第68話「手を、握る」
絵図カードが足りない。
正確には、カードの数は足りている。足りないのは──表現力だ。
ルナが伝えたいことは、単語じゃない。文なんだ。
朝。ルナが絵図カードを何枚も並べて、何かを訴えている。
「たべもの」のカード。「うれしい」のカード。それから「ユウト」のカード。
一枚ずつ指差しては、首をかしげる。耳がくるくる回っている。不満そうだ。
言いたいことがあるのに、言えない。
その焦りが、耳と尻尾の動きだけで全部伝わってきた。
──めんどくさ。
でも、分かる。一枚のカードで一つの言葉しか伝えられないなら、永遠にカードは足りない。世の中の出来事は、単語一つで収まるほど簡単じゃない。
前の世で覚えたことで言えば、少ない言葉でも並べ方次第でいくらでも伝えられる。要は、決まった札を組み合わせる仕掛けがあればいい。
……しゃーない。ちょっとだけ、本腰を入れるか。
俺は【効率化】を起動した。
『絵図札の組み合わせ方の設計──最少の札の数で最多の表現を得る並べ方を算出。基本の言葉八つ、飾りの決まり三種で、六十四以上の言い回しが可能』
八つの基本の言葉。
名を示す札が四つ──「ユウト」「ルナ」「みんな」「ここ」
動きを示す札が二つ──「たべる」「ねる」
様子を示す札が二つ──「すき」「おおい」
これに飾りの決まりを三つ加える。
打ち消しを示す赤い印。問いかけを示す丸印。程度を示す二本線。
たったこれだけで、六十四通り以上の表現ができる。
例えば「ユウト」+「ねる」+二本線で、「ユウトはよく寝る」「ルナ」+「たべる」+赤い印で、「ルナは食べない」
札を木の板に書き出して、並べ方の見本を地面に並べた。
ルナが、じっと見ている。
耳がぴんと立った。琥珀色の瞳に、光が灯る。
──分かった。この子、もう分かっている。
ルナの手が伸びて、札を三枚掴んだ。
「ユウト」「ねる」二本線。
並べて、得意そうにこちらを見る。尻尾がぶんぶん揺れた。
「ユウトさん! ねる! おおい!」
……おい。
片言の人族語まで重ねてきた。初めて「さん」が付いた。いつの間に覚えた。
しかも内容が俺への文句だ。ユウトは寝すぎ。そうですか。
「……合ってる。合ってるが、最初に作る文がそれか」
ルナの耳がぴこぴこ揺れた。褒められたと思っている。違う。ツッコんでるんだ。
だが、この習得の速さは驚くべきものだった。
俺が次の並べ方を見せるより早く、ルナは自分で組み合わせを試し始めた。「みんな」+「たべる」+丸印で「みんなで食べる?」「ここ」+「すき」で「ここが好き」
五つ、十、二十。
数えるのをやめた頃には、ルナは八つの札を自在に並べて、表情と耳の動きを添えて、ほとんど何でも伝えられるようになっていた。
すごいな。
──いや。すごいのは俺の設計だ。楽をするための仕掛けが優秀なだけだ。そういうことにしておこう。
昼過ぎ。
広場で札を並べていると、ルナがまた新しい組み合わせを作った。
「ユウト」「もふもふ」丸印。
……ん?
「もふもふ」は基本の八つに入れてない。いつの間に自作した。しかも丸印付きということは──。
「ユウトさん! もふもふ!」
ルナが自分の尻尾をぶわっと広げて、にこにこ笑っている。
待て。これは「触っていい?」って聞いてるのか?
逆だ逆。もふりたいのは俺のほうだ。いや、もふりたくない。もふりたくないぞ。
「……それは札にない表現だ。却下」
「ユウトさん?」
首をかしげるな。耳をぴこぴこさせるな。尻尾をふわふわさせるな。
俺が全力で目を逸らしていると、広場の隅で住民たちがざわざわしていた。
見ると、カイが木の板に書いた札を指差しながら、別の住民に何かを伝えている。
「賢者さまのあの絵図、分かりやすいぞ。ほら、『みんな』+『たべる』で昼飯の合図だ」
「おお、なるほど。じゃあ『ここ』+赤い印で『ここじゃない』か」
広がっている。
ルナとの意思疎通のために作った仕掛けが、住民同士の間に染み出していた。
まあ、そうなるか。元々この集落には、出身地も言葉の訛りもばらばらな住民が集まっている。共通の伝え方があれば、そっちのほうが楽に決まっている。
楽ならいいか。楽なら。
──夕暮れ。
広場の端にある木の下で、俺はぼんやりと座っていた。
隣にルナが座っている。静かだった。耳がゆるく伏せて、尻尾が地面の上でゆっくり揺れている。
夕陽が橙色に染まって、広場に長い影を落としていた。焚き火の煙がかすかに鼻先をくすぐる。炭と、干し草と、ルナの甘い匂いが混じっている。
ルナが、札を二枚、静かに並べた。
「ここ」「すき」
──ここが好き。
集落のことだろうか。この木の下のことだろうか。
ルナの耳がぺたんと伏せた。何か言いたそうに口が動いたが、声は出なかった。
札を見つめて、また俺を見て、また札を見つめる。
足りない。
言葉では、足りない──そういう顔をしていた。
ルナの手が、そっと伸びてきた。
俺の手に、小さな指が触れた。
ぎゅっ、と。
握られた。
温かい。獣人の体温は人族より高い。その温もりが、指先から腕を伝って、胸の奥まで染みてくる。
ルナは俺を見なかった。耳をぺたんと伏せたまま、ただ手を握っている。尻尾の先だけが、かすかに震えていた。
「……これは、絵図にないな」
声が、思ったより小さく出た。
ルナの耳がぴくりと動いた。でも、手は離さなかった。
握り返すべきか。離すべきか。
──めんどくさ。
考えるのが、めんどくさい。
だから、何もしなかった。握り返しもしないし、振り払いもしない。ただ、そのまま。
夕陽が沈んでいく。影が伸びる。焚き火の音だけが、ぱちぱちと響いていた。
どのくらいそうしていただろう。
ルナが、ようやく手を離した。
立ち上がって、耳をぴこんと立てて、何事もなかったように広場に駆けていく。
尻尾だけが、ぶんぶん揺れていた。
……何だったんだ、今の。
手のひらに、まだ温もりが残っている。
──気づけば、住民の半分が絵図の札を使い始めていた。
ルナだけじゃない。住民同士が、札を指差しながら作業の確認をしている。
「……これ、言葉の橋渡しじゃなくて、みんなの共通語になってるぞ」
俺は楽をしたかっただけなのに。
また何か、余計なものが生まれた気がする。
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