第80話「銀耳姫と怠惰の賢者」
地響きが、集落を震わせている。
だが──誰も、逃げていない。
ルナが空を見上げて「だいじょうぶ。こっちには、こない」と言ったからだ。
夜明け前から始まった地鳴りは、もう半刻以上続いていた。
集落の南東、俺たちが匂いの植物とフェンスで作った誘導路の先。
そこを、山のような影が進んでいる。
トロール。
マナを含む植物を喰いながら移動する、巨大な魔獣。
知能は低い。だが、踏まれたら終わりだ。
ルナが目を閉じ、鼻をひくひくと動かす。
「……まがった。ひだり」
耳がぴくぴくと忙しなく動いている。
嗅覚で、あの巨体の進路をリアルタイムに追っているのだ。
「もうすこし……もうすこし……」
住民たちが息を詰めて見守っている。
カイが大剣を握ったまま、じっとルナの言葉を待つ。
「──こっちには、こない!」
ルナの耳がぴんと立った。
銀の瞳が大きく見開かれて、俺を見る。
「ユウトさん、うまくいった! 東のたに、いった!」
地響きが、ゆっくりと遠ざかっていく。
フェンスの匂いと谷の地形に誘導されて、トロールは集落の東側を通過した。
……被害、ゼロ。
しばらくの静寂。
鳥が、一羽鳴いた。
次の瞬間、広場が爆発した。
「やった──!」
「ルナちゃんの鼻がなかったら終わってたぞ!」
「賢者さますげえ! 戦わずにやり過ごしたぞ!」
住民たちがルナを取り囲む。
ルナの耳がぴこぴこと忙しなく揺れる。尻尾がぶんぶん振られて、近くにいた住民の脚を叩いた。
「あ、ごめんなさい! しっぽ、うれしくて……」
住民が笑う。
ルナも笑う。
その笑顔に、もう「よそ者」の影はなかった。
カイが大剣を背中に戻して、大きく息を吐いた。
「……あの化け物を、戦わずにやり過ごすとか。お前ほんと、どういう頭してんだ」
「めんどくさいことを避ける頭だ。……ああ眠い。徹夜は二度とごめんだ」
本音だった。
昨夜の見張りから一睡もしていない。
早く寝たい。切実に寝たい。
だが、周りがそうさせてくれなかった。
「賢者さま! あの仕掛け、このまま残しておけば次にトロールが来ても安心ですね!」
ドスが興奮気味に言う。
レオンが横で頷いている。
……まあ、そうだな。
脳裏でスキルが動く。
『誘導経路の恒久化を提案──フェンスの素材を耐久性の高い硬木に置換──匂いの植物を経路沿いに植栽──季節ごとの補充手順を策定──以降のトロール通過時にも自動的に集落を迂回する仕組みが完成──』
仕組みさえ作れば、あとは勝手に回る。
俺が寝ていても。
理想的だ。
「分かった。経路を恒久的なものにする段取りは後で──」
「「おおおお!」」
住民たちの歓声で、言葉の続きがかき消された。
……最後まで聞けよ。「後で」って言いかけたんだが。
マーレンが腕を組んで、にやにやと俺を見ている。
「あらあら。あんた、やるじゃない」
「やりたくなかっただけだ。戦うのは効率が悪い」
「はいはい。で、一睡もしてないのに元気そうね?」
「……元気じゃない。今すぐ倒れたい」
住民の一人が、声を張り上げた。
「賢者さまと銀耳姫が集落を守った!」
銀耳姫。
……誰だそれ。
「銀耳姫?」
ルナがきょとんとしている。
耳がぴこりと傾いた。
「あたし?」
住民たちが口々に言う。
「ルナちゃんの銀色の耳が集落を救ったんだ!」
「銀耳姫! ぴったりじゃないか!」
ルナの頬が、じわりと赤くなった。
耳がぺたんと伏せて──それから、ぴこんと跳ねた。
「銀耳姫……えへへ」
満更でもない顔だった。
尻尾が、ゆらゆらと嬉しそうに揺れている。
「勝手に決めるな。あと賢者さまもやめろ」
俺の言葉は、誰にも聞かれていなかった。
前は一人で静かにやるのが最高の効率だと思っていた。
余計な人間がいない方が楽だし、邪魔が入らない方が早い。
……だが。
ルナの鼻がなければ、トロールの接近に気づけなかった。
カイの腕力がなければ、一晩でフェンスは立たなかった。
マーレンの炊き出しがなければ、徹夜の作業は持たなかった。
住民たちが動かなければ、匂いの植物は集まらなかった。
人族と獣人。
一緒にいると──効率がいい。
……認めよう。
その言葉を、声に出すつもりはなかった。
なかったのだが。
「ユウトさん」
ルナが俺の前に立っていた。
銀の瞳がまっすぐこっちを見ている。
耳がぴこぴこ。尻尾がゆらゆら。
「いま、なんか言った?」
「……独り言だ」
「うそ。聞こえた」
獣人の耳を舐めていた。
いや、舐めてはいない。甘く見ていた。
「ユウトさん、『いっしょにいると効率がいい』って言った」
……聞こえてたのか。全部。
「それ──うれしい」
ルナの耳がぴこんと跳ねた。
頬が赤い。でも、目はまっすぐだ。
「あたしがいると、ユウトさんが楽になる。それ、すごくうれしい」
なんだその解釈は。
合ってるんだが。合ってるから困る。
「……まあ。お前の鼻は便利だからな」
「便利! えへへ」
褒め言葉として受け取るな。
いや、褒め言葉なんだけど。
マーレンが遠くから「いい絵面ねえ〜」と叫んでいる。
カイが「お前ら朝から何やってんだ」と笑っている。
……早く寝たい。
──その夜。
集落はまだ宴の余韻に浸っていた。
マーレンがありったけの食材で祝いの飯を作り、住民たちは日が暮れても騒いでいる。
俺は家の外に出て、夜風に当たっていた。
眠いのに眠れない。徹夜明けのくせに、妙に頭が冴えている。
ふと、西の方角を見た。
西の森。
あの森、前から気にはなっていた。
だが調べに行くのはめんどくさいし、差し迫った理由もなかったから放っておいた。
東に海。南に草原。北に山脈。
西だけが、手つかずのままだ。
「ユウトさん」
ルナが隣にやってきた。
星明かりの下で、銀の髪がかすかに光っている。
しばらく二人で、黙って星を見ていた。
虫の声が遠くで鳴いている。宴の喧騒が、風に乗って届く。
不意に、ルナの耳がぴくりと動いた。
続いて、もう一度。
ぴくり。ぴくり。
鼻がひくひくと動く。
西の森を──じっと見つめている。
「……ユウトさん」
声のトーンが変わった。
宴の笑顔とは、別の顔。
「森から、だれかの匂い。ずっと前から……見てるの」
「……何の匂いだ?」
ルナが首を傾げた。
耳がぴくぴくと忙しなく動いている。
「わからない。でも……木の匂いと、花の匂いがする」
木の匂いと、花の匂い。
森の中に住んでいる、誰か。
星空の下、ルナが西の森をじっと見つめている。
耳がぴくぴく。鼻がひくひく。
「……ずっと前から、いるの。見てるの」
木の匂いと、花の匂い。
西の森の奥に、何かがいる。
──いや。誰かが、いる。
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