21
彰チャンに『嫌いになる』と告げてから五日。今日は土曜日。普段の俺だったら、絶対仕事には行かない日。なのに俺は工事現場に来ていて、機材を持って、組み立てられた鉄筋の上にいる。
彰チャンに向けて言ったことを、既に少しだけ後悔しはじめている俺。あんなこと言っちゃって、彰チャンが俺のことを何とも思ってなかったら、俺はもう彰チャンに会えない。
ああ、バカだな。俺。
「……すけさん。建介さん!」
ドサッと機材を足場に置いて前屈していると、後ろから吉井の声が聞こえた。周りが機械の音や作業員の声で騒がしいからか、吉井は大声を出している。
「なに?」
「やっさんが下に来てくれって言ってますよ」
「やっさんが?」
吉井の言葉に首を捻るも、やっさんからの呼び出しとなれば断るわけにもいかない。前屈していた腰を戻して、数回腰を軽く捻ってから吉井に背を向け、鉄筋と共に組み立てられた簡易階段に足を向けた。
階段に向かう途中で、二、三日前に令亜たちに彰チャンとのことを相談したのを思い出した。半泣き状態になって『どうしよう』と相談した俺に、流那や悠乃、令亜までが俺が悪いと言った。悠乃なんて、彰チャンと仲直りするまで連絡を寄越すなとまで言ってきた。
「そりゃあ、俺も悪かったけどさ」
作業服のズボンに片手を突っ込んでぶつくさ文句を言う。
確かに俺が悪かったけど、あのまま彰チャンと今まで通りに過ごすなんて、俺には無理な話で。カフェでだけじゃなくても、特別な理由を色々つけなくても、彰チャンと会いたいんだ。まあ、彰チャンが俺のこと嫌いだったら、これからはもう会えないんだけどさ。
そうやって誰に対してのかも分からない苛々を言葉にしてみたり、自分で考えて沈んだりしてても、周りは騒がしい。
「あーもーやっ?!」
意味もない言葉を呟いて、近付いた階段を降りようと足を踏み出したところで、何か丸みを帯びた棒状のものに足が乗って、当たり前に俺の身体は背中から傾いてアルミ製の簡易床に腰を打ち付け、そのまま足から階段を滑り落ちてしまった。
地上に転がり落ちた時、周りからは悲鳴やら俺を呼ぶ声やらが飛び交っていたけど、俺は顔を覗き込んできたやっさんの顔を見た瞬間に意識が遠退いていった。
「……んー……」
どれくらい経ってからか分からないけど、作業員の掛け声がぼんやりと聞こえてきた俺は、ゆっくりと目を開いた。顔を右に向けると、簡易的な作りの建物の中にテーブルと椅子があって、ここが現場のプレハブだと分かった。顔を横に向けただけで、頭が少しだけ痛んだ。プレハブ内の椅子には、誰かが座っている。あの薄紫の作業服は、やっさんだ。
「やっさん……?」
掠れた声で名前を呼ぶと、やっさんは読んでいた雑誌から目を離し、こっちを見下ろしてきた。俺が目を覚ましたと分かったやっさんは、雑誌をテーブルに放り投げて椅子から立ち上がり、呆れたような笑みを浮かべて俺に歩み寄ってくる。
「なに階段から転がり落ちてんだあ。考え事でもしてたのか?」
間延びした口調で話し掛けながら、やっさんは古いソファで横になっている俺の頭をペシッと叩いてきた。
「いた……」
やっさんの手がちょうどたんこぶらしきところに当たって、俺は反射的に眉間に皺を寄せた。「お、悪い悪い」なんて全然悪気のない謝り方をするやっさんに苦笑して、身体を起こす。それだけの動きでも身体の節々が痛む。
「ヘルメットしててよかったなあ、ケン。あんだけ派手に転がり落ちて、たんこぶだけで済んだんだから。今度から気いつけろよー」
「……あい」
やっさんの言葉に素直に頷く。彰チャンのこと考えてて階段から落ちた、なんて絶対やっさんには言えない。
やっさんは俺が頷くのを見て満足したようで、「ゆっくり休めや」と言って俺に背を向けた。が、プレハブの引き戸に手をかけたところで、何かを思い出したようにこちらに向き直ってきた。
「そういやあ、ケンに用事があるって子が来たぞ」
「俺に?」
「おう」
俺に用事のある子って、誰。
首を傾げる俺をよそに、やっさんは言うだけ言うとプレハブを出ていこうとする。
俺に、用事のある子……。あっ。
「やっさん!」
「ん?」
俺がソファから立ち上がってやっさんを呼ぶと、やっさんは振り向いて返事をしつつ、少しだけ驚いたような顔をした。
「その子、どんな子だった?」
被せられていた毛布をソファに放り投げて、ずんずんとやっさんに近付き、やっさんの肩を掴みながら質問する。俺より背の低いやっさんは、俺の勢いに負けて少し身体が仰け反っていたけど、今はそんなこと気にしてられない。
「どんな子って……ああ、何かソムリエみたいな格好してたなあ。あの腰のエプロンつけてなくて、白のシャツと黒のズボンはいて……。中庭だったかにいるってよ」
「ありがとう、やっさん!」
やっさんが言うのを聞き終えると、俺は一度ぎゅうっとやっさんを抱き締めてお礼を言い、プレハブを飛び出した。
外に出ると、作業員のみんなは普通に仕事をしていて、時々何人かが、簡易区切りの出入口に向かう俺に「大丈夫か」と声を掛けてくる。走るとまだ身体が痛いけど、そこは敢えて無視をしてみんなに大丈夫と答えて走り続ける。
出入口に着くと、一度ふうっと溜め息をついた。この区切りの向かう側の中庭に、彰チャンがいるんだ。白のシャツと黒のズボンのギャルソン姿で、俺に用のある子っていったら、彰チャンしかいない。
「よしっ」と気合いを入れ、出入口を越えて、中庭に入った。
彰チャンは、いつか二人が並んで座った場所に、同じようにして座っていた。膝を胸のところで曲げて、体育座りをしてる。前みたく、高く上がったクレーン車を見上げていなくて、膝に顎を乗せてじっと前を見てる彰チャン。
「彰チャン……」
後ろからゆっくり近付きながら声を掛けると、彰チャンはすぐにこちらを向いた。その顔は驚いてるようにも見えたし、ほっとしたようにも見えた。正確にいえば、驚いたあとに、ほっとしたって感じ。
「今日も、バイトだったんだ」
ギャルソン姿の彰チャンにそう尋ねれば、彰チャンはこくんと頷いた。左手の腕時計を見ると、まだお昼の12時を少し過ぎた辺り。あれ、確か土曜日は1時までバイトじゃなかったっけ。
「まだ1時じゃないよ?」
彰チャンの隣に腰を下ろして聞くと、彰チャンは困ったように、ははっと笑った。
「古谷さんに、行ってきていいよって言われて……」
「行くって、俺のところに?」
「うん。だから、バイトの格好で来ちゃった」
ほら、と両手を広げて服装を見せる彰チャン。それだけでも、俺は自然と頬が弛んでしまう。でも、ちゃんと聞かなきゃ。
「ね、彰チャン。用事って、なに?」
俺が尋ねると、彰チャンの目はあちこちに揺れた。何て言い出すか、躊躇っているみたい。けど、それを分かってても俺は何も言い出さなかった。俺も何て言い出せば分からなかったし、それに俺から言い出しちゃダメな気がする。俺は、ちゃんと彰チャンの口から聞きたい。
「あのね、」
彰チャンが俺から視線を外して、前を向き、曲げていた足も伸ばして、話し出した。
「私、やっぱり、建介さんと会えなくて寂しかった。いつも座ってる場所に建介さんがいなくて、バイトも楽しくなかったし」
そばにはえている草をチマチマとむしりながら、彰チャンは話す。俺は、彰チャンが草を取る動きを見ながら、それを聞いて何だか嬉しく感じつつも、前に聞いたのと同じってことに、気分は落ち込んだ。
「でも、建介さんだから、会えなくて寂しかった」
「え?」
急に彰チャンの草をむしる動きが止まって、顔を上げると、彰チャンはもう前を見ていなくて、俺の顔をじっと見ていた。彰チャンの言ってる意味が分からない俺は、首を傾げて彰チャンを見下ろした。そんな俺を見た彰チャンは、少し可笑しそうに笑って、また話し出す。
「だって、私は古谷さんとか苅谷さんがいなくても寂しいとか、すごく会いたいとかは思わないけど、建介さんには会いたいって思った。建介さんじゃなきゃ、カフェとかそれ以外の場所で会いたいなんて思わない」
じっと俺を見上げて言う彰チャンに、つい俺はぽかんと口が開いてしまった。彰チャンの言葉に、頭がついてこない。つまり、彰チャンは俺じゃなきゃ嫌だってことだろうか。カフェで手を振り合ったりするのも、一緒にご飯を食べたりするのも。
間抜けにも口を開けたまま彰チャンを見下ろしていると、彰チャンは窺うように俺を覗き込んでくる。それに気付いて、俺は慌てて口を閉じ、覗き込む彰チャンの肩に触れて、期待に満ちた目で彰チャンを見た。
「ねえ、彰チャン。それってさ……」
「私も、建介さんが好き。カフェ以外でも建介さんと会いたいし、会えなくて寂しいと思えるのは、建介さんだけみたい」
「ほ、ほんとに……?」
今彰チャンが言ったことが、嘘じゃないことを願いながら聞き返す。あまりにも彰チャンの言葉が嬉しくて、声が震えてしまっている。
たぶん不安な目をしているであろう俺の質問に、彰チャンは笑いながら頷いてくれた。瞬間、俺は彰チャンの肩から手を離して、代わりに彰チャンの背に手を回し、ぎゅうっと彰チャンを抱き締めた。「わあっ」と驚いた声を漏らす彰チャンを無視して、彰チャンの体温を全身で感じる。
「ああ……彰チャンだあ」
「建介さん?」
「ん、もうちょっとこのまま。俺、今、彰チャン欠乏症」
「なにそれ」
彰チャンの可笑しそうに笑った声も、今は全然気にならない。彰チャンに触れられることが嬉しい。ずっとカフェにいたからか、彰チャンからは甘い香りが漂っている。
膝の間に彰チャンを閉じ込めて抱き締めると、安堵の溜め息が漏れた。と同時に、先日彰チャンに酷いことを言ったのを思い出した。
「ごめんね、彰チャン」
「何が?」
「この間、酷いこと言っちゃってさ」
「いいよ、気にしてない。何か、よく考えたら、建介さんの言う通りだったし」
俺の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きつきながら、彰チャンが言った。俺は彰チャンを放すことなく、首を横に振った。
「良くないよ。俺、彰チャンのこと傷付けた。彰チャンを嫌いになるなんて、絶対にない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
彰チャンが少しだけ俺を抱き締める腕を緩めたのを感じて、俺もようやく彰チャンから少し距離をとった。少しだけ出来た二人の距離。彰チャンは、またしても俺をじっと見上げてくる。俺は片手を彰チャンの背中から離して、彰チャンの右頬に掛かる髪を横に流した。彰チャンを見下ろす顔が、自然と弛んでいくのが自分でもよく分かる。
と、彰チャンの手が掴んでいた俺の作業服から離れて、俺の頬へと上がってきた。両頬を彰チャンの両手で包まれる。未だに、彰チャンは俺を真っ直ぐ見上げている。
「彰チャン……?」
不思議に思って声を掛けたすぐ後に、彰チャンの顔が近付いてきて、唇に彰チャンのそれが合わさった。
「……へ?」
それはほんの数秒で、彰チャンの唇はすぐに離れてしまったけど、今のは確かに、キスだ。
間抜けな顔して彰チャンを見下ろすと、彰チャンは両手を頬から離して、困ったように小さく笑っていた。
「ごめん。なんか、分かんないけど、したくて……」
「いや、いいけど……」
できれば俺からしたかった、なんて言えるはずもなく、俺はお返しにと、短く彰チャンにキスをした。やっぱり、彰チャンからは甘い香りがする。
「なんか、したかったから」
唇を離した後にそう言えば、彰チャンは笑って、また俺に抱きついてきた。かと思えば、背中に腕を回したまま俺を見上げてくる。
「ね、建介さん」
「ん?」
「仕事終わったら、カフェに来てくれる?」
「もちろん」
彰チャンの願いに即答する。もう仕事の後なんて言わず、すぐにでも行きたいくらいだ。
彰チャンは俺の返事を聞いて、嬉しそうに顔を綻ばせた。そんな顔されたら、こっちまで嬉しくなる。
「あのね、今日、朝にバイト行った時、古谷さんにお願いしてチーズケーキ作らせてもらったの」
「彰チャンが作ったの?」
「うん。だから、一緒に食べよ?」
彰チャンの作ったチーズケーキ。一度だけ食べたことあるけど、美味しかったんだよな。
俺は以前食べた彰チャンのチーズケーキの味を思い出し、こくりと彰チャンの言葉に頷いた。
「じゃあ、記念日のチーズケーキだねえ。俺と彰チャンの」
「だね。私、嬉しい時に食べたいのは、いつもチーズケーキだよ」
「俺も。今日のチーズケーキは、絶対美味しいよ。古谷さんのより」
最後に付け足した言葉に、彰チャンは、ははっと声を出して笑った。それから、また、ぎゅうっと俺の背中に腕を回してくる。今度は、顔も俺の胸に埋めて。俺も、彰チャンの背中に腕を回して、彰チャンを抱き締め直した。彰チャンから漂う甘い香りが、余計に今日の仕事の後を楽しみにさせる。
今日のチーズケーキは、絶対格別だ。古谷さんのなんか、目じゃない。
「俺ね」
彰チャンを抱き締めながら、ぽつりと声を漏らすと、彰チャンは顔を上げて俺の話に耳を傾けた。
「甘いチーズケーキも、紅茶も好きだけど、一番は彰チャンだよ」
「うん。私も、建介さんが一番」
そう言って笑う彰チャンが可愛くて、俺はもう一度、彰チャンを腕の中に閉じ込めた。
The end for now...