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カタカタカタカタ……
カタカタ……カタ……
「はあ……」
『楠学園改装工事、中間報告書』という文字をパソコンに打ったところで、俺は溜め息をついた。俺の周りでは、会社の人たちが忙しげに仕事をしている。
今日は現場には行かずに、会社に来て、この中間報告書を作っていた。でも、何だか身が入らない。やる気が起きない。
きっと、それは、彰チャンのせいだ。最近の彰チャンは、いっつもあの『スペイン帰りの純にい』とやらの話をする。
面白くない。つまらない。
でも、『純にい』の話をする時の彰チャンは好き。だって、話してる間中、にこにこ顔なんだ。可愛いんだよー。
って、俺がこうやってつまらない顔してても、周りは騒がしい。
ばかやろー。
いつまでもぶつぶつ文句言ってたって仕事が進まないので、仕事に戻ることにした。もう一度パソコンと向かい合って、中間報告書の続きを打とうとした時。インテリア部の方から歩いてくる令亜が目に入った。その後ろにもう一人、誰かがついてきている。誰だ?
「みんな、今日から来る研修生よ」
令亜が建築部門のところまで来て、全員に聞こえるように声をあげた。仕事していたみんなが令亜の声に顔を上げる。研修生っていうのは、その名の通りなんどけど、うちの会社は大学なんかと提携していることから希望者の学生を研修生として受け入れてるのだ。
俺は一旦パソコンを打つのを止めて、椅子の背に身体を預ける。ギシッと椅子が音をたてた。令亜が後ろに立っている人を手招きで自分の前に来させ、その人は緊張した様子もなく、令亜に少し頭を下げ、一歩前に出た。耳まで見える短い、色素の薄い髪のその人。
「……あ、」
前に出たその人の顔を見て、つい声が出てしまった。みんな、前に出てるその人も俺の方を見る。その人も、俺に気付いたようで小さく笑った。
「初めまして、」
その人が喋りだして、みんな焦ったように俺から目を放した。
「今日から研修に来ることなった桐谷純です。二年半ほどスペインに留学していました。今は大学四回生です。今日から一ヶ月、よろしくお願いします」
その人――桐谷純がそう言って頭を下げると、パチパチと部所にいた人たちから拍手がおこる。俺はただ驚くばかりで、拍手をするのも忘れて、ぼーっと桐谷くんを見ていた。
桐谷くんの挨拶が済むと、令亜は近場にいた人に桐谷くんを頼み、建築部門から出ていった。桐谷くんも紹介された人と一緒に部所を出ていく。これから社内案内でも行くんだろう。俺は部所を出ていく桐谷くんの背中を見ながら溜め息をついた。
なんでよりによって、うちの会社に『純兄』が来るのさ……。
***
午前中のうちに報告書をまとめて、やっとこさチーフに提出できた。昼休みになって、鞄から財布を取り出しながら今日は何を食べようか考える。
パスタは昨日食べたし、なんかあっさりしたのがいいな。あ、うどんにしよ。
「あの、真田さん」
「へ?」
財布がなかなか出てこなくて鞄の中を漁っていると、後ろから声が掛かった。誰だ、と思いながら後ろを向くと、そこに立っていたのは研修生の桐谷純くん。手には財布を持っている。
「あ、どうも。どうかした?」
左手は床の鞄に手を突っ込んだまま、桐谷くんに尋ねる。
「えーと、お昼、一緒にどうかと思って」
「一緒に?」
持っていた財布を少し上げてみせ、笑う桐谷くん。まだ片手は鞄に突っ込んだままでマヌケな返事をした俺に、桐谷くんは「はい」と答えた。
「ん、いいけど。俺、昼、うどんだよ?」
「うどん、好きですよ。僕も」
やっと取れた財布を鞄から引き抜きながら尋ねると、桐谷くんはにこりと笑った。
会社から程近いうどん屋で、俺と桐谷くんは店の隅にある場所で向かい合って座り、うどんを食べていた。桐谷くんはきつねうどん。俺はご飯とセットになってる小さめのうどん。
「彰と仲良いんですね」
うどんに七味を入れながら桐谷くんが言った。俺は割り箸を割って、うどんを取りながら苦笑して首を傾げる。
「仲良いっていうのかな、あれは」
「良いですよ。彰は真田さんのこと好きなんでしょうね」
「ぶっ」
突然の桐谷くんの発言に、口の中に納まりきってたうどんを吹き出してしまった。
何を言うんだ、いきなり。おしぼりで口を拭きながら桐谷くんを見ると、可笑しそうに笑っていた。
「冗談じゃないですよ?」
俺の言葉を先回りするように桐谷くんは言う。
「たまに彰とメールすると、真田さんのことばっかり話してますよ。あの人見知りの彰が」
「俺といる時は、桐谷くんのこと話してるよ?」
「ああ。それは僕が帰ってきてまだ一週間くらいしか経ってないからですよ。もう少ししたら、僕のことも話さなくなりますよ」
ははっ、と軽く笑いながら桐谷くんは言うけど、何かなあ。
彰チャンが俺を好き?
人としてってことか?
「真田さんも好きでしょ?」
「誰のことを?」
「彰のことを」
………え?
んー? 好き? 俺が? 彰チャンを?
「まあ、一緒にいて楽しいよ」
「……そうですか」
桐谷くんはそう言って、またうどんを食べ始めた。
それからは彰チャンのことも話さなくなって、俺が桐谷くんにスペインのこと聞いたり、桐谷くんが俺に会社のこと聞いたり。桐谷くんは、本当に建築に興味があるみたいで、大学に入ってからずっとうちの会社に来たかったみたい。
桐谷くんって、いいやつだ。うん。
お昼ご飯が終わって、会社に戻ると、桐谷くんはまた令亜に呼ばれてインテリア部の方に戻っていった。俺も自分のデスクに座って、自分の仕事に取りかかる。今日は彰チャンのバイトがないみたいだから、ゆっくり仕事しよう。彰チャンがいないなら、カフェ行っても楽しくないし。
夜の七時ちょっと前になって、ようやく仕事も終わった。ノートパソコンを鞄にしまって、ざっとデスクを片付けてから部所を出ようと、足を出口の方に向ける。まだ残っている何人かの人にさよならを言って、部所を出て、エレベーターホールに出ると、そこの椅子に桐谷くんが座っていた。
「あれ、桐谷くん?」
「あ、真田さん。待ってました」
「待ってた?」
桐谷くんの言葉に首を傾げながら近付くと、桐谷くんは立ち上がって頷いた。桐谷くんの肩にはカーキ色のショルダー鞄が下がってる。
「話がしたくて、夕食に誘おうと思ってたんです」
「ええ?」
「何か予定ありますか?」
「いや、ないけど」
俺の答えを聞いて、「良かった」と笑って、エレベーターの下がるボタンを押した。桐谷くんって、意外と強引な人だな、と開いたエレベーターに乗り込みながら思った。
エレベーターが地下に着いて、二人してエレベーターを降りる。桐谷くんは、何でか知らないけど、エレベーターに乗ってる間ずっとにこにこ笑ってた。俺と夕食行けるの、そんなに嬉しいのかな。桐谷くんがエレベーターホールがある場所のドアを押し開ける。
「純兄!」
んん?
桐谷くんが先に駐車場に出ると、嬉しそうな声が聞こえた。その声は、俺もよく知ってる人の声。
「あ、彰チャン?」
「あれ? 建介さん?」
少し急いで俺も駐車場に出ると、やっぱりそこにいたのは彰チャン。今日は制服じゃなくて、ジーンズ姿だけど。
な、なんで彰チャンが?
「ああ、彰も誘ったんです」
俺の驚きを察した桐谷くんが笑って言った。そして、桐谷くんが彰チャンに俺がいていいか聞くと、彰チャンは迷う様子もなく賛成する。
「じゃあ、行きましょう? 僕、真田さんの友人のレストランのこと彰から聞いて、行ってみたいと思ってたんですよ」
「あそこの料理、美味しいよね。建介さん」
「え、あ、うん。美味しい」
彰チャンの声で、ぼけっとしていたのからはっとなって答える。俺の答えを聞いた彰チャンは満足そうに笑って、「じゃあ、行こ?」とにこにこして駐車場を歩き出した。桐谷くんもその横を歩き出して、また俺ははっとなる。
「ちょ、ちょ!」
どんどん先に歩いていく彰チャンと桐谷くんの後を、まだ混乱したままの頭で、俺は追いかけた。