第9話「水路ができたなら、次は風呂だ」
体が、臭い。
自分で言うのもなんだが、もう限界だった。水路建設で全身に染みついた汗と土の匂いが、寝転がるたびに鼻をつく。
川の水で体を拭く程度ではどうにもならない段階に来ている。
俺は前世の記憶を辿った。
ブラック企業時代、唯一の救いは帰宅後の風呂だった。肩まで湯に浸かった瞬間、一日分の疲労が溶け出す、あの感覚。
質の高い怠惰には、風呂が不可欠なのだ。これは信念であり、前世から引き継いだ魂の叫びである。
問題は一つ。
風呂桶を満たすほどの湯を沸かすには、大量の薪がいる。水路のおかげで水運びの地獄からは解放されたが、今度は薪割りの地獄が始まるのでは本末転倒だ。
楽になるために苦労が増えるなんて、俺の辞書には載っていない。
かまどの前で芋を煮ているマーレンの背中を、ぼんやり眺める。
石壁に手を当てると、じんわりとした熱が伝わってきた。排気口のあたりは触れていられないほど熱い。
この熱、全部捨ててるのか。
頭の奥で、カチリと何かが噛み合った。
「マーレン。風呂を作る」
「風呂?」
マーレンが振り返る。汗で額に張りついた赤毛を手の甲で払い、怪訝な顔をした。
「嬉しいけど、薪はどうするの。あたしが毎日割ると思ってるなら大間違いだからね」
「お前が飯を作ってくれるだけでいい」
俺はかまどの石壁を指差した。
「ここ、触ってみろ。めちゃくちゃ熱いだろ。料理に使ってる火力のうち、半分近くは石に吸われてそのまま空気に逃げてる。その捨ててる熱で水を温める。追加の薪はゼロだ」
マーレンが目を瞬かせた。
「……つまり、あたしが普通に飯を作るだけで?」
「勝手にお湯になる」
すでにスキルに問いかけていた。
『一番手抜きで大量の湯を得る方法を出せ』と。
頭の中に、声が落ちてくる。
『かまどの排気口に蓄水槽を密着させろ──料理で生まれた熱が石壁を伝い、水を加温する。日に一度の煮炊きで、大人一名分の入浴に十分な湯量が得られる。追加の薪はゼロ』
つまり、マーレンが毎日の飯を作ってくれるだけで、隣に置いた水が勝手にお湯になるという寸法だ。
直火で沸かすより時間はかかる。だが何もしなくていい。
何もしなくていい。この言葉の甘美さよ。
***
設計が決まれば、あとは力仕事だ。
カルルとテオを呼びつけた。
「かまどの裏に水路の分岐を引いてくれ。角度はここと、ここ」
地面に枝で線を引き、あとは丸投げした。
細かい傾斜の調整だけは俺がやるしかなかったが、それ以外は日陰に座って指だけ動かす極楽監督である。
カルルが汗を拭きながら「またっすか」と口を尖らせる。テオが無言でカルルの首根っこを掴み、作業に戻した。
マーレンはかまどの前を離れず、昼飯の仕込みを続けている。俺が寝転がっている間にも、鍋からは煮込み料理のいい匂いが漂ってきた。
半日後。
俺はかまどの裏に完成した石造りの浴槽に近づいた。蓋代わりに被せた大きな葉を、ゆっくりめくる。
ふわり、と白い湯気が立ち昇った。
夕暮れの空に溶けていく、柔らかな白。
マーレンが煮込み料理を作っていた数時間のあいだに、かまどの石壁から伝わった熱が、水をじんわりと適温まで温めていたのだ。
木の枝を湯に差し入れ、引き上げる。指先に触れた温度に、思わず息が漏れた。
「……完璧だ。文句なしの湯加減」
「嘘でしょ。ただ飯作ってただけなのに、お湯が沸いてる……」
マーレンが浴槽を覗き込み、湯気に目を細めた。
「こんなの、旧大陸でも聞いたことないわ」
「さあ、一番風呂は俺が──」
言いかけて、口を閉じた。
マーレンの服は、森を彷徨っていた頃のままだ。泥と汗の匂いが布に染みついている。
料理の合間に、ふと自分の袖を嗅いで顔をしかめていたのを、俺は知っていた。
「……ちっ」
小さく舌打ちして、浴槽から離れた。
「おい。一番風呂は譲ってやる」
「えっ。いいの?」
「お前ら臭いんだよ。飯が不味くなる」
憎まれ口を叩いて背を向ける。
背後で、マーレンが小さく息を呑む気配がした。
「……ありがと。ほんとに」
静かな、だが確かな声だった。
俺は手をひらひらと振って、拠点の表側に回った。
***
焚き火の前に座り、干し肉を齧る。
ちゃぷん、と背後から心地よい水音が聞こえてきた。
──俺が楽しむのは二番風呂でいい。湯はまだ温かいだろう。別に優しさとかそういうのではない。臭い人間が近くにいると安眠に障る。それだけだ。
干し肉を噛み切り、焚き火の炎を見つめる。
水路があって、飯があって、もうすぐ風呂にも入れる。ようやく、まともに怠けられる土台が整いつつある。
数十分後。
ちゃぷん、ざばぁ、と派手な水音のあとに、マーレンの溜め息が夜空に抜けた。
「いやぁ……極楽。お肌つるっつるになっちゃった」
風呂から上がったマーレンが、大きな葉で濡れた赤毛を拭きながら焚き火のそばに来た。
火照った頬。汚れが落ちて本来の白さを取り戻した肌。鎖骨を水滴が一筋伝い、焚き火の明かりを受けて光る。
濡れた服が体の線に張りついて──目のやり場に困る。
俺は視線を焚き火に戻した。干し肉を口に押し込み、ひたすら噛む。
「なによ、変な顔して」
「してない」
「してる。耳、赤いよ」
マーレンが面白そうに覗き込んでくる。俺はわざとらしく立ち上がり、焚き火の反対側に移動した。
「さっさと火にあたれ。風邪引くぞ」
「はいはい」
マーレンが焚き火の前にしゃがみ込み、濡れた髪に指を通す。しばらく炎を見つめていたあと、ぽつりと言った。
「……ねえ、ユウト」
「なんだよ」
「あんたのおかげで、人間らしい暮らしができてる。恩に着るわ」
ふわり、と笑った。
初対面のころの、警戒心に尖った目とは違う。年相応の、柔らかな表情だった。
……悪くない夜だ。
その後ろからカルルが「次は俺っすよね!?」と駆け寄り、テオに首根っこを掴まれて「年長順だ」と引き戻されていた。
全員が順番を争っている。半日前まで渋い顔で石を運んでいた連中が、目を輝かせて湯を待っている。
***
風呂の順番を待ちながら、ぼんやりと星空を見上げていた。
明日からは心置きなく昼寝の時間を増やせるだろう。そう思いながら、夜風に当たるために拠点の外へ出たときだった。
──ぞくり、と。
背筋に、冷たいものが走った。
森の奥。焚き火の光が届かない暗闇の中に、何かの気配がある。
獣ではない。もっと静かで、知性のある──こちらを『観察している』ような視線。
頭の奥でスキルが微かに反応した。だが声は途切れ、判定が返ってこない。
振り向いたときには、もう何もなかった。
木々の間に揺れる影も、枝を踏む音も、何一つ。
「……気のせいか」
そう呟いて、拠点に戻る。
だが風呂上がりで温まったはずの背中が、じわりと冷えたままだった。




