第76話「任せたぞ、人間」
朝靄の中、六つの影が南に向かって並んでいた。
金色の耳が、朝日に一瞬だけ光る。
隣で、ルナの尻尾がぎゅっと俺の脚に巻きついた。
集落の入口。
ルガと五人の戦士たちが、出発の支度を終えて立っている。
空気が冷たい。
まだ太陽は低く、草原の向こうに薄い橙色がにじんでいるだけだ。
朝露に濡れた草の匂いが、鼻の奥をひんやりと撫でる。
……早起きさせられた。
壁を厚くする作業で昨日は遅くまでかかったのに。
めんどくさいにもほどがある。
だが、まあ。
見送りくらいはするか。
ルナがルガの前に立っている。
銀の耳がぺたんと伏せている。尻尾は俺の脚に巻きついたままで、先端だけがぱたぱたと揺れていた。
ルガが、低い声で何かを言った。
獣人語だ。
短い言葉。でも重みのある響き。
ルナの耳が、ぴくりと動いた。
「にい……」
ルナが振り返って、俺を見る。
銀色の瞳が、薄い朝日の光を受けてきらりと光った。
「にい、『つよくなれ』って」
通訳してくれた。
……強くなれ、か。
ごつい兄貴にしては、短いな。
いや、ああいうやつは短い方がらしいのか。
ルナの目が潤み始めた。
唇がきゅっと結ばれて、小さな拳がぎゅっと握られる。
泣くのを堪えている。
ルガが、ゆっくりとルナの前にしゃがんだ。
大きな体が屈むと、ようやく目線が同じ高さになる。
金色の手が伸びて──ルナの頭に、ぽんと乗った。
軽い一打。
だけど、手のひらの下でルナの銀の耳がふるふると震えた。
獣人の「元気でな」
昨日、宴の席でカイに聞いた。
獣人は別れのとき、頭を叩くのが作法らしい。
軽ければ軽いほど、「すぐ会える」という意味になる。
……あの一打は、かなり軽かった。
ルナの目から、ぽろりと一粒こぼれた。
それから──耳がぴんと立った。
ぺたんだった耳が、まっすぐ上を向く。
「にい、またね!」
声が、朝の空気を突き抜けた。
片言の人族語。
でも、はっきりと届く声。
「あたし、もっとつよくなる! もっとことば、おぼえる! だから──またね!」
ルガの尻尾が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一振り。
それがこいつの精一杯なんだろう。
不器用な兄貴だ。
まあ、人のことは言えないが。
カイが一歩前に出た。
大剣を背負った偉丈夫が、ルガの前に立つ。
「また来いよ」
ルガが横を向いた。
「……酒があるなら」
カイが豪快に笑った。
「おう! 次はとっておきの蜂蜜酒を用意しとく!」
「……約束は守れ。獣人はそういうところに厳しい」
「任せろ!」
男二人の別れの挨拶は、あっけないほど短い。
だが、昨夜酒を酌み交わした二人の間には、それで十分らしかった。
……楽でいいな、男同士は。
俺もあのくらいで済ませたい。
マーレンが布に包んだ何かを、戦士の一人に手渡した。
「はい、道中のぶんよ。干し肉と焼き菓子。足りなかったら途中で狩りなさい」
戦士が受け取って、鼻を近づけた。
金色の耳がぴくりと動く。
「……あの飯はうまかった。あの、なんだ──鹿肉を焼いたやつ」
「あら、気に入ってくれた? 獣人の香草も混ぜたのよ」
マーレンがにやりと笑う。
あの笑顔は「次はもっとうまいもの食わせてやる」の顔だ。
食で異種族を懐柔する女。
ある意味、この集落で一番たちが悪い。
戦士たちが順に歩き始めた。
金色の背中が、一つ、二つと朝靄の中に溶けていく。
ルガだけが、まだ立っていた。
こちらに背を向けたまま。
長い沈黙。
朝の風が草原を渡って、金色の毛並みを揺らした。
『……任せたぞ、人間』
低い声が、背中越しに届いた。
獣人語だ。言葉の意味は、分からない。
振り返らなかった。
だが──声の響きで、伝わるものがあった。
怒りでも、警戒でもない。
ぶっきらぼうで、不器用で、そのくせ重い。
──任せたぞ、と。
そう言っている気がした。
……任せたって、何をだよ。
妹のことか。集落のことか。
どっちもめんどくさいんだが。
ルガの背中が遠ざかっていく。
大きな影が、草原の朝日に飲まれていく。
ルナが駆け出した。
集落の入口から数歩だけ走って──立ち止まる。
両手を大きく振った。
「にい! またねっ!」
ルガの耳が、遠くでぴくりと動いた気がした。
振り返りはしない。
でも、尻尾が一度だけ、高く跳ねた。
……ああ、そうか。
あいつの尻尾、嘘つけないんだな。
ルナがしばらく手を振り続けていた。
六つの影が草原に完全に消えるまで、ずっと。
銀の耳は、ぴんと立ったままだった。
やがてルナが振り返った。
目元がほんのり赤い。
でも、笑っている。
「ユウトさん。にい、やさしかったね」
「……あれが優しいのか? 首を刈るって言ってたぞ」
「にい、そういうとき、ほんとはやさしい」
……獣人の「優しい」の基準が分からん。
首を刈る宣言が優しさの表現だとしたら、怒ったときはどうなるんだ。
考えたくもない。
ルナが俺の袖を引いた。
小さな手。温かい指先。
「ユウトさん」
「ん?」
「にい、『任せた』って言った。あれ、すごいこと」
「そうなのか」
「にい、だれにも言わない。はじめて」
……そうか。
あの不器用な兄貴が、初めて他人に妹を託した。
それは確かに──重い一言だ。
めんどくさいな。
任されたくなかったんだが。
ルナが俺の隣を歩いている。
銀の耳がぴこぴこ動いて、尻尾がゆらゆら揺れている。
もうすっかりいつもの調子だ。切り替えが早い。
……賑やかなのは苦手なはずだったんだが。
最近、静かだと妙に落ち着かない。
いや──静かすぎると効率が悪い。
そうだ、効率の問題だ。
広場に戻ると、住民たちが普段通りの朝を始めていた。
畑に向かうやつ。水路の様子を見に行くやつ。マーレンの食堂に朝飯を食いに行くやつ。
ルガたちが来る前と、何も変わらない日常。
いや──一つだけ違う。
ルナが、当たり前のようにそこにいる。
住民の一人が「おはよう、ルナちゃん」と声をかけた。
ルナが「おはよう!」と手を振る。
耳がぴこぴこ。笑顔。
もう、誰も驚かない。
銀色の耳も、ふさふさの尻尾も、この集落の日常の一部になっている。
マーレンが食堂の入口から手を振った。
「朝ごはんよー! ルナちゃん、今日は蜂蜜のパンケーキ!」
ルナの尻尾が爆発した。
ぶんぶんぶんぶん。
嵐だ。
「ユウトさん! はちみつ! パンケーキ!」
「聞こえてる。走るな、転ぶぞ」
銀色の背中が、食堂に向かって駆けていく。
朝日の中で、あの耳がきらきら光っている。
……ったく。
ルガたちの背中が、南の草原に溶けていく。
ルナの笑い声が、食堂から聞こえてくる。
「ユウトさん。あたし、もっとことば、おぼえる」
さっき見送りのときに言った言葉を、もう一度。
今度は俺に向かって。
まっすぐな目で。
「……まあ、覚えた方が効率いいしな」
銀の耳が、ぴこんと跳ねた。
──さて。
まずは壁だ。壁を厚くする。
それから……昼寝だ。早起きした分は取り返さないと割に合わない。
任された分の仕事は──まあ、そのうち考える。
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