プロローグ
「なあ、ゼロ。お前今、満足か?」
暗い屋敷にある小さな部屋に声が響いた。
ゼロと呼ばれた男は苦しげに息を吐いて、言った。
「さあねえ。満足は……おそらくしてないが、嬉しくはあるさ。もう何も見なくていい、聞かなくていい。悲しみも苦しみも、痛みだって感じることはなくなるんだからさ」
その答えを聞いた男はため息をつき、そばにあった椅子にドカリと腰かけた。
「俺は……俺たちはもう、お前を助けることはできないんだな」
その問いの答えはもう、わかりきっていたが、男は聞かずにはいられなかった。
それに対しゼロは飄々とした調子で言う。
「そうだねえ。私はもう、助からないんだろうねえ。ふふ、いいんだよ。それは君たちが背負うことではないさ」
「お前なあ……」
男がハア、とため息をつくと、幸せ逃げるよーとゼロがケラケラ笑う。
今まさに、消え逝こうとしている人間の声色とは思えない明るい声だった。
「私はね、嬉しいんだよ。最後まで私は一人じゃなかった。独りでは……なかった。もう君だけになってしまったが、ね」
「……。それでお前は、俺を独りにするんだな」
別段怒ったわけでもなく、拗ねたように男は呟いた。
「君は……しぶとく生きそうだよねえ。君が死ぬのは想像できないよ、私は」
そう言ってゼロはクスクスと笑う。
男は少しムカついたが、特に言い返したりはしなかった。
「さて、名残惜しいが、そろそろお別れのようだねえ」
ゼロの体は少しずつ粒子になり、空気に溶けていっていた。
「お前は、俺たちの罪も痛みも運命も。全て背負っていくんだな。そういうの、なんつーか、すげえイライラするんだけど」
「あはは、それは仕方ないだろう。私は君たちのいうところの〈自己犠牲の塊〉なんだから」
「俺は、俺だけは、お前に助けられたなんて思ってやらねーからな。お前を忘れてなんかやらねえし、お前のことは末代まで語り次いでやる!そんで絶対にお前よりも幸せになってやる!」
男は最後にはゼロの体につかみかかるようにして叫んだ。
ゼロは一瞬目を見開いたが、すぐに微笑んで言った。
「ぜひともそうしてくれよ。君には、幸せになれる権利があるのだから。君には、あるんだよ」
私にはなかったがね、とゼロは呟いた。
「後は、君に頼んだよ。君はもう、自由だ」
最期にゼロはそう言い、笑った。
笑って、消えた。
「ああ……任された」
部屋にはかすれた男の声だけが静かに響いた。
暗かった部屋にも光が差してきて、夜明けが近づいてきたようだ。
しばらく椅子に座ってぼんやりしていた男はふと立ち上がり、屋敷からでるために歩き出した。
いってらっしゃい、さようなら。と言って笑うゼロの声を聴いたような気がした。