終わりから始まる
〔1〕
この最期の時に。
もはや現実の肉体は指一本動かせず、呼吸すら機械に繋がれたものであったとしても。
意識だけの働きでよいこの場であれば、いま少しを動けるだろうと。
そうして彼が選んだ、残りを過ごすための慰めだった。すなわち電脳仮想領域没入体感型オンラインゲーム「ミグランティス」の。
◆
「よし。これであとは……。特定指定外の行動パターンを……」
すべて「自由行動」として解放する。
NPCたちの待機パターン、防衛配置などに関してだ。
彼が仮想表示コンソールの決定キーを入力すると、連動した仮想ウィンドウが周囲に次々と展開されながら処理の経過と結果をそれぞれに示してゆく。その量は膨大だった。なにせこの居城には数万にも及ぶ総数のNPC、ノンプレイヤーキャラクター(プレイヤーではなくシステムが動かすキャラ)が配下や資源の一環として組み込まれているのだから。
彼の居城……すなわち、プレイヤー私設ギルドの一門たる「AV帝国の野望」、そのギルド本拠だった。優雅な城郭庭園型の居城を中核に据えつつ、周辺一帯の土地も含めて様々な生産系・資源系の施設も備える。その範囲は多岐に及び、基本的な農場や果樹園、牧場といったものから、北東寄りには巨大な一本の大樹を中心に広がる樹林、湖と、そこから流れ出でて広大な土地を分岐しつつ潤す河川。西側の土地は低まっていて海岸に面しており、それなりの港湾設備もある。北側は、ある程度の距離が開いた先で山脈に囲われるように遮られているがこれも鉱脈系の資源地を兼ね備えており、ギルドの支配範囲であった。
一つのギルド本拠がここまで広大化しようとすると投じられるべきコストもまた膨大化するものであるが、ギルド「AV帝国の野望」の場合はそこに無理がなかった。というのも、現ギルドマスターたる彼、エイク少年が個人として踏ん張ったわけではなく、かつてのメンバーたちが集ってゆく中でそれぞれの本拠や、課金によって増設された“枠”などを持ち寄り、「ギルドの合併」およびそれら権限の移譲・寄贈を繰り返していった結果だったからだ。
それを託された彼……エイク、キャラクターのフルネームとしては「エイクオン・アイテイン」となる、金髪碧眼の特にひねりもない外見の、背は高くもなく痩身なアバター体であったが。その彼にとっては、今の一時を代表して皆から預かっているだけだ、といった思考だった。無念であるのは、せっかく預かりあって続けてきたその皆の思いの結晶を、さらに託す先が定められなかったことの一事であろうか。彼はもう終わるのだから。
そもそも彼、エイク少年はいまだ未成年、たかだが十七歳の未熟者の身にしか過ぎなかった。このゲームを始めたのは五年以上前であって経験暦こそそれなりに長いが、独力で大ギルドの長を務めるような立ち位置にはない……はずだった。実際、ゲームを始めて間もない頃の彼は、知り合った友人たちや年長者たちに導かれるまま、気ままに遊ぶだけの、どちらというとろくに戦力にもならないライトな層の、そういったプレイスタイルに該当していたのだから。
それが今現在の結果になだれ込んだ理由は明白だった。電脳仮想領域に接続するための全感覚代替置換技術およびその実践型サービスとしての「ミグランティス」は、もともとが医療目的で開発された技術体系でありプロジェクトであったからだ。初期開発期の試行錯誤と紆余曲折を経て、名もなき実験的ホスピタルサービスの一環に過ぎなかった電脳領域の仮想空間には拡充が重ねられ、ついには大型オンラインゲームとして一般解放されるに至った。もちろん小型の、オンラインに接続せずホームサーバーなどで展開可能な“狭い”ホスピタル系プログラムは他にも多数リリースされていたが、MMO規模(大規模多人数同時接続型)の運用に耐えるシステムと内実を兼ね備えることができたものは、「ミグランティス」だけだった。これには理由があって、革新的な当該技術を発明し、発展させた当事者たる天才的技術者自身が、なぜか肝いりで開発に尽力したプロジェクトが「ミグランティス」であったからだ。さらにその理由までとなると、世間にはあまり知られていない……しかし、エイク少年は知っていた。開発者の青年――当時は青年と呼べる二十代のお兄さんだった――は、自身の妹さんのためにこそその才覚のすべてを投じられていたのだ。他の人々にとっての恩恵など派生した余禄に過ぎない。
そう、“ホスピタル”サービスであり、そのための対処技術。補うためのもの。つまりは、避けざる終末医療にまつわる、緩和ケア、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上のための。あるいは少しでも……延命に繋がるための。
現実の肉体がもはや自身で動かせずとも。手指どころか、呼吸も、喋ることも困難で、意思疎通を図ることができず、あるいは無菌区画に隔離された身であったとしても。それでも“人間”として、その意思の最後の一片が潰えるまでの時を、閉じ込めるのではなく掬い上げることができる手段を求めたならば、と。もとが義肢や義眼用の神経信号接続・互換・補強といったことのための一分野の技術でしかなかったものを、大きく昇華した、まさに一時代の飛躍を代表する革新的技術だった。それを為した青年が天才と冠されるのも当然であったのかもしれない。皮肉であるのは……彼は妹さんの後を追うように数年後、夭折したことか。その最期がいかなる様であったのかまではエイクも知らなかった。その頃には疎遠になっていたし、エイク自身が知り合いと呼べる相手だったのはどちらというと妹さんのほうで、開発初期の実験的テストケースへの参加の立場などもとっくに終わっていたから。
過ぎ去った時と相手。残るものは、いつだって哀しみだけだった。わざわざ掘り起こす気力など持ちようもない。
それでも振り返る思いを止められない時もある。いまがまさにそれであり、ギルドメンバーであった面々の面影が脳裏を過ぎ行く。エイクはギルドマスターとして玉座に、力なく座したまま、往時の仲間たちを……友人であり、先輩であり、中には親友と呼べる相手もいて、あるいは家族のように大切に思っていた。現実の、無菌区画の遮蔽越しに眺めることしかできなくなった家族よりも、もしかすれば心がずっと寄り添っていたかもしれない仲間たち。けれどそうして心を向け合った相手ほど、過ごし合える時間は限られていた。最初から分かりきっていたはずの話ではあった……。“持ち時間”が互いに残り少ないからこそ、そのホスピタル系ネットワークを介して知り合い、集っていった同士なのだから。それを悔いまいと思う程度にはかつて仲間たちと共にした矜持がある。
誤算を述べるなら、当時まっさきにくたばる候補の一角であったはずのエイクが、なんの因果か細々と小康状態を維持することができ、結果としては最も居残れてしまったことだった。新薬の適合などに関して開発者の方々や幸運に感謝すべきなのだろうが、申し訳ないと思いつつも内心に浮かぶ率直なものとなれば、皮肉げな苦笑だった。どうしてこんなことになったのだろうと。
いまならば分かる。見送ること、見送られること、どちらも辛いことだ。しかし最悪であるのは、どちらか片方だけに陥ってしまうことだ。どうすればいい。ぜんぶ、託されて、いまの自分がある。命とは、一度も途切れずに受け継がれてきた、幾万年をも乗り越えた奇跡なのだ。しかし、終わる。どうしようもなく終わる。この、閉じてしまう枝葉の端に立たされて。すくいようがない。
思いだけが暴れて、出来ることがない。残るものなど疲労感だけだ。そして、実際にエイクは疲れ果ててもいた。身体の衰弱は神経組織だって衰弱させる。心も、精神も、神経の機能だ。だから現実の諸々を切り捨てた、いわばロスタイムを過ごすこの領域にあっても、もはや身動きは鈍重を極めつつあった。
それでも嘆息くらいは吐ける。ついでに息に乗ってこぼれるような、思いの端切れも。
「ねえ……イツハちゃん。けんた、ユーフラス、ボルグ兄。ゆき姉、ランダバルトさん……。遠いよ。みんな。ここは遠いい……」
仮想の片手を持ち上げ、掴むようにしても。思いの先にあるはずのものに届きはしない。
そしてまた嘆息だった。見上げていたはずの視線が力なく落ちる。そんな自分にも慣れていた。慣れてしまうしかなかった。
豪華極まる宮殿だった。その中でもなおいっそうと、絢爛さと権威さを詰め込んだような玉座の間。最上位の謁見のための間取りを兼ねた広々さが、その奥たる段上に据えられし黄金と宝玉で象られた頂たる座を際立たせる。背は高くそびえ、曇りなき煌びやかさが、天上から下すがごとき威光を示す。
そのはずだった玉座に、独りきりで座っていた。これを……寒々しさ以外にどうたとえろというのか。
玉座にギルドマスターが座す時、その本拠施設全体を管理運営するためのシステムに対し最上位権限をもって、最も細かく操作・設定することができる。そのためにここを選んでいたが、失敗であったかもしれない。もちろん最後に設定など整えておきたい思いにも嘘はない。もし家族がエイクのアカウントを即時抹消などせず、事前に意向を伝えてある通りに(あるいは遺言の通りにと表するべきか)数年間ほどを放置してくれるのであれば、もしかすれば受け継がれるなり転用されるなりといった可能性が皆無ではないのだから。
そう、皆無ではない。文字通りにその程度の可能性であって、実現の目などまともに検討するべくもない未練に過ぎないことは承知していた。ならばこんな屋内に閉じこもるのではなく、せっかくの心の自由なる地なのだ、外で広々と思い出の景色でも眺めながら過ごしたほうがよかったのかもしれない。もう遅いが。
ホーム施設および領土内は、敵対的勢力による侵攻や侵入を受けているといった状況下・エリアでなければ、ギルドメンバーであればその各々の持つ権限に応じて固有名と座標を管理された箇所には空間転移による即時移動がサポートされていた。権限は各員のギルドタグ(首から下げる形を取ることが多い)に刻まれている。ギルドマスターであれば、メンバーごとの私室や特別にセキュリティを施された区画を除き、おおむね跳べない先はないといってよかった。だから移動自体は苦ではない……。とはいえ、いまのエイクには、跳んだ先で何を過ごすための姿勢を整え直すだけの余力が、もうなかった。
現実の彼の体は、既に能動的延命措置が諦められる域に至ってしまっている。無菌区画に隣接する観覧のための小部屋には(あれは決して“面会”などと呼べる形ではない……)、父母と妹がいまだに居残っているかは知らないが少なくとも医師資格のある人物が一名はいるはずだった。彼の死亡時刻を読み上げるために。
その末期のわずか一時において、医療型高級機といえどもダイヴ・ポッドを使用した電脳接続が許されている理由は簡単だった。苦痛から逃れるためである。もとが神経信号の接続にブロック、割り込みをかける処理の、延長上に発展した技術でもあるのだから。しかし単にブロックするだけだと、使用者は無感覚のただ中に宙吊りとなってしまう。なにもできない。なにもわからない。閉じ込められた時間だけが過ぎる死の秒読みなど、拷問と何が違うというのか。だから仮初めの幻想であっても、それが究極の逃避に過ぎないと誰もがわかっていたとしても、“脳の内側だけの世界”におけるなぐさめが求められた。
それが、これだ。すなわちホスピタル系の様々な仮想体感型アプリケーション・プログラム群であり、その黎明第一期における最大発展型たる「ミグランティス」だった。最大サービスの具体形が非現実的たるファンタジーゲームの体であることに対して保守的なお堅い識者さまの中には否定的な声もあったらしいが、結局のところそれらは自身が病床に沈んだこともない、外野の声でしかなかった。そもそも非ファンタジー系のプログラムとてあったが、模擬応答AI任せでなく現実の人間と対話がいつでも成り立つようになどと計らったら、そのコストを誰がどれだけ担えるというのか? 論を突き詰めるほどに対案のともなわない、無闇な空論であった。「ミグランティス」がアルファ・ベータといったテスト段階を経て正式サービスが一般オンライン解放されるに至った理由も、一つはここに根差していたのだから。病人だからと医療界隈の内部にだけ閉じ込めていて、真なる「幸い」はどうして求められるだろうか。彼らの大半は、別段に知能が劣っていたり社会性が壊れていたりするわけではない。ここにQOLだのと気取った用語を持ち出すまでもないだろう。
そうした諸々の面も含めて、少なくともこの黎明期における第一弾的取り組みとしては、「ミグランティス」はとてもよく出来た“試み”だった。間口の広いサービスとして料金を回収することでサーバー・ネットワーク群のコストも賄えていたし、接続者の総数が格段に増大したことで、統計的なデータの収集・洗練は一段と進んだ。それによって新たな技術的改良も施されていたし、技術的に次世代に相当するものの開発も計画されているらしい。また、こういった表に見える躍進以外にも、何らかの初期開発者たちの思惑が込められていたのではないか……といった噂が時時に囁かれてはいたが、真相を知るものはいない。少なくとも、エイクの耳にまでは聞こえてこなかった。
際限のない物思いを流す中、ふと気がつくと展開されていたはずの仮想ウィンドウ群がそのほとんどを閉ざし、消えていた。どうやら結果表示の自動的待機時間すらもいつの間にやら過ごしてしまっていたらしい。コマンド待ちの最小デフォルトメニュー形態にまで表示が落ち着いたウィンドウに一瞬だけ視線を配ると、まあどうでもいいかと軽く流しながらエイクはウィンドウを閉ざそうとした。しかしそこに意外なことに、小さくだが通知ログが展開されてきた。
もう自分しかいないはずのこの居城で、なんだと思って中身に目を通すと、玉座の間の入室管理に対する開錠開扉要求だった。また、要求者が資格レベルを満たしたNPCであることを判定した自動的許可応答と、その実行処理。
NPCが? と一瞬疑問に思ってからエイクは、答えにも思い当たる。拠点防衛その他のために組織している配下NPCたちの内、最上位の守護十三将に関しては、最終防衛ラインたる玉座の間などに対しても任意入室の権限を与えてあったのだった。基本的には各自が担当する防衛エリアにおいて役目に従事している連中であるため(もちろんエイクが個別に連れ出す場合は別だが)、念頭になかったことから意外に感じてしまった。が……そういえば先ほど、それら縛りの前提を大幅に解放したのがエイク自身だった。ならばあとは、模擬応答AIが優先条件に基づいて“それらしい”振る舞いをするはずだった。
そうしてゆっくりと開いた、正面大扉から、さっと姿を現したものは、一匹の巨大な犬だった。より正確には、犬ではなく狼で、青味を帯びたような銀毛をさらさらになびかせた、体高が三メートルにも届こうかという巨狼だ。アイスブルーの瞳が気高さと知性深さを感じさせ、とてもカッコイイ。この子は雌だったが。
「ルギオじゃないか……。どうしたんだい?」
エイクの問いかけに、銀狼のアルギュロス(愛称がルギオである)はくぅーんと一声だけ静かに、甘えるようにも案じるようにも応えると、エイクの座す玉座目掛けて迷わず進んできた。歩み自体はゆっくりにも見えるがその移動速度はけっこう素早い。それもそうだ、かなりの巨体だ。歩幅もまた広いのだ。さらにいえばこの状態の体躯は、宮殿内に入ってくるための大幅に縮めた仮初めのものに過ぎない。本来の、全力を解放した状態となれば、ルギオの場合は体高が五十メートル程にも及んだはずだ。一部レイドボス級にも匹敵するほどのクラスへと、エイクが手ずから数年もかけて育て上げた、その成果だった。十三将の過半はそうした経緯の獣魔たちだ。ちなみにルギオの毛並みはふかぶかとした柔らかさ、温かさを示しながらも、同時にサラサラとした涼やかな手触りをも兼ね備えており、なでくり回した際の満足感にとても素晴らしいものがあった。自慢である。
「うむ……。ルギオはワシが育てた」
だとかくだらない独り言をエイクがつぶやいている合間にも、ルギオは広間内のスペースを足音もさせずに速やかに過ぎて、玉座前面の段差上げが始まるその手前、数歩分ほどの間をあけたあたりで静止する。特別に命じない限りはNPCが近寄ることのできる限界ラインだった。ルギオはそこで数秒ほどエイクのことを見つめたあと、静かにお座りした。
その後は特に動こうとしない。つまりこれは、エイクの反応を待っているのだろう。
「うーん、忠誠度と友好度がともにマックスだから……なのかな?」
要は、自由行動であるなら、なるべく傍近くに侍っていたい、といったような。そうした模擬AIの判定だと。だがそのような無味乾燥じみた事柄をことさらに強調する意味など、ないのかもしれない。特に、いまさらともなれば。
「そうだね。君が甘えて、僕がなで返す。それだけのことでいいのかもしれない。ずっと、そうしてきたのだから……。なら少し、待っていてくれるかい?」
告げてエイクは、己が身に活を入れ、ゆっくりと立ち上がるのだった。歩き出すための、体性感覚コマンド。その通常であれば息をするようにさりげない程度で済むはずのそれを達するために、いまのエイクは全身全霊を振り絞らねば、有意域を上回るだけの神経信号強度を発することができなかった。医療型高機能ダイヴ・ポッドによる信号補正・増幅処理を受けているはずの前提であるのに、この様だ。残り時間がいかほどかを思い知らされる。
ほんの十数歩の距離と、数段の段差が、途方もない障害にも感じる。歩みは遅く、安定もせず、ふらふらと。まさに力尽きる寸前の病人のように。だがそれでも、エイクはこの最期の距離を自分から歩み寄りたかった。自己満足であっても、自らで成し遂げた末として、手を届かせたかった。
「さあ……おいで、ルギオ」
触れ合う距離でそれをささやく。
途端、ルギオはその大きな顔の横面を、エイクの胸元へとこすり付けてくる。ならばとエイクが、ルギオの顎下から喉のあたりへかけて撫で返してやれば、今度はルギオがエイクの顔を舐め返してくる。
わっと顔を反射的にそらしてから、エイクはさらに仕返しのごとくルギオの頭の上も下もわちゃわちゃになで返す。するとルギオは、まるで抵抗する素振りも見せずにやり込められるまま、体を横たわらせ、あげく腹まで見せてくる。野性とはなんだったのか。
こやつめ、うり、うりゃ、とエイクは、ルギオの胸から腹、胴横なども存分になでくり回した。ちょっと息が切れるくらいまで堪能したところ、ルギオは身をよじらせるように悶えながらも、しっぽは大喜びにわっさわっさと振られていた。それを見届け満足したエイクは、改めてルギオの腹に背を預けるようにして座り込んだ。おそらくは最後の力を使い果たした、素直な虚脱だった。
そんなエイクに対してなにを思ったものか。ルギオは腹見せの状態から、エイクの姿勢を崩さぬようにゆっくり気をつけるように上体を起こすと、普通に寝そべるだけの身を軽く丸めた状態となって。そしてエイクの顔を覗き込むように鼻先を近づけてくるのだった。
その鼻先へとエイクは、力の入らぬ片手をそれでも持ち上げ、そっと添えるようにして応えるのだった。
「ふふ。こうして過ごすのも……ひょっとしたら、けっこう久しぶりかな。待たせてしまったかい? ごめんよ」
エイクの視線はルギオを見ているようでいて、あるいはもっと遠いものだったかもしれない。言葉を向けた相手も、本当のところは誰へと伝えたかったのだろうか。分からない。きっと、それは誰にだって分からない。
この温もりの幻想に包まれて往けるなら、悪くないかもしれない。と、そう思いエイクは背をもたれた毛皮のふかぶかさに、そのまま身を沈めようとした。しかし。
その時にふと気づいた。周囲の気配が増えている。というか、明らかに息遣いが幾種もある。
いつの間にやら閉ざしていた眼を見開いて、エイクは視線を巡らせる。すると。
「お前たち……。みんな、来たのかい? ははっ」
力こもらずとも、軽やかに笑みがこぼれる。玉座の周囲には、なんと十三将が総集合していた。
先からの銀狼に並び立ったとして、その威風に引けを取らぬだろう猛者たちが。金毛の大虎が、栗毛の駿馬が、黒々とした毛並みの大熊が。白色の羽に三本足の烏が、透き通った粘液体の内にオーロラを映しこんだような大スライムが、翠玉のごとき鱗を力強く輝かす最も雄大なるドラゴンが。花の妖精女王はその手の平サイズの小さき身を浮かべて微笑んでおり、部屋の脇沿いに引かれた水路から顔を出してキュイッキュと鳴いているのは海王位にまで登りつめたイルカだった。それら獣たちから一歩引いた位置に控えるように立っている人型の二名もおり、黒髪の美しき天魔の娘(に、一見しては見える)と、侍従長として執事服をまとった男装の麗人(というより、執事服のレディーススーツ版と表したほうが近いだろうか?)という誰の趣味だかなーな特製ホムンクルス。
「リュッソ、サンテ、メーラ。リゾ、ジオ君、ラーグ。ローザちゃんにキュー君。ピアにアルルも……」
これらの名は愛称としてのそれであり、とっさに口をついて出てしまったものだった。本来の名はもっと長かったり、厳めしかったりもするのだが、とはいえ今のこの場でわざわざ呼び直す必要もないだろう。
エイクは、うん、と一つうなずくと、続けて残りの二者へと呼びかけた。
「なら、フーコとウーロも出ておいで。いるんだろう?」
そのエイクの呼び声に応えて。フーコと呼ばれた白蛇が、エイクの豪奢なローブめいた衣服の襟の、胸元の合わせ目から、にょろっと顔を出し。またエイクの身が落とす薄影からは、漆黒の影の化身のごとき艶やかな毛並みの黒猫がそろりと現れる。どちらも、常にエイクの身近に潜んで護身の役を果たすものたちだ。場合によっては八咫烏のリゾが肩に乗って控えるなどして補強することもある。
これら、いわゆるテイミング・モンスターの多様さ、大量さ、そして何より“枠の多さ”こそが、ゲームキャラクターとしてのエイクオン・アイテインの能力およびギルド「AV帝国の野望」にとっての真骨頂であった。エイクは、その能力構築において、テイミング系と飼育系、そして出先で呼び出すなど補助のための召喚系を少々と、その維持を支えるMP増大のスキルしか選択していない。エイク自身の戦闘能力に直結するスキルは、一切取っていなかった。「ミグランティス」のゲームシステムはプレイヤーキャラクター側に関してクラス制やジョブ制といった形を採用しておらず、キャラレベルの他はスキル制によって能力構築がすべて表現されている形であるため、これはかなりの思い切った(そして偏った)選択といえた。また、テイミング系と一口にいっても本当に「飼う」ための要素に集約した形でしか取っておらず、それは召喚系も同義だった。つまり、いわゆる「獣使い」や「召喚士」といったスタイルで戦う者が多く選択するような、特定的なペット強化能力や、必殺技に相当するものをバンバン使わせるための能力などは、選んでいないのだ。ひたすら大量に、飼う、育てる、呼び出す、それを維持し、そして帰す。そのことだけに特化していた。
そんなスタイルを志した理由は単純なものだった。ペットを飼いたかったのだ。現実では体の都合が許してくれなかったから。そして、仮想のゲームでその代償を果たしてしまうなら、どうせだから現実ではありえないような規模で、法規上個人では飼えないような種も含めて、我がままにやってしまいたかった。何より…………もふもふに、埋もれたかった(力説)
そんな、ある種欲望のままに歩み出した路線であったが、あまりに偏っていたために当初は苦労したものだった。なにせ、最初期フィールド周辺の最弱なザコモンスター相手にさえ、まずテイミングするための前提条件として敵HP残量を二割程度まで減らす(それより多くても不可能ではないが、二割あたりよりも多いと急激に成功確率が下がってゆく)というその部分の戦闘行為が、独力ではこなせなかったのだ。この最初の壁は、結局のところ仲間たちが助けてくれて突破できた。当時まだ小学生同士の、小児部のホスピタル系ネットワークを介して知り合った、現実の顔よりもアバターの顔こそが“真実”となった友人たち。イツハ、けんた、ユーフラス……。馬鹿なことも散々やりあった。笑いあい、時に肩を支えあった。そして、別れあった。
ちなみにアバター体は現実の姿そのままは使えない。個人特定に対するセキュリティ管理がうんぬんと論じられた規制があって、髪や目の色は最低限変えなくてはならない。しかし同時、体格は現実のものと比してあまり大きくは変えられなかった。動作感覚の齟齬が生じてしまうためだ。このため、エイクたちのように成長期にまたがってアバター体を使用する場合、わりと短期に何度も体格データの再調整が必要だった。これが実に面倒くさいのだ。そのせいか大半の子供たちは、体格に関しては現実の肉体に同期させたものをそのまま使っていた。またそうなると、顔、というより頭部の骨格などに対する比率の問題があって、顔だけ入念にいじくっていたりするといつの間にやらあべこべな外見に陥っていて友人連中から指差されてプギャーな格好のネタにされたりもする暗黒の記憶よ消え去れっ! ……何もなかった。いいね? ともかく、それら事情がよくわかっていない最初の数度を除けば、アバター体はおおむね現実の身体に準じたものから髪と目の色を変えただけ、といったことが多かった。完全に大人の年齢に届いた人たちであれば違ったようだが。
そんなこんなで最初の頃こそ非力さに苦労したものだったが、ある程度育ってくると状況が変わっていった。育ち始めたペットたち――その頃は小蛇のフーコ、ブルースライムのジオ、森子狼のルギオが主力だった――が敵を選べば戦えるようになっていたし、比類なき同時飼育枠を獲得しつつあったエイクの下には噂を聞き及んだ知り合いの知り合いといった流れの伝手から「枠の都合で余ったペットや使い魔」が持ち込まれるようになってきていた。また、そうして量を抱え込み始めたテイミング・モンスター類の内、騎獣として使える種に関しては、調教の上で貸し出すことなども始めていた。これがけっこう評判がよくて資金稼ぎになったものだ。まぁその内に同業他団体が増えてきてしまったので、直接の知り合い以外に対しては手を引いたのだが。
そして、能力ががっちり育った後期には。エイクはおびただしいまでの大量の獣魔を引き連れ、あるいは呼び出し、攻勢となれば雲霞のごとくなだれ込ませ、防衛となれば突破不能の分厚き壁としてそびえ立たせた。個々のモンスターに細かく指令を与えさせたり特殊な陣形を都度運用させたりといった小器用さこそなかったが、とにかく量、量、量で圧倒させた。この独特の戦法は他に類を見ないものであったらしく、呼び表すための異名を複数もたらした。いわく、一人万魔殿、百万群の指揮者、そして、埋め尽す獣壁の王、などと。
なお、ギルド名は合併合流を繰り返す中で何度か変わったものであったが、最終的にあんな名称になった理由は前述の異名に引っ掛けられたものだった。ちょっとしたネタジョークと同時に、揶揄や皮肉なども絡めたものであるわけだが、げに恐ろしきはその場のノリと勢いであろうか……。素に戻ったあとけっこう悶えた。いまでもたまに……んんっ、ごほんゴホン!
そうした経緯の末、いまを支えてくれている自慢の配下、ペットたちであった。エイクが独力で手にしたものはさほど多くなく、特に守護十三将に関しては仲間から託されたり協力したりして育てた子らが半数に近いほどだ。とはいえ、エイク支配下の枠に入れて育成されることによって成長ボーナスを上手いこと得ていたパターンも多かったため、お互いに利を得ていたのだとも評せるだろうか。
改めて皆を見やる。託されたものの代表格たる十三将、その背後には友人たちの姿が見える。それは幻影だが、区別する必要などあるだろうか? 懐かしさのままでいいのではないか。過去の温かさであっていいのではないか。この先には……ただ冷たさしかないのだから。
ならばせめて、このかすかな篝火にだって埋もれさせてほしい。
「ほら……。みな、おいで。もっと近くへ。今日だけは、誰も遠慮することはない。ピアもアルルも、キュー君も。そばに、おいで」
そうエイクが声をかければ、イルカのキュー君は何らかのスキルを使ったのだろう、身を宙に浮かせ、そのくせ妙にビチビチっとした動きで寄ってくる。また、他の皆も、なるべく身を寄せ合うことを判断したのか、巨体が基本の子らも極力サイズを縮めていた。人型女性体のピアとアルルに関しては倫理規定などあるため体をべったりとくっつけるようなことはないが、それでも近くに侍って座り、手を丁寧に寄り添わせてくれた。
少しずつ、包まれるように、毛皮に埋もれる。なるべくなで返してやりたいが、だんだんと手が上がらなくなってきていた。それでもこの温かさはよいものだった。これならきっと、凍えないだろう。
「みんな、ありがとう。ここまで、ずっと……。ありがとう」
言葉に出来る内に。それを告げておく。別れの言葉は感謝とともにありたかったから。
そして不思議と……ちゃんと吐き出せたことで胸のつかえが下りたかのように。すっと気楽になれた。と同時、すっと虚脱が深まった。眠気が重い。
最期だ。ならば、誰もが迎えるその時に、自分は孤独ではないことをそっと抱きしめて。
もし告げられる言葉がなおもあるならば、一言でいいだろう。
「おやすみ……なさい」
きっと、それだけで。
沈んで、ゆく……。
◆
終われるべき時に終われることこそが幸福であろうか。
しかし、誰も知らない。
この時、この場、この配剤において。
天の星々の大いなる配置が、その重力構造が。この時に重なり行われていた、次世代大型粒子加速器が衝突させた超高エナジー帯素粒子生成実験、その余波が。電脳ダイヴシステムに仕込まれていた、脳量子情報体の長期多量観測による復元的データ化、その大規模転写ギミックが。そして、死の刹那、“質量依存からの解放”とでも呼びうる、ナノセコンド単位下における“瞬間”と。そこに連なってしまった“向こう側”の低位差がもたらした、擬似的な吸引力が。
様々な偶然と必然が。
彼がただ終われるままに仲間たちと同じところへ旅立つことを許さなかった。
導かれた先の地は、彼にとっての救いだろうか?
それとも…………。
活動報告のほうにちらっと裏話的なこと書いておくかもしれません。