第65話「壁の向こうの尻尾」
問題が発生した。
ルナの寝場所だ。
昨夜も俺の隣で丸くなって寝ていたが──さすがにこれは、まずい。いろいろと。
集落に戻ったあと、ルナはずっと俺の袖を掴んでいた。南の草原の端で何かに怯えたまま、銀色の耳がぺたんと伏せて戻ってこない。
で、夕食のあと。
当然のように、俺の寝床に毛布を敷き始めた。
おい。待て。
「クゥ……」
ルナが上目遣いでこちらを見ている。琥珀色の瞳が、不安そうに揺れていた。耳がぺたん。尻尾がおずおずと地面を撫でている。
……あの獣人の子にとって、群れの仲間と寄り添って寝るのは当たり前のことなのだ。言葉にしなくても分かる。耳と尻尾が全部語っている。
一人は、怖い。
そういう顔だった。
だが、俺は大人だ。異性と同じ部屋で寝るのは、こちらの理性の問題がある。もふもふは関係ない。もふもふは関係ないんだ。
ルナがもぞもぞと毛布を整えて、俺の隣にちょこんと座った。
そして──。
「ここ……いい……?」
息が止まった。
今、この子、人族の言葉を喋ったか。
ルナの唇が、たどたどしく動いている。「おいしい」に続く、二つ目の人族語。いや、本当に意味が分かって言っているのか。俺たちが「ここ」「いい」と繰り返すのを聞いて、音だけ真似ているだけかもしれない。
でも。
琥珀色の瞳がまっすぐ俺を見ていた。耳がきゅっと伏せられて、尻尾の先だけがかすかに震えている。
──伝えようとしている。この子は、自分の意思を、俺の言葉で伝えようとしている。
……めんどくさ。
めんどくさいが、あの目であの耳であの声で言われたら、ダメとは言えないだろ。人の心がないのか。いや、あるから困ってるんだ。
「……分かった。ただし、寝場所は分ける。隣の部屋を作る」
ルナの耳がぴこんと立った。意味は分かっていないだろうが、俺の声の調子から「いいよ」は伝わったらしい。
尻尾がぶわっと膨らんで、ブンブン揺れた。
「あらあら〜♡ 同棲開始ね」
背後から、聞きたくない声が聞こえた。
マーレンが腕を組んで入口に立っている。にやにやしている。いつからいたんだ。
「同棲じゃない。住居の増築だ」
「同じ屋根の下でしょ? あたしの時代にはね、それを同棲って言ったのよ〜」
「いつの時代だよ……」
「乙女に年の話はご法度よ?」
取り合ってたら朝になる。無視だ。
ルナはそんなやり取りを不思議そうに見上げていた。耳がぴこぴこ動いて、マーレンと俺の間を交互に見ている。言葉は分かっていないが、雰囲気は読んでいるらしい。
尻尾の先がちょいちょいと俺の手に触れた。
……かわいい。いや、今はそれどころじゃない。
俺は寝床に突っ伏したい気持ちを抑えて、【効率化】を起動した。
隣に部屋を一つ増やす。壁の厚さ、素材、風通し。条件を頭に並べると、スキルが設計を弾き出し始めた。
『壁厚十五指幅を推奨。ただし風の通り口を確保する場合、十指幅が上限。音の漏れと空気の巡りは相反する──薄ければ風は通るが音は漏れ、厚ければ音は遮るが息が詰まる』
……なるほど。完璧に音を止めようとすると風の通りが死ぬ。空気の巡りを考えると壁厚十指幅が限界か。
薄いな。
まあいい。寝息が聞こえるくらいなら問題ない。俺が我慢すればいい話だ。いや我慢って何だ。何を我慢するんだ。寝息だよ。寝息。
設計を詰めていると、スキルが余計な提案を寄越してきた。
『──なお、同じ部屋で眠った場合、眠りの効率が一割二分ほど向上する見込み。体の温もりの共有による巡りの最適化が要因と推測される』
却下。全力で却下。
お前は何を提案しているんだ。効率を上げるためならなんでも言っていいと思うなよ。
「ふぅん、壁の厚さ、十指幅ねぇ」
マーレンが設計を覗き込んできた。
「壁薄いの、わざと? あんたも隅に置けないわね〜」
「防音と換気の兼ね合いだ! やましい理由はない!」
「あたしは何も言ってないわよ? あんたが勝手に弁解してるだけ〜」
……くそ。墓穴を掘った。
寝たい。もう寝たい。この世話焼きの相手をする体力は残っていない。
翌朝までかかって、壁と屋根を組み上げた。
【効率化】のおかげで設計から資材の割り出しまでは一瞬だったが、実際に手を動かすのは俺だ。カイが手伝いに来てくれたのが唯一の救いだった。
「賢者さま、壁ってこのくらい?」
「もう少し右。そう、そこ」
ルナも手伝おうとして、板材を抱えて走ってきた。が、重さに負けてよろけて、俺にぶつかった。
柔らかい感触が背中に当たった。耳が目の前でぴこぴこしている。
「っ──」
「クゥン?」
首をかしげるな。耳を動かすな。距離が近い。
「……ありがとう。もう大丈夫だ」
魔法で全部できたらいいのに。あ、でもそれだと体を動かす面倒が減って最高だな。いつかそういう仕掛けも作るか。いつか。今日は寝る。
──そして、夜が来た。
ルナは新しい部屋にちゃんと入ってくれた。毛布にくるまって、小さく丸くなっている。耳がゆっくりと上下していた。
壁一枚を隔てて、すぅ……すぅ……という寝息が聞こえてくる。
十指幅の壁。やっぱり薄い。寝息がはっきり聞こえる。規則正しくて、穏やかで、安心しきった呼吸だ。
風通し口から、ほんのり温かい空気が流れてくる。獣人の体温は人族より高いらしい。ルナのいる部屋から漂うその温もりが、夜風に混じって頬をくすぐった。
甘い。草原の風のような、かすかに花のような匂いが混じっている。
──寝よう。明日も朝は来る。効率よく眠ることが最優先だ。目を閉じろ。
十分経った。
眠れない。
寝息が気になるんじゃない。寝息そのものは心地いい。問題は──。
にゅっ。
布団の端から、何かが侵入してきた。
ふわふわで、温かくて、銀色の──尻尾だ。
壁の下の、ほんの少しの隙間から、ルナの尻尾だけが俺の布団に入り込んでいた。
本人は寝ている。完全に寝ている。壁の向こうから穏やかな寝息が聞こえてくる。
無意識だ。群れの仲間の温もりを求めて、尻尾だけが勝手にこちらに来たのだ。
もふもふが、足元でゆらりと揺れた。
ふわ、と柔らかい毛並みが素肌に触れる。絹のようで、でも温かくて、指先に吸いつくような手触りだ。
理性が崩壊しかけている。
これは布団だ。ただの布団だ。尻尾は布団の一部だ。そう思え。そう思うんだ。
──無理だった。
結局、一睡もできなかった。
壁の向こうのルナは、幸せそうに眠っている。耳がゆっくりと上下している。
尻尾は──まだ俺の布団の中にいる。
「……効率化で解決できない問題って、案外あるんだな」
翌朝、ルナがまたクンクン鼻を鳴らして外に飛び出していった。
あの鼻。あの嗅覚。めんどいが──使わない手はない。
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