篠田監物2
「さて」
監物は座り直して村山を見る。
「お前さんはどこまで知っている?」
「と言いますと?」
「両親のことをだ」
村山は相手の視線をかわした。
「それなりに」
「なれそめや、そんな事は?」
村山は仕方なく口を開いた。
「身寄りのなかった母は金欲しさに院長と結婚して、冷え切った夫婦関係のまま、精神に異常をきたしてあえなく交通事故で死んだ、と」
「誰がそんなことを吹き込んだのかね?」
監物は呆れた顔で村山を見た。
「俺に直接そんなことを言った人はいませんでしたが、親戚の集まりや、看護師さんや先生たちが陰で話をしているのを何度か盗み聞きしました」
彼らは村山に優しくはあったが、彼がその場を離れると、すぐに噂話を始めた。
だから嫌でも耳に入った。
「誰も、本当のことをきっちり話した者はいなかったのか? 正月とか、墓参りとか、いくらでも親戚から話を聞く機会はあったろうに」
もちろん一度もない。だからこそ、子供に話してはいけないような嫌な事があったのだと村山に連想させた。
「まあ、村山の一族は沙結さんのことを嫌っていたし、修造もあの通りの不器用な男だから、そういう会話にはなりにくかったとは思うが……」
監物はため息をついた。
「この歳になるまで知らなかったというのは、周りの責任だ。わしも含めてだが」
村山は顔をしかめる。
「今更知りたくもないので、あえてお話し頂く必要はありません」
「お前が村山というだけなら、わしも言いづらい。しかし、お前は既に桐原の一族でもある。だとすれば、わしの責任は数年前よりさらに重い」
「責任なんて感じていただく必要は……」
「もう、四十年以上も前になるかな、修造が運転していた車の前に、少女が飛び出してきたのは」
村山の言葉を聞いていないかのように、監物は勝手に話を始めた。
「幸い、車には当たらなかったが、少女は衰弱していて意識を失っていたので、修造は一緒に乗っていた史朗と二人で病院にかつぎこんだ」
史朗というのは義父のことだ。
彼をファーストネームで呼ぶ手合いにはあまり出会わないので、少し新鮮な感じがする。
「まだ二人ともペーペーで、病院についてからも、ただオタオタしておっただけだったが、とりあえず少女は身体的には栄養失調が見られた程度で特に異常はなかった」
監物は腕を組んだ。
「だが、心の方には問題があった。彼女は自分の事を何一つ覚えておらず、しかも病院を離れることを異常に恐れた」
その話は少し知っていた。
わざと修造の乗った車に飛び出して責任を取らせようとしたのに、車にはねられなかったので健忘症の振りをしたと小学生の頃に親戚が話しているのを聞いたことがある。
「彼女は解離性健忘と診断された。心的外傷が強く、何かに怯えていると精神科医も言っていたが、修造は事故の際に頭を打ったのではないかと酷く心配してね」
健忘症には一過性のものと、ずっと自分の事を思い出せないケースがあるが、この場合は後者だ。
「車には当たらなかったのでしょう?」
「車に驚いて倒れたのだから、自分が悪いと修造は言っていた」
眉をひそめた彼に構わず、監物は続けた。
「まあ、そういう訳で修造と史朗は少女を献身的に看護した。名前も覚えていなかったので、史朗が仮につけたのが沙結だ。ジュースよりも白湯が好きだからと言うのが理由らしい」
何がおかしいのか、監物は笑った。
「あれだけの美貌で、年齢的にも二十歳前後、警察が調べれば身元はすぐにわかるだろうと思われたのだが、ところがどっこい、いつまで経ってもどこの誰かがさっぱりわからない。言葉は標準語、日常生活は普通に営めるし、本も読めるし知識もある。だが、自分の事だけはわからない」
監物はにたりと笑う。
「で、修造がベッド代を払って、半年ぐらい入院をしていたんだが、それはそれで大変だったよ。儚げな美人で、素直で従順で、彼らだけでなく、沙結さんに惚れた病院関係者はわしが知ってるだけでも両手に余る」
村山は眉を寄せた。
「彼ら、とは?」
「修造と史朗だよ。ま、惚れた腫れたは別としても、特に三人は仲が良く、彼女が元気になってからも一緒にいるのをしばしば見た。三人は良く、桐の側で語らっていたっけな」
「……桐、ですか」
「ああ、お前さんの家の庭にあるだろ、あの桐だ。あの子はあの木が好きだった」
「……へえ」
「沙結さんは狐が怖いとか言って、絶対にこの近辺から離れなかった。逆に桐原の庭は落ち着くと言ってよく遊びに行っていたんだ。確かにあそこは誰にとっても心の落ち着く風景だし、主治医もそれを勧めた」
そういえば、母の数少ない写真の背景は全てこの町の風景であり、特に桐原の庭が多かった気はする。
旅行先などは一つもなかった。
「それにしても狐が怖いって、どういう意味です? 犬とかじゃなくて?」
「わからない。トラウマとなった元の恐怖対象を、そういうイメージに変換しているのではないかと、あの頃の精神科の部長は言ってたが、本当のところは今でも不明だ」
監物は微かにため息をついた。
「そういう言動こそ、くそ真面目な村山一族が嫌ったところではあるが、ともかく急激に彼らは仲良くなり、やがて退院後に住む場所が必要だろうと、すったもんだの末に桐原邸に部屋を借りることになった。通信教育などで資格を取ろうとするなど、普通に生きていけるような基盤を彼女自身も作ろうと頑張っていたのをわしも知っているし、陰ながら応援もした」
村山が黙っていると、監物は頷いた。
「そうだな、すったもんだの話もしておこう」
別に聞きたくもなかったが、仕方なしに村山は耳を傾ける振りをする。
「あの頃はまだ婆さんが元気で……そう、史朗の母親のことだが、彼女が沙結さん嫌いでな、同居など史朗の縁談に差し支えるから駄目だとか何とか言って大騒ぎしたんだ」
監物が顔をしかめた。
「どうしてかあの子はそこそこ男には好かれたがナースを始め、女にはとことん嫌われてな……頭も良く、理知的ではあったが、相手の立場や状況を把握するのが苦手だった。いわゆる空気が読めないというタイプじゃ」
村山は微かに目を細めた。
どうやらその性質は遺伝らしい。
「なので、桐原邸に住んでからも、婆さんは神経質なぐらい目を光らせていた。だから史朗にとっては、自宅の方が下手に独り暮らししているよりも手出しができんかったろう。そしてそうこうするうちに、焦った修造が先に沙結さんを射止め、そうしてできたのが澄恵だ」
村山は目を伏せる。少なくとも彼の両親が彼に何かをしてくれた事を挙げろと言われれば、姉を産んだという事実が全てだ。
「修造は沙結さんにベタ惚れだった。だから一族が子供を堕ろせと迫ってもがんとして断り、勘当されても構わないとまで言い切って籍を入れた。もちろん、そこに至るまでには就籍許可申立やら何やらハードルはさらにあったんだが、まあそれはいいだろ」
その話は誰かに聞いた気がする。
「だが、実際に結婚してからは、それまでのような訳にはいかなかった」
監物はため息をついた。
「次期病院長の器だと言われていた修造を勘当しこそしなかったが、逆に沙結さんに未来の病院長夫人としての教養や素養を周りは求め、それが不足していると言っては彼女をなじった。あれほど仲が良かったのに二人がどんどん離れていったのは、それでなくとも神経の繊細な沙結さんがそういうことに耐えられないタイプだったからかもしれない」
村山は心の中で首をかしげる。
彼が見たアルバムの女は、明らかにそういうタイプではなかった。
夫婦関係が冷えていたことは、笑顔の写真が一枚もなかったことから容易に想像はつく。
だが、あの挑むようなまなざしは……