った羊皮紙。

 慌てて取り出し、震える手で取り落としそうになりながらなんとか広げ、直角に腰を折り頭を下げて差し出すも、子爵は受け取らず「よい」とだけ言った。

「触れることを許可する。ただし、貴様の腕、耳が使い物にならぬ場合は」

「はい! ありがとうございます! 殺してください、その時は……そうした方が良いです、はい……でも! 必ず調律します、きっと! もう一度弾いて、頂けるように!」

 




 たった十八年しか生きていない。

 吸血鬼であればまだ学園にも入らない歳だ。

 人間はたった十八年で職を得、大人を名乗るという事実に、ただただ驚いた。

 人間が短命であるという事実を改めて突きつけられた。

 たった百年も生きない生き物がどの程度生き急いでいるのか、十倍以上の寿命を持つ吸血鬼には予想もつかない。

 死を覚悟しているという言葉、たった十三で家を出たという話、どれもこれも理解が追いつかなかった。

「この大きさに収まるのは……うん……、これを作るのに、……なるほどな、ははぁ……」

 オスカーの孫は、他の調律師のように「こんなピアノは見たことがない」などという泣き言は、一切言わなかった。

 生意気にも「予想はしていた」などと言う。

「領主様は、どうしておれが家具職人じゃないのか、っておっしゃいましたが、どうして親……父が家具職人なのか、は気になりませんでしたか」

「調律師にはなりたくなかったのであろうよ」

「そうです。それは勿論。おれが調律師になるのも散々反対してました」

「まともな神経を持っていればそうであろう」

「そうですかね。父は多分、祖父ほど耳が良くなかった。それに、祖父に望まれて家具職人になったんだと思います。絶対そんな事言わないですけど」

「何故そう思う?」

「調律をやらないにしても、木材や金属を触る手を継承して欲しかったんだと思います。ピアノも木材や金属やその他諸々の素材で出来てますから。本当はピアノ職人、せめてなにか楽器の職人になってほしかったんだろうけど、それだとあの村じゃ食っていけないし……ただのピアノ職人じゃ、このピアノを触るのには不十分だと思うけど」

「……このピアノは、そんなに特別なものなのか」

「人間には弾けないですからね、こんな重い鍵盤。このピアノは大きいだけじゃなく、すごく硬くて重いんです。ペダルを踏む脚も即刻筋肉痛になります。なので、普通のピアノとは全く別物と言って良いレベル……世界でただ一つ、あなたのためのピアノだ」

 ピアノを調律している姿に迷いがなく、ピアノに集中しているおかげか、心ほぐしの香の効果が切れてきているはずだが流暢に喋っている。

 否応なしにあの男を思い出させる。

 ヘーゼル色の髪、若草色の瞳……大人と言う割に幼気のある顔、よく似ている。

「調律師が尽く帰ってこないって話を聞いて、二つ可能性を考えたんです。一つは耳の悪さ、もう一つはピアノが普通の構造じゃなくて太刀打ち出来なかった可能性。だからおれは、旅に出ました。貴族でピアノを嗜む方々のもとをまわって、片っ端からピアノを触らせてもらったんです。でも、どれもこれも普通のピアノだった。山の上から村まで響くようなピアノは一台もなかった。だから、領主様のピアノだけが普通のピアノじゃないんだと確信しました。その後は片っ端から楽器職人や大工の工房、それから鉄工所にも行きました。木材と金属の性質、扱い、そういうのを教えてもらって」

 音の高さが整っていくことに感動して、あまり話が入ってこないが、彼が特別な調律師である、そのために明確に、的確な努力をしてきたことはわかった。

「吸血鬼の方々は人間の何倍も耳が良いって聞きました。だからそれを満足させられるかだけが心配です。けど、それ以外は……この特別なピアノの、鍵盤の弾き心地を揃えることは、ちゃんと対策してきてあるんです」

「そんな調整もしているのか」

「してますよ、調律以外に、整調、整音も調律師の仕事です。祖父もしてたはずです。あなたが気付かなかったということは、気付く前に手入れしてたんでしょう」

 ピアノの調律に意識が向いていて、話し相手に見向きもしない職人の風情ある姿に、ありし日の男の姿が重なる。

 音も申し分ない。

 二度とピアノに触れない、という発言は撤回しなくてはならない。

「結局このピアノ……普通のピアノではないにしても、多少時間をかければ調律出来ない理由にはならないな……満足出来ない仕上がりになった原因は、概ね耳なのか……」

 ぼそぼそ呟く独り言は、確実に音を合わせたという確信を含んでいる。口では満足させられるか心配などと言っていたが、謙遜の下手な男だ。

「終わりました。領主様、確かめて頂けますか」

 調律師がピアノを触らせて以来初めて振り返った。

 怯えも迷いも不安もなく、まっすぐ見つめてくるので、恐怖のあまり失神した人間とは別人のようだった。



 悲しいわけでも、辛いわけでもない。

 感動しているのかもしれないが、頭で何か理解するような余裕はなくて、ただただ涙がとめどなく溢れている。

 体中が音に共鳴して震える。

 心臓で音楽を聴いているかのような感覚。

 全てを拾いたくて、しかし何も頭に入ってこなくて、ただただ呆然とするしかなく、最後の一音の余韻が消えてなくなるまで、指先一つ動かせなかった。

 ずっと聴きたくてたまらなかった音楽。

 ずっとずっと憧れて、追い求めてきた音色。

「……」

 すっと立ち上がった子爵に見つめられても、言葉など出て来る筈もない。

「フォルスト」

 名を呼ばれたが、返事をするのもままならない。

「耳も腕も確かなようだ。貴様を殺さずに済む」

 更に涙が溢れ、ついで嗚咽が漏れた。

「今後もこのピアノの調律を頼めるか」

「……っ、はい……ッ!」

 堪えても堪えても涙と嗚咽が止まらない。

「良い返事だ。では、朗報を伝えに村に戻ると良い。人間たちは英雄の帰りを待っていよう」


 そうして、ラルフは城に住み始めた。

 村に帰れと言われたものの、息子は死んだと思って諦めろと捨て台詞を吐いて絶縁した両親のもとには帰れない。

 そもそも帰れと言われた時点で既に外が暗くなっていて、雪の積もった暗い山道を下るのも困難だった。

 馬小屋でも納屋でも良いから泊まらせてくれないかと懇願したところ、そんな不衛生なところで粗末な暮らしをする者を城に入れるくらいなら、城の中に寝泊まりさせる方がましだと言われた。メイドたちがいないからなんの構立ても出来ないと言われたが、あんな上等なベッドがある部屋を与えられるだけで十分だ。

 吸血鬼は冷酷な生き物だと、人間は誰もが思っているし、実際そういう面も必ずしっかり持ち合わせているのは感じるが、情に敏感で懐が深い面もある。

 五年の旅でいろんな吸血鬼と出会ったが、特に貴族と呼ばれるような高貴な身分の吸血鬼は、育ちや暮らしが上等な分、弱者への哀れみや、持てる者の責任感を持ち合わせていることが多いようだ。

 その晩、感動や興奮や疲労やなにやらで部屋に案内されてすぐ眠ってしまったラルフが昼過ぎに起きた時には城から村までの道の雪が完全になくなっていたのだ。

 目が覚めたら雪かきをしながら村に戻って生活に最低限必要なものを買い込んで、を数日繰り返す形になるだろう、と思っていたので驚きのあまり城中子爵を呼ばわり探してしまった。

 吸血鬼は基本的に人間と昼夜が逆の生活をしているということを失念したその行動にも、寝込みを叩き起こされ相当不機嫌な様子は見せたが怒りはしなかった。

 子爵の前では、己を恥じ入ることが多い。

 日を追うごとに相手の人柄が知れ、その度にラルフは頭が上がらない思いをした。

「お世話になり尽くしていて、恐縮です……」

「人間に出来ることなどたかが知れている。私とて大したことはしていない。貴様は余計なことを考えず、ピアノの調律をしていればいいのだ」

「ありがとうございます、領主様。おれは……あなたのピアノが聴けるということだけで、十分だというのに」

「私のピアノも、それほどのものではない」

 そんな風に謙遜までしてみせる子爵だったが、毎日毎日、ラルフが起きている時間帯にピアノを弾く。

 思えば、人間と吸血鬼とでは生活リズムが昼夜逆転しているというのに村人が領主のピアノをうるさいと思わなかったのは、そういうことなのだ。

 自身は人間を食らう生き物だ、絶対強者だなどと言いながら、人間がピアノを享受出来る時間帯にしか弾かない。

 そして凛と美しく響く音色、物語を感じさせる表現力。

 誰が聴いても良いと感じられる、捻くれたところの一切ない素直な演奏。

 情が深く愛や夢を美しく語る価値観の持ち主。

 そんな彼がピアノのそばでグラスを傾けながら音楽について語り合うような機会まで作るので、ラルフにはもう、彼を恐ろしい捕食者と思うことは不可能だ。

 彼が「人間だてらに」と褒める何千年も昔の名作曲家たち、その楽譜へ向けられる表情は知的で、和やかで、敬愛に満ちていた。

「お前はピアノを弾かないのか」

「弾かないことはないですけど。それこそ、旅の最中は路銀稼ぎに何度も演奏しました。けどあのピアノはとてもじゃないけど弾けません。筋力が追いつきませんから……」

「そんなにも重いか」

「えぇ。あれを弾きこなせるだけの力があったら、そりゃ耳が良くてもご自身で調律出来ないよな……と思います」

「……」

「アッ! 申し訳ございません、あの、えっと、その……」

「……よい、事実だ。私はとりわけ繊細な力加減というものが出来ぬ。他の吸血鬼の名誉のためにもそれは明言せねばなるまい。私は不器用なのだ……だが人間の道具を使いこなせる者はいくらでもいる。私の兄はフルートを嗜んでいたが、へし折ったり破裂させたりしたことはないからな」

「破裂!?」

 そんな力を秘めた相手が、ラルフにそれを感じさせずに生活していることへの感謝に堪えない。

 初めて顔を合わせた時感じさせられた恐怖は、ラルフが一方的に感じたものではなかったのだと日々思い知る。

「お前にとっては祖父の形見でもあろう、と思ったのだが、弾けないのでは仕方ない」

「じいさんはあのピアノ、弾きましたか?」

「いや。調律以外のことはしなかったからな。お前のようにここに長居をして語り合うようなこともあまりしなかった。家庭があったのだから、当然だが」

 祖父との思い出を語る、父よりも若い見た目の男。

 七代前の村長の時に奥方の葬儀があったと言われているから、祖父と比べても年上どころの話ではないのに、老いを感じさせない。

 初めて会った日こそ髪に櫛が入っておらずガウン姿で、ともすれば病人のようだったが、ラルフが住み込み始めてからは身支度を整えてから部屋を出てくるようになった。

 そして知った。

 彼の象牙色の髪、漆黒の瞳。黒の似合う白い肌。

 彼自身がピアノのようで、音楽の精霊であるかのような。

「じいさんがあなたにピアノを贈った理由が、少しわかった気がします」

「何を藪から棒に」

「いえ……あなたと、あなたのピアノに出会えて本当に良かった。そう、思って。じいさんも、あなたとピアノが出会ったことを喜んだだろうと」

「そうか。私としても、ピアノと出会えたことは私の人生の数少ない僥倖の一つだ。お前の祖父には感謝している。ピアノと、それから……多少待たされはしたが、後継者を残したことは、大きな功績だ」

 自分の存在を、ここまで喜んでくれる他人に出会うことなど、そうあるだろうか。まして、吸血鬼の中に、人間にここまで柔らかな眼差しを向ける者がいるだろうか。

 言うまでもなく感動した。産まれてきたことも、聴覚が鋭いのも、全て与えられたもので自ら勝ち取ったものではないが、喜びが迸った。

「領主様……」

 あまりに嬉しく、続く言葉がうまく選べなかった。

「お前も早く子を作れ。人間は多産なのだから母体がもつ限り何人でも設けよ。育てる資金が足りなければ私が支援してもいい。次は孫が育つまでは待てぬ」

 言葉がうまく、選べなかった。





 在りし日、調律師に「そなたはあと何年生きるのか」と尋ねたことがある。

 彼は笑って「そればかりは誰にもわからない」と答えた。

 そうだ。

 わからない。わからなかった。

 妻が侍女を二人道連れに毒をあおった時、妻が自らその時を選んだというのに事前にわからなかった。

 不器用で済まされるものではない。

 私の、至らなさ――

「では、もし病や事故に遭わなかったとしたら」

「寿命が来るのは、あと五十年先くらいかね。ただ、ジジイになったらあの坂上がってくるのはしんどいなぁ。降りるのはもっと無理だぁ」

「馬車を出そう」

「そういうんじゃねぇんだよな……」

「ならば何だというのだ、はっきり申してみよ」

「そんな、一生を望んでもらえるんだったら、城でずーっと召し抱えてくれよ。いちいち帰るの面倒なんだよ」

「何を馬鹿な。子が産まれたばかりであろう、そなたがそばにいてやらねばならない。妻にとっても子にとっても、そなたの代わりはいないのだから」

「へいへい。そりゃそうだ。そりゃそうですよ」

 ――長年、彼を帰したことを悔やんでいた。

 彼は彼の人生を十分私のために費やしたのだとわかっているが、それでも、もし、長く留め置くために私が手を尽くしたとしたら。

 考えても詮無いことだと己に言い聞かせながら、考えるのを放棄していた。

 しかし、彼の孫が私を訪ねてきたことで、彼を帰したことは間違いではなかったと安堵した。

 彼の血は絶えることなく、堅実に家を守る息子に恵まれただけでなく才能を引き継いだ孫まで産まれ……

 正しかったのだ。命の短い、まして子供を残せる時期など更に短い人間にとって、若い時期を吸血鬼に囚われることは幸いではない。

 ならば、この度もそうするのが賢明である。


「領主様は、お一人で不便はないんですか」

「ない。まぁ、庭を手入れするだとか、そういったところにまではなかなか手が回らないが」

「まぁ、人間も大人であれば一人で暮らしていくのに不便は特にないですけど。でも昔は召使いがいたんですよね?」

「女性がいれば、侍女をつけなければならないし、城に客を招くならば、庭や城の手入れから料理から何からそれ相応の人手がいる。金の流れがあるならそれを管理する者が必要にもなるが、今の私の暮らしには何一つ必要ない」

 村に帰れと言ったが、帰る家がない、合わす顔がない、と言い張り、城に逗留し続けている。

 その図々しさを省みてのことなのか、なにか調律以外に出来ることはないか、としきりに訊いてくるが、本当にやらせるような仕事はない。

 そもそも絶縁したとは言え、仕事の成功を携え無事な姿で家に帰れば誰も文句は言うまい、と思ったが、思えば村にもピアノが聞こえているだろうに、村人が城に顔を出す様子がない。

 たとえ畜生であっても親は子の無事を確認したいものだろうと思うが、人間はそうではないらしい。

 薄情なものだ。

「そのように城内に仕事を探して気にせずとも、別に、お前をここに留まらせるのは構わないのだ。調律だけで十分な働きをしている」

「……」

 頑として帰らないこの男もまた、薄情だ。

 人間は、吸血鬼に似た姿をしていて言葉が通じるだけの知性を持っているが、その生きる年月の短さ、身体の脆弱さ、多産振りから、血族への情というものを深く持てないのだろうか。

 多産で死にやすいということは、死と直面する回数が多いということだ。

 いちいち離別にこだわっていたら生きていけないのかもしれない。

 そんな生き物と深く関わり合うのは、吸血鬼にとって害にしかならない。



 「帰れ」と言われた時、ラルフは「帰るべき家がない」と答えた。

 それは決して間違いではない。今更合わす顔がないという気持ちは確かにある。

 ただ、もっと大きな胸の支えがあった。

 それを告げずに、曖昧に城に居続けている。

 今日の子爵のピアノも素晴らしい。

 ショパンにしろリストにしろ大変な聴き応えだ。

 彼自身が作曲した曲も見事で、彼の詩的なセンスがふんだんに散りばめられている。

 彼の曲を聴くうちに、彼が大切な人を喪う悲しみや別れがたい人と別れる苦しみに苛まれているとか、過ぎ去った幸福の思い出を愛おしく思って、それを頼りにしているとか、そんな心情の想像が膨らむようになった。

 思い込みかもしれない。

 けれど、彼は間違いなく情に厚く、繊細な人で、愛が深くて自分を苦しめてしまう人だ。そう思う。

「言うかどうか迷ったんですが、この曲って……」

「私が作った。曲名はない。」

「……勝手な感想なんですけど。なんだか、大切な人の死を悼む曲のように聞こえたんです。もしかして、……奥様ですか」

「……」

 子爵は少し驚いたような表情を見せた。

 それからゆっくりと目を伏せると「お前の耳は本当に鋭いな」と呟くように言った。

「村の人達だってみんな、あのピアノには心がこもってる、喜びや悲しみが伝わってくる、って言ってましたよ。だから、おれの耳じゃなくって領主様のピアノの表現力です」

「……言葉ではない分、自由に表現できた、とは思う。そのまま言葉にしてしまったらあまりにもみっともない、許されもしないだろう、そんな思いばかりだ。そんな私の醜い弱さを……わかる者がいないと安心しきっていたな、耳が良いお前に聞かせるものではなかった」

「どうしてそんなこと言うんですか」

 その言葉が子爵を困らせたのがわかった。

 彼の価値観にとっても、客観的に見れば別にみっともなくなどないのだ、本当は。

「どうして、とは。人の恥部を暴き出す質問と知った上で言っているのか?」

「そんなこと、おれにはわからないですから。ただおれは曲を聴いて、領主様の悲しい気持ちや愛おしい気持ちを感じたから……すみません、立ち入った質問でした。でも、その気持ちが伝わったこと、恥ずかしいことだと思ってほしくないです。ピアノは、貴方に応えたんです。おれはピアノが貴方に応えられるよう、調律してます」

「ピアノが……応えた」

 ラルフの言葉を繰り返した子爵は、物憂げになめらかに伸びた長い指が鍵盤をなぞる。

 その指から目が離せなくなった。

 労るような、労うような、それでいて官能的な。

「確かに。お前はピアノの音色を誇っていい。お前の手で完璧に整えられたピアノだ。鍵盤を叩く私の感情が音色に滲んで然るべきだと。伝わって当然だと。なるほどな」

「そういうんじゃ……」

「伝わってしまったことを恥じるのはよそう。……私もこのピアノが私の声無き懺悔を聞いていると、心のどこかで思わなかったわけでもないのだ」

「……懺悔、ですか」

 久しぶりに腹の底が冷たくなるような感覚を味わう。

 子爵の言葉があまりにも人を突き放すような物言いで、自責として振りかぶられた言葉の刃はラルフに襲いかかることはないにしても、思わず目を背けたくなるほど鋭く、禍々しかった。

「陰鬱な懺悔ばかり聞かされてはこのピアノも哀れというもの。次の曲はヴァルツァーにしよう」

 ブラームスのワルツ第十五番だ。

 奏でられる旋律に身体を任せる気にもならず、ラルフは目を閉じる。その音楽に乗って優雅なステップを踏むのはラルフではない。顔も知らない、女性。

 せめて子爵自身が脳裏で踊ってくれれば、と思った。


 子爵との会話が、それ以来減ってしまった。

 その分なのかなんなのか、子爵のピアノから聞き取れることが増えたように思う。

 妻の死に責任を感じているようで。

 ピアノに夢中になる自身を責めているようで。

 充実や幸福を恐れているようで。

 酒を酌み交わす夜がなくなったわけではないが、お互い顔を見合わせても言葉が出てこない。

 子爵が思い悩み、それを言葉にも出来ず、独りで苦しんでいることだけがよくわかってしまって。

 かけるべき言葉がわからない。

 そろそろ今弾いている曲が終わる。

 もう十曲目で、いつも通りなら今夜はこの曲で終わりだろう、という時間だが、なんと声をかけて寝所に戻るか決めあぐねてあまり曲に集中できていない。

 心の底から憧れ、焦がれ、人生の全てを賭けるつもりで辿り着いたピアノにも飽きが来るのだろうか? 

 否。弾き手も集中していないのだ。

 最後の一音まで互いに上の空。

 余韻が引いていくのに焦りながら別のことを考えている。

「……」

「……お前が寝るのなら、もう今夜はやめにする」

「まだ眠くないので……もう一曲、お願いします」

 そう答えてほしかった筈だ。

 今夜の本命は……次に弾かれる曲に違いない。

 彼が十曲弾く間ずっと迷い続けていたのは、その曲を弾くかどうか。聞かせるかどうか。

 覚悟が決まったのか、子爵の指が鍵盤に触れる。

 恐る恐る奏でられた音の並びは、ラルフが初めて聴くメロディだった。

(これは……!)

 声を出しそうになったが、邪魔をしてはいけないと口を噤んだ。

 今まで聴いたどの曲とも違う。

 しかし狂おしいほどの愛おしさ、離別の悲しみがひしひしと伝わってくる。まるで叫び声のような。

(これは……)

 次第にそれを弾く指先に迷いがなくなっていく。

 子爵自身の心を奏でているから、曲に心が引っ張られ閉じていられなくなるのかもしれない。

 ――愛していた、本当は。ずっと後悔している、そなたを手放したことを。愛していた、幸福だった、そなたと過ごした日々は――

 髪を振り乱し夢中で鍵盤を叩く姿に、ラルフの心臓は見えない手に握りつぶされそうだった。

 涙が出てきたが止められない。

 切なくて、悔しくて。

――許されない、こんなことは。罪深い思いだ、この胸に宿る情念は。諦めなくては、忘れなくては、全て、全て、なにもかも――

 聴きたくない、と初めて思った。

 彼のピアノは完璧に調律されていて、彼の手は不器用なくらい正直で、どちらも嘘を吐かない。

 残酷な真実も、オブラートに包むことなく伝えてしまう。

 逃げ出したくなるが、彼の音が「お前が聴きたいと言ったのだ」と言って許してくれない。

 子爵は、彼を。オスカー・フォルストを。





 あの曲を弾いて以来、調律師の若者がピアノを聞きに部屋から出て来ることがなくなった。

 人間なので食事はする。数日に一度は薪を焚いて湯浴みもしているようだし、他にも何用かはわからないが城から出ている時間もあるようだ。

 部屋にいたとしても音は聞こえているだろうが、それでもピアノを弾いている時は、一歩も部屋から出てこない。

 あの曲に乗せた思いは本来、伝えるべきことではない。

それはわかっている。

 ショックを受けて当然だし、傷つけようという意図がなかったわけではない。

 だが、これ以上関係が膠着していくなら、聞かせなくてはならないと思った。

 口で言って聞かせるより、よほど伝わると思った。

 あんな思いをする前に離れて欲しい。

 私の在り方は美しくなどない。

 お前の存在は私を苦しめる。

 全て伝わったと思う。

 その上で今夜もピアノを弾く。明日も。明後日も。

 村からでも聞こえるというし、調律はそんなに頻繁に必要なものでもないから城にいなくても仕事は出来るし、いつ城を出ていっても構わない。

 その心積もりを伝えるべく。

 ただ、ひたすらに鍵盤を叩く。

 彼の心にすら届くだろう、ピアノなら。

 彼はこのピアノを美しいと、涙を流していた。

 このピアノを聴くためだけに生きてきた、と言って。

(そのような賛辞、私には過ぎたるものだ)

 生まれながらにこのピアノを弾かせるという使命を背負わされ、それを苦とも思わず、その祈願の成就を願ってひたむきに生きてきた、そんな人生はもう終わりにしていい。

 もっと、自分自身の願望を持って生きていい。

(まして私のためになんぞ、生きてほしくない。短い人生を、ほんのひとときの輝きを、長命種の慰みに捧げてはいけない。それだけの才能があるのだから) 

 今ならまだ、未練なく送り出せる。

 必要なときに調律をしに来てくれるだけで良い。

 出来れば優秀な子孫を残して欲しいが、ピアノを弾けなくなったからと言って死ぬわけでもない。

 暖かな家庭を持って幸福に過ごして欲しい。

 お前たちを食い殺す生き物に情など持たずに。

(聞こえるか、人間の若者よ。私の思いが)

 気が昂ぶってくる。

 焦燥すら帯びる感情に任せて弾くうちに何を弾いていたのかもわからなくなって、指が勝手に鍵盤を叩いている。

 ピアノを弾いているといつもそうだ。

 堰を切ったように感情が溢れてくる。

 普段は誰かに聞かせようなどと夢にも思わないのに。

 何故こんなにも感情を吐き出し尽くそうとするのか。

 聞かせたいということは、許されたいということだろう。

 この期に及んで許されたがるなんて、許されるわけもないのに、浅ましい。

 そうしてなんとか自分を制御しようとしても、それを上回る後悔と焦燥に突き動かされて今宵はいつになく激しい。

 あぁ。

 ピアノに紛れて、足音が聞こえる。

「……」

 慌てた様子で近付いてきたのに、大階段の上で止まった。

 今更足音を気にしてか、階段を降りてこない。

 曲の途中ではあるが、そっと指を鍵盤から下ろした。

いつの間にか弾いていた即興曲だ。終わりが決まっているわけではない。

「どうして」

「……聞いたのであろう」

「どうしておれなんかの……おれの、……っ」

 言葉に詰まり、何かをぐっと堪えて大階段を降りてくる。

 迷いなく、確かな足取りで。

「そっちがその気なら、おれだってもう遠慮なんかしませんよ、貴方が偉い方だろうが! 優れた種族だろうが! 聞かせてやりますよ、……おれの気も知らないで」

「知らん。だがそれは当然だ。種が違うのだから。理解などし得ない。互いにな」

「今から聞かせますから! 聞いて、ください。おれはピアノで伝えるなんて芸当は出来ないから。言葉じゃ上手く伝えられるかわからないけど……」

「……」

 声のトーンが幾分抑えられたのは近付いたからだが、この男は気が昂ぶると声が大きくやかましい。

 怒鳴られるとビリビリと肌が震えそうだ。

 意を決して息を吸う音に、また大声を出されるのではと身体が身構える。

「領主様。どうか、おれを吸血鬼にして欲しい」

 発された声はとても静かだった。

 

 吸血鬼が子を設ける方法は三つある。

 一つが性行為。これは他種の有性生殖と変わらない。

 二つ目は養子縁組。生殖能力が著しく低下し、何百年も子宝に恵まれない夫婦が珍しくない現在では他家から子供を奪うこの方法は滅多に行使されない。

 三つ目が、吸血による“血の縁”を作り転化させる方法。

 人間を吸血鬼に転化させ、それを血子とするわけだが、この方法で生じる子は親の何分の一にも劣化した血の持ち主である可能性が高い上、失敗するリスクまである。

 失敗すれば吸血された人間は死ぬ。

「私はお前を殺したくない」

「わかってます。生きていて欲しいと願われたと、そう聴いたから言ってるんです。それ以前に何日も考えたんですよ。おれが生きるとしたら貴方のピアノのそば以外にあり得ない。でも貴方はおれが死ぬところを見たくないんですよね。もっと言えば……自分のせいでおれが死んだと思いたくないんじゃないですか。だから必死に追い出そうとしてる。違いますか? だったらおれが先に死ななければ解決しますよね? 吸血鬼になれば解決出来ますよね?」

「わかったような口をきくな!」

 熱病に取り憑かれたように捲し立てた男はさながら狂信者のような目をしていて、冷水を浴びせるつもりで大声を出したというのに、まるで効いていない。

「安易に言ったつもりはないです。あなたのピアノは嘘を吐かない。それに今までお世話になった貴族の方々に手紙を出して訊いたから、本当にリスクが高いのも知ってます。失敗したら死ぬ……そうやって何人も息子候補を殺した吸血鬼がたくさんいると……それに、息子にしたつもりが愛人になったなんて話も聞きました」

「……」

 吸血は、血族を増やす繁殖行為であり、狩りを兼ねた食事でもある。

 吸血鬼の牙には、噛まれた獲物が暴れないよう、快楽や恍惚を与え、脱力を起こす作用がある。

 完全に性交渉の代替となり得る行為。

「貴方は多分未だにいまいちわかってないし、おれも物心ついた時から地続きで領主様を思って生きてきてるせいでこの感情になんて名前つけたらいいのかわからないんですけど、多分、おれは貴方が死ぬまでそばで暮らしたい、看取りたい、貴方が死ぬまで貴方を諦められない……だからそういう類の感情なんです、これは」

「そんなものは刷り込みに過ぎない。村の人間がどれだけお前にそう在れと願ったか、想像に難くない。お前自身もそう願われたと自覚していると言っていたではないか」

「貴方にもう一度ピアノを弾かせることをと願われたのは重々承知してますよ。でも、じゃあおかしいじゃないですか、目的は果たしたんです。もう良いじゃないですか。ここを離れても調律しに来ることは出来ます。おれの調律は完璧で、貴方も満足してましたよね。じゃあ、どうして! おれは奥様や! じいさんに! 嫉妬しなきゃならないんですか! 貴方のピアノに一喜一憂して、切なくなって、弾いてる横顔もまともに見れなくて……いっそおれも死んだら貴方にそんな風に思ってもらえるのかとすら思いました……でも違う、貴方は! おれに生きて欲しいと……!」

 話しながら抑制が効かなくなり、声が大きくなるにつれて涙までこぼし、嗚咽を堪える様に心臓の、否、血液の挙動がおかしくなる。

 肌が震え、毛が立つ感覚がある。

「おれは生きます。死なないです。転化するまで必ず耐えきります。だから噛んでください。お願いします……」

 涙で溶けそうな瞳を恥ずかしげもなく真正面から見せつけて、結んだ口角を震わせる相手に、一体なんと答えれば正解なのか見当もつかない。

 仕方がないので、指を鍵盤に触れさせる。

 自覚していない感情まで余すことなくピアノは必ず応え、必ず彼に伝えるだろう。

 そして彼の耳は、きっと正しく聴き取るだろう。



 久しぶりに、子爵がピアノを弾く横顔を見つめていた。

 耳にかけていた象牙色の髪が顔や肩にかかるのを見て、毎日その髪を解いて結う未来を夢想する。

 不思議と高揚感が抑えられ、穏やかな気持ちでピアノを聴いている。

 曲はショパンのノクターン。そろそろ二番が始まる。

 鬱陶しそうにする髪を、その長い耳にかけてやった。

 手が肌に触れたが、彼はそれを別段特別なことと感じないのか、平気な顔をしてピアノを弾いている。

 二十一番まで弾き終えたら、キスをしようと思った。

 その頃には空も白み、吸血鬼は寝室に入る時間になるが、今夜は招待されたい。

 

 吸血による転化を望むなら、全身の殆どの血を吸われる必要があるらしい。

 だからしくじると死ぬ。

 そもそも半分も失えば助からない。

 だが、吸血鬼は人間とは比べ物にならない身体再生能力を持つ。中には四肢を切り落としても死なない、或いは首が取れても死なない程の者もいるという。

 何故吸血中に人間が転化するのかはよくわかっていないらしいが、無事転化出来て失血に造血が追いつきさえすれば、命を取り留める。

 命がけの血の契りだ。

 噛む方も、家族になろうと選んだ相手を殺すかもしれない恐怖と戦わなくてはならない。

 人間相手に殺さぬように吸うというのは己の本能的な欲求に逆らう行為であり、究極の理性が求められる。

「これからお前という人間は死ぬ。そして、吸血鬼が生まれる。我が血子として」

「はい」

「私は血父ちちとなり、成人まで親として一切の責任を負う。お前を守り、育てる義務がある。人間としては成人する年齢であっても、吸血鬼としては赤子同然だからだ」

「はい」

「少しでも躊躇があれば、迷いがあれば、いつでも言いなさい。手遅れでない限り必ずお前を手放すと誓おう」

「はい。覚悟は決まってます」

 子爵はその答えに頷くと、おもむろに錠剤を取り出してグラスに落とした。水を注ぐと、溶けて水が赤くなる。

 噂に聞く“タブレット”だ。

 保存食であり、携帯食であるそれ。

 本来は軍人や使用人が食事にありつけない時、匂いを気にする必要がある時に使うもので、まずもって貴族が口にするような代物ではない。

 思えば、一度も子爵が人間から血を吸うところを見たことがないし、城に人間が連れてこられたこともなかった。

 このタブレットを使うところすら、今初めて見る。

 子爵は口では「徴税者である」「捕食者である」と言いながら、人間の青年に気遣って自らに吸血を禁じ、食事を隠していたのだ。

 今その禁を破ったのは、少しでも吸い尽くすリスクを減らすためか。それとも、血を食らう生き物であると、改めて思い知らせるためか。

 赤い液体を飲み干し、その唇で親が子にするように、額にキスをする。

 この人が、血父になる。

「いいか、始めるぞ」

「はい。血父上ちちうえ

「……必ず生き延びるのだ。死んではならない」

「はい」

 子爵の寝室のベッドの上に寝かされ、服を寛げられる。

 心ほぐしの香が焚かれているから緊張や興奮はあまりしていない。

 昂ぶればその分血が流れてしまうと説明されたが、子爵自身の緊張を解す目的もあろうと思われた。

 ゆっくり、恐る恐る近付いてくる白い牙に、今は何の恐れも感じない。恐らく、香が焚かれていなかったとしても。

「……っ」

 ちくり、と首筋の肌に牙が当たる痛み。

 次の瞬間にはその痛みが甘く色付いて、身体がぞくっと震えた。牙が食い込んでいくにつれて身体が熱くなり、力が入らなくなる。

 とろけてしまいそうだ。

 ドクンドクンと心臓が脈打つごとに、媚薬が回るように快楽が押し寄せてくる。

「りょうしゅ、さまぁ……っ」

 快楽が増すごとに、少し貧血のようなくらりとする感覚がある。

 漏らした声に不安を聞き取ったのか、子爵は牙を食い込ませながら頬を撫で、血の滲む肌を舌先で舐め取る。

 愛撫と呼べるほどでもない刺激なのに、激しい官能が押し寄せて思わず脚を擦り合わせてしまう。

 甘やかでありながら体の芯を焦がす、今まで感じたことのない快楽に、徐々に意識もかき混ぜられていく。

 あぁ、気持ちいい。気持ちよくて、溶けて、ひとつになりたい。体中全て、余すことなく彼のものになりたい。

 身体が熱い。

 身体が、熱い……!

「はぁっ……、あぐ、うっ……」

 恐らく身体には死の足音が聞こえていて、だから、こんなに気持ちよくて、気持ちよくてもっともっと欲しいのに、苦しんでいるような声が――

「うっぐ、ぐ、ぁ……あっ、はぁっ、ひ……ッ」

 気持ちよくて、どうしようもなく気持ちよすぎて死にそうで、喘ぐごとに自分が自分でなくなるようで。そうだ。

 本当に自分でなくなっていっているのかもしれない。

 血父の鼓動が聞こえる。耳が心地よくてもうなにがなんだかわからない、自分の輪郭がわからないくらい、溶けてしまったような気がする。

「あっ!?」

 牙が首筋から抜けていった。

 無我夢中で快感を追いかけようとしたのか。

 生命への執着がそうさせたのか。

 咄嗟に起き上がり、夢中で――

「ぐっ!?」

 血父に牙を立てていた。



 血の気が引き、玉のような汗をかきながら死人のようになっていく肌を見て、怖くてたまらなかった。

 人間に牙を立ててそんな思いを抱いたのは、何百年という年月を生きてきて初めてだった。

 変わり果てた姿の妻を見た時、最後にオスカーを見送った時を思い出して牙を抜きたくなったが、縋るように呼ぶ声を聞いてぐっと堪えた。

 今やめたら尚更助からない。

 共に生きたいという彼の願い、決意を信じて、血を啜り続けるしかない。

 吸い殺さないようにと極力ゆっくり血を吸うせいで何度も絶頂して苦しそうに喘ぐのを見るとこちらの胸が張り裂けそうだった。

 しかしそれももう終わる、そばかすがあった肌の色が白く抜け、髪の色がありきたりな茶から鮮やかな青紫に変わった。転化が起こっている。もう牙を抜いても大丈夫だろう。あとは失った血を作り出せれば。

 そう思い牙を抜き身体を起こした、その瞬間。

「ぐっ!?」

 急に起き上がった血子に押し倒され、噛みつかれた。

 牙がぶつりと肌を食い破り、身体の中で熱が弾けた。

 何の遠慮も躊躇もなく、ものすごい勢いで血を吸われ痺れるような甘い快楽に意識が飛びそうになる。

「あっ、はあっ、やっ、……やめなさい、っ」

 まるで飢えた獣だ。

 死にかける程血を失った状態で、自分のものとはいえ血の匂いがするとなれば、衝動的に噛みもするだろうし味を知ってしまえば欲求はエスカレートして当然だ。

「んっ、……はぁっ、あ……、だめ、だっ」

 相手の身体を叩いても、微塵もやめる気配がない。

 腰が砕けそうになる。

 快楽に身を任せたくなる。

 このままでは、抵抗出来なくなり殺されてしまう。

 失血の消耗から回復するために血を吸わせてやるのは良いとして、加減も何も知らない赤子同然で性欲と腕力だけは一人前という有様では、相手を死なせるまで吸うのをやめられないだろう。

「やめなさい! ラルフ!」

「っ!?」

 名前を呼びながら催眠の魔術をかけて、なんとか制止することが出来た。

 口を開けたまま動けず、牙から血を垂らして何が起きたのかわからず戸惑った表情をしている血子の口に鉄の猿轡を噛ませる。

「???」

「これは……産まれてくる子供のために親が用意するものでな……。かつて、何千年も前は子供が成長する過程で吸血衝動を制御出来なくなった場合に使うものだったらしいが、今はしつけに猿轡なんぞ使うことはないのだ。これが必要な程に健康で、生命力に溢れた子が産まれてくるように、という願掛けをするためのもの。まさか実際に使うことになるとはな」

 子供に実用するつもりで作られていないので、装飾が美しく、奇跡的にサイズがラルフの顎に丁度いい。それをしっかり噛ませてベルトを締め、それから術を解く。

「噛む以外は何をしても良い。その様子ではただ時が経つのを待つのは辛いだろう。落ち着くまで私が相手をしよう。落ち着いたら外してやる。今それを外せばお前に噛み殺されてしまうからな……」

 息が荒く、締まりきらない口から唾液を溢れさせている姿に思わず苦笑いも湧いてこないわけではないが。

 転化の影響で毛が生え、狼のように位置も大きさも変化した耳と相まってまさしく獣のようだ。

「ふふ。それにしてもその耳、随分聞こえが良さそうだ。私ですら家族に大きいと言われて育ったというのに比べ物にならない大きさだな」

 耳を撫でると、分厚くたっぷりと短い毛が生えていてとても柔らかかった。





「あの猿轡は……」

「かつて、妻が身ごもった際に用意したものだが、ようやく授かった子が何の拍子か流れてしまって……よくあることなのだ、吸血鬼には。だが妻は自らを責めて……責めて責めて責め抜いた挙げ句自ら毒を煽って……妻の苦しみに寄り添えなかった、絶望を分かち合いきれなかった無力な私と、妻が捨てないでくれと泣いて縋った猿轡だけが残ったのだ。……全く役に立たなかったというのに……捨てられなかった……」

「領、……血父上……」

「でも、捨てなくてよかったな。過去の私の至らなさ、過ち、この手からこぼれ落ちた沢山のもの……何一つ今更拾うことは出来ないが、お前を死なせずに済み、お前を血父殺しにすることも防いだのだからな」

 死を免れた血子は、一筋涙を流して「両親に会いに行っても良いですか」と言った。

 その血父となった男はもちろんだと答えた。

「たとえ拒絶されたとしても、生きている、生きていくのだと伝えるべきだ」

「はい」

「祖父の墓参りも必ずしなさい」

「はい。そうします」

 孤独なピアニストは今や父親の顔をしていて、愛しい我が子となった調律師の頭を撫で、毛布を肩まで引き上げた。

「だが、その前に、まずは眠って……目が覚めたらピアノを弾こう。今ならお前も弾けるのではないか? 前々から思っていたが、ピアノと共に贈られたあの椅子は独りで座るには幅が広すぎるのだ」

「はい。楽しみです」

 おやすみなさい。

 あぁ。おやすみ。

 囁き合って二人は目を閉じる。

 うっすらと涙が滲んで睫毛を濡らしていた。

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