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第72話「金色の狼」

 南から、六つの影が近づいてくる。

 先頭を歩く男は──大きかった。ルナより頭二つ分は高い。金色の狼耳が、朝の陽光を受けて鋭く光っている。

 ルナの耳がぺたんと伏せた。尻尾が足の間に巻き込まれている。


 ──来やがった。


 昨夜の分析どおり。六人。大柄揃い。到着予想は昼だったが、半日早い。

 こいつら、夜通し歩いてきたのか。妹を連れ戻すためだけに。


 集落の入口に、カイが大剣を背負って立っている。住民たちが遠巻きに見守る中、六つの影がゆっくりと足を止めた。


 先頭の男が、一歩前に出る。


 でかい。


 俺より頭一つ以上高い。腕は丸太のように太く、革の胸当てから覗く胸板が分厚い。腰には何も帯びていない。武器がないのではなく、要らないのだ。あの爪と牙があれば。


 金色の耳が風を受けて揺れた。同じ金色の瞳が、集落を一瞥する。


 そして──ルナを見た。


 空気が、凍った。


 それまで漂っていた朝の穏やかさが、一瞬で消えた。周囲の戦士たちが半歩引いた。先頭の男だけが前に出て、低い声で何かを言った。


 獣人語だ。俺には意味が分からない。


 だが──声の温度は分かった。冷たい。底の方に怒りが沈んでいる。叱っている。


 ルナが小さくなった。


 銀色の耳がべったりと頭に張りつき、尻尾が地面に垂れ下がっている。肩が震えていた。さっきまで俺の隣にいたのに、三歩分後ろに下がっている。


 男の声が続く。短い。低い。一語ずつ、石を置くように。


 ルナが、かすれた声で答えた。獣人語で。俺には分からない言葉だった。でも、その声がどれだけ小さいかは分かった。


 ──こいつが、兄か。


 昨夜、ルナが絵図カードで教えてくれた。「にい」+「おこる」+「つれもどす」兄が怒って連れ戻しに来る。


 めんどくさい。心の底からめんどくさい。交渉だの対話だの、俺の人生で最も遠い場所にある単語だ。


 だが、殴り合いの方がもっとめんどい。


「おい! いきなり来て何だ、お前ら!」


 カイが前に出た。大剣の柄に手をかけて、金色の男を睨みつけている。好青年は喧嘩っ早くもある。


 当然、通じない。


 金色の男がカイを一瞥した。


 それだけで、カイの足が止まった。


 威圧。純粋な威圧だ。殺気ですらない。ただ格が違うという事実を、視線一つで叩きつけてくる。言葉が要らない種類の圧力。


 後ろに控えている五人の戦士も、全員が似たような体格をしている。革鎧に毛皮の腕当て。いずれも狼の耳と尻尾を持ち、目つきが鋭い。


 ──【効率化】


 自然と、スキルが起動していた。


 『対象六名。推定体格──先頭の個体は身の丈六尺半超、筋の量は人族の凡そ一倍半。残り五名も六尺以上。武装は軽装だが、爪と牙による近接の力は鉄の剣に匹敵。脚力は人族の二倍。囲まれた場合の脱出──不可能に近い』


 数字が頭に流れ込んでくる。冷たい情報の羅列。


 結論は一つ。


 こいつらとやり合う選択肢は、最初からない。


 カイの腕を掴んだ。


「落ち着け。言葉が通じてない」


「分かってる! だけどルナが──」


「だから落ち着けって」


 金色の男が、再びルナに獣人語で何かを言った。今度は声が少し大きい。命令の調子だ。


 ルナの肩が跳ねた。


 涙は流していない。でも、耳が──あんなに楽しそうに動いていた耳が、死んだように伏せている。


「……ルナ」


 呼びかけると、ルナがびくりと振り返った。


「通訳、頼む」


 めんどいけど、と喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。今それを言う空気じゃない。


 ルナが小さく頷いた。震える声で、途切れ途切れに話し始めた。


「にい……ルガ。おこ……怒ってる。ルナ……かえれ、って」


 片言の人族語。感情が高ぶると言葉が出やすくなるのに、今は恐怖で声が詰まっている。


「なんで帰れって言ってるんだ」


「……むれ、から……でた。だめ。きまり。にんげん、の、ところ……だめ」


 群れから出た者は連れ戻す。人間の集落にいてはならない。


 掟か。


 厄介だ。個人の感情じゃなく、部族の決まりごとを背負って来ている。


 ルガと呼ばれた男が、ルナの通訳を聞いて──いや、聞いていなかった。ルナではなく、俺を見ていた。


 金色の瞳が、値踏みするように俺を射抜く。


 そして──人族の言葉を、発した。


「妹を返せ」


 低い声だった。

 次の長ともなれば、他種族との最低限のやり取りくらいは心得ているのだろう。


「人間の集落は──獣人の居場所ではない」


 妹に通訳をさせるつもりはないらしい。俺に直接伝えなければ気が済まないのか。


 集落が静まり返った。


 住民たちが息を止めている。カイが大剣の柄を握りしめている。マーレンが食堂の入口から、表情を消してこちらを見ている。


 ルナは──ルガの後ろで、小さく丸まっていた。


 耳がぺたんと伏せたまま、兄と俺を交互に見ている。口が何かを言いかけて、でも声にならない。


 ──寝てぇ。


 朝からこれかよ。昨夜だって、ルナの震えが気になってろくに眠れなかった。俺は八時間寝ないとまともに動けない体質なんだ。めんどくさい。全部めんどくさい。


 でも。


 ルナが、こっちを見ている。


 昨夜、隣で丸くなって震えていたルナ。「大丈夫だ」と言ったら、耳がほんの少しだけ動いたルナ。


 ──めんどくさいが。


「……本人に聞いたらどうだ」


 短い言葉だった。


 ルガの金色の瞳が、ぎらりと光った。


「ルナがどうしたいか。それを聞いたのか、お前は」


 空気が張り詰めた。


 戦士たちが腰を落とした。いつでも動けるように。カイが大剣を抜きかけて──俺が手で制した。


 ルガは答えなかった。


 ただ、金色の瞳で俺を睨んでいる。怒りだけじゃない。何かを測るような目つきだった。こいつはどういう人間だ、と。妹を匿っているこの男は、何を考えている──と。


 風が吹いた。南の草原から乾いた風。ルガの金色の髪が揺れて、革鎧が微かに軋んだ。獣の匂いが鼻をかすめた。毛皮と、土と、長い旅路の汗の匂い。


 沈黙が、長く続いた。


 ルガの金色の瞳が、俺を射抜いている。

 六人の戦士が、いつでも動ける姿勢のまま腰を落としている。

 カイが大剣の柄を握り、住民たちが息を呑んだ。

 ──力じゃ、勝てない。そんなことは分かっている。

「……なら、見せるしかないか」

お読みいただきありがとうございました!

本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。


本日から一旦100話まで【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!


もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励み(と睡眠時間の確保)になります!

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