第79話「けしからん体温」
焚き火が一つ、闇の中で燃えている。
トロール誘導用のフェンスは完成した。匂いの草も配置した。
あとは──来るのを、待つだけだ。
空には星が散らばっている。
風もない。虫の声だけが、やけに大きく聞こえる。
見張り台は集落の南端に作った急ごしらえの木組みで、大人二人がぎりぎり座れる程度の広さしかない。
カイたちは交代で仮眠を取っている。
最初の番は、俺とルナだ。
……なんで俺が最初なんだ。
カイは「ルナの鼻が一番必要だから、お前がセットだ」と当然のように言い放った。
理屈は分かる。ルナの嗅覚でトロールの位置を追跡し、俺がそれを判断する。合理的な組み合わせだ。
合理的なのは認めるが、徹夜が嫌いなのは変わらない。
寝たい。布団に入りたい。
「ユウトさん」
隣でルナが小さく声をかけてきた。
銀色の耳が、月明かりに淡く光っている。
「トロール、まだ遠い。あたしの鼻があるから、だいじょうぶ」
そう言って、にこっと笑う。
耳がぴこぴこと揺れた。安心させようとしているらしい。
「……分かった。任せる」
ルナの嗅覚は集落で一番信頼できる索敵手段だ。
こいつが「まだ遠い」と言うなら、しばらくは来ない。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
火の粉が闇に舞い上がって、すぐに消える。
星を眺めながら、ぼんやりと時間が過ぎた。
しかし、寒い。
昼間の熱気が嘘のように、夜の空気は冷えている。吐く息が白くなりかけていた。焚き火の温もりは正面だけで、背中がじわじわと冷えてくる。
せめて毛布を持ってくるべきだった。
準備の段階で思いつかなかった自分が恨めしい。
「……さむい」
ルナが、ぽつりと呟いた。
銀色の耳がぺたんと伏せている。
尻尾を自分の体に巻きつけて、小さく丸まっていた。
獣人は人族より体温が高いと聞いたが、寒いものは寒いらしい。
「もっと火に寄れ」
「ユウトさんの方が、あったかい」
──え?
言い終わるか終わらないかのうちに、ルナがぴたりと横に寄ってきた。
肩がくっつく。
腕が触れる。
銀色の耳が、俺の首筋に当たった。
柔らかい。
そして──温かい。
ふわふわの毛並みが首の横にぴたっと押し当てられて、そこから体温がじんわりと染み込んでくる。耳の中はこんなに温かいのか。人族にはない感触だ。毛布よりずっと柔らかくて、ずっと温かい。
「っ……」
声にならない声が喉の奥で詰まった。
「ルナ。近い。近いぞ」
「さむいから」
理由が端的すぎる。
しかも「さむいから」と言いながら、さらにぐいっと体を寄せてきた。小さな体が俺の腕に密着している。布越しに伝わる体温は、確かに高い。人族より二、三度は高いだろう。
……けしからん。
この温かさはけしからん。
そのとき、脳裏にスキルの文字列が浮かんだ。
『体温を分かち合うことで代謝の巡りが一割八分ほど上がる。さらに密着の度合いを高めれば──』
やかましい。
全力で無視した。
密着の度合いをこれ以上高めてどうする。首を刈られる。
ルガの金色の瞳が脳裏をよぎった。
「妹に手を出したら──首を刈る」
あの声、あの目。忘れられるわけがない。
首は大事だ。首がなくなったら寝られない。
寝られないのは困る。だから離れるべきだ。
──なのに。
「ユウトさん、あったかい……」
ルナが目を細めた。
耳がぴこぴこと動いている。嬉しいときの動きだ。
尻尾が──ふわりと、俺の腰に巻きついた。
柔らかい毛並みが腰の周りを包む。もふもふの塊が、まるで生き物のように俺の体にぴったりと馴染んだ。温かい。重みがある。でも不快じゃない。全然不快じゃない。
むしろ、めちゃくちゃ心地いい。
……いかん。
理性が溶ける。
焚き火の灯りが、ルナの横顔を照らしていた。
銀色の髪が炎の色に染まって、琥珀の瞳がとろんと揺れている。
眠そうだ。
「……寝るな。見張りだぞ」
「ん……だいじょうぶ。鼻は、起きてる」
何を言っているのか分からない。
だが獣人の嗅覚は半ば本能で動くらしいから、寝ていても匂いは感知できるのかもしれない。
ルナの体重がじわりと預けられてきた。
肩にもたれかかるように、少しずつ傾いてくる。
月明かりが銀色の耳を照らしていた。
柔らかな毛並みが光を受けて、淡く輝いている。
その耳が、規則正しく、ゆっくりと上下していた。
──寝やがった。
しょうがない。こいつを起こしたら、それはそれで面倒だ。
このまま寝かせておく方が効率的だ。
効率的なだけだ。それ以外の理由はない。
……ない、はずだ。
ルナの耳が、呼吸に合わせてぴくりと動いた。
近い。
今まで何度も見てきた銀色の耳が、今はもう目と鼻の先にある。
焚き火の灯りで、毛の一本一本まで見えた。
根元は濃い銀で、先端に向かうにつれて白く透けている。
薄い皮膚の下を、細い血管が走っているのがうっすらと分かった。
温かそうだった。
柔らかそうだった。
右手が、勝手に動いた。
指先が、ルナの耳に触れた。
──ふにゃ。
柔らかい。
湯上がりのときとは違う。乾いた毛並みの、ふわふわとした弾力。指の腹に触れる銀色の毛は、綿毛のようにきめ細かくて、でも確かに温かい。命の熱が、指先から伝わってくる。
ぴくっ。
ルナの耳が跳ねた。
「っ……ん……」
小さな声が漏れた。
眠っているのに──耳だけが敏感に反応している。
耳がぴこぴこと動いた。
触れている指を包み込むように、ふにふにと折れ曲がる。
「……ユウトさん……」
寝言だ。寝言のはずだ。
だが名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
けしからん。
これはけしからん。
だが体温の効率を考えれば──いや、何の効率だ。
もう一度、そっと指の腹で耳の縁をなぞった。
ぴこ。ぴこぴこ。
触れるたびに、ルナの耳が嬉しそうに揺れる。
尻尾が腰の周りでぎゅっと締まった。
……やばい。
本格的にやばい。
「あらあら〜♡」
背後から、聞き覚えのある声がした。
心臓が止まるかと思った。
振り返ると、マーレンが見張り台の梯子に片手をかけて、にやにやと笑っている。交代の時間が来たらしい。
「いい絵面ねぇ。月明かりの下で銀耳の子の耳を撫でながら見つめちゃって」
「違う。これは体温の効率的な──」
「はいはい。効率ね。それ、ルガに報告する?」
「やめろ」
即答した。
即答するしかなかった。
マーレンが声を抑えて笑っている。肩が震えていた。
「あんたもたまには素直になりなさいよ。可愛い子が隣で寝てるんだから」
「だから違──」
「ん……?」
ルナが目を開けた。
ゆっくりと瞬きをして、俺を見上げる。
寝ぼけた琥珀色の瞳に、焚き火の炎が揺れていた。
「……ユウトさん、あったかかった」
耳がぺたんと伏せた。照れている。
「ありがとう」
声が小さい。頬がほんのり赤い。
尻尾が名残惜しそうに、ゆっくりと俺の腰から離れていく。
……ああ、もう。
けしからん。全部けしからん。
だが、悪くはなかった。
悪くは──。
ルナの耳が、ぴんと立った。
空気が変わった。
さっきまでのとろんとした表情が消えて、琥珀色の瞳が鋭くなる。鼻がひくひくと動いた。
「──きた」
南の暗がりから、地面を揺らす振動が伝わってくる。
焚き火の炎が、一歩ごとに震えた。
東の空が、うっすらと白み始めている。
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