第64話「鼻がいい子」
ルナが集落を走り回っている。
あちこちで立ち止まっては、鼻をクンクンさせて首をかしげる。
住民たちは「かわいい」と目を細めているが──何をしてるんだ、あの子。
絵図カードを作ってから三日。ルナは朝起きると、まずカードを並べて俺に何か伝えようとする。「水」のカードを指差して、「火」のカードを指差して、何やら獣人語でまくしたてる。
意味は分からない。
でも、耳がぴこぴこしている間は機嫌がいいらしいことだけは分かった。
今朝も同じように起きて、カードで何かを伝えて──そのまま外に飛び出した。
それがもう半刻ほど前の話だ。
俺はといえば、木陰の椅子に座って、遠くからルナの背中を眺めている。見張り、ではない。見張りなどという労働はごめんだ。ただ、目に入る場所にいるだけだ。
……いや、面倒なんだよ。追いかけ回すのは。子どもの体力は無限だ。俺は有限だ。圧倒的に有限だ。
ルナが畑の横でしゃがみ込んだ。鼻をひくひくさせている。地面の匂いでも嗅いでいるのか。
そのまま小走りに移動して、今度は水路の近くで足を止めた。またクンクン。首をかしげる。耳がぴこぴこ揺れる。
何かを探している。それだけは分かる。
と──ルナがくるりと振り返った。琥珀色の瞳が俺を真っ直ぐ捉える。
まずい。目が合った。
ルナが全速力で駆けてきた。銀色の髪が風に靡いて、耳がぴんと立っている。尻尾がぶんぶん振れている。何かを見つけた顔だ。
「クゥン!」
俺の手を、小さな手がぎゅっと掴んだ。
「おい、ちょっと──」
引っ張る力が思ったより強い。体格差があるのに、ぐいぐい引っ張られる。獣人の身体能力を舐めていた。
ルナは俺の手を引いたまま、集落の外に向かって走り出した。方向は──川の上流。
「待て待て、どこ行くんだ」
ルナが立ち止まって、振り返る。腰の袋から絵図カードを一枚取り出した。
「水」のカード。
それを川の方角に向けて、ぴっと差し出す。鼻をクンクンさせて、自信満々に頷いた。
……水の匂いがする、って言いたいのか。
面倒だ。川なんか集落のすぐ横を流れている。わざわざ上流まで行く理由が分からない。
でもルナの耳がぴこぴこ全開だ。尻尾もぶんぶんだ。この三日間で学んだことがある。この子の耳と尻尾が止まらないときは、何か大事なことを見つけている。
……しゃーない。
ルナに手を引かれるまま、川沿いの獣道を上流へ歩いた。
十五分ほど歩いただろうか。ルナが急に足を止めた。
鼻を高く上げて、すんすんと嗅ぐ。耳がぴくぴく動いて──ぴたりと一方向を向いた。
川から少し外れた、木立の奥。苔むした岩が重なり合っている場所。
ルナが岩の隙間を指差した。
「クゥ!」
興奮した声だ。尻尾が扇風機みたいに回っている。
「ここに水があるって言うのか?」
しゃがんで岩の隙間を覗く。苔の匂いが鼻をついた。湿った土の匂い。それから──ほんのかすかに、冷たい水の気配。
頭の奥で【効率化】が動いた。
岩の周辺、土の層、水脈の流れ。淡い光が視界に広がる。
『地下の浅き層に水の道あり。湧き出でる場所──この岩の下、一尺ほど。養分の含み具合──良好。混じり物──ほぼなし。現在の水路と比べ、道のりは三割近い。高さの差もあり、傾きのみで水を導ける』
……は?
三割近い? しかも養分が豊かで、混じり物がない?
今の水路は川から引いているが、途中で土が混じるし、距離もある。水の勢いを保つために何度か手を入れた。
それが──ここに湧き水があるなら、全部いらなくなる。
「ルナ、ちょっとどけ」
岩の隙間に手を入れて、柔らかい土を掘った。素手で掘るのは面倒だが、深さ一尺なら大した手間じゃない。
指先に、冷たいものが触れた。
じわり、と水が染み出してくる。透き通った水だ。朝日が差し込んで、小さな水溜まりが光を弾いている。手のひらに掬ってみると、刺すような冷たさが指の間を流れた。苔と土の匂いの下に、澄んだ、きれいな水の匂い。舌先で確かめると、わずかにまろやかで、嫌な味がしない。
──本物の湧き水だ。
「クゥン♪」
ルナが俺の隣にしゃがみ込んで、嬉しそうに耳をぴこぴこさせている。自分が見つけたのだと言わんばかりに、湧き水と俺を交互に見る。
「……お前、これを匂いで見つけたのか」
ルナが胸を張った。ぴーん、と耳が立つ。ふさふさの尻尾が左右に揺れる。
──待て。
こいつが匂いで水源を見つけて。俺の【効率化】が水質や距離を分析して。
この組み合わせ。
こいつがいると、俺がもっと楽できるのでは?
調査に歩き回る手間が省ける。鼻を利かせてもらって、あとは【効率化】で精査するだけ。今まで俺が足で稼いでいた部分を、ルナの嗅覚が全部やってくれる。
便利だ。便利すぎる。しかも耳がぴこぴこしてかわいい。
──いや、便利の話だ。
頭の中で算段が回り始めた。この水源を使えば、集落の水回りが一変する。今の水路より近い。高低差がある。つまり──
【効率化】が、頼んでもいないのに動き出した。
『水源より集落までの最短の道筋──提案あり。地の傾きを活かし、掘り溝のみで導水が成る。途中に溜め処を設ければ、飲み水と畑の水を分けられる。さらに──』
さらに?
『溜め処の構造──井戸型が最適。深さ三尺、幅二尺、石組みで壁を固めれば、常に清い水が溜まる。図面を示す』
視界に、井戸の図面が浮かんだ。
……おい。水源の調べだけ頼んだのに、井戸の設計まで出来上がってるじゃないか。
また仕事が増えるところだった。危ない危ない。
いや──井戸があれば、毎朝の水汲みがなくなる。水路の手入れもいらなくなる。つまり俺の仕事が減る。
今ちょっと面倒な思いをして、未来の面倒を根こそぎ潰す。
……嫌いじゃない。嫌いじゃないぞ、この流れ。
「ルナ」
名前を呼ぶと、ルナが顔を上げた。耳がぴこん、と跳ねる。
「お前、いい仕事するな」
意味は通じていないだろう。でもルナは俺の声の調子で何か感じ取ったのか、ぱあっと笑顔になった。尻尾がぶんぶん振れて、俺の腕に巻きついた。
もふもふが腕を締めつける。幸せそうな顔だ。
……まあいい。腕一本くらい貸しておく。
帰り道、ルナが急に立ち止まった。
鼻をくんくん──そして、耳がぴたりと伏せた。尻尾が低く垂れる。
指差す方向は、南の草原の端。風に乗って、かすかに獣の匂いがする──らしい。
「……なんだ? 何がいるんだ、あっちに」
ルナが、俺の袖をぎゅっと掴んだ。
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