プロローグ
雲一つ無い晴天。
その蒼穹の中を一つの黒い影が、悠然と泳いでいる。
1メートル程の大きさの鷲のような猛禽類である。
一人の男が眩しげに目を細め、その姿を眺めていた。
辺りには苔や草木が生い茂げ、朽ち果てた建物が建ち並ぶ。
男はその中で、一番大きく、立派な建物の頂上にそびえる見張り台の上に立っている。
今は、 この朽ちてしまったこの建物も建てられたころは、さぞかし立派な建物だっただろうという事は、容易に想像出来る。
心地よい爽やかな風が、建物や草木を優しく揺らし、吹き抜けて行く。
その一瞬の風に、撫でられた葉っぱの表面に、太陽の光が反射し、それは、まるで、薄いクリスタルかのようにキラキラと輝いている。
柔らかい風が男の紺色の髪を優しく揺らす。
日焼けした首筋に、髪の毛先が当たり、鬱陶しいのか、男はサイドの髪を耳にかける。
男はずいぶんと印象に残りやすい顔立ちをしている。
まず、目に付くのは、優しげな目であろう。
彼の顔のバランスを考えると、若干、 鼻が高すぎる気がするが、その目尻の下がった特徴的な大きなタレ目のおかげで、高すぎる鼻が絶妙に調和されている。
ちなみに、輪郭と口元には、これといった特殊はない。
人の良さそうな顔立ちをしている。
背は少し高いが、実に平均的な体型だ。
服装はモスグリーン色のコートに、白いのシャツ、紺色のズボンという、これまた、特殊のない格好だ。
男はまだ、上空を見ている。
一一突然、なんの前振りも無く、それまで吹いていた穏やかな風がピタリと止んだ。
次の瞬間、ゴオッという、音と共に突風が吹き抜けて行く。
男は咄嗟に手で顔を庇い、俯く。
着ていたコートの裾は大きくはためき、髪の毛が乱れる。
文字通り、一瞬の出来事だった。
突風は文字通り突然現れ、瞬く間に過ぎ去って行った。
男は慌てて、空を見上げる。
猛禽類は何事にも無かったかのように、美しい弧を描きながら、優雅に飛んでいる。
猛禽類の無事を確認した男は、安心したのか、ふぅーっと、小さく安堵の息を吐いた。
猛禽類は円を描きながら、空高く、舞い上がって行く。
その姿は、さながら、美しい絵画の様だ。
男はその様子を只々、見つめている。
一一その時だった。
バタンっという、大きな音を立て、荒々しく扉が開いた。
「こんな、所にいたんですか!先生!」
赤毛で褐色の肌の若い女性が、扉を開けた轟音にも、負けない位の大きな声をあげた。
少し、腹を立ているようだ。
小さな顔には、大きなパーツが配列良く並んでいる。
その中でも、目がこぼれ落ちそうなくらい大きい。
細身で背が高く、スタイルの良い美しい女性だ。
ベージュのコートを羽織り、その下には、アイスブルー色のシャツに、白いズボンという格好をしている。
振り返った男は苦笑し、優しげに微笑みかけた。
そんな男の様子を気にも留めていないのか、若い女性は膨れっ面を浮かべたまま、大きな歩幅で近づき、男に向かい合う。
「せ、ん、せー、そろそろ、時間だっていうのに、こんな所でサボっていたら、ダメじゃないですか!」
若い女性は上目遣いで、男の顔を見つめる。それは、まるで、子供を叱る教師のような口調だ。
男は楽しそうに、声をあげて笑う。
「まるで、教師と生徒が逆だな」
男の全く反省の無い素振りに、若い女性は益々、むくれる。
「先生がそんなんだから、色々、言いたくもなるんですよ!助手である私の仕事をこれ以上、増やさないで下さい!」
若い女性はそう言うと、男の腕を掴み、扉に向かって歩き出す。
「分かったから。引っ張らなくても、自分で行くよ!」
助手の行動に戸惑っているのか、男は、上擦った声を上げた。
「ダメです!逃げようとしたって、そうはいきません!」
きっぱりとした口調で、そう言い切った助手は、一向に手を放す気配は無い。
三文芝居の台詞だな。そんな事を思ったが、口にすると、また、助手の怒りをかうという事が、火を見るよりも明らかなので、黙っている事にした。
少し、からかってみたい気もするが……男が、ほくそ笑む。
男の手を引いている助手には男の姿を見る事など、当然ながら出来ない。
その為、男がそんな不快な笑みを浮かべいるという事は、勿論の事、内心、そんな、ふざけた事を考えているなんて、思いもしなかった。
助手が扉の前までたどり着き、取手に手をかけ、軽く押すと、扉は簡単に開いた。
(いつも、こんな風に優しく開け閉めしてくれると、有難いんだがな)
彼女は勢いよく扉を開閉する癖がある。
扉の閉まる大きな音は結構な騒音だ。彼女自身も気にしているらしく、何度も治そうとしているが、中々、難しいらしく、苦戦している。
苛立っていると、よくやってしまうらしく、その度に落ち込んでいる。
男も初めは注意していたが、ため息をつく助手の姿を、何度も見るうちに、何だか、可哀想になってしまい、注意しなくなってしまった。それが、助手の為にはならない事だと、分かってはいるが、つい甘やかしてしまう。
助手が扉を潜り、男もそれにつづく。
不意に男が振り返り、空を見上げる。
もう、点にしか見えない猛禽類を、一瞥し、扉を潜る。
守ってくれるものが、何に一つ無い大空を、舞う孤独の鳥を……。