第70話「湯けむりと、濡れた耳」
嫌な予感は的中した。
マーレンが満面の笑みでルナの手を引き、温泉に向かって歩いている。
そして俺も、なぜか連行されている。
「ほら、早く早く〜♡」
マーレンの足取りは軽い。一方の俺は全身から嫌な汗が出ている。ルナに温泉を見せるのは、まあいい。あの子はずっと体を布で拭くだけだったらしいし、温泉の気持ちよさを知ってもらうのは悪いことじゃない。
問題は、なぜ俺がこの場にいるのかということだ。
「マーレン。俺が行く必要あるか?」
「あるわよ〜。だってあんたが温泉作ったんでしょ? 案内は製作者がするのが筋ってもんよ」
「案内だけならお前一人で十分だろ……」
「まあまあ、細かいこと気にしなさんな」
めんどくさ……。
木々の間を抜けると、湯気が見えてきた。岩を削って作った湯船から、白い蒸気がゆらゆらと立ち上っている。
ルナの耳が、ぴくん、と立った。
鼻がひくひくと動く。温泉の硫黄っぽい匂いを初めて嗅いだのだろう。琥珀色の瞳が大きく見開かれて、銀色の尻尾がぶわっと膨らんだ。
「あ、あったかい……!」
片言の人族語。最近、少しずつ語彙が増えてきた。特に感情が動いたときに、ぽろっと言葉が出る。
ルナが駆け出した。
湯船の縁に手をつけて、ぱしゃ、と水面を叩く。湯気の向こうで耳がぴこぴこ動いて、尻尾がブンブン揺れている。
「はいる! ルナ、はいる!」
おい。待て。
「ユウトも!」
振り返ったルナが俺の袖を掴んだ。ぐいぐい引っ張ってくる。力が強い。
「待て! 男女別って考えを──」
「あらぁ? この子の文化じゃ混浴が普通よ? 獣人は群れで水浴びするもの。郷に入ってはってやつよ〜」
マーレンが横から追い打ちをかけてくる。お前、完全に楽しんでるだろ。
「それとこれとは話が違う!」
全力で抵抗して、なんとか袖を引き剥がした。ルナが不思議そうに首をかしげている。耳がへにょんと垂れた。
……しゃーない。ここは大人の対応だ。
「ルナ、先に入ってろ。俺は──改修がある」
「かいしゅう?」
「仕事だ。ここを、もっと良くする仕事」
逃げだった。完全に逃げだった。でも言い訳にはなる。
【効率化】を起動する。
前に作ったこの温泉は、人族の体に合わせて設計してある。獣人が使うなら、作り直しが要る。
『浴槽の縁──獣人の尾は水中で浮力を受けると姿勢が崩れる。縁を五分ほど広げ、腰掛ける部分に尾を通す溝を彫ること。深さは膝下まで。座った状態で胸まで浸かる高さが巡りに良い』
なるほど。尻尾の逃げ場か。確かに、あの大きな尻尾を湯船に沈めたら邪魔だろう。
石を削る。溝を掘る。手を動かしていると、背後から湯を跳ねる音と、ルナの笑い声が聞こえてくる。
「きゃは! あったかい、あったかい!」
……気にするな。集中しろ。石を削るんだ。
「あんた、それ──中の様子が気になって逃げてるだけでしょ」
マーレンが岩の影からひょっこり顔を出した。もう湯に浸かっているらしく、肩から湯気が立っている。
「違う。純粋に設計の問題だ」
「ふぅん? じゃあなんで耳が赤いの?」
「日焼けだ」
「夕方よ?」
……くそ。とにかく、改修だ。改修に集中する。昼寝したい。今すぐ寝たい。だが改修が終わらないと寝られない。めんどくさいが、これをやっておけば明日から楽になる。
しばらくして、湯から上がる気配がした。
振り返るな。振り返るな。俺は岩を削っている。ただ岩を削っている──。
「ユウトさん!」
振り返った。
反射だった。名前を呼ばれたら振り返る。人間の本能だ。俺は悪くない。
目の前に、ルナがいた。
マーレンが用意したらしい大きな布を体に巻いている。その隙間から、しっとりと濡れた銀色の毛並みが覗いていた。
耳が──。
普段のふわふわとは違う。湯を含んで、しっとりと柔らかく垂れ下がっている。水滴が耳の先端からぽたりと落ちた。夕日が透けて、銀色の毛先が淡く光っている。
尻尾もだ。いつもの爆発的なもふもふが、湯に浸かって滑らかにまとまっている。濡れた毛並みが体に沿って流れて、水の重みでゆったりと揺れていた。
……け、けしからん。
「ほらユウト、拭いてあげなさい」
マーレンが横から手ぬぐいを押しつけてきた。
「なんで俺が」
「あたしの手じゃ、あの耳の奥まで届かないのよ。あんたの方が指が長いでしょ」
理屈は分かるが、理性が分からんと言っている。
そのとき、スキルが勝手に口を出してきた。
『濡れた毛並みの乾かし方──手ぬぐいで拭くより、手櫛で水気を切る方が三割八分ほど効率的。指の腹で根元から毛先に向かって──』
お前は黙ってろ。
全力で無視した。スキルの提案を採用したら、俺は何をする羽目になる。手櫛だと? 冗談じゃない。
「……手ぬぐいで十分だ」
ルナが俺の前にちょこんと座った。背中を向けて、耳をこちらに差し出すように傾けている。
信頼されている。完全に信頼されている。それが余計に困る。
手ぬぐいを耳にそっと当てた。
ふにゃ、と柔らかい感触が指に伝わった。温泉の熱がまだ残っていて、じんわりと温かい。濡れた毛並みは絹のようにきめ細かくて、触れるたびに指先が吸い込まれそうになる。
「ん……」
ルナが小さく声を漏らした。耳がぴくっと震えて、尻尾がふわりと揺れた。
気持ちいいのか。そうか。いや、だからって変な声を出すな。こっちの理性がもたない。
寝たい。俺は寝たい。布団に入りたい。一人で。静かに。
手ぬぐいで耳の水気を取り終えたとき──ルナがくるりと振り返った。
濡れた髪がふわっと広がった。
水しぶきが頬にかかった。冷たくて、でも温泉の名残りでほんのり温かい。甘い匂いが鼻をくすぐった。草原と湯気が混ざったような、不思議な香り。
至近距離で、目が合った。
琥珀色の瞳に、夕日が映り込んでいる。濡れた前髪が頬に張りついて、水滴が一粒、頬を伝って落ちた。
ルナの耳が、ぺたん、と伏せた。
頬が──赤い。湯上がりの火照りだけじゃない。さっきまでとは違う赤さだ。
「……ユウト、近い」
短い言葉だった。でも、ちゃんと人族の言葉だった。
お前が振り返ったんだが? お前が近づいてきたんだが? そのツッコミは、喉の奥に引っ込んだ。
「あらあら〜♡」
マーレンの声が遠くから聞こえた。「あんた、顔真っ赤よ?」
……うるさい。
ルナが慌てて顔を逸らした。耳がぺたんと伏せたまま、尻尾だけがそわそわと揺れている。
俺も目を逸らした。
夕日が沈みかけている。湯けむりが橙色に染まっていた。
──帰ろう。帰って寝よう。今日はもう限界だ。
温泉からの帰り道。ルナの耳が、ぴくりと動いた。
嬉しいときの動きとは違う。警戒の動き。
南の草原の方を向いて、ルナが立ち止まる。
「……におい。なかま。でも──」
耳がぺたんと伏せた。
「──こわい、におい」
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