彼は真夏に魅せられてーー
夏休み。真夏日のある日、彼はいつものようにとある病院の一室で何をするわけでもなく、静かに佇んでいた。
白を基調とした部屋にはベッドとテレビ、小さい冷蔵庫程度のものしかなく、閑散としていた。病室と言えど、時が止まっている程に感じるその部屋はある種の不気味さを漂わせていた。
そんな部屋で彼はベッドに横たわり、備え付けのテレビを見るでもなく点けていた。傍らには一本の花が生けられた花瓶が置いてあり、まるでその時を暗示でもしているかのようである。
『今年も白熱してまいりました、第○○回全国高校野球選手権大会! 特にあの△△高校の――』
静かだった部屋に囁くような音量の声が響く。それはテレビから出ているのだが、他の人の邪魔になるため、イヤホンを着けている。個室なので誰の迷惑でもないのだが。しいて言うなら、その部屋の借主には騒音になるだろうか。
彼はただ流れのままに生きていた。
生まれつき弱い身体は、季節の節目々々で体調を崩し、免疫を付けるために運動をすると元々体力がないため余計に体調を崩す。その身体のせいもあって、入院なんて日常茶飯事になっていた。
しかし、そんな身体を恨めしくも思わず、ただ仕方がない、と思って生きてきた。
何をしたいとも思わず、何を欲しいとも思わず、生きたいとすら思わなくなっていた。
そんな彼に三日前、医師が告げたのは、もう長くない、という絶望に満ちた宣告だった。直接言われたわけではなく、父と祖母が話をしていたのを偶然聞いたのだ。
それを知ったときも、仕方がない、としか思わなかった。いつか来ると分かっていたこと、今更どうしようとも思わない。
つまらない人生だったと思う。
父と母は、生まれつき身体の弱いこんな僕を心から愛してくれた。
それで充分じゃないか。自分のために喜び、怒り、悲しみ、笑ってくれた。
それだけでいい。これ以上は両親に迷惑を掛けてしまうだけだ。
ただ、欲を言えば、もっと色んなことをしてみたかった。自分のこの手で何かを残したい。形あるものでなくてもいい、生きたという実感が欲しかった。
しかし、そんな夢すらも叶えられずに終わってしまう。
本当に僕は生きたと言えるのだろうか――。
『さあ、始まりました! 今日一番の注目ガードです!』
そんな時、囁くような音量が耳に入ってきた。何気無しに点けていたテレビ。
しかし、彼はそれを漏らさず聞いていた。なぜかは分からない。たまにはいいか、とでも思ったのかもしれない。
テレビの画面には、焼きつける程に輝く太陽に照らされた人達が、二列に整列して礼を交しているところだった。
礼を終えて、あるチームは自分たちのベンチに戻り、あるチームは散り散りになってそれぞれがポジションにつく。
画面の中で繰り広げられようとしているのは、『野球』というスポーツだった。少しのルールと名前くらいなら聞いたことがある。
生まれつきこんな身体のせいで、スポーツなどとは全く縁がなかった。バスケなら少しかじったことはあるが、その時に過呼吸で病院に運ばれたので、それっきりだ。
だから、興味がなかった。スポーツと言うものに。
そもそも、もう死期は近いのだから、やりたいと思っても、出来ない。
それなのに彼は画面に釘づけになっていた。
△△▲▲▽▽▼▼
グラウンドには眩いばかりの太陽が照りつけ、選手達を焦がしていた。
ここまで来た、とマウンドに立つ本多和希は手のなかに収まる白球を見つめた。
長かった。でも、遂にここまで来た。そして、ここで決まる。
試合開始の号令が鳴り響き、球審がプレイと叫んだ。
十八. 四四メートル先のバッターがやけに小さく見えた。
最初の一球目を投げる。インハイの速球。ストライク。振らせなかった。
二球目。外に外れるカーブ。しかし、バッターは体勢を崩しながら振り抜く。ポコッ、という快音とは程遠い音が響き、ボテボテの当たりがセカンドに転がる。
ワンアウト、立ち上がりは完璧。ボールが指に吸い付いてくる感覚がある。と言ってもまだ一人目。油断は禁物だ。
しかし、後続もきっちり三振に仕留め、スコアボードにはゼロが光った。
マウンドからベンチに帰ると、キャッチャーの高塚が話し掛けてきた。
「ナイピッチ、和。流石、決勝でも相変わらずだな」
「いいや、俺だって緊張してるさ。ただ、目的が変わらないだけだ」
強くはっきりとそう言う和希の目は、声とは裏腹に儚げだった。
それを察したのか、高塚は悲しそうな顔になる。
「和、まだあの事を気にしてるのか? あれは仕方なかったんだ、お前が責任を持つことじゃない」
「浩也。俺は責任のために野球を続けて来た訳じゃない。
でもな、理由がなんであれ、この場所で優勝したら、あいつに少しでも顔向けできるような気がするんだよ。そのために俺は今ここにいる」
それを聞いた高塚は思い詰めた表情をする。しかし、最後には納得したのか和希の肩を二回ポンポンと叩く。
「……そうか。じゃあ、俺も手伝うよ。前の目的とやらにな」
「ああ、ありがとう」
まだ完全に納得していないだろうが、今は試合中。ここで長々と話をするわけにもいかない。あいつも空気を読んで引き下がったのだろう。
試合は1回の裏。まだまだ始まったばかりだった。
自チームの一番バッターが高めに浮いた球を見逃さず、打ち返した。きれいなセンター返しだ。
ノーアウト、ランナー一塁。二番バッターが監督のサインを見るためにベンチの方を向く。サインを確認して力強く頷くと、打席に入った。
ピッチャーは緊張しているのか、牽制を二回程投げた。
そしてセットポジションのモーションから渾身の一球を投げたが、バッターはキッチリと送りバントを決め、ワンアウト、ランナー二塁。
いい流れだ。ここで先制点を取っておきたい、と和希はネクストバッターの浩也の背中を見つめた。
▲▲△△▼▼▽▽
病室の一角、そこには少年が備え付けのテレビに釘づけになっていた。両耳に付けたイヤホンから流れる激しい応援の声と打球音、画面で繰り広げられる白熱した試合が、こんなにも胸を躍らせるものだとは思わなかった。
ピッチャーがボールを投げる瞬間。
バッターがかっこよくヒットを打つ瞬間。
守備が華麗にボールを捌く瞬間。
全てが新鮮で美しかった。
こんなにも、こんなにも魅せられるとは。
『生』を諦めた少年に、画面の中の野球と言うスポーツは『希望』を魅せてくれた。
儚く死んでいこうとしていた自分の人生が、どこまで無駄だったか。目の前の野球というスポーツに教えられた気がした。
一つの白球を追いかけ、食らいつき、勝ち取って行く――。
これが生きると言うこと。大袈裟だが、少なくとも、今の少年はそう思った。
試合は九回の表。一対0で、丞山高校と言うところが勝っている。初回に四番バッターがフェンスに直撃する当りを放ち、一点を先取した。そして、ピッチャーも完璧に抑え、危ない場面はあったものの、あと三人というところまできた。
しかし、九回に相手の必死の粘りで、この試合初のピンチになっていた。
ツーアウト、ランナー二、三塁。1打逆転の場面。しかも、次の丞山高校は全く当たっていない、六、七番からの打順だった。ピッチャーとしてはここで決めたいだろう。
しかし、対する相手のバッターは、四番。今日ツーヒットと好調だった。
最悪、としか言い様がないこの場面。しかし、ピッチャーには緊張や焦りといったものは感じられない。画面越しでもそのピッチャーには闘志しかないのが分かる。
――僕には出来ないな。あんな場面に臆することなく立ち向かうなど、出来ない。
初球。真ん中高め。振り抜かれたバットに掠り、バックネットに突き刺さった。
――危なかった。なんとなく丞山に勝って欲しいからヒヤヒヤする。理由は勝っているから、だろうか。
二球目。カーブ。タイミングを外すことなく当ててきた。レフト方向に消えていったあわやホームランという打球は、しかしファールの判定。
――無理だ。こんなやつと勝負するな。次のバッターの方が打たれる確率は低いのだから、こいつと勝負することはない。
そんなことを考えているこの瞬間がとてつもなく楽しかった。今までここまで胸躍り、血が騒いだことはなかった。
テレビはマウンドに立つ青年を正面からズームアップしていた。
無表情なまでのポーカーフェイス。そんな彼も今は緊張しているのだろうか。
そんなことを考えていると、ワインドアップのモーションから振りかぶった青年は、不敵にも笑った。負けを覚悟した笑みではない、あれは――。
三球目。逃げ球無しのど真ん中ストレート。時間が一瞬止まったように感じた。
バッターは思い切りスイングする。タイミングは完璧。ホームランだと思ったが、予想に反してバットは誰にも遮られずに宙を切った、ら
ストライク。ゲームセット。
『決まりました! 丞山高校初の優勝です!』
やけに遠くから聞こえてきた音に、やっと我に返った。
なんだあの球は――少年は興奮する感情が抑えきれない。ただ、凄かった。マウンドに立ってガッツポーズする青年を羨ましく思った。
自分には一生立てない舞台。そこに立つ彼が心底羨ましかった。
僕もあそこへ行きたい。そして最後にはガッツポーズして終わる。けれど、もう残された時間はなかった。
そんなとき、病室の扉が開いた。血相を変えて入ってきたのは、母だった。
「泰司! あなたの身体を治してくれるかもしれない医者がいるらしいの!」
そんなことを言う母に目を丸くした。
なんて言った?治す?この身体を?
「ねえ、手術……、受けてくれる?」
母のすがるような目が辛かった。一度諦めた人生、今さら欲しいとは思わない――いや、あるじゃないか。こんな自分に『生きること』を魅せてくれた野球が。
そうだ。もし、手術してスポーツの出来る身体になったら目一杯、野球をしよう。そしてあの青年のように笑顔でガッツポーズをするんだ。
「…………うん、受ける。手術、受けるよ」
弱々しくも、はっきりとそう告げた。
「そう、ありがとう、泰司」
涙目の母がそう言った。
▲▲△△▽▽▼▼
数日たち、 いよいよ手術の日がやってきた。成功率は限りなく低い手術だが、やるしかない。
心の準備はまだだが、怖くはなかった。だってこの手術は失敗する手術ではない、生きるための手術だ。
「田所 泰司さん。手術の時間です」
看護婦にそう言われた。
オペ室の扉が見えた。あれは未来への扉だ。新たな自分への扉。
麻酔で薄れていく意識の中で、少年ははっきりと見た。
『優勝です! ピッチャー渾身のガッツポーズ!』
それは、彼が真夏の空の下で、見せる眩いばかりの笑顔だった。