とある男の顛末
今回はグレイル視点です。ご注意ください。
コツリ、コツリと冷たい足音が背後から迫ってくる。それは扉の前で一端止まると、ノックも無しに扉を開いて部屋の中へと入ってきた。だがそれを咎める者などいない。何せ今入ってきた人物こそ、この部屋の主なのだから。
だが、部屋の主たる彼であればこそ、その場にて足を止める。その顔に浮かぶのは驚愕。その目に浮かぶのは不審。だがそれら全てを飲み込んで、彼はボクの目の前までやってくると、そこにある椅子に腰を落とした。
「…………何があった?」
重々しい声が、端的に理由を問う。
「何があった、か……ハハッ。簡単さ。『何も無かった』んだ…………」
いつもならどんな乙女でも一発でメロメロに出来るボクの美声が、今は擦れて震えている。こんなことは、生まれて初めてだ。
「ふざけているのか? 何も無かったのに、君がそのような状態になるはずがない。一体何があったのだ! あの悪魔に何をされた!?」
「何をされた……? 簡単さ。『何もされなかった』んだ…………」
「ふざけるな!」
ダンッと、彼の拳が目の前のテーブルを叩く。その迫力は歴戦の冒険者に勝るとも劣らないものであったが、アレを経験したボクにとっては、そよ風ほどにすら感じない。
「ふざけてなどいないさ。教会長殿は打ち合わせ通り、彼を町の外におびき出してくれた。だからボクも計画通りに彼の前に姿を現し、彼の連れていたスライムを殺した……ただそれだけだ」
「なんだ、うまくいったのではないか。それで?」
「それで……とは?」
「続きだ。己の眷属を殺された魔王は、どうした? 泣き叫んで許しを請うたか? それとも逆上してグレイル殿に向かってきたのか? であれば私の方からも働きかけ、罪に問われぬように尽力するが……」
「違う。そうじゃない。そんなことじゃないんだ……」
そう、あれはそんなことじゃない。そんな常識的な、予想の範疇に収まるようなことはしていない。
「ならば何だというのだ! グレイル殿! はっきり言ってくれ!」
「ハハッ……はっきりか。アレをはっきりと言われてもな……ボクにだってわからないんだよ…………」
ボクの剣は、あっさりと彼のスライムを仕留めた。当然だ。竜の鱗にすら穴を穿つと言われたボクの『閃刃』が、スライム如きを仕留め損なうはずがない。殺さぬ程度に手加減しろと言われたら逆に高難易度だが、殺していいなら目を瞑っていたって楽勝だ。
だが、その後だ。相棒たるスライムを失った後、彼はその場に蹲った。必死に地面を掘り返す彼の目の前に銅貨を放ってやったが、彼はそれを拾いすらしなかった。
そして、目覚めた。
ソレが何であったのか、ボクにはわからない。ただ立ち上がってボクを見る奴の目には、いかなる光も宿っていなかった。
いや、違う。光だけじゃない。闇だって無かった。何も無かった。そこには何も無かったのだ。怒りも憎しみも悲しみも、光も闇も世界も、ボクの姿すらそこには映っていなかった。
何も無かった。何も無かった! 無いということが感じられないほどに、ただひたすらに何も無かったのだ!
もしも彼が泣き叫んでいたなら、ボクはそのまま罵詈雑言を投げかけて立ち去っていただろう。それで彼は立ち直れなくなるだろうし、もしまだその気があるなら他のスライムも潰してやればいい。始めてしまったからには、多少のリスクを覚悟してそれを行えば彼を潰すなんて簡単だろう。
もし彼が怒り狂って向かってきたなら、軽く切られてやってから腕の一本も飛ばせば終わりだ。しつこいようならトドメも刺しただろうが、それでも先制されていれば十分に言い訳は立つ。目の前の男の言う通り、教会長の後押しがあれば不問と処理されるのはほぼ確実だ。
だが、奴は何もしなかった。ただ立ち上がって、こちらを見ただけ。
でも、たったそれだけでボクは身動きひとつできなくなった。
「奴は……トールは、何もしなかった。ただそこにいただけだ。それだけで、ボクの全てを押さえ込んだんだよ……」
それはまるで、世界そのものが押しつぶされているような感じだった。音が、光が、空気が、空間が、ボクの周りにあるありとあらゆるモノがギシギシと悲鳴をあげていると感じた。
体だけじゃなく、もっと大事で繊細なモノが力任せに押しつぶされている気がした。鍛えることなどできない心が、鍛えるという概念すら浮かばない魂が、奴の力で踏み潰され、どんどんヒビが入っていく。それを身をもって感じながら、どうすることもできない。
できない。できない。できない! 近寄ることなどできない。逃げ出すことなどできない。動くことなどできない。呼吸などできない。瞬きなどできない。鼓動を打つことなどできない。思考することなどできない。
一瞬ごとに、できないが増えていく。全てがギュウギュウに押しつけられて、限界が近づいている。あとほんの少し、鳥の羽ほどの力が加わるだけで、ボクの全てが押しつぶされる。二度と元に戻らない、そのギリギリの分岐点。その髪の毛一本分ほどの手前で……奴はボクに背を向けた。
全ての重圧から解放される。暗く閉じかけていた視界が急速に広がり、早鐘のように脈打つ心臓が必死で全身に血液を送り出す。
生きている。奴の背がだいぶ小さくなった頃に、漸くにしてその実感が湧いた。
生きている。その背が見えなくなっても、その後を追うことなど到底出来なかった。
生きている。それは勝ち取ったものでも、与えられたものでもない。ただ奴がボクに無関心だったから拾えたもの。そう、ボクの生は、道に転がる石ころの如く捨て置かれた果てのものだ。
「訳がわからぬ! 奴は、トールは何だと言うのだ! 『閃刃』グレイル・アシュベール! 貴殿はあんな弱者すら殺せないというのか!」
「ハハッ。そうだね……ボクが彼と戦えば、10回やれば10回勝てる。それが100でも1000でも、億や兆を超えても同じだ。ボクが無防備に首を差し出した状態からでも、彼がボクの首を落とす前に、彼の腕を飛ばして眉間と心臓を穿つくらいは余裕でできる。ボクと彼の実力にそのくらいの隔たりはあるさ」
「ならっ!」
「でも、ボクは奴には勝てないよ。いや、アレは勝つとか負けるとか、そういう存在じゃない。あんなものとは勝負が成り立たない。悪いが、この仕事は降ろさせてもらう。ボクはここまでだ……」
「そんなっ!? グレイル殿、考え直してくれ!」
「ハハッ。辞めてくれよ……元々教会長殿の依頼を受けたのは、我が父君が貴方と縁があったからだ。でなければこんな弱者を貶めるような依頼は最初から受けなかった……そうか、その時点で。『閃刃』とまで言われたボクが、こんな依頼を受けた時点でこの結末は決まっていたのか……お笑いだ……」
自嘲の笑みを浮かべながら、ふらつく足に力を入れて、何とかゆらりと立ち上がる。奴と対峙してからそれなりに時間が経つのに、未だに足下がおぼつかない。
「待ってくれ! グレイル殿! 奴は! あのトールとかいう魔王は、一体何者だというのだ!?」
必死に追いすがろうとする彼に、ボクは一度だけ振り返り、力の無い笑みを返した。
「奴が何かだって? ハハッ。そうだなぁ……教会長殿は奴を魔王だとか悪魔だなどと称しているようだが……ボクに言わせれば……」
ゴクリと、教会長殿がつばを飲む音が聞こえた気がした。男をじらす趣味は無いので、ボクはそのまま言葉を続ける。
「奴は……トールは『神』だ」
それだけ言って、ボクは部屋を後にした。背後から不遜だ何だと叫ぶ声が聞こえたが、もうボクの知ったことではない。
一刻も早く、この町を出よう。そして何処か遠い地へ行こう。この体の震えが元に戻らないなら、畑を耕してみるのもいいかも知れない。今回の依頼で得た唯一の報酬、あの野菜の味を再現するのも面白そうだ。
手続きを済ませて門を出れば、目の前に広がるのは自由だ。いかなる仕事も契約も受けていない今、ボクの前には無限の可能性が広がっている。ありふれた安っぽい台詞だが、あらゆる選択肢を極限まで小さく押しつぶされた経験があればこそ、それがいかに貴重かが解る。
「さあ、何処に行こうか…………」
空に向かって小さく呟き、ボクの足は、震えながらも確実にその一歩を踏み出していった。





