19
彰チャンと唯一会えるカフェに行かなくなって、一週間と二日が過ぎた。つまり、俺は一週間と二日、彰チャンと顔をあわせていない。
彰チャンには、仕事が忙しいからカフェに行けないと言ったけど、あんなの嘘に決まってる。確かに少し書類が溜まってたけど、カフェに行けないほどではなかった。でも、俺はカフェに行ってない。なんだか、今は彰チャンに会いたくなかった。いや、会いたいのは会いたいんだけど、会っても虚しくなりそうで、会いに行けない。
先日、彰チャンが俺を『好き』と言って、でもその『好き』は、微妙に俺が彰チャンに持ってる『好き』とは違ってた。彰チャンの俺に対する『好き』っていうのは、俺が令亜とかを『好き』っていうのと一緒で、つまり、知り合いや家族を『好き』っていう感覚なんだ。たぶん俺はそれを知ってたのに、直接彰チャンからそれを聞いて、かなりへこんだ。彰チャンは俺を知り合いとして『好き』なんだ。
でも、俺は違う。彰チャンの『好き』の理由を聞いてへこんだ時、気付いた。本当は、もっと前から持ってたかもしれない俺の気持ちに。
俺は、彰チャンが『好き』だ。家族とか知り合いとか、そういう『好き』じゃなくて。
***
「はい、真田さん、どうぞ」
「ん? ああ、ありがと」
「どういたしまして」
同じ建築部門で仕事する中里さんが、俺に紅茶を入れてきてくれた。俺がコーヒーじゃなくて紅茶派なのは、会社じゃみんなに知られてる。
俺がお礼を言うと、中里さんはにっこり笑って給湯室に戻っていった。中里さんが、彰チャンだったらいいのに、と思ったのはこれで何回目だろ。彰チャンに会わなくて四日を過ぎたあたりから、そう考えることが増えていった気がする。はあっと溜め息をつき、一旦パソコンを打つ手を止めて、紅茶を啜る。
「あちっ……」
入れたてだったせいか、紅茶が思いの外熱くて思わず舌を引っ込ませると、隣に座っていた同僚が「ばーか」と言って笑ってきた。
「うるせー。ばーか」
ふぅふぅと紅茶を冷ましながら同僚の椅子の脚を蹴ってやる。それに対して何やかやと文句を言う同僚を無視して、再び紅茶に口をつけた。うん、中里さんは最近俺の紅茶をよく入れてくれてるから、甘さはちょうどいいんだけど、やっぱり苅谷さんとこのと比べたら味は落ちるんだよね。まあ、苅谷さんとこは専門なんだから美味しくて当たり前なんだけどさ。チーズケーキにしたって、仕事帰りにコンビニとかケーキ屋で買うチーズケーキよりも、古谷さんの作るチーズケーキの方が断然うまい。
「真田さん」
パソコンの画面を見ながら、ぼーっとそんなことを考えていると、左側から声がした。今度は中里さんじゃなくて、男の声だ。誰だ、と思いつつ首を左に曲げる。まず初めに見えたのが声を掛けた人が履いてる濃いグレーのズボン。それからつつっと目線を上げると、ストライプ柄のシャツを着た桐谷くんが目に入った。
「真田さん、お昼行きませんか?」
「お昼?」
財布を掲げて提案する桐谷くんの言葉に、俺はパソコンの右下にある時計を確認する。時間は12時少し前。周りを見れば、既にお昼に向かってる人たちもいた。
「うん、そうだね。行こっか」
午後の会議までに何とか終わらせる、という同僚を置いて、俺と桐谷くんはお昼を食べに会社を出た。
向かった先は、前にも桐谷くんと一緒にお昼を食べたうどん屋。今回は俺も桐谷くんも、天ぷらうどんを注文した。
「真田さん、最近カフェに行ってないらしいですね」
「え?」
ちょうど俺の分と桐谷くんの分が同時に運ばれてきて、桐谷くんが割り箸を割りながらそう言った。俺はうどんに七味を入れるところだったけど、桐谷くんの言葉にその手が止まってしまった。
何で桐谷くんがそのこと知ってるの。
「彰がわざわざメールしてきたんです。仕事忙しいの、って」
「彰チャンが?」
「はい」
俺が驚いてるのとは逆に、桐谷くんは何でもない風に頷いた。
俺は何も言わずに七味をうどんに入れて、割り箸を割り、うどんに箸をつける。前から桐谷くんの視線を感じるけど、ここは頑張って無視だ。
「真田さん」
桐谷くんが少し怒ったような、戒めるような声で俺を呼んで、仕方なく俺は顔を上げた。思った通り、桐谷くんは俺を非難するような顔をしている。
「何で彰に会わないんですか?」
「……」
『カフェに行かないんですか』じゃなくて、『彰に会わないんですか』っていう質問が、耳に痛い。俺が意図的に彰チャンを避けてるのを、絶対に桐谷くんは分かってる。分かってて、俺に質問してる。
「仕事が忙しくてさ」
「前はパソコン持ってってまでしてカフェに行ってましたよね?」
「……今はもっと忙し……」
「そんなに忙しくないでしょう」
俺の言葉を遮って桐谷くんが言った。桐谷くんにしてみたら、俺が急にカフェに行かなくなったもんで、彰チャンからそれを聞いて不思議に思ってるだけなんだろうけど、俺には俺で、ちゃんとした理由があるんだ。桐谷くんはぶすっと黙り込む俺を見て、はぁ、と溜め息をついた。呆れた、というような溜め息。何だって俺は桐谷くんに呆れられなきゃいけないんだ。
「彰、寂しがってますよ」
俺の知らない彰チャンを知ってる桐谷くん。自分から彰チャンに会いに行かないのに、桐谷くんが俺の知らない彰チャンを知ってることに、何だか嫌な気持ちになる。
俺は結局、彰チャンの知り合いに過ぎない。
「大丈夫だよ。その内、彰チャンも元気出るって」
「真田さん」
へらっと笑って答えると、桐谷くんの声がさっきよりも怒りを増した。俺から見える桐谷くんの後方のテーブルは、サラリーマンのおっちゃんたちが座ってて、何やら笑いながら話をしてる。俺たちのテーブルとは正反対の雰囲気だ。
「真田さん、彰がバイトに来なかった日、寂しかったでしょう?」
彰チャンがバイトに来なかった日? 坂上さんに何か言われて学校にも行かなかった時のことか?
桐谷くんの目は、店に来たときよりも厳しくなっていて、俺を問い詰めるかのような視線を向けてくる。
「何で彰チャンがバイト来なかった時のこと知ってるの?」
「苅谷さんに教えてもらったんです。苅谷さん、言ってました。最近、彰がその時の真田さんと同じ顔してるって」
「同じ顔?」
「真田さんがいなくてつまらないってことです」
桐谷くんの言葉に何も言えなくなる。俺がカフェに行かないことで、彰チャンがつまらなく思ってる。彰チャンがいない時、俺が思ったように。別に俺は、彰チャンを寂しがらせるためにカフェに行かないわけじゃない。カフェに行って、彰チャンと話したいけど、俺を知り合いとして好きな彰チャンと話してても悲しくなるんだ。そんなこと、桐谷くんに言えないけど。
箸を持ったまま黙って俺を見てくる桐谷くんを、ちらっと見やる。
「俺さ、」
きっと桐谷くんは俺が何か言うまで話さないと思って、重い口を開く。
「彰チャンのアドレスも電話番号も知らないんだよね。今思ったら。桐谷くんは知ってるのに」
バカみたいなこと気にしてるって思われるかもしれないけど、言わずにはいられなかった。桐谷くんは知ってるのに、俺は知らないってことが、何か嫌だ。子どもじみた嫉妬からくる感情だと分かってても、嫌なものは嫌だ。
「アドレスとか教えあわなくても、ほとんど毎日会ってたでしょう」
「そうだけど……」
確かに桐谷くんの言う通りだ。彰チャンはほとんど毎日バイトを入れてるから、必然的に俺はほぼ毎日彰チャンと会えてた。
「彰は、人見知りでメール不精だから、あんまり自分からアドレス教えたりしないんです。バイトに行けば、真田さんに会えるっていうのが彰の中じゃ当たり前で、それが楽しみだったんですよ」
「俺も彰チャンに会うのは楽しみだけど、今は彰チャンに会いたくない」
「真田さん、」
『会いたくない』と告げた俺に、桐谷くんは困ったような声を出した。
「だって、俺は彰チャンを好きだけど、彰チャンは俺を知り合いとしてしか好きじゃない。今彰チャンと会っても、俺が虚しくなる」
言うだけ言ってしまうと、俺はどんぶりに乗る海老天にかぶりついた。
彰チャンを好きなことが桐谷くんにバレてしまっても、もうどうでもいい。どうせ、桐谷くんはもう知ってるだろうし。告白したきり黙ってうどんをすする俺に、桐谷くんは小さく溜め息をついて、同じようにうどんを箸ですくった。しばらく二人とも無言でうどんを食べていると、桐谷くんは一度すくったうどんを食べずにどんぶりに戻し、うどんを食べ続ける俺に目をやった。
「彰は、まだ分からないんだと思います」
いきなりな桐谷くんの言葉に、顔を上げて首を捻る。その様子を見た桐谷くんは苦笑を漏らして、そばにあったお茶を一口飲んだ。
「きっと、彰も真田さんが好きなんですよ」
「知り合いとしてね」
「違いますよ。真田さんと同じ気持ちの『好き』です」
否定的な言葉を漏らす俺に、桐谷くんは首を横に振った。意味が分からず、首をさらに捻る。うどんを食べる手はすっかり止まってしまっていた。
「でも、彰はそのことに気付いてないでしょうね。カフェやその他の場所で、真田さんと過ごすことが当たり前になってて。彰は、嫌いな人間とは口も聞きませんよ」
そう言って、桐谷くんは朗らかに笑い、再びうどんをすすって食べ始めた。桐谷くんの言ったことを何とか頭の中で整理しながら、俺もうどんを食べることを再開する。桐谷くんが言いたいことは、つまり、彰チャンも俺を好きってことだろうか。確かに、彰チャンは人見知りの気があるけど、別に俺じゃなくても毎日カフェに来てる人だったら仲良くなってたんじゃないのか。あの、男バイトの大学生とも仲は良いんじゃないか。
そんなことを悶々と考えながら、最後のうどんをすすった。
二人とも食べ終えると、割り勘でお金を払って店を後にした。
あれっきり、桐谷くんは彰チャンのことを口にしなくて、仕事の話なんかを二人でしてたけど、やっぱり俺は頭のどっかで彰チャンのことを考えていた。
午後の7時少し前、自分の仕事が終わった俺は、早々と会社を後にしようとしていた。明日からは、また現場だ。
「真田さん」
地下に降りるエレベーターに乗ろうとしたところで、後ろから中里さんに声を掛けられた。振り向いて中里さんを見ると、彼女も今帰るところらしい。
「お疲れ」
「お疲れです。あの、もしよかったら一杯飲みに行きません?」
一瞬だけ、言うか迷ったような素振りを見せた中里さん。ふふっと、何でもない風に笑う彼女に、いつかの自分が重なって見えた。彰チャンを映画に誘った時の俺に。
ああ、そっか。中里さんは、俺のこと好きなんだ。
「……ううん、やめとく。明日から現場だから。ごめんね」
「あっ、そっか。こっちこそごめんなさい。お酒、残ったら明日ダメですもんね」
「そう。んじゃあ。お休み」
焦ったように謝ってくる中里さんに笑って頷き、俺はエレベーターに背を向けて歩き出した。
「え、乗らないんですか?」
「今日は階段の気分なんだ」
中里さんに背を向けたままひらひらと手を振って、階段に向かう。ああやって誘ってくれても、『あれが彰チャンだったら』って考える俺は、最低な男かもしれない。だいたい、彰チャン彰チャンって言ってるわりに、会いに行ってないのは俺なんだから、本当バカとしか言いようがない。
階段で受付のある一階まで降りた時、誰かが受付の前にある応接セットの椅子に座ってるのが目に入った。階段に背を向けて座るその子は、どこかの制服を着ていて、見ようによっちゃ彰チャンにも見える。というか、あれは彰チャンじゃないか。
「彰チャン……?」
俺が確かめるように声を掛けると、座ってた子はパッと立ち上がって、こちらに振り向いた。やっぱり、彰チャンだ。
「どしたの?」
「あの……古谷さんに、チーズケーキ渡してきてって頼まれて。建介さんにお願いされたやつを……」
「え?」
俺がお願いしたチーズケーキ?
俺、お願いなんかしてないんだけど……。てか、何で彰チャンが?
「建介さん、仕事忙しいんだ」
「あ、うん。全然、カフェに行く時間なくてさ」
「そっか……」
嘘をついた俺に、彰チャンはただ頷いて、俺にチーズケーキの入った箱を差し出した。箱の一番上に小さく鬼の絵が描かれてる。
それを見て、やっと、これは古谷さんが俺と彰チャンを会わせるためにやったことなんだと思い浮かんだ。鬼の絵は、きっと古谷さんの心の中だ。
「ありがと」
「うん……」
チーズケーキを受け取ったはいいけど、何となくこのままじゃ帰りづらい。彰チャンは、どうやって帰るつもりだろ。桐谷くんはもう帰っちゃってるし。
「……送るよ」
自然と、口をついてその言葉が出てきた。
道中は、前に居酒屋から彰チャンを送った時みたく、静かだった。何か喋ろうと思えば思うほど何も言えなくなって、結局、彰チャンの家の前に着くまで二人とも一言も話さなかった。前は彰チャンの家に着かないでほしいと思うくらい、たくさん話してたのに。
彰チャンの家の前に着いて、彰チャンが助手席を降りた後に俺も運転席を降りた。これも、前までは当たり前だったこと。家の前でも少し話してから、『ばいばい』って言ってた。
「彰チャン、」
助手席のドアを閉めた彰チャンを呼ぶと、彰チャンは車体越しに俺の方を見る。俺は運転席からボンネットの方を回って彰チャンの前に立ち、じっと彰チャンを見下ろした。彰チャンは不思議そうに眉を寄せた。
「彰チャンはさ、俺が好き?」
桐谷くんが言ってたことに懸けて、彰チャンに質問してみた。いきなりな質問に彰チャンは驚いていたけど、すぐに首を縦に振った。やった、と思った。彰チャンも、俺を好きなんだと思った。けど、彰チャンの言葉は俺が欲しい言葉じゃなかった。
「好きだよ。前にも言ったじゃん。みんな、建介さんが好きだって」
彰チャンの言葉に、弛んでいた顔が元に戻っていく。
結局、彰チャンにとって俺は知り合いなんだ。
「『みんな』じゃなくて、彰チャンは俺が好き?」
「私? 好きだよ。建介さんのこと嫌いな人って、あんまりいないでしょ?」
「そうじゃなくて……!」
普段は聞かないであろう俺の苛立った声に、彰チャンは言葉を詰まらせた。彰チャンを怖がらせるつもりはなかったけど、こればっかりは譲れない。
「彰チャンが俺のことを人としてとか、知り合いとしてとかの『好き』なら、俺はもう彰チャンに会わないよ。会えない。俺は、彰チャンが好きだ。友達としてじゃなくて、付き合いたいって思うくらい」
「え……、建介さん? いきなり、なに」
彰チャンがわけが分からないという顔で俺を見上げてくる。いつもだったら、そんな顔する彰チャンも可愛いって思っただろうけど、今はそう思わない。むしろ、分かってくれない彰チャンに歯痒い気持ちになる。
「確かにいきなりだけど、でも、好きなんだ。俺は何とも思ってない子を、送ったり、デートに誘ったりしない」
「なに、言ってるの?」
「告白だよ。ねえ、俺のこと嫌いでもいいから、彰チャンの気持ち聞かせてよ。みんなのじゃなくて、彰チャンの」
俺の言葉を聞く彰チャンの目は泳いでいる。自分でも、彰チャンを困らせてるって分かってはいるけど、もうただの知り合いでいるのは嫌だ。彰チャンの気持ちを知りたい。俺のことを嫌いでもいい。でも、はっきり言ってほしい。曖昧なままなのが嫌だ。
何か、もう泣きそうだ。
「だから、好きだって……。建介さんがいないと、バイトも楽しくないし……」
「それだけ? 俺が毎日カフェに行ってたら、彰チャンはそれだけでいい?」
「なに……。建介さん、意味分かんない」
「嘘だよ。彰チャン、分かってる。分かってて、分からない振りしてる。ちょうどいい俺との関係、壊したくないから」
だんだんと、彰チャンの顔が泣きそうになっていってる。頭のどこかで、『止めろ』と警報が鳴る。それを無視して話を続けた。
「彰チャンがただ俺に毎日カフェに来てほしいだけなら、俺はもうカフェには行かない。俺を都合のいい癒し相手だと考えるなら、俺は、彰チャンを嫌いになる。もう会わない」
頭の警報が鳴り止んだ。それは、危険が回避されたからじゃない。危険を通り過ぎたからだ。
目の前の彰チャンは、傷付いた顔をしている。呆然とした顔で、俺を見上げる彰チャン。
俺はそんな彰チャンを無視して運転席に戻り、エンジンを掛けて発進した。バックミラーも見ないようにして、なるべく早く彰チャンから離れた。
彰チャンを、傷付けた。もう、会ってくれないかもしれない。あんな風に泣きそうな彰チャンを見るくらいなら、言わなければ良かったかもしれない。
でも、言いたかった。彰チャンと、ただの知り合いでいるのは、もう嫌だったんだ。
好きなんだ。彰チャンが。