来訪者は婚約者
万が一を考えてスライム達をその場に残し、見たことの無い黒塗りの高級馬車に近寄っていくと、「ひっ!?」という短い悲鳴のような声が耳に入る。見れば御者席に座っているおじさんが、プルプルと体を震わせて……
あー、どうしよう。畑仕事してたから、でーやんは家なんだよなぁ。連れてくる? ここまで来て何も言わずに引き返すのも不自然だし、せめて一言くらいは話してからの方が……でも、その一言がハードル高そうだな……
そんなことを考えつつ、僕はその場で足を止める。『威圧感』は距離減衰だから、気休め程度とはいえこれ以上近づかない方がいいだろう。『畏敬』を使うのはどうかともチラッとだけ考えたけど、明らかに偉い人が乗ってそうな馬車だし、それは問答無用で切られそうになったときの最終手段だろう。下手に尊敬とかされたら、アンジーの時の非じゃ無いくらい厄介なことになりそうだし。
動かない僕と、動けない……というか、仕事上逃げられないであろうおじさん、それとプルプル震えている二頭の馬という何ともいたたまれない状況のなかで、馬車の扉がゆっくりと開かれ――
「これはっ!?」
細く開いた扉の隙間から滑るように飛び出してきた男性が、そのまま即座に扉を閉めて、馬車の前にて剣を構えて仁王立ちになる。その顔には警戒心がありありと浮かんでおり……そうなった理由はわかりすぎるくらいにわかるけど、僕としては非常にマズい状況だ。
「あー……」
「おい、何をしている。さっさと扉を開けろ」
何とか誤解を解くべく、とりあえず挨拶でもしてみるのはどうかと僕が口を開くより早く、馬車の中からコンコンと扉を叩く音と共に、くぐもった別の男性の声が聞こえてくる。口調からいっても、おそらくそちらが本命の……この剣士の人が守るべき偉い感じの人なんだろう。
「いけません坊ちゃん! こんな威圧を飛ばしてくる奴の前に無防備に姿をさらすなど!」
「はぁ……エルド。お前は私の話を聞いていなかったのか? 今日会う相手はそういう相手だと事前に通達したはずだが?」
「それは……そうですが。いや、しかしそれにしたってこれは……」
中の人の声に戸惑いを見せる剣士の人。その視線がチラチラと馬車の中の方へと走るが、意識だけは一瞬たりとも僕から外れない。僕の方から一歩でも近づいたら、そのまま斬られそうな感じだ。
「ならば確認だ。こんな所に住んでいる物好きが複数人いるのでも無い限り、お前の目の前に立っているのは私と変わらぬ歳の頃の男のはずだが……そいつは武装しているか?」
「いえ、素手……あ、いや、鍬を持ってます」
あ、そういえば畑を耕していたから、『威圧の鍬』を出したままだった。消してもいいんだけど、この状況でそれをする勇気は無い。
「鍬を武装とは言わんだろ……なら、この馬車は複数人に囲まれたりしているのか?」
「いえ、我々以外には目の前の男しかおりません」
「つまりお前は、鍬を手にしたたった一人の男からすら私を守り切れんと言うのか? それとも、実はこの町はお前に気配も悟らせぬような暗殺者が大量に潜んでいて、常に私を狙っているとでも言うつもりか?」
「そんなことは……」
「わかったら扉を開けろ。今すぐだ」
ただ成り行きを見守ることしか出来ない僕の前で、苦渋の表情を浮かべた剣士の人が後ろ手にゆっくりと扉を開き、中から新たに男性が一人降りてきて……そしてその場にうずくまる。
「くっ!? これは……」
「坊ちゃん!? 貴様、坊ちゃんに狼藉を――」
「辞めろと言ったぞエルド! しかし……これは予想以上だな。確かにこれなら、お前が警戒するのも頷ける……」
今にもこっちに斬りかかって来そうな剣士の人を制し、坊ちゃんと呼ばれた男性が立ち上がると、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「問おう。お前がトールか?」
「は、はい。僕……いや、私がトールです」
額にジットリと汗をにじませながらやってきた男性に、僕はそう答える。今までのやりとりからしても、同姓同名の人違いな可能性はまずないだろう。
「そうか。ならば私も自己紹介しよう。私はグリン・ローズウッド。ローズウッド伯爵家の三男で、フルール嬢の婚約者だ」
「フルールさん……様の?」
いかにも貴族っぽい感じのヒラヒラがふんだんに含まれた服に身を包んだ、赤茶の髪と目を持つ同い年くらいの男性。それが貴族というのは予想通りだったけど、フルールさんの婚約者だと言うのは予想外だ。いや、この町に来ている貴族の男性となれば他に該当者はいないんだろうけど、そんな人が突然僕を訪ねてくることなんて全く想定していなかった。
「そうだ。しかし彼女に聞いていたよりも相当に強力な威圧だな……フルール嬢はこれを耐えてお前と交流していたのか?」
「あ、いえ。フルールさ……まのご病気の治療をした頃は、今より大分弱かったので……あ、それでですが、これを弱める手段があるんですけど、やった方が良いでしょうか?」
「む? そんな便利なものがあるなら、是非も無い」
「わかりました。それでは……えっと、どうしましょう? 粗末な所ですが、私の家に来られますか? こちらでお待ちいただいても構いませんが……」
「ふむ。家にも興味はあるが、それよりもその畑の方が目に付く。ここで待つ故、その手段というのを講じて欲しい」
「わかりました。では、暫しこちらでお待ち下さい」
きっちりと頭を下げて一礼すると、僕は慌てて家に帰り、でーやんを肩に乗せてその場に戻る。あ、言うまでもなくえっちゃんは僕の頭の上だ。最初にスライムを引き合わせるのなら、やっぱりえっちゃんが一番いいからね。
「お待たせしまし……た?」
僕が小走りに戻ってくると、その姿を見とがめた剣士の人が再び僕と貴族の人……グリンさんの間に立ちはだかる。
「スライム? 魔物だと!? 貴様、一体どういうつもりだ!」
「エルド……それも告げてあっただろう? そもそもフルール嬢とてスライムを……ああ、いや、女性である彼女をお前に引き合わせたことは無かったな。これは私の落ち度か。大丈夫だから下がれ」
「しかし……!」
「スライムだぞ? お前が強いことも、私がさして強くないことも否定はしないが、それでもお前は私がスライムに後れを取ると……赤子の如き弱者だとでも言うつもりか?」
「ぬぐぅ……し、失礼しました……」
再びグリンさんにやり込められて、剣士の人が後ろに下がる。そして凄い顔で僕を睨んでくる……えぇ、完全にとばっちりだよ……
「すまんな。しかし、確かに随分と体が軽くなった。これは……何の香りだ?」
「ああ、それはこの子が出しているんです。『癒しの香り』と言って、心を落ち着かせる効果があります」
「ほぅ。スライムにそのような能力があるなぞ、ついぞ聞いたことが無かったが……新種か?」
「あー……どうなんでしょう? 一応『癒しの香りスライム』という種族らしいですが、これが種として増殖するのかどうかはわかりません。何せ最近なったばかりですし、おそらくは一個一種の存在なのではないかと」
「そうか。それは残念だな。会議室にでも置いておけば随分と理性的に議論が出来そうなものだが……ふむ。それを献上……いや、売れと言ったら、お前はどうする?」
表情一つ変えること無く、グリンさんが当然のように口にしたその言葉に対して、僕の答えは考えるまでもない。特に声を荒げたりはせず、ごく自然ににっこりと笑って……はっきりと答える。
「勿論、お断りします」





