第71話「南の風が、こわい」
ルナの耳が、朝からずっと南を向いている。
ぺたんと伏せたまま、一度も立たない。
尻尾も──垂れたままだ。
昨日の温泉帰りに漏らした「こわい、におい」という言葉。あれからルナはほとんど眠れなかったらしく、朝食のときも食堂の隅で丸くなっていた。
マーレンが焼いてくれたパンにも手をつけない。いつもなら耳をぴこぴこさせて真っ先に飛びつくのに。
「ルナちゃん、食べないの?」
マーレンが心配そうに声をかけた。
ルナは小さく首を振った。耳が、ぴくりとも動かない。
……めんどくさいことになりそうだな。
俺の怠惰センサーが全力で警告を出している。平穏な日々に暗雲が立ち込める気配。できれば布団に戻って昼寝でやり過ごしたい。
だが、ルナのあの耳を見ていると──無視して寝るのも、なんとなく寝覚めが悪い。
「ルナ」
声をかけると、ルナがびくっと顔を上げた。琥珀色の瞳が揺れている。
「昨日の匂い。まだするか?」
ルナは小さく頷いた。鼻をひくひくさせて、南の方角を見つめる。
「……におい。なかま。でも……こわい」
昨日と同じ言葉。だが、声の震え方が違う。近づいているのだ。匂いの元が。
「外に出よう。ちゃんと確かめる」
ルナの手を引いて、集落の南端まで歩いた。
朝の風が草原を渡ってくる。青い草の匂いに混じって、土と獣の気配がかすかに漂っていた。人間の鼻では分からない。だがルナの耳がぴくぴくと忙しなく動いている。完全に警戒の形だ。
「何人だ?」
ルナが指を折った。片手では足りない。もう片方の手も使って──六。
六人。
「速い? 遅い?」
ルナが少し考えて、両手を素早く交互に振った。速い、ということらしい。
これは、もっとちゃんとした情報がいる。
「ルナ、南の地面を見せてくれ。足跡がありそうな場所」
ルナが頷いて、集落の外に向かって歩き出した。南の草原との境目あたりで立ち止まり、地面を指さす。
確かに、草が踏み倒されている。複数の足跡が南東の方角から続いていた。昨日通ったものではない。新しい。
──よし。めんどくさいが、やるか。
スキルに意識を向けた。
『足跡の解析──歩幅から推定される体格:大柄が四、中柄が二。踏み込みの深さから推定体重:平均して人族成人男性の一割二分増。速度:通常の徒歩より四割速い。移動方向から到着予測──』
頭の中に、数字が浮かんでいく。
六人。大柄が多い。足が速い。そして──。
『到着予測:明日の昼頃』
明日か。
思ったより近い。昼寝してる場合じゃなかった。いや、昼寝はしたいが。
集落に戻ると、ルナが絵図カードを取り出した。
最近はこのカードを使いこなすようになっている。複数のカードを並べて、複雑な意思表示ができるまでに成長した。
ルナが並べたカードは三枚。
一枚目──「にい」と書かれた獣人の男の絵。ルナが自分で描いた、耳の尖った人物。
二枚目──「おこる」赤い顔の絵。
三枚目──「つれもどす」矢印が右から左に向かう絵。
にい。おこる。つれもどす。
「……兄が、怒って、連れ戻しに来る?」
ルナが大きく頷いた。耳がぺたんと伏せたまま、尻尾が体に巻きつくように垂れている。
怖いのだ。兄が。
ルナがさらにカードを一枚追加した。
「なかま」──複数の人影が描かれたカード。
兄が、仲間を連れて、怒って、連れ戻しに来る。
六人の足跡。ルナの兄と、その仲間が五人。辻褄が合う。
……めんどくさ。
外交とか交渉とか、俺の人生で最も遠い単語なんだが。前の世界でも今の世界でも、人と話すのは苦手だった。できれば一日中誰とも会わずに過ごしたい。
だが──追い出した後にもっとめんどくさくなるのは、もっと嫌だ。
「カイ」
ちょうど朝の見回りから戻ってきたカイを呼び止めた。
「おう、どうした? 朝から深刻な顔して」
「南から来客だ。六人。獣人の戦士らしい。明日の昼には着く」
カイの表情が引き締まった。
「戦士? まさか──」
「ルナの兄が連れ戻しに来る。ルナがそう言ってる」
カイがルナを見た。ルナは俯いたまま、小さく震えている。
「……迎え撃つか?」
「馬鹿言え。六人の獣人戦士相手にどうする気だ。お前一人で」
「一人じゃないだろ。住民だって──」
「農民を戦わせてどうする。殴り合いの方がもっとめんどい。別のやり方を考える」
カイが口を閉じた。俺の言い方がぶっきらぼうすぎたかもしれない。だが、事実だ。この集落に戦闘力はない。カイ一人がどれだけ強くても、六人の獣人戦士には勝てない。
スキルが補足してきた。
『獣人族の基礎身体能力:人族比で約一・五倍。特に瞬発力と嗅覚に優れる。六人の戦士との戦闘は──勝率二分以下』
二分以下。つまりほぼ無理だ。知ってた。
集落の集会所に、いつの間にか住民が集まっていた。朝の騒ぎを聞きつけたらしい。
「賢者さま、何かあったんですか?」
「明日、南から獣人の一団が来る。ルナの兄貴が仲間を連れて迎えに来るらしい」
ざわ、と空気が揺れた。
「獣人の戦士が六人……!」
「賢者さま、どうされるおつもりで……?」
住民たちの視線が俺に集中する。期待と不安が入り混じった目。やめてくれ。俺はただ楽に暮らしたいだけの男だ。
「賢者さまなら異種族外交もお手の物ですよね!」
誰かが言った。
お手の物なわけあるか。万能じゃねぇんだよ。
「……とにかく、殴り合いは選択肢にない。話し合いで済ませる」
「さすが賢者さま! 武力に頼らず知恵で解決──!」
知恵じゃない。めんどくさいから一番楽な方法を選んでるだけだ。
「カイ、明日の昼まで時間がある。集落の入り口に目印を置いてくれ。来客があることを住民に周知。慌てるな、騒ぐな、普段通りに過ごせと伝えろ」
「了解」
「マーレン」
「あいよ」
いつの間にか食堂から出てきたマーレンが腕を組んでいた。
「明日、来客用の飯を多めに仕込んでおいてくれ」
「飯?」
「腹が減ってる相手と話しても、ろくなことにならないだろ」
マーレンが目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「あんた、たまにまともなこと言うわね」
「たまにじゃない。いつもだ」
「はいはい」
準備は最低限でいい。できるだけ手を抜いて、できるだけ穏便に。殴り合いよりも、話し合いの方が楽だ。多分。きっと。おそらく。
……自信はまったくないが。
日が暮れた。
明日に備えて早く寝たかったが──隣の部屋から、かさかさと物音が聞こえる。
壁が薄い。嫌というほど知っている。
ルナが眠れずにいるのが、音だけで分かった。寝返りを打つ音。時折、小さく鼻を鳴らす音。南の方角に耳を向けているのだろう。
……寝たい。俺は寝たい。明日に備えて体力を温存したい。
だが、この薄い壁の向こうで震えている奴がいると思うと、目が冴えて仕方がない。
しゃーない。
立ち上がって、隣の部屋の戸を開けた。
ルナが丸くなっていた。毛布を頭まで被って、小さな塊になっている。耳だけが毛布の隙間から覗いていて、ぴくぴくと落ち着かない動きを繰り返していた。
「ルナ」
毛布がびくっと跳ねた。
「……寝ないのか」
毛布の隙間から、琥珀色の瞳が覗いた。潤んでいる。
ルナがゆっくりと毛布から顔を出した。耳がぺたんと伏せたまま、尻尾が体に巻きついている。
「……こわい」
一言だけ。震える声で。
俺はルナの隣に腰を下ろした。壁に背中を預けて、足を投げ出す。
「明日、俺が話をつける。お前は何もしなくていい」
ルナが俺の袖を掴んだ。小さな指が、ぎゅっと布を握りしめている。
……めんどくさい。本当にめんどくさい。外交も交渉も、俺が最も苦手とする分野だ。
でも、この手を振り払う方が、もっとめんどくさい。
「大丈夫だ」
言葉が通じているかは分からない。
でもルナの耳が、ほんの少しだけ──ぴこりと動いた。
しばらくして、ルナの呼吸が穏やかになった。袖を掴んだまま、小さな寝息を立てている。
壁の向こうから、夜風が微かに草の匂いを運んでくる。南の風だ。明日、あの風に乗って──六つの影がやってくる。
寝よう。寝られるうちに寝ておこう。
明日は、きっと──めんどくさい一日になる。
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