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後半部分を少し修正。ご指摘くださった方、ありがとうございます。
―チンッ
数字の5が表示された階でエレベーターが止まった。私はエレベーターのドアが開くと同時に足を踏み出し、510号室を目指す。
私が今いるのは、お姉ちゃんの住むマンションで、時間は夜の9時を少し回っていた。
510号室の前に立ってチャイムを鳴らすと、中からお姉ちゃんの「はいはい」という声とスリッパを鳴らす音が聞こえてきて、数秒してドアがガチャッと音をたてて開いた。
「お、案外早かったじゃん」
「うん……」
口の端を上げて笑うお姉ちゃんに頷き、私は室内に入れてもらった。
玄関から真っ直ぐ行ったところにあるドアを開けると、そこがダイニング兼リビングで、私はお姉ちゃんに何も言われなくても左側にあるリビングのソファへと足を向かわせた。テレビの真ん前にあるテーブルには、ビールの缶とコンビニのおつまみがあった。私が来るまでお姉ちゃんが食べてたんだろう。テレビの真ん前にあるソファにお姉ちゃんが座って、私はその斜め前のソファに座る。
「んで? どうしたの、いきなり。今日、バイトは?」
「苅谷さんが今日は帰っていいよって」
「ふうん」
お姉ちゃんがビールに口をつけながら頷いた。私は、今日のバイトで『帰っていいよ』と言った苅谷さんの困ったような顔を思い出した。
建介さんから『嫌い』と言われて、今日で二日経っていた。あれからも、本当に建介さんはカフェには来なくて、建介さんの言ってたことが頭から離れなかった私は、バイトにもまったく身が入らず、苅谷さんが『帰っていいよ』と言ってくれたのだ。
「何かあった?」
「ほれ」と、お姉ちゃんがおつまみのスルメを差し出しながら聞いてきた。それを受け取り、口にくわえて、私は頷く。
今日、お姉ちゃんのところに来たのは、建介さんとのことを話そうと思っていたから。
「……建介さんに、『嫌いになる』って言われた」
「は? 何でまた」
スルメを口に放り込んだお姉ちゃんが、ぽかんと口を開けて言った。
「私が、建介さんを都合のいい癒し相手だって思ってるからだって、建介さんは言ってた」
そこまで言うと、一昨日の夜に言われたことを思い出して、泣きそうになった。建介さんが普段とは違う怒ったような声を出して、でも泣きそうにもなってて、『好き』とも『嫌い』とも言われた。
毎日カフェに来てほしいと思ってる私と、それは嫌だと言う建介さん。私は、前みたく建介さんと仲良くしたい。でも、どうすればいいのか分からない。黙り込んだ私を見て、お姉ちゃんは少し慌てたように「ちょっと待った」と声を掛けた。
「何が原因で一体そういうことになっちゃったの」
「分かんない。ただ、最近は建介さんが全然カフェに来てくれなくなってて……」
それから、私はお姉ちゃんに建介さんがカフェに来なくなった日のことや、一昨日の夜のことを話して聞かせた。
全部を話し終えると、お姉ちゃんが片手で頭を抱えて深い溜め息をついた。小さい声で「なるほどね」とも言っている。
「お姉ちゃん?」
一人だけ納得しているようにも見えるお姉ちゃん。私が声を掛けると、「ああ」と短く返事して顔を上げた。
「結局のところ、彰はどうしたいの?」
お姉ちゃんが、私の顔を見て尋ねる。結局のところも何も、私がしたいことは決まっている。
「だから、私は建介さんと仲直りしたい。カフェにも来てほしいし」
「それだけ? 彰は、建介さんとカフェで会えれば満足?」
お姉ちゃんの質問に私は眉を寄せる。お姉ちゃんの言ったことは、建介さんと同じことだ。
「ていうか、彰はほぼ毎日バイト入れてるんだから、建介さんにカフェに来てほしいってことは、建介さんと毎日会いたいってことでしょ?」
「うん」
それは否定しない。建介さんと毎日会えるなんて、そんな嬉しいことはない。
「んじゃあ、彰は建介さんが好きなんじゃない。建介さんと付き合いたいって思うくらい」
「何でそうなるの」
私の答えに当たり前のようにして言うお姉ちゃんに、つい聞き返してしまった。毎日会いたいと思ったとしても、それが好きってことにはならない気がする。お姉ちゃんは私の質問に、逆に『何で』って顔をした。そして、それから困ったように笑った。
「彰はさ、昔から欲がないよね」
「はあ?」
いきなり何を言い出すんだ、お姉ちゃんは。そう思っていぶかしげにお姉ちゃんを見ても、お姉ちゃんは構わずに話を続ける。
「私とかお母さんが『何かほしいのないの?』って聞いても、毎回『ない』って答えてたし。高校の入学祝いだって『いらない』って言ってたでしょ」
「それが何?」
お姉ちゃんの言ってる意味が分からず、ますます眉間に皺が寄る。
「欲しいならちゃんと欲しいって言わないと、分からない人もいるんだから。彰は、建介さんだから、毎日会いたいんでしょ? 相手が、もし建介さんじゃなくても、毎日会いたいって思う?」
「思わない」
「古谷さんとかと映画観に行きたいって思う?」
「思わない」
お姉ちゃんからの質問を、私はことごとく首を振って否定していく。
毎日会いたいと思うのも、夕食や映画に一緒に行きたいと思うのも、相手が建介さんだからだ。お姉ちゃんは私が首を横に振るのを、ビールを飲みながら面白そうに見ている。
「じゃあ、もう一回質問」
ぐいっと残っていたビールを飲み干すように缶を傾けた後、お姉ちゃんがもう一度私を見てきた。
「彰は、カフェだけで毎日建介さんと会いたい?」
「カフェだけ?」
「そう、カフェだけ。外で会うのとか一切なし」
お姉ちゃんの質問に、私は一旦視線を外して考える。
カフェだけ。外で会うのがなしってことは、前みたく夕食も、お昼を一緒に食べるのもなしってこと。そんなの、つまらない。
私は考えるのを止めて、再びお姉ちゃんを見た。
「やだ。他のとこでも、建介さんと会いたい」
「何で?」
「カフェだけじゃつまらない。建介さんと、もっと他の場所も行きたい」
そう言えば、お姉ちゃんは、にこーっと笑って私の頭を軽く叩いてきた。
「よし、よく言った。たぶん、建介さんも彰と同じこと思ってるわよ。だから、付き合いたいって言ったの」
お姉ちゃんの言葉で、一昨日の夜に泣きそうな顔で『好き』と言った建介さんを思い出した。そうか、建介さんはそう思ってたんだ。
「……建介さん、会ってくれると思う?」
「あんたが今思ったこと、ちゃんと言えるならね」
お姉ちゃんが私の頭を撫でながら言った。
まだ、遅くない。建介さんに会って、私も同じだと、今度はちゃんと伝えられる。伝えて、また建介さんと一緒にいられる。
そこまで考えて、建介さんの家で見た夢を思い出した。私と誰かが、笑いながらチーズケーキを食べている夢。あれは、私と建介さんだ。
「今度、もう一回建介さんと会ってくる」
「そうしなさい」
お姉ちゃんは、私の言葉に満足そうに頷いた。
「さ、もう帰んな。送るわよ」
「うん」
立ち上がり、伸びをするお姉ちゃんに頷いて私もソファから立ち上がる。お姉ちゃんが車のキーを手に玄関に向かった。
「お姉ちゃん、」
「うん?」
「飲酒運転」
車のキーを持ったまま部屋を出ようとするお姉ちゃんを呼び止めて、その手の中にあるキーを指差す。お姉ちゃんは『見つかった』というバツの悪い顔をして、仕方なさそうにキーを元あった場所に戻した。
「こういうところはすぐ気付くのにねえ」
負け惜しみのように嫌味っぽく言って、お姉ちゃんは代わりに上着を取って、玄関へと向かう。その後を追うようにして、私もお姉ちゃんの部屋を後にした。
お姉ちゃんと一緒に歩いて家に向かう途中、建介さんのあの、にこーっと笑った顔を思い出した。
今度、建介さんに会いに行く時は、チーズケーキを作って会いに行こう。