第3話 「開かない扉」
玄関をくぐると生前見慣れた土間があり、右側の壁には手すりが、その奥は一段高くなっていて、段差部分に妙な隙間がある。
土間には日本家屋に見られるように、靴が脱いで並べてあった……などということはなかった。
もしかして、いまこの家には誰もいないのだろうか? それもなんだかさみしい気がする。 それとも、靴を脱ぐ習慣がない?
父親がいたはずだが、彼はいま職場で俺たちを養うために働いている、ということだろうか。
ユーカ母さんは、そこで何事も無いように靴を脱ぐのかと思った。 が、靴はひとりでに上部から左右に別れると、気が付いた時には板のようになっていた。
ひょっとしなくても、これは先ほど靴と呼ばれていたもので、玄関で家に入るときには、このように変形するのだろう。
なんだか色々すごい技術を連発されて驚きを通り越していたが、あることに気が付く。
これは……臭うんじゃじゃないのか? という、どうでもいいことに。
ただでさえ脱いだ後の靴というものは臭いものである。 いや、偏見かもしれないが。
それが、今まさに全開放され、その脅威を剥き出しにしながら襲い掛かってくるのである。
如何ほどの脅威か想像がつくだろう。
幸いにも今は臭いを感じなかったが、もしよそ様の家に行ったとき、その家主が油ギッシュなハゲた親父だったら、さぞかし臭いだろう。 何度も繰り返すがただの偏見だ。
あたかも、家に入るのを拒む結界のように作用した臭いは、来る者を拒み続けるだろう。
特に、夏と呼ばれる人類、いや全生命体の試練の時期には。
だが、その心配はなかった。
ユーカ母さんが一段高いところに上ると、靴と呼ばれたそれは自動的に滑り出し、最初何のためにあるのかわからなかった隙間に入り込んだのだった。
ここまで来れば俺にもこれから先の予想が付く。
きっと、このあと光線やら真空やらで、何らかの処置を施されて無臭と無害化されるのだろう。 これにてめでたしめでたしである。
さて、そんなこんなで大事件に遭遇しつつも、ユーカ母さんは俺を抱えて歩く。
さして長いわけではない廊下を通り、扉の前に到着する。
空気の抜けるおなじみの音が出ると、扉は開いた。
そして、俺は沢山の拍手に迎えられることになる。
驚きつつも周りを見回す。
そこには病院のガラスチューブ越しに見た事がある人達が勢ぞろいしていた。
彼らは俺の誕生を祝福してくれてるのだ、と気が付くと、おれは思わず涙を流してしまった。
こんなにも沢山の人に俺が祝福されていると、気が付いたのだ。
こんな時に言うべきセリフは決まっている。
まず、何よりも感謝の言葉だ。
「ありがとう……ございますっ!」
俺の涙を見たみんながぎょっとした顔をするが、その言葉でホッとため息をつき、そしてさらに拍手が広がったのだった。
途中、疑問符が浮かぶ光景が広がったが、その後は何事もなく皆から挨拶と自己紹介を受ける。
記憶力の無さに定評がある俺だ、こんな大人数の名前なんか記憶できるはずがない。
が、とにかく頑張って顔と名前を一致させるように覚えていこうと努力した。
その努力の結果が結ばれたかどうかは、次に会ったときに証明されるだろう。
とりあえず自分の父親…トールは記憶したと言っておこう。
さて、前世の我が家ではこういう催しがあったときは、宴会をしていたものだ。
主役の子供をそっちのけで、大人たちは酒と飯をかっくらい談笑していた。
もちろん、俺もそんな中の一人であったわけだが、ここでは違うようだ。
どう違うかというと、彼らは自己紹介をし終わった後、ユーカ母さんと、トール父さんに挨拶をしてそのまま帰って行ったのだ。
なんとも悲しい幕切れである。
家族を残してみんなが帰った後、俺はユーカ母さんに抱えられて部屋に連れていかれた。
その部屋は隅っこにベッドがあるだけで、ほかの家具類は見当たらなかった。
きっと、ここが俺の部屋となるのだろう。
外はまだ明るいが、ベッドに下された理由はなんとなくわかる。
つまりはこれからしなくてはならないのは、子供のお仕事である。
俺の頭を撫でたユーカ母さんは、部屋から出て行った。
すると、部屋はあたかも夜が突然始まったかのように暗くなるのだった。
照明を落としただけという話もある、が部屋は真っ暗とまではいかないが、寝るのに最適な暗さまでになった。
さっきまで窓から差し込んでいた陽光も、いまでは通していない。
液晶窓ガラス……というやつだろうか。
兎にも角にも便利な世界になったものだ。
俺はそのまま闇に飲まれていくように眠りに落ちたのだった。
目が覚めた。
今の時間がいつだかはわからないが、窓からは柔らかな日の光が差し込んでいる。
眠気はなく意識がはっきりと覚醒している。
怖い夢を見て飛び起きたときのような、ベッドから転げ落ちた夢を見て実際に転げ落ちて目が覚めたかのような、いい年して寝小便かまして飛び起きたかのような覚醒レベルだ。
いや、最後のは無し! あくまでも未遂であって、実際にそんなことがあったことはない!
ともかく俺は目が覚めた。
そしてベッドの上で笑いをこらえる。
さっきまで見ていた気がする夢を思い出しているのだ。
それは、ピーピーピーという電子音から始まった。
広大な平原で、石で出来た手斧片手に、マンモスを狩っていた俺はその音にビックリした瞬間、目の前に知らない男がバストアップ映像で映し出されたのだ。
そして握りこぶしを掲げながら演説を始めた。
「世界に告ぐ!!」
などという前口上から始まったそれは、「人間が世界の理を歪めている!」 や、「このままでは世界は、人間たちによって崩壊する!」 やら、「よって間引きする必要がある!」などと言い出したかと思えば、「この理想に賛同するものは誰であろうと歓迎する!」 で締めた。
お前はあれか。 どこぞのアニメでも見て共感とかしちゃった口なのか?
いい年こいたおっさんが、突然こんなことを言い出すなんて、とか考えてたら目の前に半透明なウィンドウが出てきた。
それには、『宣戦布告されました』と簡素な文字が自己主張しているだけだった。
って、これって強制参加かよ! と俺が突っ込みを入れたのは当然だった。
人類皆兄弟とかいうつもりはさらさらないが…特に例の奴らとか、たとえば海を隔てた隣の奴らとか、さらにその奥の角ばったオモチャをちらつかせて来る奴らの所為で。
ともかく、俺としてはこんな変なもんに感化されたような恥ずかしいやつと関わりたくはないが、売られた喧嘩は買わなくてはならない。
同時に表示されているカウントダウンは進んでいるが、まだ時間はかかるようだ。
俺が待つのが面倒だと思っていると、カウントダウンは早送りをしたかのように進んでいった。
どこまでも妙な夢である。
そして場面が切り替わる。
気が付くと俺は……平面図を見下ろしたみたいな世界で、丸の円周部に小さな小さな三角形が一つ付いたような姿になっていた。
別に腹を撃たれたというわけではないが、奇声を上げて叫んだのは言うまでもない。
遠くのほうに視線を向けるとそこには何十という数の、丸に小さな三角形がついた俺と同じような姿の『敵』が映っていた。
よく見ると三角形の大きさがまちまちだ。
向こうに敵がいるということは、反対側には味方がいるということだ。
と思い、周りを見回してみると……周囲には誰もいなかった。
つまりは、そういうことである。
もしかして、中二病を患ったやつしかいないのか!
愕然としていると、敵があわただしく動き始めた、すわ敵襲か!? と思ったが、それぞれ勝手に破裂していく。
やがて最後の一つが破裂すると、またしてもおなじみのウィンドウが開き『勝利』と表示されていた。
つくづく奇妙な夢である。
そして、気が付いたら目を覚ましていた、ということである。
目が覚めても、赤ん坊の姿ではどうにもならない。
身じろぎすらできないだろう、と思っていたが動くことは可能のようだ。
というか、体は異常な程成長しており、背が低いだけで普通に活動するぐらいには動くことが可能という、信じられない事態にパニックになりそうだった。
俺はのそのそと体の調子を確かめるように起きだし、首や腕そして足の調子を確かめる。
ゆっくりと立ち上がり、ベッドから降りて足を床に付ける。
歩けた……!!
この世界で誕生した俺は、初めての一歩を踏み出したのである。
部屋を歩き回ること少し。
体の調子もだいぶつかめてきたのだろう、スムーズに動かせるようになった。
意を決し部屋の外に出ることを考える。
いや、まだ考えただけだ。
外には俺の今まで見たことない、未知の世界が広がっているだろう。
……だが、あえてその世界に飛び込むことに戸惑いはない。
こうして生まれてきたのだ、いずれは乗り越えなければならない問題である。
すでに世界に向けて羽ばたこうとする準備は出来ている。
この俺の歩みを止めることは誰にもできないだろう。
今まさに俺の物語は始まり、世界は新しい時間を刻みだす。
動こうと考える時間は終わり、これからは進みだすだけなのだ。
……と、無慈悲なチャーハンを作ってる場合ではなかった。
無慈悲なのは、この部屋の扉だ。
押しても引いても開かない。
横にスライドさせようにも取っ手もないから滑るだけ。
ふと思う。 音声入力で開けるのかもしれない。
思いついた事は即座に実行するべし、との言葉に従い試してみた。
「開け!」 反応なし。
「開門!!」 開かない。
「火事だぁ~~~!!」 これでも開かない。
「Open Sesame!(開けゴマ)」 やっぱり開かない。
「バルス!」 ……どこぞの王族のメガネが割れる音がした。
俺はこの日、この世界で初めての敗北を味わった。