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第67話「月に歌う子」

 満月の夜、集落の外から声が聞こえた。


 いや──声と呼んでいいのか分からない。高く、低く、透き通るような響きが夜空に伸びていく。


 ルナだ。月に向かって、何かを捧げている。


 俺は寝床から半身を起こした。せっかく睡眠の効率が乗ってきたところだったのに。……しゃーない。あの声を聞いて眠れるほど、俺の神経は太くない。


 外に出ると、住民たちがすでに集まっていた。


 集落の外れ、丘の上にルナが立っている。月を見上げて、口を開いていた。


 銀色の髪が月光に溶けている。耳はぴんと天を向き、尻尾はゆるやかに揺れていた。


 歌だ。


 言葉はない。獣人語ですらない。ただ声だけが、高くなり、低くなり、夜の空気を震わせている。


 月の光が丘の草を白く染めていた。夜露が光って、地面にもう一つの空があるみたいだった。冷たい夜風がルナの声を運んでくる。肌が粟立つ。寒さじゃない。声そのものが、体の奥に触れてくるような感覚だった。


「……きれいだ」


 隣で住民の誰かが呟いた。


 集落の男も女も、黙って丘を見上げていた。誰も動かない。声を出す者もいない。ただ、聴いている。


 俺は少し離れた木の幹にもたれて、【効率化】を起動した。


 別に、分析したかったわけじゃない。ただ──気になったんだ。あの声の正体が。


 スキルが答えを弾き出す。


 『拍子に一定の決まりがある。音の高さの並びに繰り返しの型がある。自然の鳴き声ではない──構造を持つ旋律』


 つまり──曲だ。


 でたらめに吠えているんじゃない。ルナは曲を歌っている。拍子があって、音の高低に決まりがあって、繰り返しがある。誰かに教わったのか、それとも獣人の血が知っているのか。


 分析するまでもなく、分かることもあった。


 歌なら言葉はいらない。


 ルナが何を伝えたいのか、理屈じゃなく──なんか、分かる。


 月が好きなのだ。あるいは、月の下にいる誰かに、声を届けたいのだ。


 ルナの声が、すぅっと細くなって消えた。最後の一音が夜空に吸い込まれるように溶けて、静寂が戻ってくる。


 誰かが拍手した。一人、二人。やがて集落中から拍手が湧き上がった。


 ルナがびくっと振り返った。耳がぺたんと伏せて、目が丸くなっている。聞かれていたと思っていなかったらしい。


 尻尾がおどおどと垂れ下がった。


「す、すごかったぞ!」


「なんて美しい声だ……」


 住民たちが口々に称えた。ルナは照れたように耳をぺたぺたさせている。


 それを見て──カイが張り切った。


「よし! お返しに俺たちの歌を聴かせてやろう!」


 嫌な予感がした。


 カイが住民の男衆を集めて、一列に並べた。胸を張り、大きく息を吸い込んで──。


「「「進ーめ勇者よー! 鋼のー剣をー掲げーてー!」」」


 軍歌だ。


 全力の大声で、腹の底から響くような野太い合唱だった。音程はバラバラ。拍子もずれている。だが勢いだけは申し分ない。


 ルナが、固まった。


 耳がぺったんこに伏せた。両手で頭を押さえている。


「クゥゥッ……!」


 そして──全力で逃げた。


 すさまじい速さで丘を駆け下り、集落の中に消えていった。尻尾が膨らんで、完全に怯えの形になっている。


「……え?」


 カイが固まった。住民たちも口を開けたまま、ルナが消えた方向を見ている。


「あ、あれ? 喜ぶと思ったのに……」


 俺はもう木の幹にもたれたまま目を閉じていた。


 知ってた。獣人の耳に、あの大音量の軍歌は拷問だろう。善意のすれ違いってやつだ。


「……お前ら、もう少し考えて歌え」


「え、賢者さまは分かってたんですか!?」


「見てりゃ分かるだろ。あの子の耳は俺たちより数倍敏感だ」


「怠惰の賢者さまが異文化交流まで……!」


 それは違う。俺はただ寝たかっただけで、流れでここにいるだけだ。異文化交流とかめんどくさいことを考える気はない。


 だが住民たちは聞いていなかった。翌朝には、ルナへの「お詫び」の準備が始まっていた。


 朝もやの中、住民の女衆がルナの前に花を差し出した。


 野に咲く小さな青い花を束ねたものだ。素朴だが、丁寧に葉で包んである。


 ルナが目を丸くした。


 おそるおそる花束を受け取って、鼻を近づける。くんくん。耳がぴこぴこと動いた。


「……!」


 ぱあっと顔が輝いた。尻尾がぶんぶん揺れている。


 ルナが絵図カードを取り出した。ぱたぱたとめくって、一枚を指差す。


「ありがとう」のカードだ。


 あれは昨日まで持っていなかった絵柄だ。いつの間に覚えたんだ──いや、たぶん住民が使うのを見て覚えたのだろう。


 住民の女衆がほろりとしている。カイまで目をこすっている。お前は泣くとこじゃないだろ。


 俺はその光景を広場の端で見ていた。


 歌を捧げて、花を贈り返す。言葉なんかなくても通じるものがある。……まあ、軍歌は通じなかったが。


 寝不足の頭がぼんやりしている。あの月の歌のせいで、昨夜はほとんど眠れなかった。正確には、歌のあとに戻ったルナの尻尾がまた布団に侵入してきたせいだが。


 めんどくさいが、悪くない朝だった。


 午後。


 俺は集落の南端でぼんやり草原を眺めていた。


 風が穏やかに吹いている。草の海が波打って、どこまでも続いている。


 ふと、思い出した。


「そういえば、あの遺構……」


 南の草原のさらに先。地中深くに眠っているという、不自然に真っすぐな黒い岩盤。前に一度だけ確認したが、あれ以来放置している。


 そのうち調べたいな。


 ……めんどいが。


 今じゃなくていい。明日でもいい。来月でもいい。俺のやる気は、今のところ完全に昼寝に向いている。


 隣にルナがいた。花束を大事そうに抱えて、俺の横に座っていた。


 ──ルナの耳が、ぴくりと動いた。


 南を向いている。


 鼻がひくひくと動いた。南の風を、嗅いでいる。


 花を抱えたまま、ルナがゆっくり立ち上がった。


 耳がぺたんと伏せている。尻尾も垂れている。


 南の草原の方を──ルナは、ずっと見つめていた。


「……ルナ?」


 振り返ったルナの顔に、笑顔は──なかった。

お読みいただきありがとうございました!

本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。


本日から一旦100話まで【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!


もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励み(と睡眠時間の確保)になります!

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