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第78話「おおきいの、くる」

 森が、静かすぎる。

 鳥の声がない。虫の音もない。

 ルナの耳が南を向いたまま、ぴくりとも動かない。


 昨夜の夕食の席で、ルナが震えながら言った言葉が頭にこびりついている。

 「おおきいの、くる」──と。


 朝靄の中、俺は集落の南端に立っていた。

 いつもなら木の葉を揺らす風の音に混じって、小鳥がさえずっているはずだ。

 それが、今朝はまるで息を潜めている。


 ……嫌な静けさだ。


 隣でルナが、俺の袖をぎゅっと握っている。

 銀色の耳がぺたんと伏せられていた。

 尻尾も垂れている。怯えている。


「こわいにおい。すごく……おおきい」


 声が震えていた。

 昨夜「すごくおおきいの」と言ったときと同じ声だ。

 いや、今朝の方がもっと強い。匂いが近づいているのだろう。


「ユウト!」


 カイが走ってきた。

 大剣を背負い、額に汗が浮いている。

 その後ろからレオンが息を切らしてついてくる。


「南の草原を見回ってきた。足跡があった──でかい。片方の足跡に俺がしゃがんで入れるくらいだ」


 レオンが頷く。

「足跡の深さも尋常じゃありません。周りの木が根元から折れてて……」


 住民たちが広場に集まり始めていた。

 ざわめきが広がる。

 「賢者さま、何が起きてるんです」「南から化け物が来るって本当ですか」


 面倒くさい。

 朝からこの騒ぎは勘弁してほしい。


 だが──ルナの耳の伏せ方を見ると、ただの噂では済まなそうだ。


「カイ。お前、あの足跡の主が何か分かるか」


「たぶんトロールだ。前にも南の草原で足跡を見たことがある。あれは桁が違う化け物だぞ」


 トロール。

 マナを含んだ草や木を食い荒らしながら移動する大型の魔獣。

 知能は低いが、体が荷馬車三十台分の重さに達するものもいると聞いたことがある。

 正面からやり合ったら、この集落の戦力では話にならない。


 カイの目が、ぎらりと光った。


「迎え撃つしかねえ。俺とドスで前に出て、住民は後ろに──」


「ダメ!」


 ルナの声が、広場に響いた。


 銀色の耳がぴんと立っている。

 震えていたはずの体が、まっすぐ伸びていた。


「戦ったら、負ける! あのにおい……すごく、つよい。カイさんでも、ダメ!」


 カイが目を見開いた。

 住民たちも黙った。


 ルナの目は真剣だった。

 片言の人族語に、感情がぎゅうぎゅうに詰まっている。

 この子が自分の意見をここまではっきり言うのは──成長だ。


 ……正直、助かった。

 カイの「迎え撃つ」を止める手間が省けた。


「ルナの言う通りだ」


 俺は腕を組んだ。


「戦うのは論外だ。勝っても疲れる。負けたら死ぬ。どっちも割に合わない」


「じゃあどうすんだよ! 黙って踏み潰されるのを待つのか!」


「待たない。──ルナ、一つ聞いていいか」


 ルナが顔を上げる。耳がぴくりと動いた。


「あの『おおきいの』は、ここに来ようとしてるのか? それとも、ただ歩いてるだけか?」


 ルナの鼻がひくひくと動く。

 銀の耳が、ゆっくりと南に向いた。

 目を閉じて、風の中の匂いを丁寧に嗅ぎ分けている。


「……まっすぐ。ずっと、まっすぐ歩いてる。ここじゃなくて……もっと北の、草を食べたいにおい」


 やっぱりか。


 脳裏でスキルが動く。


『南方より北方へ直進する大型の獣。足跡の間隔と深さから推定──体の重さは荷馬車三十台分。歩みの速さは人の早歩きほど。進む道筋に曲がりなし。草と木のマナを喰らいながら移動する習性あり──集落を狙う意図は認められず。ただし、現在の道筋の延長上に集落が重なる』


 つまり、こういうことだ。

 あの化け物は集落を襲いに来ているんじゃない。

 ただ飯を求めて南から北へまっすぐ歩いているだけ。

 たまたま、その通り道に俺たちの集落がある。


 戦う必要はない。

 通り道から外れればいい。


「カイ。正面から迎え撃つな」


「はあ?」


「あいつは飯を探して歩いてるだけだ。ここを狙ってるわけじゃない。なら、通り道から集落を外せばいい」


 カイが眉をひそめる。

「外すって……集落は動かせねえぞ」


「集落を動かすんじゃない。あいつの通り道を曲げる」


 地面に枝で簡単な地図を描いた。

 集落の位置。南から北への直線。東の谷。


「ルナ。もう一つ聞かせてくれ。トロールが嫌う匂いはあるか?」


 ルナの耳がぴこぴこと動いた。

 考えている顔だ。


「……ある。あの草。にがい匂いの草。温泉のちかくに生えてる」


「マナ香草か」


 温泉の周辺に自生している、独特の苦い匂いを放つ草だ。

 人族には薬草として使えるが、獣にとっては不快な匂いらしい。


 スキルが追い打ちをかける。


『マナ香草の匂いの成分──大型の魔獣が嫌う苦みの元を多く含む。風上に並べて置けば、半町ほどの幅で獣を遠ざけることが見込める。さらに、木の柵と組み合わせて通り道の片側を塞げば──進む方向を東の谷へ逸らすことが成る。二重の壁となる』


 二重の壁。

 柵で物理的に塞ぎ、匂いで嗅覚的に誘導する。

 トロールの通り道を東の谷へ曲げれば、集落には近づかない。


 しかも東の谷を一度通れば、以後この付近を通るときも同じ道を辿る習性がある。

 一度仕組みを作れば、あとは放っておいていい。


 ……それだ。

 放っておいていい。

 その一言が、俺にとってはこの上なく魅力的だった。


「カイ。住民を集めろ。柵を作る。集落の南西から南東にかけて、トロールの通り道の西側を塞ぐ」


「柵であの化け物が止まるのかよ」


「柵だけじゃ無理だ。匂いで誘導する。──ルナ」


 ルナの耳がぴんと立った。


「あたしの鼻、使って!」


 言葉より先に、体が動いていた。

 銀の耳が決意に満ちて立っている。

 尻尾がぴんと張っていた。


 ……こいつ、自分から言うようになったな。

 ちょっと前まで俺の後ろに隠れてたのに。


「ああ、頼む。お前の鼻がないと、この作戦は成り立たない」


 ルナの耳がぴこぴこと嬉しそうに揺れた。

 怖いはずなのに、役に立てることが嬉しいらしい。


 ……けなげだな。

 いや、感心してる場合じゃない。時間がない。


「ドスは柵の材料を集めろ。太い丸太がいる。レオンは温泉の近くからマナ香草を刈れるだけ刈ってこい。カイは配置を仕切れ」


 カイが一瞬、俺の顔を見た。

 それから、にやりと笑う。


「戦わずにやり過ごすってか。お前らしいよ、ユウト」


「褒めてるのか」


「褒めてる」


 住民たちが動き始めた。

 ドスが丸太を担ぎ上げ、レオンが南へ走る。

 マーレンが「手が空いてる人は食料の備蓄を確認!」と声を張った。


 広場の騒がしさの中で、ルナが俺の隣に戻ってきた。

 袖をちょいちょいと引く。


「ユウト、すごい。戦わないで、まもる」


「すごくない。面倒なだけだ。戦う方がよっぽど面倒だから、こうしてるだけ」


 ルナが小さく笑った。

「ユウト、いつもそう言う」


 ……なんだその「分かってます」みたいな顔は。


 スキルが地図の上に最適な柵の配置を描き出していく。

 マナ香草を置く位置。風向きとの関係。東の谷への誘導角度。

 一つずつ、仕組みが形になっていく。


 正直、徹夜は嫌だ。

 寝不足は俺の天敵だ。

 だが死ぬよりはましだし、仕組みさえ作れば、あとは寝ていられる。


 怠惰のためなら──まあ、一晩くらいは働いてやる。


 日が傾き始めた頃、柵の八割が完成した。

 マナ香草も予定の場所に配置し終えている。

 苦い草の匂いが、南風に乗ってかすかに鼻をくすぐった。


 日が沈む。

 南の地平線の向こう、草原の闇が濃くなっていく。

 ルナの鼻がひくひくと動いた。


「……まだ遠い。でも、あしたにはくる」


「間に合うか?」


 カイが聞いた。

 俺は地図を畳んで立ち上がる。


「間に合わせる。……徹夜は嫌いだが、死ぬよりマシだ」

お読みいただきありがとうございました!

本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。


本日から一旦100話まで【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!


もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励み(と睡眠時間の確保)になります!

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