女王様と旦那様の馴れ初め
すがすがしい朝だ。
寝室の窓から朝日が差し込み、天蓋がそれを和らげて寝台に届けている。
二度寝も大変魅力的だが、明日は家族で朝食を、と昨晩娘に念を押された。
そろそろ起きなくてはならない。
となりには、寝息を立てる夫サージャンがいる。
色素の薄い、まるで金の絹のような髪をシーツの上に無造作に投げ出している。
いつも控えめに私を見つめる神秘的な紫の瞳は、今はまぶたの下だ。
長くて密なまつ毛は下まぶたに濃く影をつくるほどで、少しうらやましい。
(よく眠っている。起こすのは忍びないな。)
褐色の肌はさらさらとして、触れると心地よい。誘われるように、指の背でそっと頬をなぜた。
するとまつ毛がふるえ、ゆっくりとまぶたが開く。
「…へいか?」
寝起きで虚ろな瞳が私を探してさまよう。
「おはよう」
おはようございます、とあくびを漏らしこちらにすり寄ってきた。まだだいぶ眠そうだ。
むき出しの肩に手を置いて、額にそっと目覚めの口づけを贈る。
「朝食に行こう。遅れるとベルが怒ってしまうよ」
金の絹髪に指を絡ませ、互いの頬を寄せるように耳もとで囁いた。
ぷんぷんと怒る娘を想像したのか、サージャンはくすくすと笑っている。
「それはいけませんね。こちらまで起こしにきそうだ」
着替えるために上半身を起こすと、後ろから腕が回り、ゆるやかに腰を拘束された。
近づく気配に目を閉じ、先ほどの口づけへのお返しを、甘く甘く、唇に受けた。
* * *
「おはようございます、母上、父上」
「おはようございます。お二人とも時間に間に合って何よりですわ」
遅れるようなら寝室に起こしにうかがうところでした、とは件の王女ベルだ。
先にあいさつをした双子の兄サフィが、苦笑いで席に着く。
予想通りの娘に、女王夫妻も笑いを禁じ得ない。
「あれ、俺が最後か」
赤毛の青年が、入口からひょっこり現れた。
「おはよう、リューダス。鍛錬してたのかい?」
「まあ、軽くね」
父に答え、リューダスはタオルで汗をぬぐいながら椅子を引いた。
「休日なのに精が出ますわね、お兄様」
「はは。どんどんすごい新人が入ってくるから、気が抜けないのさ」
今年の新人騎士もなかなかだぞ~、との兄に、サフィも興味をのぞかせる。
侍女たちが料理を運ぶ間にも、兄妹たちの会話ははずんだ。
両親はそんな子供たちを微笑ましく見守っている。
王族一家の暖かな空気が侍女に伝わり、料理人に伝わり、ついでに侍女とすれ違った下働きにも伝わって、一時王城全体に広まった。
食事が終わり、紅茶で一服していると。
「そういえば、今日はフィーが来るんだったな」
子供が生まれてから会うのは初めてだ、と女王。サージャンが頷く。
「フィーは昼過ぎに来て、今夜は城に泊まるそうです。
私たちが孫に会えるのは、もっと大きくなってからですね」
リューダスがにやにやし出した。
「こりゃ、レドナがそわそわしちゃうな~。非番だし、からかいに行くか」
レドナとは、フィーこと降嫁した第二王女フィリシュペルの、元護衛騎士だ。長年フィーの護衛を勤めていたが、主の降嫁により護衛騎士を解任され久しい。レドナは三年以上フィーと会っていないはずだ。
見た目のとおり好戦的な男だから、ちょっとつつけば面白いくらい反応してくれるに違いない。
「「他にやることないんですか(ですの)」」
「…ほ、ほどほどにね(レドナかわいそうに)」
「はっはっは」
呆れる双子、レドナに同情する父、他人事な母である。
「なんにせよ、今日は政務を早く済ませて、夜皆でゆっくりしたいな」
女王の言葉に、サージャンとサフィが強く頷いた。
* * *
非番のリューダスと魔術研究を一日休んだベルが、フィーと午後のお茶を嗜んでいたころ。
女王夫妻とサフィは怒涛の勢いで政務をこなしていた。
なにがなんでも夕食に間に合わせたい、という三人の気迫に、配下の者たちは恐れおののいたという。
そして夜、見事政務をこなした三人が夕食の席に合流した。
「お久しぶりです」
お疲れでいらっしゃいますね、とフィーが心配そうに声を掛ける。
『月の妖精』の儚げな可憐さは、母となった今も健在だ。金の髪と瞳が部屋の灯りに淡く輝いている。
末姫との久しぶりの再会に、三人の仕事疲れはだいぶ癒された。
おのおの自分の椅子に座ると、すでにテーブルに用意されていたグラスに水が注がれる。
「お前こそ、遠出して疲れているだろう。昼はゆっくりできたか?」
「ええ、ずっとお茶していましたもの。むしろ元気なくらいです」
ね、お姉さま。とベルにほほ笑む。
「…」
フィーはベルと同様お茶会に同席していたリューダスには目もくれず、華麗に無視した。
自分のかつての護衛騎士が兄の暇つぶしの犠牲となったことを知り、ご立腹なのだ。
目を合わせてくれない妹に、落ち込む長兄。しょんぼりと野菜をかじっている。
「自業自得ですわ」
「兄上…」
さらに追い打ちをかけるベル。サフィはそっと兄の肩を叩いた。
リューダスは妹たちを溺愛しているが、ベルとフィーはそんな兄の愛を時々うっとおしく感じている。
「フィー、ロロナーダ当主は変わりないか」
フィーの夫の話題になった。
「特に変わりありません。…ああでも子供ができてから、前より真面目になったかしら」
「へえ。あの彼が…」
サージャンは話題の人物を思い浮かべて、驚いた声を出した。その隣で女王が琥珀色の酒を傾けながら、ほう、と面白がっている。
フィーとの婚約当時、南の大貴族ロロナーダの当主は社交界で浮名を流しまくっていたのだ。いくら家柄がよくとも、娘を嫁がせたくない男、と貴族の間でかなり有名だった。
「ロロナーダはフィーが選んだ相手ですもの。わたくしは最初から心配してませんわ」
ベルが、ふふん、と顎を反らす。自分を信頼してくれている姉の態度に、フィーは笑みを漏らした。
「あの頃は、夫婦といえばお父様とお母様のような感じなのだと思っていました。
ですから、お母様がご自分でお父様を見つけたとうかがって、わたくしも夫となる人を自分で見つけようとしたのです」
「…それでロロナーダがいい、って言われた時は、肝をつぶしたけどね」
サフィは乾いた笑いを浮かべている。
サージャンが食事の手を止めて、フィーを見た。
「彼との婚約には私も驚いたけれど……、あれは陛下と私を参考に?」
「はい」
フィーは笑顔で応えた。女王が酒の杯を置いて頷く。
「フィーに聞かれてな。出会った時の話をしたんだ」
女王の杯が空になったのか、いつの間にか侍女が酒瓶を手に傍に控えていた。すぐさま杯を酒で満たすと、音もなく壁際へ下がる。さすがは女王付きの侍女。部屋の空気に徹する、完璧な仕事ぶりである。
女王は酔った素振りもなく、もう何杯目になるのかわからない酒を煽った。現王族中、一番のザルなのは間違いない。
「そうか、父上は小貴族の出だから、ふつうは王族との婚約者候補に上がらないもんな」
肉料理をつまみに赤い果実酒を飲みながら、リューダスが口を開いた。ほんのり顔が赤い。今まで黙り込んでいたが、酒が進むうちに元気になったようだ。
「そうだよ。陛下が街で私を見つけて、婚約者にしてくださったんだ」
そう言って、サージャンは愛しそうに女王を見つめた。女王も、夫にやわらかく微笑み返す。
「はぁ…素敵ですわね~。まるで恋愛小説のようですわ」
「…」
果物片手にうっとりと頬を染めるベルに、兄ふたりは「お前が言うか」という視線を向けた。
「懐かしいな、本当に…」
女王は手の中で揺れる琥珀色を見つめ、遠い昔に思いをはせた。
* * *
女王フェンリュシカがまだ十代半ばの王女だった頃。
父であるマクスランド王は病床にあり、王位を譲るのは時間の問題であった。
当時王位継承権を持つ者は四人。王弟、第一妃の子である第一王子、第二妃の子であるフェンリュシカ王女、その同腹の第二王子である。
継承順位からすると次の王は王弟なのだが、王弟は第一王子を王にと推しており、実質継承権を放棄している状態だった。
第一王子はお世辞にも賢いとは言いがたいが、それは王弟も知った上での推薦なのだ。
(あえて凡庸な者を王に据え、影から傀儡のように操る、か)
過去にも同じような事例はあったと聞く。だが、
「どー考えても、第一妃のおねだりだよねぇ。息子を王にしたいのぉ!ってさあ」
「でしょうね」
「叔父上、ぞっこんだからな」
女声で第一妃の物まねを披露したのは、第二王子ヘンリーである。夕日色のクセのある長い髪を揺らし、金にも見える黄褐色の瞳をうるませて第一妃を熱演した。
彼は姉であるフェンリュシカ王女の執務室を訪れていた。部屋には姉の護衛騎士ダグラスもいる。
ダグラスは灰色の髪を後ろに撫でつけた、黒い瞳のいかつい騎士である。
いつもなら部屋の隅に給仕をする侍女も控えているのだが、話の内容が内容なので今は退室させている。
ヘンリーはまるで部屋の主であるかのように、応接用のソファでくつろいでいた。手には繊細な花柄のティーカップを持ち、退屈そうにスプーンで紅茶を波立たせている。
そして飽きたのか、冷めてしまった紅茶を一気にあおってカップを置いた。
すっくと立って部屋の奥へ歩いていき、姉が執務中の仕事机の前で足を止める。
ダグラスはその行動を訝しむも、ヘンリーが口を開くのをじっと待った。
「…ねえ、フェン姉上。僕こう見えて愛国心はあるんだよ」
片手を机につき、机を挟んで座っている姉と顔の距離を詰める。
「姉上が王になるべきだよ」
珍しく真剣な顔で言う弟に、フェンは書類を書くペンを置いた。
「突然どうしたんだ」
王弟の後ろ盾がある以上、次の王は第一王子に決まったようなもの。
この流れに逆らおうなどと…。
「第一王子はバカだし、叔父上も奴を完璧に操れるわけじゃない」
叔父上ってそこまで優秀じゃないしね、と肩をすくめる。
「今は大丈夫でも、この先、絶対壊れるよ」
この国は。
「…っ」
黙って話の行方を見守っていたダグラスが、息をのんだ。
ヘンリーは、姉上だってそう思ってるはずだよ、と続ける。
フェンは弟と見合ったまま、肯定も否定もしない。
しばらく黙ったあと軽く息を吐き、目を伏せ、「お前は、」と声を発した。
「お前は…私が王に向いていると思うか?」
聞かれたヘンリーは考える様子もなく、
「さぁね、わかんない。でもあいつらよりはマシでしょ」
両手を頭の後ろで組んで、いつもの軽い調子で言ってのけた。
横に控えたダグラスが、「そんな適当な…」と呆れかえっている。
こんな話の時もいつもどおりな弟に、フェンは笑いが込み上げてきた。
なぜか笑い始めたフェンに、ふたりの視線が集中する。
それでもフェンの笑いは止まらず、ひとしきり笑ったあと。
目尻に涙をためながら、ダグラスを見て、ヘンリーを見て、強くうなずいた。
姉の決意を見て取ったヘンリーは、そうこなくっちゃ、と嬉しそうに笑った。
すると、その笑みが一瞬にしてたちの悪そうなものに変わる。
…これは絶対になにか企んでいる。姉にはわかる。
「…あまり危ないことはするなよ」
止めてもやめないだろうからな、とため息交じりに告げた。
ヘンリーはそんな姉を見て満足げに微笑むと、すぐさま踵を返し、
「じゃね、ダグラス」
と、足早に部屋から出ていってしまった。
「ヘンリー王子は何かする気なのか」
一人いなくなっただけで急に静かになった執務室で、ダグラスは主人に話しかけた。
この騎士、ヘンリーや他の王族には丁寧な物言いをするのだが、主人であるフェンには敬語を一切使わない。
「ああ。何かするな、あの顔は。
あれは頭が切れるから、心配いらないとは思うが…」
自分と同じ色の髪と瞳を持ち、幼いころから「姉上」と慕ってくれる弟だ。どんなに立派に成長しても、全く心配しないというわけにはいかない。
弟を想う気持ちをひとまず頭の隅に追いやると、フェンは仕事机に両肘を突いて手を組んだ。
「考えるべきは、あれがどう動くかではない。あれの目的はわかっているからな。
それよりも…、私が王位を継ぐとなると、こちらには足りないものがある」
ダグラスは顎に手を当てて思案顔になった。
「…信頼できる配下、か。執拗に命を狙われたとき、護衛が俺ひとりでは危ないだろうからな。
それについては騎士団に心当たりのある奴がいるから、当たってみる」
フェンは継承順位が低い上、王女ということで、今まで暗殺の対象になったことがない。だがひと度叔父と兄に逆らえば、その瞬間から命を狙われることになるだろう。護衛は多いに越したことはない。
護衛騎士は王族の身辺警護という職務上、他の騎士と交流が少なくなりがちだが、ダグラスは新人時代の同期をはじめ騎士団とのつながりを大切にしている。新しい護衛の件はダグラスに任せてよさそうだ。
「あと宰相は……ヘンリー王子は、………無理か」
「無理だ」
フェンは即答した。ヘンリーは誰がどう見ても、宰相というタイプではない。
現在の宰相をそのまま続けさせたいのは山々だが、奴は異常といえるほど国王一筋。自分の側近にする人間は他に探しておきたい。
フェンは正直、今日ヘンリーに王位を勧められるまで、本気で王になろうと思ったことはなかった。
第一王子はともかく、王弟ならそこそこ国を治められるだろうし、自分は王女だから、今は政務に関わることができてもいずれ降嫁させられるものだと。
だから、王弟が第一妃と不義を重ねていることを知りつつも、父王に進言することはなかった。
第一王子が無知ゆえに謁見に来た貴族の怒りを買ったときも、妹の言葉に耳を傾ける兄ではなかったため、ひそかに謝罪の手紙を贈るにとどめた。
そうやって、王弟や第一王子に疎まれないよう、大人しくやってきた。
心のどこかでもどかしく思う自分を、ごまかしながら。
「よかったな」
ダグラスが唐突に言った。
ヘンリーのカップを侍女に片付けさせようと呼び鈴に伸ばしかけた手を引いて、傍らに立つ護衛を見上げる。
「すっきりした顔をしてる」
「……そうか」
ヘンリーもダグラスも口には出さないが、フェンのもどかしさを感じ取っていたのだろう。
「…心配をかけたな、ダグラス」
「!」
ダグラスは一瞬驚いた顔をすると、安堵したように肩の力を抜いた。
* * *
さて、目下の問題は宰相探しである。
王弟らの息がかかっていない有能な人間を、知られないよう味方に引き入れなければならない。
有能な人材は王城にもいるにはいるのだが、王城内部はどこに王弟の手の者が潜んでいるか知れない。そのため、いくら有能でもその辺の役人に迂闊に声を掛けるわけにはいかなかった。かといって、王城の外に伝手があるはずもない。
めぼしい人材が見つからないままひと月が過ぎ、フェンとダグラスは頭を抱えていた。
「わ~…お疲れだねぇ」
そう言ったヘンリーを、フェンは軽く睨んだ。
この弟は、宰相探しに協力する気は一切ないらしい。執務室での密談以後、フェンたちとは別行動をしている。
本日は庭園で政務の休憩中、偶然にも散歩中のヘンリーと顔を合わせたのだ。フェンはダグラスを、ヘンリーは侍女をひとり連れている。
ヘンリーは姉の鋭い視線を遮るように体の前に手で壁をつくりながら、噴水の近くのベンチに座った。フェンに隣を示して、ここに来るよう言う。
ここは水の音で話し声がかき消されるため、盗み聞きされる心配が少ない。昔ふたりで内緒話をするときよく使った場所だ。
ヘンリーの侍女は、何も言われないうちに、すっとその場を離れた。近くの護衛はダグラスに任せて、周囲を警戒するためである。相変わらず隙の無い動きだ。
ヘンリーが口を開く。
「いい人、見つかりそう?」
「…まだ」
そっか、と相槌を打って、ヘンリーが空を仰いだ。青い空に、小さく雲が浮かんでいる。
ふたりが黙ると、噴水の音が大きく聞こえた。
「…ね、姉上。城の図書館に行ってみなよ」
「図書館?」
「そう。あそこ、役人はほとんど使わないし。
そんなとこに連中の目があるとは思えない。それにさ、」
ヘンリーはダグラスにも聞こえないよう顔を近づけ、
「たまには息抜きも必要だよ」
と悪戯っぽく笑った。
その日の夕方。
弟が突然勧めてきたのが気になって、王城の西側に建てられた塔へ向かった。
王城図書館はその塔が丸ごと書庫となっていて、身元が確かであれば、平民貴族に関わらず誰でも利用することができる。
ダグラスに言って窓際の、人目につかない席を確保させた。フェンは図書館を歩き回り、歴史書の棚からぶ厚い朱色の背表紙の『大陸起伝記』と、ついでにその隣の古ぼけた薄本を手に取って席に着く。
窓からは、夕日に照らされた遠くの山々が見える。辺りに満ちる静寂と本のにおいはなんだか落ち着けて、フェンは嫌いではない。確かにここは、息抜きにはもってこいだ。
もしここに訪れる役人がいたとしても、王弟の手の者である可能性はほぼない。王弟の取り巻きは平民蔑視の輩ばかりで、平民が出入りする場所には近づきもしないからだ。
昔弟にせがまれて何度も読んだ『大陸起伝記』を捲りながら、フェンは健勝な頃の父王を思い出していた。身分に関わらず、優秀な者によって国を栄えさせるのが夢だと幼い娘に語る姿はたくましく、威厳の光に満ちていた。病に侵され、痩せ衰えた今の父からは、もはや想像もつかない姿だ。
ぱらぱらと読む気もなく捲っていると、やがてページがなくなった。ぱたり、と音を立てて伝記を閉じると、片手ですべらせて脇によける。肘をついた片手にだらしなく顎を乗せ、空いている手でもう一冊を引き寄せた。
本当についでに手に取った薄本は、表紙のすみれ色が古くなって色あせている。背表紙もそうだったが表紙も無地で、中身についての情報が一切なかった。明らかに歴史書ではない。別の本棚から紛れ込んだのだろう。
フェンは表紙を開いた。中のページの保護のためなのか、向こう側がうっすら透ける白布が現れた。
それも捲って見開きにたどり着くと、急に鮮やかな藍色が広がる。
夜空だ。
砂粒ほどの星が光って、ページ全体に散らばっている。しかも、その光は時々瞬いている。
ダグラスが星に気づいて、後ろから本を覗き込んだ。
「これは!魔術か?」
「ああ。……表紙の中の布、レミスタの国章が刻んである」
白布を夕日にかざすと、魔法国家レミスタの国章が現れた。この本は、レミスタ製の魔術絵本のようだ。
フェンは本をひと通り観察して危険な術が施されていないことを確認すると、夜空を捲って次のページへ進んだ。
ダグラスはまだ警戒しているのか、フェンの背後から離れず本を注視している。
「…?」
次のページは白紙だった。数秒待っても何も現れず、さらにページを捲ろうとするが、
「捲れない…」
残りのページが固定されたように動かない。
いったん閉じて、また開いてみたが同じだった。
「どういうことだ?」
「…わからん」
結局、何をしてもそれ以上先は見れず…。気付けば外はもう日が沈もうとしていた。
どうにも腑に落ちなかったが、フェンは続きを読むのを諦めて執務室へ帰ったのだった。
* * *
湯浴みを終えて私室へ入ると、窓から月明かりが差し込んでいる。
ランプを用意しようとした侍女に灯りはいらないと伝えると、侍女は優雅に礼をして退室した。
フェンは寝る前に読書でもしようと、窓際の机に向かった。この部屋の机は執務室のものと違い小さく、白い木製の椅子と揃いの作りになっている。月明かりに照らされて、机と椅子が部屋に青白く浮かび上がった。
机の上には読みかけの魔術書が数冊と、その上に一冊、色あせたすみれ色の薄本が無造作に置かれている。例の魔術絵本である。
読めないとはいえ気になって、つい持ってきてしまった。
レミスタの魔術士が作ったとなると、やはり凝った仕掛けがあるのだろう。
(呪文が必要とかだろうか)
フェンはまたすみれ色の表紙を開いて、夜空の見開きを出した。
「!…月が」
星しかなかった夜空に、月が現れていた。今本物の夜空に出ているのと同じ、まるい葉の形をしている。
星は自分たちで光っているが、よく見ると、月の絵だけ本物の月の光を受けて輝いているようだ。
他に変化はあるかと試しに残りのページを捲ってみると、すべて読めるようになっている。先ほどはあった白紙のページももうない。
月の光が、読むための鍵だったのだ。
フェンは夜空を捲ってページを進めた。
白紙だったそこには、夜の城とひとりの女性が描かれている。女性は城の姫といったところだろうか。月のような金髪にすみれ色の瞳で、夜色のドレスを着ている。
さらに捲ると、昼の城にひとりの若者が現れた。こちらは赤毛で、騎士の風体だ。
ふたりはある晩恋に落ちるが、姫は夜、月明かりのもとでしか姿を現せない。昼は別の世界へ帰ってしまうため、騎士とは時間の流れさえも異なるようだった。自分より早く年を取る騎士を見て、姫は嘆き悲しんだ。
騎士は姫と同じ時間を生きるため、月に願った。姫が昼もこちらの世界にいられるよう、月の光を分けてほしい、と。月はそれに応え、月の一部を宝石に変えて騎士に与えた。
騎士は月の宝石で指輪をつくり、姫に贈った。指輪が姫の指におさまると、姫の夜色のドレスは見る見るうちに純白へと変わり、東の空から祝福するかのように朝日が昇った。
こうして、ふたりは昼も夜も共にし、幸せに暮らした。
(まあ、ありがちな物語だな)
最初の仕掛けがあまりに凝ったものだったために、肝心の内容が霞んでしまっている。こういう、やたら魔術にだけこだわっているところは、レミスタらしいが…。
「…?」
絵本を最期まで捲ると、はらりと一枚の紙が落ちてきた。最後のページに挟まっていたようだ。
『王都学校 学生証』
「サージャン・ナダ…」
* * *
「で、なんでわざわざ王都学校に来るんだ」
「気になるからに決まっているだろう」
翌日、フェンとダグラスは現国王が数年前に開いた王都学校を訪れていた。もちろんお忍びである。
ダグラスは騎士服ではなく私服で、フェンも動きやすいズボンとシャツを着て茶髪のかつらをつけている。
「なんでお前が、来るんだ!
俺が調べておくと言ったのに……、キースはどうした?」
「撒いた」
最初は一緒にどうかと誘ったんだがな、とこの主は平然と言う。
ダグラスは手で顔を覆った。
キースはダグラスが連れてきた新しい護衛騎士だ。今日がフェンとの初めての顔合わせで、午前中の政務はダグラスも付き添い、午後からはキースひとりで護衛を勤めることになっていた。就任初日から主人が行方をくらませるとは……、キースの心情やいかに。
辞めたいとか言い出したらどうすれば…、とダグラスは唸った。
フェンはそんなダグラスに気づかず、興味深そうに校舎を覗きながら言った。
「キースは少々真面目すぎるが、いい騎士だな。
お前が見込んだだけはある」
ダグラスの唸りがやんだ。
代わりに「ほだされては駄目だほだされては駄目だ」と呪文のようにつぶやき始めた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴り響き、校舎から生徒たちが続々と出てきた。生徒たちはたいてい簡素な白シャツと、ベージュのズボンかスカートを身に付けている。これは学校から支給されたものだ。
女子たちはシンプルすぎるとリボンを結んだり、色柄物の布を縫い付けたりしてそれぞれ楽しんでいるようだ。
フェンはダグラスの制止をものともせず、ひとりの女子生徒に近づいた。
「きみ、サージャン・ナダを知らないか?」
「え、サージャン?知ってます、けど…」
小柄な少女は、戸惑ったように答えた。フェンの後ろにいるダグラスを見て、明らかに警戒している。
フェンは少女から見てダグラスが隠れる位置にさりげなく移動し、警戒を解くようにゆっくりと、やわらかく言った。
「彼の落とし物を拾ってね、直接届けたいんだ」
そこに笑顔を付け足すことを忘れない。
少女はいかついダグラスの存在を忘れたかのように、フェンに釘付けになった。その顔は真っ赤に染まり、口がぱくぱくと動いている。
何も言わなくなった少女に、フェンが首を傾げた。さらりと茶髪が流れる。
それを見た少女はさらに赤くなり、
「か、彼は今日お休みで…!
ロロナーダ家のお屋敷にいますぅ!」
「え、おいきみ!」
…少女は突然走って行ってしまった。なぜだ。
礼を言い損ねた、と頭を掻く主人を、ダグラスはまじまじと見た。
フェンは父王に似てやや釣り目で、眉もきりりとして、中性的だが凛々しい顔立ちをしている。普段から男のような恰好を好むため、今着ている服も違和感はなく、むしろ様になっているような…。
そしていたいけな少女を一瞬で虜にする、計算なし、天然王族仕込みの振る舞い。
もうどこに向かっているのかわからない主人に、ダグラスは遠くの空を仰いだ。
「なにしてる、ダグラス。置いて行くぞ」
「っ護衛を置いて行くやつがあるか!」
* * *
王都の南を治める大貴族、ロロナーダ家の屋敷は貴族街にある。
ふつう貴族はそれぞれの所領に住んでいる。だがロロナーダのように力のある貴族は、政治の中心である王都にも屋敷を構えていることが多い。国の情勢を見極め、味方につくべき相手を判断するためだ。
王族はこうした貴族たちによって、常に秤にかけられているのだ。
「サージャンという男、明らかに小貴族の出だな。
ロロナーダの屋敷に住み込みで働きながら、学校に通っているんだろう」
勤勉なものだ、とダグラスは感心して言った。
大貴族は四家しかなく、中位貴族は過去に功績を立てた騎士や魔術師が所領を与えられ、貴族となった家系がそう呼ばれる。どちらも家名を聞けばあの家かと思い当たるものだ。
また、平民は家名を持たない。ということは、サージャン・ナダは小貴族だ。小貴族は王都から離れた土地を所領とする、中央政治への影響力が小さい貴族である。
礼儀作法を身に付けるためや生計を立てるために、小貴族の者が大貴族や中位貴族のもとへ奉公に出ることは珍しくない。
「ここがロロナーダの屋敷だ」
フェンは母の実家である西の大貴族、ユーリュセル家の屋敷を訪ねて何度も貴族街に来たことがある。慣れた足取りで迷うことなく目的地へ着いた。
屋敷の周りは高い生垣と、鉄の柵で囲まれている。それが途切れているところが花のアーチになっていて、南方に生息すると思われる色鮮やかな花が入口を飾っていた。王都でも咲くように改良された品種だろう。
ダグラスが辺りを見回した。
「門番はいないんだな」
「ああ、…おそらくあの鳥だな」
花のアーチに、数羽青い鳥がとまっている。これもこの辺りでは見かけない種だ。
父王の宰相が南方の出身で、彼は家族との手紙のやり取りにあの鳥を使っていた。賢い鳥なのだという。
言っているうちに、鳥が一羽屋敷の方へ飛んでいった。
「あれに呼ばれて使用人が来るはずだ」
「はあ、便利なものだな」
「まあそうだが…、私にはのん気に思える」
門番がいれば、いち早く訪問者に気付ける。フェンにはわざわざ鳥を待つ理由がわからない。
少しすると、ふたりのもとへ少年が走ってきた。
「お待たせいたしましたっ、当家にご用でしょうか」
ダグラスが手短に用件を言う。
「突然で申し訳ない。
実は、こちらの屋敷の方の落とし物を拾いまして」
「落とし物…。どのような物でしょう?」
「王都学校の学生証で、サージャン・ナダという方の…」
ダグラスは実物を出せ、と主人を振り返った。
「……」
「おい、フェン」
「……」
「お、おい?」
フェンは黙ったまま動かない。ダグラスが肩を強めに揺するが、反応がない。
使用人の少年が一歩前へ出た。
「あ、あの。私がサージャン・ナダです。
実は数日前から探していて…、私の学生証を拾ってくださったのですね」
ありがとうございます、と少年は笑顔で頭を下げた。
「本当に助かりました…!今度ぜひお礼をさせてください」
ダグラスはひとまず主人を放って少年・サージャンに向きなおった。
「いや、そんな大したことじゃない。気にしないでくれ」
話が大げさになりそうだったので、手でやんわり断る意志を示しながら慌てて言う。
「あの青い鳥、どうやって手に入れるんだ?」
フェンがしゃべった。
サージャンの視線が初めて発言したフェンをとらえる。
ダグラスはさっきの今なので、大丈夫かこいつ、という目を向けた。
「あの鳥は王都にはいないので…、捕まえるのは無理です。
南方からの商人が売ってはいるのですが、こちらではとても高価で「よし、買おう。商人のところへ案内してくれないか」
「はぁ!?」
フェンは鳥が手に入るとわかって、説明の途中にもかかわらず即決した。
鳥が高価だとばっちり聞いていたダグラスは、主人の唐突な散財発言に思わず叫んだ。サージャンはぽかんと口を開けている。
「話を聞いてたのかボンボンが!無駄遣いはよせ!」
「無駄ではない。必要なんだ」
「さっき、鳥を使うなんてのん気だとか言ってただろうが」
わけがわからない、とばかりにダグラスは喚いた。
そんな護衛を無視して、フェンはサージャンに話しかける。
「あの鳥、文通でも使えるのだろう」
「はい、よくご存じですね」
サージャンが先ほどの驚きから立ち直り、微笑んで答えた。
フェンはサージャンをまっすぐ見て、真剣な顔で言った。
「私はあの鳥で、文通がしたい。
文通相手になってくれないか」
ダグラスが二度目の叫び声を上げた。
* * *
その後。
外出許可をもらったサージャンに案内されて王都中心街に行き、フェンは宣言通り、商人から青い鳥を買ったのだった。
そして、フェンとサージャンの文通は実行に移された。
数か月たった今も、ふたりのやり取りは続いている。
「不思議な魅力のある人だよね、おまえの主人は」
サージャンは、あの日フェンが買った鳥の尾を撫でながらつぶやいた。この鳥はもう何度目かわからない主からの手紙を、サージャンの部屋まで届けに来たのである。
フェンの鳥は尾の先が淡い黄色に変色していて、その色が主人の瞳を思い出させる。
綺麗な瞳だと思った。じっとこちらを見る瞳は時々金色に光って、彼にとてもよく似合っていた。
街中を歩いているだけで女性たちが振り返ったし、彼と一緒にいた青年も、口では文句を言いながら彼に強い信頼を寄せているのが伝わってきた。
話してみるとちょっと強引で、でも抗う気になれないというか。傍にいるのがなんだか心地よくて、離れがたいというか…。つまりあの日、出会ったばかりのサージャンも、フェンにすっかり惹かれてしまったのだ。
サージャンが彼への手紙に書くのは、王都学校でのことや家族のことが多かった。ペン先にインクをつけて、今日は何を書こうか考える。
王都に来て四年。家族に手紙を書くことはあったが、家族以外の同年代の相手に書くのはフェンが初めてだった。フェンは良家の子息であるらしかったが、もしかしたら身分を超えて友人になれるかもしれない。彼は小貴族のサージャンにも、平民出身だというあの青年にも対等に接する、珍しい存在だから。
「あれから、一度も会ってないんだなぁ…」
頬杖をついて鳥を見つめた。この鳥は、毎日のようにフェンと会っている。うらめしく見ていると、気ままな鳥はくちばしで羽を手入れし始めた。
サージャンは自分に苦笑してペンを握り直し、白紙の便箋に向きなおった。
* * *
とある晴れの日。
フェンは朝からご機嫌であった。
たまにフェンと一緒に朝食をとるヘンリーと、護衛で同席しているダグラスだけがそれに気づいた。ふたりともフェンを見て、気味が悪いという顔をしている。
「あー…。この際だから聞くけど…、姉上なんかいいことあったの?」
ヘンリーが代表して言った。この場でフェンとの付き合いが一番短く、気づかなかったキースが、
「そうなのですか?」
と主人を見た。ダグラスは、キースがこの姉弟主従の身内的な関係に慣れてきた様子を見て、ほっと息をついた。護衛初日に主人に置いてけぼりを食らって、続けていく自信がない、と泣きながら酒を煽っていた彼はもういない。
フェンは自慢げに少し顎を反らしている。口元がにやつくのを抑えられないようだ。
「サージャンがな、私に会いたいんだそうだ」
「……誰だって?」
ヘンリーの疑問にダグラスが答えた。
「文通相手です」
「あー、あの鳥のね」
そんなに気に入ってるんだ、へー、そう、と弟王子はあからさまに拗ねた。パンをやや乱暴にちぎって口に放り込む。
大好きな姉を友人にとられるのが嫌なのだろうな、とダグラスは思った。
「というわけだ。午後から街に出かけるぞ」
「なに!?」「ええ!?」
ダグラスとキースの声が重なった。
ふたり分の声を浴びて、フェンが水を飲みながら顔をしかめる。
「それ、今日の話だったんですか?」
「そうだ」
「なんで前もって言わないんだ」
確かに午後からの予定は空いていたが、ダグラスはてっきり、城内で過ごすものだと構えていた。そしてそれはキースも同じだったようで、ふたりは主人を問い詰めた。
すると、フェンは目を閉じて静かに言った。
「なんとかを欺くにはまず味方から、というやつだ」
「そこまでするほどのことなのですね…(ごくり)」
「「……」」
まだ純朴な一名を除いた残りのふたりから、フェンに疑いの目が向けられた。
フェンの願いが通じてか、午前中の政務は滞りなく済んだ。いよいよ午後は街にくり出すのだ。
今日会えないかとサージャンに手紙で誘われたのは、実は一週間前のことだった。
だがその手紙には、「ダグラスにも会いたいので、フェンから彼を誘ってくれませんか」とあったのだ。
サージャンは文通相手のフェンよりも、ダグラスに親しい感情を抱いているところがある。これはやはり、身分の違いが大きいのだろう。
ダグラスは正真正銘平民の出で、サージャンの実家と身分が限りなく近い。だから見るからに良い家の子であるフェンより、ダグラスの方に気安さを感じるのだ。
一方のダグラスもサージャンを好ましく思っているようだから、再会できると知れば必ず喜ぶ。……自分より好かれているダグラスを喜ばせるのがなんだか癪で、フェンは言いたくなかった。
だが今朝になってみると、ついにサージャンと会える嬉しさでいっぱいになって、まあ結局連れていくし、いいか、とダグラスたちに午後の予定を明かしたのだった。
キースに関しては、完全なとばっちりである。
フェンは執務室で軽い昼食をとりながら、護衛ふたりと午後の打合せをした。念のため、侍女は退室させている。
「本当に気に入ったんだな」
珍しい、とダグラスがサージャンのことを指して言った。フェンはにやりと笑う。
「ああ、あいつに決まりだ。絶対に落とす」
「はは…、応援しております…」
主人の背後から黒い霧の幻が見えて、キースは会ったこともないサージャンに同情してしまった。
「お前の眼鏡にかなったのなら、大丈夫だろう」
ダグラスも一度しか会っていないが、中心街への道中少し話しただけで彼の人の好さは伝わってきた。
詳しく調べたところ、サージャンは兄弟が多く、実家では慎ましい生活を送っていたようだ。家族に迷惑をかけまいと、使用人としてロロナーダ家に住み込み、働きながら学校に通っている。
これで宰相問題は解決だな、とダグラスは心の中で頷いた。サージャンは今は学生だが、情報ではかなり優秀ということだ。彼にはこれから数々の苦難を乗り越えて、宰相にふさわしくなってもらう予定である。
過酷な道となるだろうが、何年も仕事と学業を両立する立派な人物だ。きっと乗り越えるだろう。
ダグラスは侍女の代わりに、慣れた手つきで主人のカップへ紅茶を注いだ。
* * *
サージャンとは王都中心街の喫茶店で待ち合わせていた。
フェンはダグラスとキースを連れて街を歩いている。
昼食時の打合せで、今回はキースも連れていくことに決まっていた。護衛はダグラスだけで十分に思えたのだが、キースが「お供します」と言って譲らなかったのだ。前回フェンに撒かれたのが、よほど堪えたらしい。
目当ての喫茶店に入ると、適当に飲み物を注文した。キースだけはケーキも頼んだ。
「どんな方なのですか?」
サージャン殿は、とキースがふたりに聞いた。
「かなり美人」
「可憐な感じだったな」
「え…、男性ですよね」
女性を例えるような単語が出て、キースはすっかり混乱している。
すると店の店員によって目の前にケーキが差し出され、キースは考えるのをやめた。直接会えばわかるだろう、と。
店員は注文した飲物と一緒に、砂糖の入った洒落た陶器をテーブルに置く。キースが礼を言うと、「ごゆっくり」と笑って席から離れて行った。
「砂糖、使いますか?」
キースがふたりに聞いた。ふたりが首を振る。
では、とキースは自分の手元に砂糖の陶器を引き寄せ、中身をスプーン山盛りにすくった。
キースが自分の紅茶に砂糖をどんどん投入するのを見て、フェンとダグラスは胸焼けがした。ケーキの甘みだけで足りないとは…、こいつはとんだ甘党である。
ふたりがキースの方を見ないように紅茶をすすっていると、
「フェン、ダグラス!待たせてしまいましたか?」
待ち人サージャンが現れた。走ってきたのか、少し息を弾ませている。
繊細な絹を思わせる色素の薄い金髪を肩の上で躍らせて、髪と同じく薄い紫の瞳で申し訳なさそうにこちらを見ていた。目を縁どるまつ毛はすき間などなく、たれ目がちなのがまた色気を倍増させている。鼻筋は通っていて、やや褐色のなめらかな肌はしみひとつない。
彼の容姿は誰が見ても美しいと言うだろう。
たいして待っていない、気にするな、とフェンとダグラスが席を勧めた。
帰り際先生に呼び止められてしまって、と事情を明かしながらサージャンが座る。
キースはケーキにフォークを刺したまま硬直していた。
「サージャン、こいつは俺の後輩のキースだ」
ダグラスが脛を蹴ると、キースは正気に戻ってフォークを置いた。
「はじめまして、キースです。お噂は伺っております」
「(噂?)サージャンと申します。どうぞよろしく」
ダグラスの知り合いなだけあって、まともそうな人だなぁ、と彼の紅茶の味を知らないサージャンは思った。
四人はまったりお茶をしながら話をして過ごした。
キース以外の三人は数か月ぶりの再会だ。だが、サージャンが近況を詳しく話してくれるのに対して、フェンがサージャンに語れることは少ない。フェンが身分をごまかしているぶん、どうしても隠し事ができてしまうのだ。そのことを想うと、フェンの紅茶が舌に苦くなった。
「サージャンは、学校を卒業したらどうするんだ?」
フェンは気分を紛らわすように聞いた。
「王城で仕事がしたいと思っています。
国王陛下は王都学校をつくってくださいました。
ですから役人になって、陛下のお役に立てたらと思って…」
サージャンの顔が曇った。国王の病のことは、誰もが知っている。
四人の席が静まり返った。店の中は客が少なく、遠くで店員が食器を洗う音が聞こえた。
「…国王は、」
フェンがおもむろに口を開いた。
「国王は、身分に関係なく人を育てようとした。
国を支えているのは一部の貴族だけじゃない。すべての、一人ひとりの民だから…」
だから、とフェンはサージャンの目を見つめる。
「城に来い、サージャン。国の大きな柱になれ。
国王が理想のため力を注いだ、王都学校で学んだお前が」
薄紫の瞳が、きらきらとフェンの姿を映し込んだ。
「お前が国王の、夢そのものなのだから」
夕方になり、フェンたちはサージャンを送るため貴族街へ向かっていた。
サージャンは送りはいらない、ひとりで帰れる、と頑なに断っていたのだが、フェンがそれを聞かなかった。
送られていることが気恥ずかしくて、サージャンはうつむいている。金髪から覗く耳がほんのり赤い。
しかも赤くなる原因はそれだけではなくて、
(どうしよう。フェンに城に来いって言われてから、胸が熱い。
いつになったら収まるんだろう、これ)
サージャンは喫茶店を出てからもずっと体の中心にある、謎の熱に悩まされているのだ。
たぶん、フェンの言葉に感動した、ということなのだろうが…。
確かに、あのときのフェンは堂々としてかっこよかったが…。
(…どうしよう。今までよりずっと、フェンが素敵に見える…)
もともと魅力的な人だとは思っていたが、こんな風に輝いて見えるほどではなかった。今は金に光る瞳だけでなく、姿全体がきらきらとまぶしい。フェンは同じ男なのに、こんなのおかしい。
久しぶりに会ったから、嬉しすぎてこんなことになっているのだろうか…。
「そうだといいな…」
思ったことが小さく声に出てしまった。隣りで聞き取れたフェンが覗き込む。
「どうした」
「えっ!いえ、なんでも!」
フェンは慌てて答えるサージャンを訝しむも、もと通り前を向いた。
サージャンはそれを見て、ほっと息をつく。
キースは少し前を行くふたりを見ていた。
「……」
「どうした、キース」
「いえ…、なんでも、ありません…」
「?」
キースは若干青い顔でふたりから視線を逸らす。
どう見てもなんでもなくはないキースの様子に、ダグラスは首を傾げた。
ロロナーダの屋敷が見えてきたころ。
フェンは後ろの護衛たちを目だけで確認すると、サージャンだけに聞こえるようにささやいた。
「一週間後の夜、ユーリュセル家の屋敷で舞踏会が開かれる。
…そこに来てくれないか」
お前が招待されるよう手配しておく、と口早に告げた。
サージャンは目を見開いて、明らかに戸惑っている。
「そんな、舞踏会なんて…。そういった場に、私は出たことがありませんし…。
というか、フェンは、ユーリュセル家の方とご関係が?」
フェンはその問いに「少し縁があってな」とごまかす。そして念を押した。
「とても大事な話があるんだ。必ず来てほしい」
サージャンはますます戸惑ったが、フェンの真剣な目に頷いた。
フェンはその返事に安心したのか、ふわりと微笑むと、
「今日は会えてよかった。次が待ち遠しいよ」
目を細めて切なげに言った。サージャンの顔がみるみる赤くなる。
そんな様子にくすりと笑うと、フェンは一瞬だけサージャンの耳もとに口を寄せた。
「おやすみ」
ほとんど吐息で流し込まれた音に、サージャンは真っ赤なまま固まった。
はは、と愉快気な笑い声が響く。
フェンはひらひらと後ろのサージャンへ手を振りながら、少し離れた場所のダグラスとキースに並んだ。
ふたりもこちらに軽く手を上げて挨拶している。
サージャンがかろうじて手を振り返すと、三人は夕日の中を歩いて去って行った。
* * *
翌日、フェンの言った通りにサージャンへ招待状が届いた。
どうやら件の舞踏会は、学者や研究者を中心に集めて見識を広める目的のものらしい。ユーリュセル家のご当主は学問がお好きなのだとか。
サージャンは王都学校の将来有望な学生、という名目で招待されている。
ロロナーダ家の旦那様も、使用人の人たちも、サージャンが優秀だと認められているのが誇らしいのだ、と喜んで外出を許してくださった。…私は本当に恵まれている。
旦那様が若いころ使っていたという濃紺の正装を貸してくださり、あとはユーリュセル家に向かうばかりだ。
緊張しながら、姿見の前で身だしなみを確認する。
「おい、なんだその恰好は」
下の方から幼い声が聞こえた。見ると、サージャンの足元に男の子がしかめ面で立っている。
ロロナーダ家嫡男のエーグィル様だ。御年5歳であらせられる。
「この衣装は旦那様がお貸しくださったのです。
今夜舞踏会に招待されているので、着るように、と」
答えると、気に入らないとばかりに「ふん」、と鼻を鳴らした。
「お前のような使用人が、舞踏会とは。
似合わないな、全く」
「はい…。私も、そう思います」
似合わない。その通りだとサージャンは思った。
きらびやかな空間で、高級な服を着て、踊るなんて…。王様みたいな『彼』なら、もちろん似合うだろう。つい一週間前に街の喫茶店で他愛もない話をした『彼』が、急に遠くなった気がした。
暗い顔でうつむいたサージャンに、エーグィルは片眉を跳ね上げる。
「…ふん。そう思うなら断ればよかったじゃないか」
「はい…。それが…、友人に必ず行くと、約束したものですから」
そう、『彼』が大事な話があると言った。だから行くのだ。
「ふうん…。…ま、羽目を外すんじゃないぞ」
わがロロナーダ家の使用人たる自覚を持てよ、と。
「はい…」
いつもは何とも思わない幼子の言葉が、今夜はずしり、と体にのしかかった。
* * *
馬車がユーリュセル家の門の前で止まった。門番に名乗って招待状を見せると、
「お待ちしておりました、サージャン様。
どうぞお通りください」
と恭しく礼をされた。
こんな丁寧な礼をされたことがないので、つい「ど、どうも」とか言ってしまう。
馬車が再び動き始め、サージャンは背もたれに体を戻した。慣れないことだらけで肩がこる。少しでも力を抜こうと深く息をしてみたが、あまり効果はなかった。
馬車の外に、シャンデリアの光が漏れ出すホールが見えてきていた。
「よく来てくださいました、サージャン殿。
どうぞゆっくりしていってください」
「は、はじめまして、ユルゲンス様。
お招きいただき、ありがとうございます」
会場に入ってすぐ話しかけてきたのは、なんと、ユーリュセル家当主ユルゲンス様だった。サージャンの姿を見つけるやいなや、他の方との会話を切り上げて来てくださったのだ。
大貴族が小貴族の学生に対するとは思えない、丁寧で、どこか親しげな態度だ。白が混ざった口髭のこの老人は、どこか『彼』を思い起こさせる。
「それでは、また」
と微笑んで去ろうとするユルゲンス様に、慌ててお辞儀をした。
すごい方と話したなぁ…。
余韻で呆けていると、会場に音楽が流れ始めた。場内の注目が音楽隊に向かう。
「!?」
急に、後ろから腕を掴まれた。
「こっちだ」
あまりに突然のことで、咄嗟に声の言うことに従ってしまう。
ぐんぐんと引っ張られて、会場を出て庭へ躍り出た。
「はぁっ…、はぁ、い、一体…?」
なんなのですか、と続けようとすると、腕を掴んだ人物がこちらを振り返った。
「あ……」
思わず声が漏れた。
月明かりの下でもよくわかる、暖かみのある赤毛が揺れた。くせがあり、うなじのあたりで切り揃えられている。こちらを見る黄褐色の瞳は、会場の灯りを受けて金色に光っていた。
「フェン!」
「ああ」
今夜の彼は、いつもの茶髪ではない。でも違和感はなく、不思議とすぐ彼だと受け入れられた。
フェンは会った時から変わらぬまっすぐな目で、サージャンを見ている。
彼は白のかっちりした正装を着ていて、月を背にたたずむ姿は破壊力抜群だった。
サージャンは頬が上気するのを抑えられない。どうしても、どぎまぎしてしまう。
「あ、あの、今日は髪がいつもと違いますね」
「うん、あれはかつらだ」
さらっと言われた。
「あ、今の方が、あなたらしい、です」
「そうか」
言われたフェンは、嬉しそうに目を細めて笑う。
(…!!)
サージャンは、もうだめだと思った。もう認めるしかない、と。
一週間会わなかっただけで、今会って話せるのがこんなに嬉しいなんて…。
これはもう、完全に…
「サージャン」
「!はい」
「大事な話があるんだ」
フェンは勝手知ったる様子で庭を進み、サージャンにベンチへ座るよう勧めた。
あまりに自然な動作に、抵抗なく腰かける。フェンもすぐ隣に座った。
(ち、近い…)
近くに体温を感じて、身じろぎする。フェンは気にしていないようだ。
そのまま正面を向いて、話し始めた。
「実は、言ってなかったことがある」
「…?」
「隠したくはなかったんだが、……」
フェンはひとつ息を吐くと、顔ごとこちらを向いた。
今度は月明かりに反射して、瞳が光る。
「…私は、王族なんだ」
……。
「あ、はい。知っています」
「……なんだと?」
「だってフェン、この前言ったじゃありませんか。
『城に来い』って」
フェンがそばにいるときは心に余裕がなくて気づかなかったのだが…、まるで王城が自分のいる場所と言っているかのようだ。
国王陛下のことも、よく知っているような口ぶりだった。
「ダグラスとキースも護衛騎士と考えるとぴったりですし…。
それになにより、あなたはお父上に似てらっしゃいますから」
そしてユーリュセル家と縁があるということ。国王の第二妃はユーリュセル家出身である。
年ごろからしてフェンは、第二妃を母とする国王の御子、ということになる。
ね、と言われてフェンは黙り込んだ。…確かにそのとおりである。
王族だと見破られていたフェンは、脱力して背中を丸めた。
「はー…。拍子抜けした…」
「…ちゃんと見ているでしょう?」
ふふ、と笑うサージャンに、フェンも笑いが込み上げる。
「はは、そのようだな」
ふたりで月を眺めた。星が瞬いている、あの絵本のように。
「私は王城の役人になります」
フェンが視線をサージャンに送ると、サージャンもフェンを見ていた。
「そして出世して、あなたの臣下になります」
サージャンは自然と笑みがこぼれた。そっと目を閉じる。
この人の傍でなら、国王陛下の理想を実現できる。だって彼は、身分になんて頓着しないから。
いつだって、そう。これからもずっと……
「その…だな……。臣下だけでは、足りないんだ…」
え、とサージャンが振り向く。
手が優しく握られて、胸の前まで持ち上げられた。
「初めてお前を見たとき、目が離せなかった…。
まるで、夜空の月のようだと…」
フェンは目を伏せながら、言いたい言葉を探っているようだ。
手から大切に触られているのが伝わってきて、唇が喜びに震える。
顔が近づき、指先にやわらかく口づけられた。
金の瞳が上目づかいに見つめてくる。
「私だけのものに…、私の月になってくれ、サージャン」
目が熱くなって、開けているのがやっとだ。
ちゃんと笑えているか、自分ではわからない。
でもフェンには伝わったようで、それで充分だった。
「…はい。私の、太陽の、陛下」
両手でそっと顔を包まれて与えられた口づけも、それはそれは優しくて。
涙があふれるのは仕方がない、と。心の中で言い訳をした。
* * *
フェンが何度かハンカチで受け止めて、やっとサージャンの涙が落ち着いた。
目が赤くなってしまっていて、少しかわいそうだ。
「すみません…」
サージャンがうつむいて言った。泣いてしまったのが恥ずかしいらしい。
フェンはサージャンの顔を隠す前髪を、すっと耳にかけてやった。
「かまわない。…私の前だけなら、な」
フェンが艶っぽく笑って、指先でサージャンの目元をなぞった。
「ごほん」
唐突な咳ばらいが、ふたりの背後から響いた。
「人んちの庭でいちゃつくのは、そのくらいにしていただけませんかな」
「…ユルゲンス」
サージャンはぎょっとした。
振り向いて立っていたのは、この屋敷の主、ユーリュセル当主ユルゲンスだったのだ。すぐ後ろに、騎士服姿のキースを連れている。キースの表情には、大貴族の傍にいる緊張が滲んでいた。
好々爺然としてたたずむ老人を、フェンはものすごく嫌そうな顔で見た。
「いつから覗きが趣味になった、じじい」
「ほっほっほ、口が悪いですぞ王女殿下」
年季が入った大貴族当主には、フェンの睨みなど全く効かないようだ。余裕の笑みを浮かべている。
そんな祖父と孫の様子を、キースが冷や汗をかきながら、はらはらと見守っていた。
「今日のために協力して差し上げたのは、どこのだれでしたかな?」
「……!」
フェンはぐっ、と押し黙った。この祖父に口で勝てた試しがない。
おまけに今回は借りをつくってしまっているから、当分ネタにして遊ばれるだろう。
祖父は、どんなお礼をしてもらいましょうかなー、と口髭を撫でながら半笑いでこちらを見ている。心底腹が立つ。
(ユルゲンス様の方がはるかに上手だけど、殿下もこういうとこあるよなあ)
やり取りに、ふたりの血のつながりを感じずにはいられないキースであった。
「?」
キースはふと、ずっとしゃべらないサージャンに気が付いた。
サージャンは何かを考え込んでいる様子で、手元を見つめている。
「あの、サージャン殿。どうかなさいましたか?」
近づいて話しかけると、ぴくりと反応し、キースを見上げた。
「キース」
「はい」
「フェンは…、フェンリュシカ王女殿下、なのですか…?」
「?はい、左様です」
「……ヘンリー王子、ではなくて?」
「…………は?」
* * *
なんとサージャンは今の今まで、フェンが男だと思っていたという。
「ふははは!自業自得じゃわい!」
「…………」
舞踏会がお開きになったユーリュセルの屋敷で、当主と孫とその護衛が、酒盛りをしていた。
仏頂面で胡坐をかき酒を煽るフェンの隣には、いつの間にか来ていたヘンリーが座っている。
もう泊まることになっているので、フェンはしこたま飲んでいた。ヘンリーは酒に弱いので、果実ジュースにしている。
「せめてスカートでも穿いていれば、こうはならなかったものを」
「じじい、うるさいぞ」
フェンの呂律があやしい。酒のペースといい、やけくそになっているようだ。
「…おい、その辺にしておけ」
ダグラスが主人が飲むのを止めに入った。フェンの舞踏会の護衛にはキースだけが来ていたのだが、城にいたダグラスをヘンリーが誘って連れてきたのだ。「護衛にもなるし、ついで」とのことだ。
主人をなだめるダグラスにキースが加勢する。
「サージャン殿は、男でも構わないくらい、殿下がお好きなんですよ」
キースはサージャンに聞いたのだ。男だと思っていたのに、なぜフェンを好きになったのか、と。
すると彼は答えた。
「最初は同じ男に惹かれるなんて、と悩みました。気のせいであれ、と願ったことも…。
…でも、フェンを好きになるのは止められなかった。
きっと、フェンが男でも女でも、関係なかったのだと思います。
どちらにせよ、私はフェンを好きになった。ありのままのフェンを、愛したでしょう」
なにしろ、フェンはあんなにも素敵ですから。
月のように美しい少年は、そう言って女神のごとく微笑んだ。
「それにしても…、宰相にするだけじゃなかったのか」
婚約するとは聞いてないぞ、とはダグラスだ。
キースはどうやら以前から知っていた風だし、自分だけのけ者にされたようで納得がいかない。
だが、キースはフェンを見ていて察しただけであって、本人から打ち明けられたわけではない。そしてダグラスも同じものを見てはいる、はずなのだ。
「ダグラスってさぁ…、侵入者の気配とかには鋭いくせに、色恋沙汰には鈍いよね」
「確かに、鈍感ですよね」
「その辺察するのはキースのが上だな」
「ほっほっほ」
「なぁっ!?」
満場一致の意見に、鈍感騎士が抗議の叫びを上げた。
* * *
そして、今。
女王となったフェンの傍らには、夫であり宰相であるサージャンがいる。
サージャンの指には、白く、ほんのり青みがかった銀色に輝く石。通称、月の石が指輪となって納まっている。これは正式に婚約した際、フェンから受け取ったものだ。
「あのとき、本当にあの絵本のようでしたね」
「性別が逆転しているけどな」
指輪を見せられたのはちょうど夜が明けるときで、月明かりの姫と赤毛の騎士もそうだったなあ、と思い出したのだった。自分たちは絵本の登場人物と特徴が一致する。
フェンが赤毛の騎士か……。サージャンは想像して内心ときめいてしまう。
だって真っ白な正装を着たフェンは、騎士という役がしっくりくるくらい、本当にかっこよかった。
今でも剣を振るう姿は、そこらの騎士も顔負けの頼もしさなのだが。
部屋の扉が叩かれ、外に控えている護衛騎士が告げた。
「ダグラス団長とキース小隊長がお見えになりました」
「通せ」
「失礼いたします」
扉が開き、フェンのかつての護衛騎士、ダグラスとキースが姿を現した。
今日は懐かしい面子で、久々に集まって語らうことになっていた。昔はここに酒豪のユルゲンスと、酒は飲めないが飲み会には必ず参加するヘンリーがいたのだが…。
「ヘンリー殿下はどちらにおられるのやら…」
「あれのことだ。そのうちまた顔を出すだろう」
ヘンリーはあの後自分の配下である隠密部隊の情報を使い、王弟派貴族を次々と王弟たちから引きはがした。そして裸同然になったところで、第一妃との不義密通やら不正やらを証拠つきで暴露したのだ。王弟と第一妃は処刑され、第一王子は国外へ追放された。
一方でフェンはすでに東と北の大貴族を味方につけていた。南のロロナーダ家はサージャンが口説き落とした。西は言わずもがな。
フェン本人が鍛錬に騎士団訓練場を訪れることもあり、ダグラスとキースの人脈も手伝って、騎士団にもフェンに忠誠を誓う騎士が増えていた。
ついに一年後、死が近づいた父王がフェンを次の王にと選んだ。王子ではなく王女のフェンを。数百年ぶりの、女王の誕生であった。
だがヘンリーはフェンの女王即位を見届けた後、少しして国を出奔してしまったのだ。王位継承権も放棄して、自由に旅がしたいと書置きひとつ置いて姿をくらました。何年かに一度、ごくたまに帰ってくるのだが、長く滞在せず、またどこかへ行ってしまう。
ユルゲンスは数年前、この世を去った。家族と酒を飲んでいて、途中で眠るように息を引き取ったという。あのじじいらしい最期だ。
この面子では、基本手酌で酒を注ぐことになっている。
部屋には侍女がひとりついているが、四人にいちいち酌をしていたら、彼女が飲めない。
現在女王つき侍女となっている彼女は、もとはヘンリーの侍女だった。ヘンリーに影のように付き従い、護衛兼侍女として忠誠を尽くしていたのである。
「……」
なのでヘンリーに置いて行かれて、かなり怒っていた。
ヘンリーは彼女を恐れてなのか、帰国しても絶対に、元専属侍女の前には現れない。子供じゃあるまいし、いつまで逃げているのか、とフェンたちは呆れている。
もうあれから三十年近くたつのだ。
ダグラスとキースは騎士団で出世して、妻も子供もいる。
あの、恋愛方面鈍感騎士の、ダグラスにさえも。
「それがわが国一番の謎だな」
「魔訶不思議ではありますね」
「いやいや天変地異でしょう」
「…怪奇現象」
「お前らっ…!!」
マクスランド王城に、昔と変わらぬ怒声が響いた。
王家とその配下は、今日も国の平和を守っている。
おしまい。