18
何だかすごくいい夢を見た。内容は覚えてないけど、温かい雰囲気で甘いチーズケーキを食べていた気がする。私だけじゃなくて、私と、もう一人の誰かと。
チーズケーキを食べてたってことを覚えてたのは、何でかは分からない。もしかしたら、ショートケーキかもしれないし、チョコレートケーキかもしれない。でも、私が食べてたのは、絶対チーズケーキだ。だって、夢の中は温かくて、嬉しく感じたから。
私が嬉しい時に食べるのは、ショートケーキでもチョコレートケーキでもない。
チーズケーキだから。
「……んー……」
夢が途中で切れてしまって、私は目を覚ました。覚ましたといっても、うっすらと閉じていた目を開けただけだけど。目を開いて、一番に目に入ったのは黒色の薄いセーター生地。そのまま目線を上げると、ソファの背もたれに腕を乗せて、そのまた上に顔を乗せて眠っている建介さんが見えた。
「……けん、すけさん……?」
寝ぼけ眼で建介さんを呼んでみても、まったく反応がない。ぐっすり眠っている。そうだ、私、寝ちゃったんだ。建介さんと出掛ける今日が楽しみで、昨日はなかなか眠れなかったから。建介さんが言った「寝ていいよ」って言葉を、素直に取っちゃったんだ。
「迷惑だよねえ」
依然として建介さんの膝に頭を乗せながら、ぽつりと呟いた。けど、そうは言いつつも、なかなか起き上がる気がしなかった。建介さんのしてくれる膝枕が気持ちいい。
キョロキョロと目だけを動かして部屋を見回すと、テレビは既に切ってあって、ソファの後ろにあるベランダへと続く窓からは、オレンジ色の明かりが入ってきていた。もう、夕方らしい。離れがたいのを押して建介さんの膝から身体を起こし、一人掛けのソファに置いてある鞄に手を伸ばそうとした時だった。どこからか携帯の着信音が鳴って、ピタッと身体の動きが止まる。この音は私のじゃない。よく聞いてみれば、この曲は以前に私が建介さんに貸したCDに収録されている曲だ。
「な、なんだあ……?」
建介さんも突然鳴った着信音に驚いたように目を覚まし、キョロキョロと首を振って辺りを見回した。
「建介さんの携帯じゃない?」
建介さんの隣に腰を下ろした私が言うと、建介さんは驚いたようにこっちを見てきた。
「あ……彰チャン、起きたんだ」
「うん、今さっきに。ごめんね。寝ちゃって」
「いや、いいんだけどさ」
首に手を当てて左右に捻りながら建介さんが言った。首でも痛めたんだろうか。そんな中でも、着信音は鳴り止むことはなくて、建介さんはむっとして携帯をズボンのポケットから引っ張り出した。
「あ、令亜だ。ちょっと、ごめんね」
ディスプレイに表示されたであろう名前を見ると、建介さんは私に一言告げて立ち上がり、リビングにあるドアの方に向かっていって、携帯を耳に当てながらドアの向こうへと入っていった。令亜っていうのは、確か建介さんのお姉さんだ。バレンタインのパーティーの時に、偉そうなおじさんたちと話す令亜さんを建介さんが指差して教えてくれた。遠目から見た感じじゃあ、令亜さんは私よりも背が低かった気がする。そんなことを思い出しながら、ソファから立ち上がって、斜め向かいの一人掛けソファから鞄を取った。鞄の中に入れておいた携帯がチカチカと青い光を放っている。メールが来てるサインだ。
携帯を鞄から取り出してメールをチェックすると、送り主はお母さんだった。
「今日ご飯食べに行くけど、どうする……か」
外食、ということはお母さんの友達と行くんだろう。今日はお父さんが飲み会でいないし。
別にお母さんの友達と仲は悪くない。むしろ、良いと思う。お母さんたちの飲み会に付いていくこともしょっちゅうだ。
「行くに決まってんじゃん」
一人呟いて、お母さんに返信をしようとすると、建介さんが部屋から出てきた。ドアの開く音に反射的に顔を上げると、建介さんは携帯の通話口を肩で押さえながら、少し眉を下げて私を窺うように見てきた。
「彰チャンさ、少し遅くなっても大丈夫?」
「なんで?」
「あの、令亜……姉さんたちが一緒に食事しないかって」
「『たち』って、令亜さんと悠乃さん?」
姉さんたちと言われて、すぐに思い浮かんだのは令亜さんと、もう一人のお姉さんの悠乃さん。
「ああ、悠乃じゃなくて、流那。三番目の姉さん」
違う違う、と携帯を持ってない方の手を振りながら建介さんが言った。流那さんっていうのは、名前しか聞いたことない。というか、私が食事に行ったら邪魔じゃないだろうか。そんなに建介さんのお姉さんと面識があるわけじゃないし。
「姉さんたちが彰チャンに会いたいんだって」
私の考えを読み取ったかのように、建介さんがそう口にした。
私は頭の中でざっと財布の中身を思い出す。そういえば、今日お母さんが念のためって、お金くれたんだっけ。お母さんがくれた五千円を足して、七千円もあれば大丈夫かな。
「……建介さんがいいなら、行く」
「よし、じゃあ行こう」
建介さんがいつものように、にこーっと笑って、携帯を耳に当てて部屋に戻っていった。私も携帯に視線を戻して、お母さんへの返信文を作る。
「建介さんとご飯食べに行くから行かない……っと」
たぶんお母さんはラッキー、くらいにしか思わない。毎回私がお母さんたちの飲み会について行くと、『行くの?』みたいな顔するし。まあ、高二にもなって、お母さんに引っ付いていくのもどうかとは思うんだけどね。
***
「なんで居酒屋なんだよ」
これ、建介さんがお姉さんに言われた来たお店に着いた時の第一声。顔が引きつってる。
私と建介さんが来たのは、全国チェーンの居酒屋。オジサンが一人で切り盛りするような居酒屋じゃなくて、カウンターとか座敷とかがけっこうあるような居酒屋。時間は、七時を少し過ぎてる。結局、私と建介さんは二人して三時間ほど眠っていたらしく、あれからもう一度DVDを観直して、ここにやってきた。
「ごめんね、こんなとこで」
お店へと歩きながら建介さんが謝ってきた。私はそれに「ぜんぜん」と、首を横に振る。
「私、けっこう居酒屋とか好きだよ。前に一回だけお母さんたちとここ来たことあるし」
「あ、そうなの? なら、よかった」
ほっとしたように、建介さんが笑みを見せた。建介さんはこの店が初めてらしく、少しわくわくしているように見えた。建介さんって、顔に出るから面白い。
お店に入ると、何組かのグループが入口横の待ち合いスペースで並んでいた。従業員の人が私たちに気付いて、すまなそうに口を開く前に、建介さんが手を横に振った。
「あの、先に連れが来てるんですけど」
「えーと、お名前は?」
「真田です」
「あっ、真田様なら伺っています。奥のお座敷です」
たまたま建介さんのお姉さんたちの担当がこの人だったらしく、私たちは従業員の後をついてお姉さんたちのテーブルへと向かった。
「ごゆっくりどうぞ」
お姉さんたちのテーブルに着くと、従業員の人は頭を下げて厨房へと戻っていった。
「遅いわよ、建介」
「うるさい」
建介さんのお姉さんのうち、肩を少し越した長さの黒髪に緩いパーマをあてている方のお姉さんが建介さんに声を掛けた。建介さんは、ぶすっとした顔でそれに答えてる。たぶん、この人が流那さんだ。その向かい側にいるのが、令亜さん。茶色のショートボブが似合ってる。
「彰チャン、令亜の隣でいい?」
「あ、うん」
建介さんが令亜さんの隣を指して言うのに、咄嗟に頷く。建介さんは流那さんの隣に座った。令亜さんの隣に座ると、令亜さんは笑って「初めまして」と声を掛けてきた。少し吃りながらも、私も挨拶をする。
……やっぱり、来ない方が良かったかも。初対面の人と話すのって、苦手だ。
「彰チャン……っていうの?」
「はい?」
いきなり、斜め向かいに座る流那さんに名前を呼ばれて、急いでそちらを向く。視線を向けた先の流那さんは、興味津々といった顔で私を見ていた。
「な、何でしょう?」
「いやあ、建介が女の子といるなんて久しぶりだから、どんな子かなと思って」
「はあ……」
流那さんが、あははっと笑って言った。なんか、お姉ちゃんに似てる。
「うるさいよ、流那。彰チャン、何食べる?」
「んー、唐揚げが食べたい」
「唐揚げ?」
「最近食べてないの。お父さんが鶏肉嫌いだから」
そう言うと、建介さんは笑って「そっか」と言い、従業員を呼んでいくつか注文をしていった。建介さんが笑うのを見て思ったけど、やっぱり姉弟だからか、三人とも笑うとよく似てる気がする。特に、令亜さんと建介さんが。
「ねえねえ、何で彰チャンは建介と仲良くなったの?」
片手にビールを掴みながら、流那さんが尋ねてきた。私の横の令亜さんも、知りたそうにしている。建介さんを見ると、何やら難しい顔をして先に運ばれてきたカルピスを飲んでいた。あんまり、二人には知られてほしくないように見える。
「ああ、建介は無視していいから。ダメよ、こんな男のこと考えちゃ」
流那さんが笑いながら建介さんを押しやる。
「えーと……、仲良くなったのは、たぶん建介さんがカフェに来てたからだと思います」
「カフェ?」
「はい。毎日カフェに来て、チーズケーキと紅茶だけ頼んで、パソコン打ってました」
「あんた、毎日ケーキ食べてたの?」
流那さんの呆れたような声に、建介さんは不貞腐れたような顔になった。
「いいだろ、別に」
「男のくせに甘いもの好きって、どうよ」
「うるさいよ」
どうやら、建介さんと流那さんは仲が悪いみたい。どんどん言い争いがヒートアップしていってる。
「私は、男の人が甘いもの好きでもいいと思うけどなあ」
私の一言に、建介さんが言い争いを止めて、にこーっと笑いかけてきた。私もそれに笑い返す。
「ほら見ろ。こういうこと言う子もいるんだよ」
「彰チャンが優しいだけでしょ」
一旦収まりかけたかと思った言い争いが、またしても再熱してきた。どうすればいいか分からず、ぼけっと目の前の二人を見ていると、とんとんと横から肩を叩かれた。
「いつもああだから、気にしなくていいよ」
困ったように笑って、令亜さんが二人を指差した。いくつかの料理を運んできた従業員も、二人の言い争いを横目で見て戻っていく。
「二人って、昔から仲悪いんですか?」
運ばれてきた唐揚げを一つ取って、二人に聞こえないよう令亜さんに尋ねる。令亜さんは少し考えて、首を傾げた。
「昔からっていったら、昔からかな。幼稚園通ってる時から、しょっちゅうケンカしてたしね」
「へえ……」
令亜さんの言葉に、少し驚いてしまう。いつもにこにこしてる建介さんがケンカするところは、正直想像できない。私の中では、『建介さんは優しい人』という風に定義付けられている。驚きが顔に表れたのを見た令亜さんが、控えめに笑った。何がおかしいのかと思って令亜さんを見ると、令亜さんは「ごめんね」と言って笑いを引っ込めた。が、口元に笑みは残っている。
「建介って、彰ちゃんの前じゃ、優しいの?」
「はい。かなり」
「そっか。まあ、流那と建介は一つしか違わないから、ケンカしちゃうんだと思うよ。年が離れてたら、そんなこともないんだろうけどね」
そう言いながら、令亜さんは建介さんと流那さんを見た。二人は未だに言い争っている。何か、段々と内容が幼稚なものになっていってる気がする。私とお姉ちゃんは、11も年が離れてるからか、ケンカなんてしたことない。お姉ちゃんとしては、周りに妹や弟がいて自分にいないのが寂しかったらしい。お母さんがいない時は、お姉ちゃんが私の子守りをしてたし。
「彰チャンだって、本当はあんたみたいな男、嫌いかもよ」
「なんで、そこで彰チャンが出てくるんだよ」
二人の言い争いに私の名前が出てきて、つい二人を見てしまう。すると、こちらを向いた流那さんとちょうど目が合ってしまった。
「ねえ、彰チャンッ」
「はい……?」
目を逸らす前に声を掛けられ、仕方なく返事をする。
「建介みたいな男って、ダメよね? 正直に言っていいから」
怖いくらいの笑顔で言われて顔が引きつってしまう。一体、建介さんの何がダメで何が良いのかも分からない。私からしてみれば、建介さんは良い人だ。
「流那、彰チャン、困って……」
「私は、建介さんのこと好きですよ?」
「……へ?」
私の言葉に真っ先に反応したのは、建介さんだった。口を半開きにして、ぼけーっとした顔で私を見ている。建介さんの隣に座る流那さんも驚いた顔になっていた。
「本当に?」
流那さんが驚いた顔のまま聞いてきた。私はそれに頷く。
「だって、優しいし、良い人じゃないですか。たぶん、古谷さん……あ、パティシエなんですけど、古谷さんも建介さんのこと好きですよ」
「……あ、ああ、なるほどね」
私の答えに、やや間があって、流那さんが数回頷いて返事をした。その煮え切らないような返事に僅かに首を傾げて建介さんを見ると、建介さんは建介さんで、苦笑というか、困ったような笑い方をしていた。私の視線に気付いた建介さんは、その困ったような笑顔で「何でもないよ」と言い、グラスのカルピスを一気に飲み干した。
食事が終わると、令亜さんたちと別れて、建介さんに車で送ってもらった。
バイトの帰りとか、いつもなら建介さんと会話が弾むのに、今日は建介さんは黙ったまま運転していた。建介さんが喋らないから、私も喋らなくて、車内には私の貸したCDだけがずっと流れていた。
「それじゃあ、お休み」
「うん。……ねえ、」
私の家の前で建介さんがさよならを言って車に戻ろうとしたのを、私は咄嗟に引き留めた。このまま別れるのは、何だか寂しい気がした。建介さんは私の引き留めに「ん?」と言って振り返る。
「……月曜日も、カフェ来るよね?」
明日の日曜日は私のバイトはないけど、月曜日はある。何でか、建介さんがカフェに来てくれない気がして聞いてみたんだけど、予感通り、建介さんは困ったような顔をした。
「ちょっと、最近になって忙しくなってきたから、二、三日は無理かな」
「そっか……」
来ないんだ、建介さん。それは、寂しいかもしれない。私が黙っていると、建介さんは思い出したように声をあげて、車に戻った。助手席のドアを開けて何かをする建介さんは、すぐにCDを手に私のところに歩み寄ってきた。
「CD、返しとくよ」
「え、別に今度でいいよ。二、三日来られないだけでしょ?」
「そうなんだけど、一応ね」
「はい」と、建介さんはほぼ無理やりにCDを私に渡してきた。どうして今日返すんだろう。いつだっていいのに。
「じゃあ、お休み」
「……うん」
これ以上建介さんを引き留めることも出来なくて、建介さんが車に乗り込むのを、ぼーっと見ていた。建介さんが最後に手を振るのに振り返して、車が見えなくなるまで見送った。
二、三日。そうだ、二、三日来ないだけ。すぐにまた、カフェに来てくれる。そう考えて、力ない声で「ただいまー」と、家のドアを開けた。
けど、二、三日どころか、一週間経っても建介さんはカフェに来なくて、私はバイトで建介さんに会う楽しみがなくなった。学校では建介さんを見ることが出来るけど、それだけだ。
建介さんとの接点がなくなったようで、寂しいし、悲しかった。